待ち合わせ場所に指定されたレストランは石畳の路地を少し入った先にあった、気取った名前のついたビストロ。肩肘張らない佇まいのなかに、どこか、特別な夜の香りが漂っていた。
扉の前で、深呼吸をひとつ。おかしい。あんなにも電話で話したのに。何度も、夜を一緒に過ごした声なのに。あらためて会うとなると、まるで初対面のように緊張してしまう。
店に入ると、すぐにそれは目に入った。窓際のテーブル。やわらかな光に包まれたそこに、彼はいた。いつものヒーローコスチュームではない。派手さを抑えたダークグレーのスーツに、淡く、ブルーがかったネクタイ。整えられた前髪の下にあの、琥珀色の瞳が揺れている。そして──私を見つけた瞬間、ふっと目許を和らげた。ああ……やっぱり。この人は、電話越しのヒーローだ。
「こんばんは」
声をかけると、彼はすっと立ち上がって椅子を引いてくれた。その仕草がなんだか少し、ぎこちなくて、それが妙に可笑しかった。
「緊張してる?」
ふと尋ねると、彼は照れ隠しのように喉を鳴らして笑った。
「いやー、どうすかね。スーツの時点で勝率五分五分って感じですよ」
冗談めいた言い方だったけれど、その目は真剣だった。
食事は穏やかに進んだ。会話も、よく弾いた。職場の話、ヒーローとしての日常や昔の笑い話。笑い合いながら、何度も心が緩んでいく。だけどなぜか、決定的な一歩は来なかった。
料理が運ばれ、グラスが空になっていく。時の流れとともに、彼は何度か何かを言いかけては、そのたびに、言葉を飲み込むように目を伏せた。夜景を見下ろす二階の窓際の席。星がちらちらと浮かぶ、ガラスの向こう側。きっと彼が「見せたかった」と言っていた景色があの夜と同じようにそこにも、あったのだと思う。でも──。
「……綺麗だね。」
ふと、窓の外の景色に目を向けてそう呟くと、彼は、小さく頷いた。
「ですね。この景色、もう一度ちゃんとあなたと見たかったんです」
その一言だけが、ぽつりと落ちた。私はうまく言葉を返せなかった。ただ小さく笑ってグラスの縁を指でなぞる。──たぶん、今日という夜は、うまくいかない。それでも嫌な気持ちは不思議となかった。ただ少しタイミングがずれてしまっただけ。それを彼もまた、わかっていた。そういう目を、していた気がしたから。
「……遅くならないうちに、送りますよ。」
最後のデザートを食べ終えて食後のコーヒーを飲んだあと、しばらくしてからそう言って、彼が立ち上がる。その横顔がどこか、寂しげだった。きっと彼もまた届かない何かを抱えたまま今日という夜を終わらせようとしていたのだろう。
それでも私はこの夜を一生忘れない気がした。不器用でも、まっすぐに私を見ようとしてくれたひとりの、ヒーローのことを──。
*
日付が変わる少しまえ、部屋の灯りを落とし、ゆっくりと毛布にくるまったころ、枕元で小さく震えるスマートフォン。画面に浮かぶその名前を見て私はほんの数秒、迷ったふりをした。でも、指は迷わず、通話ボタンを押していた。
『……こんばんは。』
変わらぬ声。けれどほんのすこしだけ今日は、熱を帯びて聞こえる気がした。
「こんばんは。遅いね、今日は。」
少しだけ意地悪に返した言葉に向こうで小さな笑い声が漏れる。
『ええ。さっきまで、素敵な人とデートしてたんで』
その��素敵な人�≠ェ誰かなんて、聞かなくてもわかってしまうのが、なんだかむずがゆくて胸の奥が少しだけ、あたたかくなった。でも、うまく返せない。嬉しいのに言葉にすると何かが崩れてしまいそうで。
『声、眠そうですね。……大丈夫でした?今日、寒くなかったです?』
その言葉に不意に心が柔らかくほどけていく。ほんの少し前まで一緒にいたというのに彼の声は部屋の空気にまで染み込んでくるような、近さを持っていた。
「うん、大丈夫。……寒くは、なかったよ」
答えながら、さっきまで彼と並んで歩いていた夜道を思い出す。風が冷たくて、でも、彼の羽根がふと肩を覆ってくれたときの、あの、柔らかさ。それに甘えてしまいそうで、手を伸ばせなかった自分。
『……今夜の夜景、前より少し晴れてて良かったです』
彼の声が、ふわりと空気を撫でるように落ちてきた。
「……うん。今日も、綺麗だった。」
『でも──、』
「……でも?」
ふと、沈黙が訪れる。息を飲んだような気配のあと、彼は、ぽつりと言った。
『……なんか、足りなかったですね。いや、変な意味じゃなくて』
変な意味じゃないと言われてもその足りなさの理由が、自分の中でもなんとなくわかってしまうから。だからこそ、うまく笑えなかった。
「まぁ……わかるかも。私も、少しだけ」
触れていないからこその距離。すこしだけ縮まって、けれどまだ、どこか足りない。
『……次は、ちゃんと手を引いてもいいですか』
その言葉に胸がきゅっと音を立てた。次という未来を彼が言葉にしたことが何よりも嬉しくて。
「……いいよ。わたしも、その……」
そこまで言って、声が詰まる。あとは何も言わなくても通話の向こう側にいる彼なら、わかってくれているような気がした。
『……ははっ。じゃあ──安心して寝てください。名前さんの今日の夢の中に、こっそり、登場しにいきます』
「もう……来ないでよ?おやすみ。」
『うそうそ。まだ、切らんで』
「え? なにそれ……どっちだよぉ」
そう言いながら私は毛布を胸元までそっと引き上げた。楽しいのか嬉しいのか、ほっとしているのか、それとも、少し寂しいのか。自分でもまだうまく言葉にできない感情が胸の奥で静かに交差していた。
「そっちこそ……疲れてる声。羽根、重くなってない?」
『うん……少し。でも今は軽いですよ。あなたの声、聞いたから』
どちらからともなく、少しだけ沈黙が流れる。けれど、その沈黙がかえって、どこか心地いい。
「……いま、なにしてるの?」
『ベッド。布団の中。羽根、伸ばしてます』
「……じゃあ、私と一緒だね。布団の中。」
『なんか、いいですね。想像したら……ドキドキする』
彼の声が、やや低くなる。いつもより、すこしだけ喉の奥で鳴る声。耳に落ちて、身体に触れてくるような、柔らかい温度。
「ドキドキ、って……」
『え?するに決まってるでしょ。だって今、俺、名前さんの声しか聞いてない』
「……」
『──目、閉じてる。だから今、俺の世界には、あなたの声しかない』
どこか切実なその言葉に喉がかすかに鳴った。視界の奥が、じんわりと熱を帯びる。
たった数センチ、スマホ一枚の距離なのに彼が指先で、頬を撫でているような錯覚に襲われる。
「……どんなふうに、聞こえてるの? 私の声」
『んー、眠たそうで柔らかくて、優しくて──』
語尾がすこしだけ揺れて彼がそっと息を飲んだのがわかる。
『もし、俺がいま、隣にいたら絶対……』
「……」
『触れちゃいそうな声、です。』
それはきっと触れたい、という願いの代わり。そして私は、それを拒まなかった。むしろ求めていた。だって──
「……わたしも、ホークスの声が、好き」
『……』
「耳元で聞くと、ちょっと震えるくらい、近くに感じちゃう」
言葉にしてしまったあとで、自分の心臓が高鳴っていることに気づく。でももう、止めようとは思わなかった。
『名前さん……』
「……うん?」
『このままもう少しだけ話しててくれません?』
「……いいよ。じゃあホークスが眠るまでね?」
彼がふっと息を吐いた気配がした。それは夜の静けさに寄り添うような、やさしい音だった。
『じゃあ……目を閉じて、想像します。名前さんが、すぐ隣にいるって』
その言葉はまるで誰にも聞かれたくない秘密のように、静かに放たれた。部屋の灯りはとっくに落とされているのに、私はそっと、瞼を閉じる。すると本当に、彼の吐息がすぐそばにあるような錯覚に囚われた。ほんと、不思議だ。
「……想像して、いいの?」
問い返すような声になったのは自分の胸の奥が微かに鳴ったせいだった。その一瞬の沈黙の後で彼は言った。
『……だって、声だけじゃ足りなくなりそうで……、怖いんで』
そう言った彼の声が、ほんのすこしだけ震えていた。その『怖い』の響きがやけに切実だった。恋しさが限界まで膨らんで、まるで、こぼれ落ちそうになっているような、そんな声。
『──あの、聞いても……いいです?』
彼の声がふっと低くなった。いつもと違うその温度に、私は思わず息をのむ。
「もちろん」
なんとか言葉は返したけれど、そのあとの問いかけは、まるで足元をさらうように、そっと投げ込まれた。
『俺と、セックスしたかったですか?』
「……ええ?」
一拍、間があいた。冗談にしては、真剣すぎる声音。そのあとの自分の心音のほうが、よほど、騒がしくて──。
『だって、前に……��間違いが起きる�≠チて』
「ああ、言った……ね。うん、言った」
『今夜は──間違いを、起こしてたかも?』
「まあ……そう言われたら、そうだね、確かに」
言ってしまってから指先がかすかに震えているのに気づいた。夜というのはどうしてこんなにも言葉を無防備にさせるのだろう。彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、沈黙の向こうで微かに喉の奥が鳴る音がした。その音すらも、この距離では、なまなましいほどに感じ取れてしまう。
「ホークスって、頼りになって、楽しくて……
優しいからね。」
ありきたりな言葉だったかもしれない。けれどそれが今夜の私に言える、精一杯だった。
『俺たちって、さ……電話は、いいんですよね』
「うん……?」
同意した瞬間まるで、何かがそっと解けていくような気がした。声だけに寄り添うようにして、いま、ふたりともきっと会いたくて、寂しくて、どうしようもなく、孤独だったのだと思う。
『今、ベッドの中ですけど、そっちは?』
「わたしも、ベッドの中……」
言葉にすることで、その距離がほんとうに近づいてしまうような怖さがあった。でも、それでも逃げなかった。
『──なに、着てます?』
不意打ちのような問い。夜のしじまがいっそう濃くなる。
「ん……? なんか、私が思ってた会話と違うんだけど……」
言いながらも声が微かに震えていたのを、自分でも感じていた。
『だったら、やめます?』
「……」
『俺は、やめたくない。
まるで羽根先で肌をなぞられたような、微かなざわめきが背筋を伝った。見えないはずの距離が声に宿る熱でひとつずつ溶けていくそんな錯覚に身体の奥が、静かに目を覚ます。
「ううん──やめない。」
その「やめない」が、はっきりとした、静かな肯定になった。まるで言葉だけで深く触れ合ってしまうような、そんな夜。
沈黙の向こうで彼がそっと息を吐く音がした。それは羽根をゆっくりたたむ音によく似ていた。夜の静寂の中で私たちは互いの気配をたしかめるように、声と言葉の温度だけで近づいていった。どこにも触れていないのに、どこまでも、深く、響いていく。声という名のやさしい熱が胸の奥に灯っていた。
今夜は、きっといい夢が見られる。たとえまたすれ違ったとしても。この声が、わたしの眠りを見守ってくれている──そう、思えるだけで。