飛行機が福岡空港に降り立つとき、ほんの一瞬だけ機体が揺れて、私は小さく目を閉じた。この感覚に何度も揺られる未来があるのだろうかと、ふと思ってしまう。恋をするという事は、誰かのそばで生きるという事は、たぶん少しずつ揺れに慣れていくことなんだろう。
 私は休日を利用して二泊三日の予定で福岡へと足を運んだ。おおかた転勤の日程諸々なんとなく目処が立ったということもあり彼と相談した上で終の住処を探しに行こうという話になったのだ。終の住処——だなんて少し大げさかもしれない。けれど平凡だったはずの私の人生の中ではきっとそれくらいの覚悟があってもいい。

「はいはーい!ヒーロー兼スーパーダーリンが、お出迎えに参りましたよぉ〜」

 到着ロビーの隅っこでマスクをしてキャップを深く被った自称スパダリ彼氏がひょいっと人波の向こうから、手を振ってくる。周囲に気づかれぬよう、それでいて私だけには届く合図の仕方は、いつだって絶妙だ。とはいえ飛行機の手配など、すべてを最速で済ませてしまったところをみればスパダリと呼んで差し支えはないだろうと思う。私は荷物を引きながら思わず頬を緩ませて、彼の元へと歩いた。

「まさか、ほんとに迎えに来てくれるなんて」
「え?言ったでしょう、迎えに行きますって」

 二人の目線が空港の雑踏の中でふっと重なった瞬間、まるで、世界の音がすこしだけ遠のくようだった。喧騒も足音も、全てが滲んでいくように私の中で彼の存在だけがくっきりと浮かび上がってくる。──ああ、私はいま確かに彼のいる街にやってきたのだと、心の奥でようやく実感する。
 彼の歩幅に自然と足が合わさっていく。伸ばされた手に触れるよりも前に、ふたりの距離はもう当たり前のように近づいていた。

 その日、空港から出た私たちはまだ見ぬ二人の未来の住処を探すための一歩を踏み出した。
 荷物は一旦、空港内のコインロッカーに預けることにして、その足で早速、物件探しの旅に出ることになった。初日から本気モードで不動産屋をはしご。事前に「即決で決めちゃうかも」と鼻息荒く意気込んでいたのは彼のほうだったけれど、いざ物件の内見が始まると「え、床がちょっと」だの「このキッチン日当たり悪いですね」だのと意外にも細かいことを言い出すのは、むしろ彼のほうだった。
 二件目の不動産屋へと向かう道すがら、私は、ずっと喉の奥に引っかかっていた疑問をぽつりと口にした。

「ヒーローも、普通に不動産屋とか行くんだね。なんかちょっと、意外だった」

 並んで歩く彼はきょとんとした顔をしつつも、すぐにその言葉の含む意味を理解したのか、目元だけで静かに笑ってこう答えた。

「あー……行かないですねぇ、普段は」
「え?」
「なんていうか、そーいう専用のツールがあってそこから好きなとこ選んで、ポチっと」
「ポチ、っと……」
「セキュリティ面とか諸々、かなり厳選されてるんですよ。スマホ一台で手続きが終わる。便利な時代ですよねー」

 「へえ……」と私はただ、感心したように呟くしかなかった。けれど彼はそこで言葉を切らずにふと立ち止まると、何の前触れもなく、私の手をとった。指先から自然に絡んだ手は、ひどく温かかった。思わず胸の奥がふるりと震える。

「でも、一緒にちゃんと見て選びたかったんです。俺のじゃなくて、ふたりの家ですからね」

 さらりとした口調だったけれど、その一言は、ビルの影をかすめる風よりもやさしく、私の心の奥深くへと染みこんでいった。
 訪れた二件目の不動産屋の応接スペースで担当者が広げた資料の束を前にして私たちはソファに並んで腰をかけていた。

「——では、こちらがご希望エリアと条件に近い物件になります」

 パリッとしたスーツの男性が差し出してきた、分厚い資料を私は素直に受け取ったが、横から、ヒーローの手がさっと伸びてきて、まるで、先に開けるのは俺でしょとでも言うように当然の顔をして真ん中のページを開いた。実は、亭主関白な一面があるのかもしれないな、なんて思った。

「えーっと、間取り……広さはいい感じっすね。あっ!でもこのリビング、照明が電球色って書いてあります」
「うん、それで?」
「白昼色のほうが良くないです?あの気分的に。スッキリするんで」

 亭主関白とかでは全然なかった。ただの、こだわりが強めのちょっと変なヒーローだった。安心したのと同時に私は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。部屋探しで真っ先に、照明の色温度を気にする人が世の中にどれだけいるのだろうか。

「てかこれ、IHコンロっすよ!火が見えないと、料理した気にならないんで、ガスがいいです」
「えっ、あなた料理しないじゃん」
「えっ、する可能性があるので」

 またそれか、というような顔を私がすると彼は照れくさそうに肩をすくめてみせた。

「あ!あとこれ。駅から徒歩12分って書いてありますけど、実質、15分以上かかるパターンのやつです、ぜったい」
「あなた……空、飛べるよね?」
「……たしかに。でもね?飛ぶにも、エネルギー使うんすよ、燃費ってもんがある」

 それはもう、ヒーローというより、徒歩通勤のサラリーマン的な発言である。

「んー、まあ……そういうのも加味して、ここのあたりですかねぇー」
「でもこの部屋、家賃ちょっと高くない……?」
「え? 高いです?俺、このぐらいなら全然いけますけど」

 またしても、価値観の地盤がゆっくりとズレる音がした気がした。私はそっと、ため息をつく。

「……やっぱり、金銭感覚、ちょっと違うよね」
「え、なんそれ。ひどか!俺、全部払いますよ」
「うーん……そういうことじゃなくてさ」
「じゃあ、どーいうことなんです?」

 ムッとした顔の彼が身を乗り出してきたので、私は観念して、小声で告白した。

「……私、普通にしまむらとかで服、買うし」
「俺もタオルとか買いますよ。洗い替え用とか」
「洗い替え用……。あと、ユニクロとかバンバン利用するし」
「着心地いいっすよね。無地だし。俺、インナーとかよく買ってますよ。あの超極暖のやつ。あれすごいですよね〜」

 話が微妙に噛み合っていないまま、私は何かを諦めたように視線を落として資料のページをめくった。そして思わず声を上げる。

「あっ!でもここ。床が無垢材って書いてある。いいなぁ……」
「ほんとっすか?でも、オーク材……冬、冷たいですよ?」
「ねえ、細かいっ!」

 思わず笑ってしまった私の横で彼は何食わぬ顔でメジャーを取り出し始めた。その手つきは妙に慣れていてソファの奥行きや窓枠の幅など次々と測りながら「ふむふむ」と、独り言を繰り返している。そんな私たちのやり取りを向かいのデスク越しに見ていた担当者が、ふっと小さく笑った。その音に二人できょとんと顔を上げると担当者は少しだけ目を細めて言った。

「……ホークス、ですよね?」
「へ?」

 思わず声が裏返った彼はメジャーを持った手を宙に浮かせたまま固まっている。

「あ、大丈夫ですよ。弊社、顧客情報管理はしっかり行き届いておりますので漏洩等の心配はありません。ご安心ください」
「は、はぁ……。まあ、助かります……?」

 小さく首をかしげた彼は、まだどこか警戒しているような表情だったが担当者は静かにパソコンへ視線を戻すと、さらりと一言だけ付け加えた。

「とってもお似合いですね、おふたりとも。」

 その言葉に思わず私は瞬きをした。隣で彼も、ほんの少しだけ肩をすくめたように見えた。しばらくして担当者が、これまでの会話の流れを反映させた物件を検索してくれている間も彼は変わらずソファの座面や壁の質感をチェックしていた。

「あのぉ〜、この窓の大きさなんですけどぉ」
「ん?」
「俺、早朝に羽根広げたくなるかもしれんのですけど……」
「……しれんのですか。でもさすがにここで飛んだら、通報されるよ?」
「えっ、バレます?」
「バレます」

 担当者のやや引きつる笑顔をよそに彼は、その後も、間接照明の配置や、洗面所の広さに異常なこだわりを見せていた。

「え、じゃあこの浴槽ふたりで入れますかね?」
「ちょっと!一緒に入る前提やめてくれない?」
「テレビどこに置こっかな〜。やっぱ100インチにしちゃいますか」
「近すぎて酔うってば……ぜったい。」
「プロジェクターでもいいなぁ。名前さん、海外ドラマとかたくさん見ますもんね!」

 そんな風に隣で楽しげに話す声に私はつい頬を緩めてしまう。ああ、きっとこの人と、私はこれから、色んなことを共有していくんだ。炊飯器の容量とか、部屋干し用の突っ張り棒の強度とか、きっとそんな小さなことも一つひとつ。暮らしの輪郭がゆっくりと、けれど確かな実感を伴って、心のなかに描かれはじめていた。

 不動産屋を何件か回り、夕食の買い物を済ませ通称——愛の巣のエントランスをくぐった瞬間、夜の静けさが二人の足取りを優しく包み込んだ。床に反響する靴音が、どこか親密で、それだけで「ただいま」と告げ合っているような心地になる。そんな小さな幸福に浸りながら私は無意識のうちに、彼の横顔を見上げていた。
 と、その彼が、玄関に入った先で、ふいに立ち止まり、くるりとこちらを向いた。

「……あの。ちょっとだけ、付き合ってもらっていいですか?」

 声のトーンはいつも通り飄々としていたが妙に目が真剣で、私は思わず背筋を伸ばす。

「え? なに?」
「玄関……開ける練習をしたいんです」
「……は?」

 思わず素っ頓狂な声が出てしまったけれど彼はいたって真顔で、こちらを見つめたまま言った。

「いや、将来的に、ヒーローが暇を持て余す世の中になります」
「は、はぁ……」
「そしたら、名前さんが仕事から帰ってくるでしょ? で、俺が先に家にいておかえりなさいって出迎える」
「……は、はぁ。」
「そういうのを想定して。こう、タイミングとか距離感とか、いろいろ練習しときたいなって」

 意味がわかるようなわからないような。けれど彼の目はどこか本気でそのくせ少しだけ不安そうでもあって、私は笑いを堪えるのに必死だった。

「……それ、今日やらなきゃだめ?」
「初日にやるから意味があるんですって!初心を忘れる前に『ただいま』と『おかえり』の所作を身体に染み込ませるのが大事なんです!」

 どうやら彼の中ではシミュレーションにかなりの熱量を注ぐべき未来の儀式らしく、私はあきれ半分でいったん玄関のドアを開けて外に出ると、それを閉め切った。
 しばしの静寂ののち再びドアをスッと開けると柔らかな白い照明の中に、彼は立っていた。まっすぐに私の方を向き、ピシッと背筋を伸ばして、深々と一礼。ここは武士の家か何かなのかと突っ込むことはせずに口を噤んでいるとそれからどこまでも本番さながらの所作で、彼が、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「おかえりなさい、名前さん」
「た、ただいま……」
「晩ご飯できてますよ。先に、お風呂にします?それとも……お・れ?♡」

 不自然なほど流暢にしかも噛まずに言い切ったその顔は、どこか、誇らしげですらあって。その瞬間、私の口元から堪えていた笑いが音を立ててこぼれた。まるでそんなセリフが日常に馴染んでいるかのような涼しい顔で言われたものだから、余計におかしい。

「ねえ、なにその昭和の新妻感!」
「えー、いいでしょー?完璧なスパダリの所作。再現性高めに設計してみました」
「設計しなくていいよ、そういうのは」

 笑いながら靴を脱ぎ室内へと踏み込もうとしたその瞬間、背後からぬっと伸びてきた彼の腕が、私の身体をくるりと振り返らせる。

「え」
「今度は、名前さんの番です」
「……は?」

 期待に満ちたあの、琥珀色の目を前にすれば、「やだ」なんて言えるはずもなくて。小さくため息をついたあと、しぶしぶと頷いて「どうぞ」と言わんばかりに右の手のひらを彼の前に向けると彼は嬉しそうにぱたぱたと音符を背負って玄関の外へ。間も無くして玄関の扉が、カチリと静かに閉まった。私はしばらく動かずに立ち尽くし深く息を吸ってから、ゆっくりと吐き出す、が——。

「ちゃんと『ご飯かお風呂か私か』って、入れてくださいねぇ〜!」

 などと扉の向こうから注文される始末で思わずまた溜め息がこぼれ落ちる。ふと、胸の奥がそわそわしてくるのを感じながらも、まだ心の準備が整っていない——そんなふうに思っていた、そのときだった。

 ——ガチャッ!!

 思いのほか勢いよくドアが開いて、私は思わず半歩、身を引いてしまった。もはやこれこそ『私が来たァ!』の、あの再現VTRである。

「名前さん! ただいまぁ〜っ♡」

 見事な満面の笑み。語尾にはっきりとハートのついたそれを聞いた瞬間、何がどうしてこうなったのか、脳内の処理が一瞬、追いつかない。

「お、おかえり……」

 思わず笑ってしまいそうになる口元を抑えながら応じると、彼は、じっとこちらを見つめたまま無言で立っていた。そう、彼は待っているのだ。あの、昭和のトレンディドラマ的なアレを——。黙りすぎて、逆にプレッシャーがすごい。

「……そのあとは?」

 いつまでも続きを言わずにいる私に、とうとう彼が痺れを切らしたのかコソコソ話でもするかの声量で、そっと問いかけてくる。

「えっ?」
「……しーん、が、長かったです」
「……」

 ばつが悪くなって視線を泳がせる私を前に彼はわざとらしく不服そうに、ため息をついた。

「あ……えっと。ご、ご飯できてるよ」

 私が慌ててそう告げると、彼は、ぱっと表情を明るくして、なんとも芝居がかった声で言った。

「わぁ〜! 嬉しいなー!今日はなんだろう♪」
「えっとね、唐揚げと、ほうれん草のおひたし」
「美味しそ〜!いいですねえ〜、バランスもばっちりでっ!」

 抑揚つけてそう言いながらも彼の視線はじっと私を見つめたままだった。
 しばし流れる沈黙。次の瞬間、急激に彼の声のトーンが、すっと変わった。

「…………あーあ、汗かいちゃったなー」

 妙に低く、芝居っ気を無くしたその声に、私はぎょっとした。思わず彼を見ると、斜め上を仰ぎ見ながら、やや冷ややかな目つきになっている。そう、これは促しているのだ。ご飯にする?の、あとに続く、あの定番の流れを——。無言の圧。沈黙の催促。私はついに白旗をあげてやや小さな声で言った。

「じゃ、じゃあ……先に、お風呂にする?」
「……」
「えっと、そ、それとも……」
「……」
「……わ……たし、に、する……?」
「ん、もうっ! 名前さん一択ですっ!」

 声を張り上げてそう言い放つや否や、彼は勢いよく、私に抱きついてきた。ぎゅうぎゅうと締め付けられたまま、声も出せずにもがいてしまう。そしてようやく解放されたあと彼がやや頬を赤くしながら、どこか本気のトーンで呟いた。

「……これ、100億回くらいやってもいい」

 言い終えたあと、彼は何かを思い出したように「あっ」と声を漏らし、そのまま踵を返して再び玄関の外へと出ていった。どうやら買い物袋と、私のキャリーケースを廊下に置きっぱなしにしていたらしい。そして、数秒後——。

「あー、ダメだ。これ、想像以上に嬉しい」

 再び玄関が開いて彼が戻ってきた時のその声はどこか舞い上がった少年のようで、けれど大人の男の本音でもあった。その背中越しに玄関の鍵がゆっくりと音を立てて閉まっていく。その音すらどこか満ち足りた、幸福の響きに聞こえた。靴を脱ぎながら後頭部をぽりぽりとかいて照れ隠しのように笑っている彼のその姿に、私は自然と目を細めた。

「満足してくれたなら、よかった」

 そう静かに返すと、彼は、ぱっとこちらを振り返り、満面の笑みで答えた。

「はい、大満足ですっ!」

 その真っ直ぐな言葉に、胸の奥がきゅっとあたたかくなる。すこしだけ間を置いて、私はそっと言葉を重ねた。

「……おかえりなさい、啓悟くん」

 その名前を口にしたとたん、彼がふいに言葉を失った。彼の目元がうっすら赤くなっているのが見える。照れ隠しなのかそれともほんとうに泣きそうだったのか。彼は何も言わずそっと私の頭に手を伸ばして、やわらかく撫でてくれた。


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