翌朝のカーテン越しに差し込む光は昨日よりも幾分強く季節の移ろいを感じさせる白さを帯びていた。なのに、ベッドの隣で横たわる男の気配はいっそ曇り空のように重たい。寝返りを打って、まぶたを持ち上げた彼と、目が合った。

「おはよう、啓悟くん。寝癖ついてるよ」
「またですか。名前さんが隣にいてくれると安心しすぎて、よく寝れちゃうんですよねぇ」
「今夜は寝れる気がしないですって言ってたのによく寝れてよかったねぇ」
「もう、いじわるせんで……まだまだ傷心たい」
「じゃあこれから同棲して私が不在のときはどうするの? 出張とかあるよ、きっと。」
「帰ってきたら寝ます」

 そう言い切って彼は毛布の中から手を伸ばしてきた。いつもと変わらぬ右手。何度も見て何度も繋いだ温かい手。だけど今日は、少しだけ重みが違っていた。

「……デート……行く気せん」

 ぼそっと呟いたその声音は、昨日の落ち込みをしっかりと更新していた。顔も見ず天井を仰いだまま吐き出された言葉に、私は思わずまばたきをひとつ、ふたつ。

「一日の始まりの前にそのテンションってなに」
「いやもう無理です。俺いま人生で一番やる気って言葉から、遠い場所にいる気がしてる」

 毛布をぐしゃぐしゃにしながら寝返りを打ち、顔を布団に突っ込んで呻く彼の剛翼の赤い背中を私は軽くトントンと叩いた。すると、羽根がぴょこんと、一枚だけ跳ねる。

「わかってるよ、私のせいって。でも、楽しみがちょっと伸びるだけだし……」
「はい……理屈では、わかってます。わかってるんですけどぉ……」
「だけど?」
「心が無理。ダメ。もう終了のお知らせったい」

 声が、めちゃくちゃ小さい。本当に、終了してしまいそう。まるでどこかの山奥の妖精みたいな声で、不満を零している。なんだかんだで昨日も夜更かしをしてぐちぐちモードを引きずったまま迎えた朝。すべての感情を引きずったまま、彼の気分は地を這っていた。私は諦めてベッドの端に腰を掛け、その肩越しに聞いた。

「じゃあ今日は、おうちデートにでもしとく?」
「……いやぁ、それもなんか違う……」
「じゃあなにがしたいの」
「引っ越してきて欲しい」
「それはもうずっと前から聞いてるし知ってる」
「…………東京行きたいぃぃ…………」

 そして彼は突然むくりと起き上がった。寝癖のままの髪を、ぐしゃっとかき上げながら、枕元に置いていたスマホを手に取ると、急に指を動かし始める。眉間にはさっきまでとは打って変わった仕事モードの皺が寄っていた。

「あの、ホークスさん?何をしてるんですか?」
「福岡のセンターに問い合わせ中です。東京転勤の希望を出してる人がいないか」
「え! なに、まさか」
「交換留学制度! 人事交流!全国ヒーロー連携強化プロジェクトっ!」
「全部それっぽいけど、今作ったでしょ!?」
「俺が行けば、全部解決なんですよ。引っ越し?不要。飛びます。すれ違い?ゼロ。俺、天才」
「え、ほんとに言ってるの? ん、待って?啓悟くんが来るの? 東京に?」
「今チャットボットに繋がってます。AI対応なんですけど、もうちょいで人に変わります」
「ちょっと真顔でやるのやめて、笑うから」

 私は苦笑しながら、彼のスマホを覗き込んだ。画面には『人事担当にお繋ぎします。しばらくお待ちください』の文字。彼はもう、一歩も譲る気がなさそうな顔で、画面に全集中していた。

「ねえ……朝から、情緒が忙しすぎない?」
「名前さんが好きすぎると、こうなります」

 その瞬間だけは彼の目がきらりと光った。落ち込みながらも彼の芯にあるものは何ひとつ揺らがないらしい──いや、揺れているのかもしれないけれど、愛情のベクトルだけは、すべてこちらを指してくるのだから困る。

「とりあえず、今日の予定は?」
「今から東京帰任プランを練って、午後に不動産めぐり。夜は……やけ酒すね」
「やけ酒って……まだ私、こっちいるよ?」
「じゃあ、やけコーヒーにしましょ。俺が、愛情たっぷり注ぎます」
「はいはい、旧型お揃いマグでね」

 少しだけ笑ってしまった。心がぐらぐらの彼とそれでも朝を迎えてこうしてまた向き合うのだ。恋をしているというのは想像以上に生活そのものだった。
 プロヒーロー・ホークスの東京帰任大作戦は、とりあえず『検討します』の一文で、静かに保留された。スマホを見つめて、しょんぼりしている彼を横目に私はそっと玄関の靴を揃える。かかとの内側に少し残る朝の涼しさと、陽射しの気配が混じる時間帯。

「……じゃあ、そろそろ出かけよっか」

 そう言うと彼は、もそもそと、ソファから起き上がって、背中を思いきり伸ばした。剛翼の赤い翼がバサっと広がり、それがやけに綺麗だった。それでもまた脱力したように、すとんとソファに腰を落としてしまった。

「名前さんと絶対同棲を叶えるために魂を東京に飛ばしてきたけん……」
「いや、ちゃんと持ってきて?戻して戻して。」
「でも心はまだ、この愛の巣に置き去りのまま」
「愛の巣にすらいないよ、今のあなたは」
「……ですよねぇ」

 意味のわからない会話にしっかりと付き合っている私は偉いと思う。力なく笑ってやっと重たい腰を上げた彼は羽根のように軽い言葉とは裏腹にまだ心のどこかに何かが引っかかったままのようだった。それでも、私の差し出したエコバッグを片手に受け取ると、少しだけ表情がほどける。

「えっと、今日は何するんでしたっけ」
「とりあえず福岡の街を歩きながら、いい物件がありそうなエリアを見て回って。あとは、ごはんとか、カフェとか」
「了解。じゃあ一番居心地の良さそうなカフェを『我が家候補』って勝手にタグつけてきますね」
「それはそれで紛らわしい……けど、いいかも」

 朝の空気に溶けていくようにふたりの笑い声が交差する。愛の巣のエントランスを抜けると福岡の街が少しだけ光って見えた。まだ見ぬふたりの暮らしを足元から踏みしめるように歩いていく。
 遠回りでもいい。彼となら、その寄り道の時間さえも、たしかな愛情に変わっていく気がした。

 その日の午前、私たちは、カフェでブランチをとることにした。福岡は東京よりもなんとなく、やわらかい時間が流れているように感じられる。窓辺の席に案内されると、彼は迷うことなく私の向かいに腰を下ろし、メニューを一瞥しただけで「カフェラテとクロワッサンください」とあっさりオーダーを済ませた。私はというとキッシュとグレープフルーツジュースを選んでひと息ついたところだった──が、彼はずっと何とも言えない表情で先に運ばれてきたカフェラテのストローの先をくるくると弄びながら、こちらを見ては目を逸らし、また見る、を繰り返している。

「なんかさっきから、視線が刺さるんだけど?」

 私が軽く笑って言うと彼はふてくされたように頬杖をついて呟いた。

「いやぁ、別に?ちょっと思い出してただけです昨日の玄関ごっこを」
「ごっこって言うんじゃありません」
「でも、なんかこう……盛り上がってたの俺だけだったのかなぁって」

 そう言って、ラテの泡にスプーンで意味もなく模様を描き始める姿は、ヒーローとは思えぬほど拗ねた人間の見本のようで、私は思わず肩を震わせて笑ってしまった。

「あらら。拗ねてんの?」
「拗ねてませんけど」
「え、じゃあなんで俺の人生のピークは、昨日のあれでしたって寝言みたいに今朝言ってたの?」
「……あれは本音ですね」

 目を伏せてぽそりと漏らす声に、胸がくすぐったくなる。彼のその不器用な、満たされた幸福の表現が、じわじわとこちらの胸にまで染み込んでくるようだった。

「……でもね、けいごくん」
「ん」
「私も、嬉しかったよ。ああいうの。初めてしたもん、玄関……ごっこ?」
「……ほんとです? 俺が初めて?ほんとに?」
「うん、ほんと。人生のピークが一緒だったの、ちょっと笑っちゃうけど」

 その瞬間、彼の口角がほんのわずかに持ち上がる。が、それを悟らせまいとばかりに急に視線をそらして、窓の外を見つめる演技をはじめた。

「……じゃあさ」

 と、彼が、唐突に声を落としてつぶやく。

「帰ったらまた、やっても、いいです?」
「いいけど。何回もやったら近所の人に変な目で見られそうだけどね」
「そのときは、名前変えてもらっていいですか」
「ん? 名前?」
「はい。名字から鷹見に。そしたら、周りの人もああ〜嫁ちゃんかーって納得するでしょうし」
「あー、なるほどね?もともと啓悟くんのうち、表札ないけどね」
「愛の巣ですぅ。かわいい同棲人とかでも良いんですけどねぇー」
「なんかそれ、語感がちょっと雑すぎない?」

 私が突っ込むと彼はようやく吹き出した。一つ笑い合って、それからふたりのグラスが柔らかくカチンと触れ合う。差し込む陽の光がテーブルの上の影を、そっと伸ばしていた。
 カフェを出ると陽ざしはまぶしいほどに路面を照らしていて、彼が咄嗟にキャップのつばを少しだけ下げる。私は、その横顔を見ながら、わざとらしく深呼吸をしてみせた。

「……なんか、旅先って感じがする」

 そう言うと彼は、ちょっと首を傾げて笑った。

「いやいや、旅じゃないです。新生活準備です」
「新生活っていうか、まだ契約もしてないし」
「心の契約は済んでるでしょう?」
「なにそれ、どこでサインしたの?」
「んー、たぶん玄関前?ごっこのときエアーで」

 そう言って彼は、片手をポケットに突っ込んだまま、もう片方の手で、ひょいっと私のバッグの取っ手を持って歩いていく。ああ、また自然に。こういうとこずるいなと思いながらもその後ろ姿が頼もしくて、私は黙ってその背を追いかけた。

「……しかし、こっちはあったかいですねぇ」
「うん、春が早い感じ」
「じゃあ、あれですねー。衣替えしなきゃ」
「私、衣替えっていうか……なんなら、まだ冬物クリーニング出してない」
「えー、女子力〜」

 彼がふざけたように言ってくるので私はムッとして歩調を少し速める。けれど数歩で追いついてきた彼が、また、すっと笑う。

「——でも、そういうとこも含めて……たぶん、好きなんすよねぇ、俺」

 その声は、さっきまでのふざけ口調とは違ってすこしだけ真面目だった。私が俯いたままうまく言葉を見つけられずにいると彼が空を仰ぐように呟いた。

「なんか、空が……福岡って、ちょっと広い気がしません?」
「……気のせいじゃない?」
「うーん、じゃあ俺の心が広くなったって事で」
「いや、どっちでもよくない?べつに」
「ははっ、拗ねとー」
「拗ねてませんっ!」
「はいはい。あいらしかーあいらしかーです」
「もう、ほんとムカつく……」

 そんな、たわいもないやりとりの途中で、彼のスマホが震えた。画面を覗いた彼が「おっ」と、声を漏らす。

「さっきの不動産屋さん、もう候補物件の追加がきましたよー」
「え、もう? はやいね」
「行動が早い男はモテますって、どっかの雑誌に書いてあったんでぇ」

 そう言って得意げに笑う彼の横顔に思わず私もつられて笑ってしまう。春の光に染まる通りを、ふたつの影が、並んで伸びていく。新しい日常の入り口が、ほんのりと見えてきた気がした。

「あっ!だから��速すぎる男�≠チて肩書きに?」
「はい?」
「モテたくて?はいはい。うぅー、やらしぃ〜」
「そもそもアレは勝手に周りがそうやって前から呼んどーだけばい。俺の意思やなか」
「おーおー、ムキになっとぉーねぇ」
「ちょ、福岡弁が雑ったい……」

 午後のやわらかな陽が、路地のアスファルトにあたたかく差し込んでいた。風は穏やかでどこか春の匂いを含んでいて、私はコートの裾を揺らしながら彼のスニーカーのリズムを耳の隅で聴いていた。
 ヒーローホークス——啓悟くんは、私より少し先を歩いては、ときどき振り返る。歩道と住宅地の隙間にある公園や、川沿いの舗装された遊歩道、商店街の脇の小さな惣菜屋まで、すべてがまるで生活の試写会のように一つずつ私たちの目の前に姿を現しては消えていった。

「ねえ……ここ、すごく静かっすねぇ」

 ふと漏らしたその声に、私はうなずく。

「夜も静かなら、こういうところもいいかもね」
「ね。でも……静かすぎるってのも、案外寂しいもんなんですよ?俺みたいに、音に慣れてる人間には」

 彼が、ふっと息をついた。ふだんは飄々と口を開く彼が言葉を選ぶように沈黙する。その沈黙が珍しくて、私は足を止めた。彼の視線の先には、低い木塀に囲まれた平屋建ての一軒家。その前を白髪まじりの老夫婦が、並んで歩いていた。男の人が買い物袋を持ち、女の人が、そっとその腕に手を添えている。言葉は交わしていない。でも、呼吸のように連なっていた。

「……俺さ」

 不意に彼が口を開く。私は、老夫婦から視線をそっと彼のほうへと戻した。

「もし、ヒーローじゃなかったらさ……きっと、もっと普通に未来ってやつのかたちを、考えてた気がするんですよ」
「未来?」
「そう。三十代になったら、どんな家に住んで、誰といて、どんな仕事してるかとか」
「……」
「家賃のこととか、休みの日のこととか。でも、今みたいな生き方をしてると、今を生きることに精一杯で、未来が薄くなる」

 私は彼の横顔を見つめる。やわらかく光を反射した瞳は、どこか遠くを見ていた。空ではなく、家でもなく、きっと、見えない時間の先を——。

「……でもね」

 その声が、そっと、私の手を引く。その手は、やっぱりあたたかいヒーローの温度をしていた。

「名前さんといると、ちょっとずつ、考えられるようになってきたんです」
「……」
「先のこと。今だけじゃなくて、何十年後の先のことも」
「……」
「……死にたくない。」

 心臓が、ふと波打つ。声に出さずともそれは、確かに��想い�≠ニ��祈り�≠フ輪郭だった。

「引退しても、隣にいたらいいなって。玄関で、迎えてくれる人がいたら俺、多分ちゃんと帰れる気がする」
「……それって、さぁ、一般的に言うと……」
「ん?」
「プロポーズみたいに、聞こえるけど……?」

 すこし冗談めかして言うと彼は、一瞬だけ目を大きく見開かせて、いたずらな笑みを浮かべた。

「うーん、じゃあ、予告プロポーズってことで。正式なやつはもうちょっと先に取っておきます」

 手と手は離れずにいた。川沿いの風が頬を撫でるたび私は少しだけうつむいて、彼のぬくもりを強く握り返した。未来の話を、こうして、笑ってできる今日という日が、すでに私の宝物だった。

 陽はすでに傾き街のビルの隙間から覗く西日がコンクリートに長く影を落としていた。ふたりで選んだ新しい街を歩くのはこれが今日で二度目の往復だった。初日より少しだけ靴が馴染んで彼の歩幅に合わせることにも、慣れてきた気がする。
そのとき、ふと前を歩くスーツ姿の男性が足元に違和感を覚えたように立ち止まり何かを探し始めた。私はすぐに気がついた。コンクリの継ぎ目に黒い長財布が落ちていることに。スーツの男性はそれに気づかず、数歩先へ。

「あっ……!」

 私はとっさに駆け寄って、その長財布を、拾い上げた。

「すみません、これ……っ!」

 振り返った男性が、ほっとしたように、表情を緩めた。

「よかったぁ、間に合って……」
「ああ。ありがとうございます、ご親切に。」

 ペコリと深く頭を下げる彼に「いえいえ、大丈夫です」と笑って返し、すぐにその場を離れた。たった数秒。けれども、視線を感じた。それも、やたらと強く。振り返れば、十メートルほど先、未来の旦那様候補が、腕を組んで、仁王立ちしていた。

「……ん? 啓悟くん?」

 近づくと彼の表情はいつになく無表情だった。けれど口角が微妙に下がり、瞳の奥にじんわりとした煙が立っているような、そんな火種の気配があった。

「えっ……も、もしかして、怒ってる?」
「いや。怒ってないっすよー?」

 返事は軽いのに、目がまったく笑っていない。ちょっとこれは……めんどくさ——いやいやっ、まずい、かもしれない。

「あの人、お財布落としてたから拾って、返しただけだよ?」
「ええ、見てました。丁寧に笑顔で話しかけて、えらいっすねぇ〜」
「や、皮肉……。やめてよー、もう」
「財布拾うにしても、俺がおーいって呼び止める係で、名前さんは、うしろで『あ、落とし物ですよー』って言う係じゃなかったでしたっけ?」
「えぇ! そんな分担あったの!?」

 笑ってしまいながらも、私は気づいてしまう。これは冗談めかしてはいるけれど、たぶんほんの少し、いや、結構……ヤキモチを、焼いている。

「……もしかしてさぁ?」
「はい?」
「あれ見て、嫉妬したの……?」

 そう聞くと、彼は一瞬だけ眉尻を寄せ、すぐにふいっと目を逸らす。

「してないっすよ」
「……ほんとは?」
「…………はい。ちょっとしたかもですけどー」

 肩越しに呟いたその声があまりに小さくて私はつい手を伸ばして彼の指先に自分の指を絡めた。

「……でも、嬉しいかも。ちょっとだけね?」

 すると彼は、わずかに照れたような吐息をもらしたあとぐいっとそのまま私の手を強く握った。

「もう、落とし物を返すときもこれからは、俺に相談してくださいね?」
「ええっ、そこまで!?」
「はい、契約約款に入れときます」
「や、やっかん……」
「第二章・落とし物返却時の対応について」
「うぅ〜、細かぁ……っ」

 そんなふうに笑い合いながら私たちはそのまま並んで、ゆっくりと歩き出す。
 金色に染まりはじめた街の光が、ふたりの影を長く、伸ばしてくれていた。


  • prev | next

  • back
VERTEX