エントランスに入った途端に、マンション内の静けさが背中にじんわりと染み込んできた。街の喧騒がまるで誰かの記憶みたいに自動ドアの向こうに遠のいていく。その数歩先を歩く彼の背中はいつもよりほんの少し丸く見える。さっきまでの陽気な冗談と甘えた声色はどこへやら……。
 玄関を開けて無言で靴を脱ぎ、スリッパに足を入れた彼の手の動きは妙に丁寧で、そして、少しだけ寂しげだった。リビングのソファに腰を下ろした彼は、ふとこちらを見上げた。

「なんか、変なテンションですいませんでした」

 声は小さく、けれど責めているようでもなく、ただ、戸惑いと不器用な感情が混ざったような、そんな、音色だった。私は静かに彼の隣に座る。ソファのクッションがふたつの重みを受け止めてしんと沈む。

「拗ねてるんだ?」
「拗ねてないですぅ」

 わかりやすいくらい早口で否定したあと、彼は膝の上で、自分の指をいじり始めた。人差し指の爪を親指でなぞるその仕草が、なんだか、小動物めいていて、ふいに愛しさがこみあげる。

「……言ってくれたらよかったのに。ちょっと、ヤキモチ焼いちゃったーって」
「……言ったら、ダサい。かっこわるかーです」
「そうかな? 素直で、可愛いと思うけどなぁ」
「……」

 彼はしばし沈黙したまま、ちら、と私を見た。その視線には、たった今まで我慢していた何かがしっかりと滲んでいた。そして次の瞬間、すっと身体を傾け、私の肩に額をそっと預けてきた。

「……名前さんが他の男に笑ってるの、俺やっぱだめです……けっこう効きます」
「そっかぁ」
「もっと信用してるつもりだったんですけど……ダメでした。こういうの、苦しい」

 私はそっと、彼の髪を撫でた。昼間の陽射しをまだ少しだけ残している金色の髪が、指先をすり抜けて、心をくすぐった。

「私は、啓悟くんだけに笑ってるよ?」

 その一言に、彼は小さく息を呑んだ。そして、私の太ももにそっと顔をうずめて、声にならない吐息をひとつ落とした。

「……大好きです」

 その言葉の温度が夜の部屋に灯る明かりより、あたたかく胸に残った。その夜の空気は、どこか水の膜のようだった。静かで透明でけれど指先を通せば確かに形を変える。そういう夜。
 そっと彼の頭を撫でたあと「じゃあ、そろそろ晩ごはん……」と立ち上がろうとした。けれど、次の瞬間、手首を掴まれた。強くはない。でも、拒めない力だった。私はゆっくりと振り返る。

「ん?……あっ、先にお風呂、済ませちゃう?」
「……」
「……啓悟、くん?」
「いやです」

 声は低く、けれど少しだけ幼さを含んでいた。

「え?」

 彼はソファに座って私の手を握ったままこちらを見上げていた。まるで、拗ねた子どもみたいな顔で。

「行かんで。今日はもう、ごはんよりも、お風呂よりも……名前さんがいいです」

 そんなふうに言われたら私はもう、どうしたらいいのかわからなくなる。笑ってかわすべきなのに、彼の瞳があまりに真剣で、胸の奥がきゅっと絞られる。

「だって……お腹、空いてたんじゃないの?」
「空いてますよ?でも今すぐもっと欲しいものがある」
「……」
「ねえ、一緒に来て?」

 そう囁かれてついに私は何も言えなくなった。手を引かれるまま彼の後ろ姿についていく。
 廊下を渡り寝室の前まで来たとき彼がふと立ち止まって私を振り返った。優しい目だった。だが少しだけ不安を滲ませた目でもあった。まるで、この場所に私がいてくれることを確かめたくて、しかたない子どものように。

「……ダメ、ですか?」
「……」
「名前さん……」
「……ううん。ダメじゃない」

 その言葉がふたりの間にふわりと落ちたとき、彼の顔がふっとゆるんだ。そしてやさしく、でもどこか、必死な手つきで私をそっと抱き寄せる。

「もうちょっとだけ、独り占めさせてください」

 その夜、ふたりの身体は、言葉の代わりに語りはじめた。互いの体温が夜を照らし深く重なってやわらかく沈んでいく。明日がどうなるかなんてまだ知らない。けれど、いまこの瞬間だけは彼のなかの��帰る場所�≠ノなれた気がした。


 *


 まるで何かに呼ばれたようにふと目を覚ましたときには、すでに彼女の姿が視界にあった。カーテン越しに朝の光が、まだ柔らかい金糸のように床を這っていて、それに輪郭を溶かすようにして彼女はただそこにいた。ベッドの端に座り何かを待つように呼吸をしている。髪が少し乱れていてかかとが床の冷たさに少し身をすくめていて……それでも彼女は何も言わず何も求めずただ黙っていた。
 しばらく目を伏せたまま様子を見ていたけれどあまりにもその姿が静かすぎて。そして、どこか少しだけ切なげだったから俺ははゆっくりと体を起こした。毛布の皺をひとつ越え手のひらで背中をそっとなぞるようにして言葉を探してようやく声になった。

「……どげん、したと?」

 そう問いかけた瞬間、彼女はわずかに肩を揺らしてゆっくりとこちらを振り返った。眠気と光が混じるその瞳には何か言葉にならないものがゆらゆらと漂っていて、だけどそれは決して不安ではなかった。

「……空気を、見てたの」

 その言葉があまりに不思議でそして綺麗だったから思わずまばたきを忘れて、胸の奥が少しだけしんと鳴った。
 空気を、見ていた——。何もないようで何かが確かにそこにある場所を彼女は見ていた。それを聞いた瞬間、俺はふいに思ってしまった。いや、願っていた。君の目に映る、空気になりたいと。意味のない願いかもしれない。でも、その視界の中で当たり前に在って、見えないけれど触れたくなるような存在になりたいと。
 そばにいるだけじゃ足りない。手をつないでも名前を呼び合ってもまだ足りないくらい俺は君のことを好きで……いや、好きなんて言葉じゃ足りないのかもしれない。愛してる。たぶん、もっとずっと前から。自分が気づくより、ずっと早く。
 彼女のまなざしの中で、ごく自然に在り続けるものになりたいと、心の底から思った。そして、それはたぶん恋なんかよりもっと深い場所にある想いだ。彼女が見つめるもののなかに自分の気配が滲んでいたら、それだけで救われてしまうかもしれない。いまこうして隣にいるはずの自分が、こんなにも願ってしまうのは君が時々誰にも触れられない場所で何かを静かに見つめているからでひとりの時間を生きているからこそどうしようもなくそこに入りたくなってしまう。空気になって君の瞳の中に滞留していたい、と。

 手を伸ばして寝起きの髪を後ろからそっとかきあげるように掬ってやると、彼女が振り返って、綺麗に微笑んだ。その一瞬に、すべてが報われたような気がして何も言わず彼女のそばに近づいてただ額を彼女の肩にあずけた。

「……好きですよ、名前さん」
「……」
「大好きです。今朝もちゃんと、あなたのこと」

 囁くような声が自分のものだったことにあとになって気づく。そのまま、どちらからともなく、まだ温度の残る部屋の中を、静かに歩き出した。この時間さえあれば世界がどんな形に変わろうときっと大丈夫だと思える。
 彼女がいる空気のなかに、自分の羽音が溶けていくような、そんな朝だった。


 *


 フライパンの中で、卵がじゅうと軽やかに音を立てる。コーヒーメーカーからは、ぽとぽと、と小さな雫の音。部屋中に広がる香ばしい匂いに、背筋を伸ばして朝の深呼吸をする。振り返ると、彼──啓悟くんが、マグカップを両手で包み込むように持ちながら、ダイニングテーブルの椅子に座っていた。特に何をするでもなくただ私の方を静かに見つめている。

「……何か、ついてる?」

 卵を皿に移しながらそう訊ねると、彼は、一拍置いて、ゆっくりと微笑んだ。

「いえ、別に」

 でも、その「別に」の中に、何か含まれていることは、長くは一緒に暮らしていない私にも分かった。テーブルの上には、焼きたてのトースト、カットしたりんご、そして目玉焼き。なんてことのない朝ごはん。なのに彼はまるでそれが奇跡のように貴重なことに見えているみたいな、そんな顔をしていた。

「……朝って、いいね」

 私はぽつりと呟いた。すると彼は少しだけ首をかしげながらも、嬉しそうにうなずく。

「ね。どうしてかわかります?」
「ん?」
「名前さんがいるからですよ」

 その言葉に思わず手が止まる。だけど彼はそれ以上何も言わず、まるで空気のようにあたたかく、穏やかにそこにいた。食器がカチリと音を立てるたび目の前の人との朝が、現実味を帯びていく。でもその現実が少しずつ、夢に近づいていく気がした。

「ねえ……なんでそんなに、見つめるの?」

 もう一度訊いてみたけれど彼は照れくさそうに笑って「たぶんまだ信じられてないんです。本当に一緒にいるのが」と小さな声で言った。その瞬間「ただいま」の練習や空気を見ていた朝の時間、そして、彼が何気なく発していた視線の意味が、ようやく少しだけわかったような気がした。

 午前十一時。不動産屋の店先に貼られた小さな紙面に目を凝らしながら、私はその日も「なんとなく」で選んだつもりだった。だけど彼は不意に立ち止まった。

「……この部屋、良さそうじゃないですか?」

 それは、いつか見た夢のなかのように静かに、けれど確かに響く声だった。名前も、特徴もないような陽当たりの良い角部屋。白い壁紙とフローリングに、カウンターキッチン。風の通り道になるような南向きの窓。そのとき私はこれ以上の条件なんて、何もいらないと思った。

「どうします?」
「……うん、ここにする」

 まだいつになるか未定だと言ったけれど、彼が先に住んで待っていると言い張るので、その場で手続きを進める間、彼はまるで自分の終の住処が決まったかのように、私の隣でわくわくした目をしていた。

「家具とかも少しずつ見繕っていきましょうね。あ、マグカップはもうあるか」

 そう言って、彼が小さく笑ったとき、私は心のどこかで、この人はきっとどこまでも私の日常に寄り添おうとしてくれるのだろうなぁ、と思っていた。
 午後の街は少しだけ湿り気を含んだ風が吹いていて、それが、季節の端境を感じさせた。遅めのランチを取りながら彼がふと手を伸ばして、テーブル越しに私の指をなぞった。

「こんな時間、もっと続けばいいのになぁ」

 その声はヒーローのそれではなかった。ただ、私を好きなひとりの男の子の声だった。そのあと街の片隅のベンチで買ったばかりの冷たいドリンクを手にしながら、ふたりして並んで空を見た。青く広がる雲のない空を見上げて私がふと「また来るね」と言うと、彼は何も言わず、それでも私の手を、きゅっと握りしめた。
 電車に揺られるのは久しぶりだった。私たちは並んで座りながら、時折目が合えば、くすぐったそうに目を細め合うだけで、言葉の少ない時間を心地よく共有していた。彼の手は私の手をずっと握ったままで、けれどそれは主張しすぎることもなく、ただたしかに、体温を分け合うための動作だった。彼が小さくため息をついた。それは別れを惜しむためというより、きっと今から話そうとすることに少しだけ勇気が必要だったのかもしれない。

「……あのさ」

 声はいつになく真面目だった。私は振り返って首を傾げる。

「うん?」
「俺……わりとずっと考えてるんです。名前さんのこと」
「……ふふ。いま、唐突に告白された気分」

 冗談のように笑いながらそう返すと、彼は少し困ったように眉を下げて、でも、視線は逸らさなかった。

「いや、冗談じゃないですよ。本気のやつ」

 その眼差しに胸の奥で何かが柔らかくほどけていく。

「俺、ヒーローだからとか、社会的な役割とか、いろいろ背負ってるけど……でも、それでもやっぱり一番大事だと思うのって誰かを想うことなんですよね」
「……」
「毎日思い出すこと。声を聞いて安心すること。姿を見たら、呼吸が整うこと。全部、名前さんで成り立ってるんです」

 電車の窓に映る空が少し白んで見えた。たぶん逆光だったのだろう。でも私には、彼の声がそのまま空の色を変えてしまったようにさえ思えた。

「……そんなに、好き?」
「めちゃくちゃ好きです。ていうか、ちょっと引かれるくらい好いとーかもしれん」
「……」
「気づけば未来予想図にも全部、名前さんが入ってる」
「……」
「なんかもう生活に組み込まれてるんですよね。ご飯食べるときもコンビニでスプーン取るときも歯ブラシ買うときも」
「え……歯ブラシ?」
「うん。名前さんにも予備いるかもなって思って2本入り買ってます、最近は」

 思わず、ふっと吹き出した。そういうところが、なんとも彼らしいなと思う。けれど、だからこそこの人の真剣さが、胸を刺すほど愛しい。

「すごいね」
「へっ?」
「だって、啓悟くん。今回はたくさんプロポーズしてくれるから」
「え? あ、やば……たしかに」
「……」
「でもまあ。もう、そっちで解釈してもらってもいいですけど、ね。べつに……」

 その背に背負っている個性と同じように、真っ赤になった耳を隠すようにして彼は車窓の外へと顔を向けた。その横顔が、こんなにも愛おしいだなんて、私はいつから気づいていたんだろう。


 *


 搭乗ゲートの案内が流れる空港は人々のざわめきとアナウンスの声が交錯してどこか非現実的なほど騒がしいのに隣を歩く彼の沈黙だけがやけに重く感じられた。私はキャリーケースの取っ手を握りながら歩幅を合わせようとするけれど彼は、少しだけ前を歩く。その背中を見つめながら胸の奥にかすかな棘のようなものが刺さっていくのを感じていた。

「ねぇ。電車降りてからずっと黙ってるけど……もしかして、怒ってる?」
「怒ってませんよ」
「絶対怒ってるでしょ」
「怒ってないですってば。ただ……」

 彼は立ち止まり、振り返らずに低く言った。

「なんで言ってくれなかったのかなって。福岡に住むかもしれないって、もっと前に……」

 私は言葉を詰まらせる。確かに突然切り出したのは私のほうだった。でも、なんでそんなふうに今になって突然、拗ねるんだろう、と思う自分もいる。

「……だって、まだ決定じゃなかったし」
「そういう言い方、ほんと、やめてほしいんですよね」
「え? どういう意味?」
「こっちは、全部受け止める準備してたんで」
「なにそれ」
「俺はずっと準備してたんですよ。心の準備も、生活の準備も。あなただけじゃなくて、俺だって真剣に色々、考えてるんです」

 私は思わず彼の横顔を見上げた。こっちだってそんなふうに考えていたなんて今初めて聞いた。

「ごめん、でも私だって——」
「謝ってほしいわけじゃないんです」
「じゃあ、どうしてそんな言い方するの?」
「俺の中じゃもう決まってたんですよ。だから、なんか……置いていかれてる気がして」

 声が少し震えている気がした。それでも彼は、笑おうとしたけれど、目はまっすぐ私を射抜いている。

「思ってましたよずっと。一緒に住めたらなって。でも、それをストレートに伝えたら重いって思われるでしょ」
「そんなふうに考えるくらいなら、最初から何も言わないでよ」
「言わなかったら俺がまたひとりで勝手に苦しむだけじゃないですか」

 お互いに言葉をぶつけながら、わかっている。本当はどちらも悪くないことも、別れが惜しくてただすれ違っているだけだってことも。苛立ちと寂しさとどうしようもない好きが混ざったような目で見つめられて言葉を探す前に、アナウンスが響いて搭乗時刻を告げる。別れの時間が近づいてきた。もう、時間がない。

「……もういい」

 視線を逸らしながら、私はぽつりと呟いた。

「どうしていつもわざわざ別れ際にこんな空気にするかな……」
「……」
「そういうの、私だって……ほんともう、やめてほしいよ」
「……」
「死に別れして後悔したって……知らないから」

 言った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。けれど吐き出した言葉はもう戻せない。しかしその場の空気をさらに張りつめさせるように彼の低い声が静かに響いた。

「ちょっ、待って……なんすかそれ」
「言ったまんまの意味だよ」
「縁起でもないこと言わんでほしか。だいたい、あなたはいっつも——」
「——ぃ。」
「はい?」
「ホークスなんて、大嫌い。」

 その言葉を最後に彼は何も言わなかった。笑うことも呼び止めることもせず、わずかに唇を結んだまま、ただ私を見送るだけだった。
 さっきまで隣にあったはずの温もりが急に遠くなる。背中を向けたまま私も振り返らなかった。けれど、すれ違うようにすれた彼の指先がほんの一瞬だけ、私の手に触れた。まるで「行かせたくない」と告げるようにその微かな震えは言葉よりも雄弁だった。それでも彼はやっぱり何も言わなかった。だから私はその手をそっと振り払うしかなかった。
 ただ、見えなくなったはずの距離に、彼の体温だけが痛いくらいに、ずっと残っていた。





扉はまだ、夢のまえ



(啓悟くんなんて——だいっきらい。)

※image song
『 LOVERS part II (feat.若旦那)/加藤ミリヤ 』


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