福岡空港を離陸して約40分後。東京行きの大型旅客機が、上空で突然の揺れに襲われた。機内は悲鳴と混乱に包まれる。エンジン1基が火を噴き操縦系統の一部が損傷、機体は急速に高度を下げ始めた。
私はシートベルトを強く握りしめながら必死に冷静を装おうとしていた。けれど機体がわずかに傾くたび、金属が軋むような不快な音が耳の奥を突き刺して、鼓膜を震わせるたび胸の奥で心臓が暴れるように跳ねて、痛みさえ伴うのを止められなかった。
視界の端で揺れる非常灯が、不安を煽るように赤く点滅している。客席を流れるざわめきも機体を叩く風の唸りも、すべてが、遠くで響く水音のようにぼやけて、ただひとつ、恐怖だけが鮮明に形を持って、迫ってくる。そして気づけば思考は勝手に、あの人のことばかりを追いかけていた。別れ際に口にしてしまった言葉が、いまになって耳の奥でしつこく反芻する。「死に別れ」なんてあんなこと、言わなければよかった。
言霊というものは本当にあるのかもしれない。もしあの時の言葉がこの瞬間の現実を引き寄せたのだとしたら——そう考えた途端に、冷たい汗が背筋を伝い落ち、呼吸が浅くなる。
なぜ今、こんなにも、怖いのだろう。なぜ今、あんなにも憎たらしくて仕方なかったはずの人の顔が、鮮明すぎるほど、脳裏に浮かぶのだろう。なんで……あんなふうに言っちゃったんだろう。
福岡空港で別れる直前。彼の言葉に苛立って、「大嫌い」なんて嘘みたいなひとことを口にしてしまった。本当は嫌いなはずがないのに心の奥では大好きで触れたくて、どうしようもないくらい大切なのに——。
「落ち着いてください!」
「立ち上がらないでくださいっ!」
ごめんね。ごめんね啓悟くん。もしも、もしもこれで本当に最後になったら……。どうしよう、あんな言葉、ほんとに、言わなければよかった。窓の外は雲を裂く稲光がかすかに見えた。たとえこんなに高い空の上にいても、私の心はずっと、あのヒーローのそばに、置き去りのままだった。
*
羽田沖のセンターに設置された、臨時ヒーロー救難本部。そこにはすでにトップヒーローたちが一堂に集められていた。司令卓にはエンデヴァーが立ち、オールマイトや、ベストジーニストらも配置につく。壁面には、旅客機の現在位置を示す大型モニター。無線からは機長と副操縦士の緊迫した声が響く。
『操縦不能ですっ!』
『よし、まずは落ち着こう。燃料残量は?』
『残り90分……いや、エンジン損傷を考慮すれば
60分以内が限界です!』
臨時ヒーロー救難本部にいる面々は無線をただただ聞いていることしかできない。外にいて無線を拾っているヒーローたちの間にも緊張が走る。
「東京湾への着水案はどうだ?」
その場にエンデヴァーの声が低く響く。しかしベストジーニストが、静かに首を横に振った。
「すでに日没、視界は最悪。誘導灯なしで夜間の海上着水は……不可能だろう」
しんと静まり返った空間にオールマイトが唇を噛む。そして苦渋の決断とも言えるような声音で言った。
「滑走路に、戻すしかないんじゃないかな?」
「だが、滑走路は長さが足りん」
エンデヴァーが短く唸る。そして画面に視線を戻してから続けて言った。
「オーバーランすれば機体は爆発する。その瞬間数百名が一瞬で——」
全員が言葉を飲み込んだそのとき、通信席から声が上がった。
「待ってくださいっ!飛行中のホークスから——緊急回線ですっ! いま、繋ぎます!」
急いで繋がれたスピーカーから聞こえたのは、風と共にどこか軽くけれども確固たる声だった。その声は臨時ヒーロー救難本部全体に、そして、屋外で待機しているヒーローたちの無線へも響きわたった。
『——こちらホークス。間も無く到着しまーす!あの、提案なんすけど……エンデヴァーさん』
「なんだ」
『えーっと……海上に滑走路、作りません?』
その一言に、臨時ヒーロー救難本部の司令室が一斉にざわつく。
「おいホークス、ふざけているのであれば貴様のようなヒーローなど、今この場にはいらん」
『ええ?ふざけてませんよエンデヴァーさーん。ヒーロー全員の個性と装備を総動員すれば光源を並べて誘導路を作れる計算です』
「なに……?」
『つまり、東京湾にもうひとつ、滑走路を造るんですよ』
「夜間だぞ。海面が見えない状態で誘導なんて」
『できます。プロヒーローが100人以上待機してるんですよ?この人数で無理なら俺たちの存在価値ないでしょ』
希望か、無謀か——重たい沈黙が支配する中でオールマイトが深く息を吸い込み言葉を選ぶように口を開いた。
「燃料はあと60分か……。滑走路を作るのに最低でも45分は必要だろうね」
張り詰めた空気が一層重くなっていく。誰もが答えを出せずにいると突如として無線から機長の声が割り込んだ。
『——海上着水で行きましょう』
一瞬、司令室の全員が息を呑む。目を見交わし誰もがその選択肢の危険性を悟っている。
『もし……誘導灯を作ってもらえるなら、我々にとって、それ以上の希望の光はありません』
静寂を破るその声は必死の覚悟に満ちていた。しばしの間を置いてエンデヴァーが低く、しかし力強くホークスへ問いかけた。
「……確実にやり遂げられるか、ホークス」
全員の視線が一斉に、ホークスと通信を交わすエンデヴァーへと向けられた。ホークスは、一度だけ長く息を吐き、口角をわずかに上げるようにして言い切った。
『やれますよ。——やるしか、ないでしょ。』
その声には、迷いがなかった。緊張に縛られていた空気がホークスの言葉でわずかに動き出す。
「ホークス、失敗すれば機体ごと海に沈むぞ」
エンデヴァーの低く響く声が司令室の張り詰めた空気を更に重くする。しかし一瞬の静寂の後、無線から返ってきたホークスの声は、驚くほどに軽やかで、それでいて、揺るぎなかった。
『希望がある限り——絶対に諦めるなって教えてくれたの、エンデヴァーさんですよねぇ?』
その言葉に、司令室の誰もが息を呑んだ。やり取りの隙間に漂う緊迫と信頼。エンデヴァーは、深く息を吐き、視線を強く前に向けると指揮官としての声を張り上げた。
「全ヒーローに通達。全員、復唱の必要はない。これから、東京湾への光の滑走路を構築する!」
『わぉ!エンデヴァーさん、かっこいいすね〜』
「——ホークス、」
『……はいはい? 聞こえてますよぉー』
「現場の指揮はお前に任せる。必ず全員を生きて帰すぞ」
『——了解、ナンバーワン。絶対に、間に合わせてみせますよっ』
その言葉を皮切りに現場は一気に動き出した。羽田沖ではすでに臨時の救護所が設置され医療班とヒーロー達が緊張した面持ちで待機している。重傷者や要救助者を想定したテントが並び照明が夜を迎える海に白い光を投げていた。ホークスは空を翔けながら、各所へ手際よく無線を飛ばす。
『第3班、誘導灯の設置急いでください!第5班は漂流物の撤去を最優先でお願いしまーす!』
ヒーローたちの手で暗い海面に誘導灯がひとつまたひとつと並べられていく。夜の海に細い光の道が描かれ無数の星のように揺れていた。機体の中からは断続的に、緊迫した無線が届く。機長、副機長、CAたちの声が時折ノイズにかき消されながらも、司令室へと届き、オールマイトやエンデヴァーがそのたび、即座に判断を下していく。
時間は刻一刻と削られていく。残された燃料はあと50分。その中で誰もがただ一人のヒーローの希望を信じていた。空を翔ける赤い剛翼の、燃え立つような、あの背中を——。
*
機内は大パニックだった。突然の爆音と共に、機体が大きく揺れ左翼エンジンから火花が散る。警報音が機内を切り裂き酸欠寸前のような空気に悲鳴が重なる。
揺れる座席、落下する荷物、叫び声と泣き声。私も必死にシートにしがみつきながら、ただただ助かりたいという思いと、そしてあのヒーローに「嫌い」なんて言ってしまったことを呪うようにずっと悔やんでいた。
『——乗客の皆様、機長です』
機内アナウンスから機長の声が低く響く。その声は震えてはいなかったがあきらかに張り詰めた緊張が滲んでいた。
『現在この機は車輪とコントロール系統に重大な不具合が生じており空港への正常な着陸は不可能となりました』
「えっ……嘘でしょ!?」
「着陸できないってどういうこと!?」
機内に走るざわめきが、一気に騒然へと変わる。CAたちが必死に「落ち着いてください!」と声を上げるがその声さえかき消されそうだった。
『私の判断で、この機は東京湾の海上に着水させます』
一斉にざわめきが爆発する。中には泣き崩れる人もいた。それでも機長は落ち着いた様子で先を続ける声を震わせなかった。
『……ですが、これは決して、絶望的な状況ではありません』
その一言に、機内のざわつきが一瞬だけ止む。
『着水予定地点にはすでに、ヒーローたちが救助態勢を整えて、待機しています。彼らは必ず皆さん全員を、救い出すと約束してくれました』
隣席に座っていた小さな子供が小さく息を呑む気配が伝わってきた。その震える肩を見た瞬間、私の胸も、きゅうと締め付けられる。さっきまで頭の奥で渦を巻いていた恐怖と混乱の中にわずかばかりの安堵が、機長の言葉によって差し込んできたのは確かだった。
『我々も必ず着水を成功させ皆様を無事にご家族のもとへ、お返しいたします』
その声は震えを押し殺した強さを帯びていた。ふと横を見ると、小さな手が震えているのが目に入った。私は咄嗟にその子のベルトをきつく締め直す。縋るような目でこちらを見上げるその子に、私はできるだけ柔らかい声で何度も呪文のように囁く。
「大丈夫だよ、大丈夫……。」
「……うん。」
「……いい? 頭、上げちゃダメだよ?」
「ヒーローたちが、助けてくれるんだよね?」
「うん。必ず助けてくれるよ」
「かならずって……どうして、わかるの?」
一瞬だけ言葉に詰まり、それでも私は、震える唇に微笑みを形作った。
「それはね……それは、わたしの大好きな人が、ヒーローだから。」
その子の瞳が、ほんの少しだけ潤んで揺れた。私も泣きそうになる気持ちを必死に押し殺して、笑みをつくることでどうにか自分を保った。
「きっとみんな助かるよ。お姉さんが約束する」
そう言って私は自分のシートベルトをもう一度きつく締め直し隣の子の小さな手を強く握った。震える指先が触れ合う事で私もかろうじて恐怖に押し潰されずにいられたのだ。
目をぎゅっと閉じた瞬間、遠くで再び警報音が鳴り響き機体は大きくきしむような音を立てた。