帰り道の空気は、もうすっかり冬の匂いがしていた。ビルの隙間を抜けてくる風が、首元を遠慮なく、攫っていく。短時間の現場視察だったとはいえ、こうも冷えると全身が無防備になっていく気がする。
駅へ向かう途中、薄着で出てきてしまった事を後悔しながらふと前方で立ち止まっている人影が目に入った。全身黒。長い髪。それが誰であるかなんて、見なくてもわかる。
「イレイザーヘッド……。お疲れさまです……」
なるべく、何気なく言ったつもりだった。彼は振り返り、ほんの一瞬、口元を緩めた。
「お疲れさん。……飲むか?」
差し出されたのは、自販機で買ったと思わしき缶コーヒーだった。すでにプルタブは開けられ、缶の口から立ちのぼるはずの湯気も、とうにその熱を手放してしまったあとだった。けれど、それでも私は一瞬だけ迷った。
「安心しろ。ついさっき開けたばかりだ。口は、つけてないよ」
「……ありがとうございます」
私はどこか気恥ずかしさをまぎらわせるように苦笑しながらおずおずと手を伸ばした。触れた缶は思いがけずまだ温かかった。指先にじんわりと伝ってくる熱に胸の奥がゆっくりと波立つ。缶を受け取る刹那、彼の指先がほんのかすかに、私の指に触れた。その瞬間、胸の奥が、トクンと音を立てた。
「……君に会うと、やっぱり気が緩むな」
彼が、ぽつりと呟いた。その声音に不意を突かれて、私は思わず顔を上げる。
「そういう個性持ちか?」
「え? あ、いいえ……」
戸惑いながら答える私を見て彼はほんのわずかに目を細める。
「……無論、彼もその特殊個性に絆されていたのだろう」
その言葉は軽く笑っているようでいて、奥に、何か別の色が潜んでいた。��彼�≠ニはきっとあのヒーローのことだろう。冗談のように言ったのかそれとも、本音だったのか。それは判別できないほどの柔らかな声色だった。
言葉を返せなかった。今の私じゃ何も持ち帰れない気がしたから。でも、ほんの少しだけ身体の向きを彼のほうへと寄せてみる。冷えたベンチに腰を下ろした彼と並んで座るには、まだ、勇気が要る。でも同じ方向の風を受けて立つくらいなら今の私にもできると思った。
「……ヒーローの告訴を取り下げる手伝いをしたらしいな」
その問いかけに私は静かに頷いた。ほんのわずかに触れた指先の温度を忘れたくなくて手の中にある缶のぬくもりを、そっと握りしめる。
「それを条件に、相手の人と結婚を?」
「……」
「正気とは思えないが……そんなことで、人生の一大事を決めてしまうなんてね」
彼の言い方はいつも率直だ。でも咎めるような強さはない。むしろ、少し戸惑っているようにも見えた。
「……そんなことじゃありませんよ。彼にとって��ヒーロー�≠ヘ、そんなことじゃないですよね」
「君にとっての話だよ」
イレイザーは言葉を切るようにそう言って首を曖昧に振った。私はようやく彼の隣に座る決心をつけて、少しだけ距離を取って腰を下ろす。冷たい木の感触が、背中に伝わる。
「俺は、騙されないがね」
「え?」
「あのヒーローは、元々そういう性分なのか……バカみたいに、はしゃいでたよ。でもまあ。相当ショックだったはずだ」
私はふと視線を落とす。缶のなかのコーヒーが、音もなく、わずかに揺れた。
「うん」
「うん、とは?」
「私も、ショックだったので」
イレイザーが私のその言葉に少しだけ眉をひそめる。
「どうして君が?彼氏の元に戻ったのは、自分の意志だろ」
「ええ」
「だったら、ショックなんかないでしょう」
私はまた、目を伏せた。外気で冷えた缶の縁に触れる指の感触だけが、やけに鮮明だった。
「あのときは、なにも考えられなくて」
「何も?」
「気づいたら、彼を置き去りにしてた。ううん、その前に隠してたんだから、やっぱり自分の意志なんですけど」
「けど?」
「どこでどうそう決心したのか、とても曖昧で」
「ずいぶんと、いいかげんだな」
イレイザーは鼻で笑うようにやや不機嫌な声を落とす。私は苦笑しながら、静かに言葉を返す。
「だから、ショックなんですよ。ハッキリとした理由が、自分でも分からないから」
「もしかして、後悔でもしてるのか?」
「いえ。それはない」
「君はヒーローよりも待ってた婚約者の方が好きだった。それがその瞬間、はっきり分かったってだけのことだ」
私はそれに肯定も否定もせず、少しだけ息を吸い込み、口を開く。
「……こんなこと言うと、ひどいなって思われるかもしれないですけど」
「気にするな。もう十分、思ってる」
そんなイレイザーの皮肉を無視して、私は先を続けた。
「種類が違うんです。彼と、あのヒーローでは」
「じゃあ、今後の参考までに聞いときますかね」
「彼は凄く優しい人で。私たち喧嘩っていうか、言い争いしたこともないくらいとっても穏やかな関係だったんです」
「……」
「一緒にいると落ち着くし、安心感の中で、いろんなことが想像できる。家庭とか、子供とか」
「俺にノロケられましてもね」
「本当に、いい人なんです。イレイザーも会えば、きっと、わかると思います」
その言葉に彼は反射的に目を見開き引き攣った笑みを見せた。
「会う意味がない」
「ごめんなさい」
「……それで?ちょっとトゲがありますけどね。今日の俺は」
私は小さく息を吐いてから、言葉を続ける。
「彼は……あのヒーローはとても魅力的。強さと脆さがブランコみたいに揺れてて、一緒にいると眩暈がしそうなくらい、ドキドキする」
「……」
「だけど私はいつも不安になる。彼が何を言うか何をするのか、私はいつもそれに、ついていく。もちろん、楽しいんですけど……」
「楽しいならいいんじゃないのか」
「私ね、普通なんですよ。平凡な普通の女なの。特別なものは何もない。だから……自分に自信もない。」
「……」
「無理をしててもいつか自分でくたびれちゃうと思う。それに、彼につまんないって嫌われる前で良かった……これで、良かったんです」
私はイレイザーから受け取った缶に口をつけ、わずかな温もりをたしかめる。しばらく、沈黙が落ちた。
「……私が、ずっと待っていた恋人なんですよ」
不意に小さく吐き出すように私がこぼすと彼は目を伏せたままで、やがて、低く問いかけた。
「それは、あのヒーローと出会う前の話だろう」
「……ええ。でも、遠くに旅立ってしまった彼のことを、嫌いになったわけじゃないんです」
「それは……そうかもしれないがね」
「穏やかで大人で優しい人。そう思ってたけど、でも今回のことで違う一面を見て少し驚いたりもしました」
私は自分の声が震えていないか気にしながら、言葉を選んだ。
「だけど……それも、私のせいなんです」
結婚したら子供の前で喧嘩をするような家庭は作りたくない。だから優しく穏やかで、安心感のある人しか、私は、異性として見ないようにしてきた。そういう意味では彼はとても理想的な恋人だったはずだった。
「だから、あの人は……理想的なんです」
「その理想は、壊れたんじゃないのか?」
「いえ、むしろ——惨めなところをさらけ出して見せてくれて、よかったなって」
そう自分で改めて口に出したとき、少しだけ、笑えた気がした。
「無理に、結婚をするわけじゃないんですね」
その言葉に思わず、すでに彼とは別れました、と口にしそうになった。けれど、すぐに思いとどまる。いま、この流れでそれを言ってしまったら、自分はきっと、正真正銘の��ズルい女�≠ノなってしまう気がしたから。
「もちろんです。そんな私……自己犠牲にばっかり生きるような人間じゃないですよ」
そのとき、イレイザーがふと視線を寄越した。
「……ホークスのことは、忘れられるのか」
彼の口から、改めてその名前を出された瞬間、胸の奥がひどく軋んだ。でも、それを顔に出さぬよう、努めて淡々と話す。
「無理に忘れようとは思っていません。自然と、いい思い出になるんだと思います」
「……そうか」
イレイザーは何か言いたげに、それでも言葉を落とすように短く、そう返した。
「……アルバムの中の、写真の一枚に。」
「……」
「懐かしくて、でもそのうち、セピア色に褪せてしまう……そんな一枚に」
「本当に? 他の写真と同じように?」
「……はい」
そう言ったあと、私は少しだけ、目を伏せた。けれど、すぐにもう一言だけ、声に出した。
「——ただし、一枚だけ、黄金色に光るかもしれませんね。……出会った頃の、あの季節には」
その言葉のあと、イレイザーはそれ以上、何も言わなかった。ただ、静かに目薬を指してビルの陰の空を仰いだ。私も空を見上げる。そこには、うっすらと、星が滲んでいた。今夜はそれだけでよかった。すれ違ったままでも、こうして灯火のように、少しだけあたたかい時間があるのなら。
いつか、来世でなら。ちゃんとまた隣に立てる日が来ると信じて。祈るように、それだけを心の奥で抱きしめるようにして。
*
福岡の支部に吹きつける風は、東京よりも少しだけ湿っていて、そして、少しだけ冷たかった。午前の報告を終えて、ひとり廊下を歩いていた時だった。すこしだけ開け放たれたままの会議室のドア。その隙間から漏れてくる、たわいない会話。気に留めるつもりもなかった。しかし、その中に混じった一言が、妙に耳に残った。
「──でも結局、名字さん。寿退社するって噂、白紙になったみたいですよねー?」
一瞬、時間が止まったような気がした。足も、呼吸も言葉さえも。胸の奥がきゅっと縮こまる。
「え、ほんと? えっ、婚約破棄ってこと……?うわぁ……でも、なんかわかる気もする」
「ん? なにがですか?」
「ほら、あの件。所長が東京でごたごたがあったとき、関係してたって話も噂であったし……」
「ていうか本人がまだ辞めるとは決めてないって言ってたらしいですよー? 名字さんとこっちで仲良くしてた子が言ってたんで」
「うわぁ、まさか……やっぱ、所長と──」
がたん、と足音を立ててしまったのは、たぶん無意識だった。会議室の中の空気が、一瞬にして凍る。慌てて顔を出してきた若手の職員が、目を丸くする。
「所長……!? あっ、すみません、今のは、」
「……どういう、ことです?」
自分でも声が出たことにすこし驚いた。けれどそれは誰にも咎められないほどに落ち着いていた。いや落ち着きすぎていた。周囲が目を合わせられないような沈黙に包まれたまま俺は、ドアの前に立ち尽くす。
寿退社?白紙になった?婚約破棄?……なぜ?いや、それは、どちらから?あれほどまっすぐで決意に満ちていたはずの彼女が。何も聞かされないまま思ってもいなかった言葉をぶつけて冷たく突き放したあの朝に俺たちはもう、終わっていたはずじゃなかったのか。それでもまだ、終わっていないとでも——?
何かを問いたいのに何を問えばいいのかわからなかった。ただひとつ、胸の奥で確かに、鳴っている。まだ俺は、彼女のことを……。
「あの、所長……? 大丈夫、ですか?」
声をかけられて我に返る。このまま見なかったことにして、やり過ごすなんてできなかった。
「……いや、ううん。驚かせてすんません」
そう言ってその場を離れ休憩フロアのソファに腰を落とす。手の中でスマホを何度も回す指先が、妙に落ち着かない。液晶には、最後に彼女とやりとりしたトーク画面が開かれている。数ヶ月前に交わした、短くも当たり障りのない文面。
──今さら何を送れる?何を送ればこの沈黙を埋められる……?
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ねえ、ほんとはさ
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そう書きかけて、消す。『元気ですか?』だと、平凡すぎる。『会えませんか?』は、重すぎる。
深く息を吸っては、そっと吐く。それを何度も繰り返しているうちに外は少しずつ暮れてきた。西陽が窓ガラスに斜めの影を落としそこに自分のぼやけた顔が映る。情けない顔だ。見慣れたはずのそれなのに今日はやけにみっともなく思えた。
「行っちゃおっかな……」
誰に言うでもなく、ぽつりとこぼした。言葉にすれば何かが動く気がしたのにただその一言だけが、空中に静かに溶けて消えていった。
すぐさまスケジュールを確認する。来週の後半公安との連携会議が東京で予定されていた。その日を前倒しにして、行けないこともない。今から段取りすれば、飛べる。でも、会って何を話す?今さらどんな顔で?合鍵のことも、剛翼を送ったことも、あの嘘を並べた言葉たちも、ぜんぶ過去になった人間が、いまさら何を語る権利がある。
何かが喉元までせり上がってきて、言葉になる寸前で霧のようにほどけた。思えばいつだって、俺は彼女に気づいてもらうのを待っていた。受け止めてもらえることを信じて、ただ願っていた。けれど向き合うことからはずっと、逃げていたのかもしれない。
スマホの画面が自動的に暗くなる。光を失ったそれに映るのは、静かな闇。誰にも触れられずに残されたままの俺の時間。俺の、未練——。
「……ったく。なにやっとー、俺は」
ぽつりと呟いてスマートフォンを胸ポケットにしまった。今日も何も言えなかった。何もできなかった。羽ばたくことを忘れた鳥のように、俺はただこの街の空の下で、立ち尽くしていた。