数時間前——福岡ヒーロー緊急支援センターの照明の下。モニターの光が、オペレーターたちの顔を照らし出していた。誰もがそれぞれの持ち場につき手を止めずにいるはずなのになぜか空気はやけに重たく、息苦しいほどだった。

「あれ? 管制塔から、緊急信号ですね……」
「えっ? 機体制御不能って、本当に……?」

 ざわめきは一気に広がった。報告を受けたオペレーターたちが立ち上がり、無線回線を増設し、地図に手を走らせる。大型スクリーンに映し出された航空機の航跡は、明らかに不自然な弧を描き始め、まるで落下する流星の軌跡のようだった。俺は壁際の席に立ち、ただ、モニターを見据えていた。胸の奥で、何かがざわつく。ここで自分が冷静でいなければならないと分かっているのに。

『エンジン一番系統、完全喪失。二番系統も……不安定です』
『応答微弱——これは、ちょっとまずいな……』

 次々と飛び交う機内での声が空気を裂くように耳へ突き刺さる。その一つひとつの断片的な報告や焦りが否応なく状況の深刻さを物語っていた。言葉の意味を正確に理解する前に声の緊張と焦燥だけが胸を締めつけ、想像していた以上に事態は悪化しているのだと、嫌でも悟らされる。

「現地気象データ、海面風速、二十ノット。下手をすれば、着水の衝撃で——」
「いや、そもそも間に合うかどうか……」

 誰かが呟いた声がやけに鮮明に耳に刺さった。間に合うかどうか——。その言葉だけが胸の奥でじわりと広がる。センターの中を飛び交う声が、一瞬だけ遠のいたように感じた。さっきまでやかましいほど耳を打っていたキーボードの打鍵音も怒号に近い交信もすべてが一枚の膜の向こう側に押しやられたみたいで。

「——所長。」

 オペレーターの声が、震えて届いた。手にした搭乗者リストをまるで高熱の物を掴んだみたいに指先が小刻みに震えている。何かを言おうとしてオペレーターの彼は言葉を失ったまま視線を落とし、そのまま紙の束を差し出してきた。嫌な予感ほど本当に当たるものだなと改めて思った。受け取る前から、指先が冷たくなる。視線を走らせた先で彼女の名前を見つけた瞬間——肺の奥に詰まっていた空気が、一気に抜け落ちた。

「……っ、……」

 声にならなかった。膝から崩れ落ちそうになるのを、机の端を掴んでなんとかこらえる。でも、身体は言うことをきかない。耳鳴りがひどくて、世界が、少し傾いた気がした。

「——この便……今、どこです?」
「……南方三十海里、制御不能です。高度、1100メートル、急落中との報告が……」

 息が、詰まる。呼吸なんて無意識にできるはずなのに喉が硬直して肺に空気が入っていかない。どうして俺はここにいる。どうしてあなたは今、そんな悲惨な空の上に——どうしてよりによって彼女の乗ってる便なんだよ。

「通信、切れますっ!」
「予備電源、あと八分です!」
「機長が……機長!? 応答不能——!」

 叫び合う声の中で、俺の胸だけが、異様に静かだった。鼓動の音だけが頭蓋の中で暴れていた。頭の奥で、ただひとつの映像だけが浮かんで離れない。狭いシートで、窓の外を見上げる、彼女の横顔。息をのむように笑う唇。それがいま、煙に閉ざされた機内でどんな顔をしてるんだろうって想像した瞬間——胃の底まで冷えて、吐き気すら覚えた。
 ……怖い。いや、俺が怖がってどうする。ヒーローだろ。でもそんな理屈より先に本能が叫んでいた。——今すぐ飛べ、と。間に合え。生きて、必ず彼女に会う。なのに、足は一歩も動かない。視界の端で光る航跡は徐々に角度を深めていた。落ちている。世界のどこよりも、速く。

「…………待っとって。」

 唇の奥で呟いた声は、誰にも届かないほど小さかった。それでも俺自身にはしっかりと届いた。震えている手をぎゅっと握り締めた瞬間ようやく身体が動き始めた。
 今、行きますからね。必ず助ける。ヒーローである前に俺は——あなたを、救いたい。


 *


 やがて機体は完全に海の底へと沈んだ。誰もが肩を落とし、ただ、冷たい風と波の音だけが響く中でエンデヴァーはただひとり顔を上げていた。

「……ヒーロー救難本部に連絡だ。深々度潜水の許可を取る」
「エンデヴァー、しかし——!」

 慌てて止めようとする周りのヒーロー達の声を遮り、エンデヴァーは力強く言い切った。

「仲間を海の底に置いたままにはしておけない。仲間を、迎えに行くぞ」

 完全水没から、およそ五分後。水に強い個性を持つヒーローたち、セルキーを筆頭に、ダイバーギアを纏った救助班が次々と海へと身を投じた。海上ではエンデヴァーが指揮を執り、波間に立つその背は炎の揺らめきさえ抑え込んだように静かで、ただ冷徹な判断だけがそこにあった。ベストジーニストは、深々度潜水のためのラインを張り巡らせ、他のヒーローたちは減圧症を防ぐための浮上サポートに徹している。
 荒れる水面を睨みつけるように息を詰めたまま誰もが動きを止めたその時——海底で、わずかに揺らめく赤い羽根を見つけたセルキーの声が無線越しに弾んだ。

『こちらセルキー!ホークスが……ホークスが、生きてる——っ!』

 ホークスは奇跡的に、機内の酸素マスクを確保しておりかろうじてわずかな呼吸を繋いでいた。やがて水面に彼を抱えたセルキーたちが浮上すると、全員の声が重なるように力強く響いた。

「——オッケー!!」

 その合図と同時に現場全体が大きく沸き立つ。ヒーロー緊急本部、屋外で待機していたヒーローたち、そして、テレビ中継を見守っていた人々のあいだに、一斉に歓声が広がった。しかし安堵に浸る暇はなくヒーローたちは慎重かつ素早く彼を引き上げる。
 水面を割るように真っ先に飛び込んできたのはエンデヴァーと、ベストジーニストだった。

「——脈はあるのかっ!?」
「……待て……、あるっ!」
「ならば急げ、担架だ!!」

 その頃、陸上で私は狂ったように人混みをかき分けて、走り回っていた。

「ホークス!……ホークスっ!」

 すれ違う救護スタッフに何度、声をかけても、彼の姿は見つからない。焦りで視界が揺れ、耳の奥で脈打つ音ばかりが、大きく響く。そのとき、担架で救急車へと運ばれていく人影が目に入り、私は一瞬で息を呑んだ。ホークスだ。酸素マスクをつけたまま、濡れた髪が頬に貼りついていて、瞼が薄く閉じられているのが見える。
 次の瞬間には体が勝手に動いていた。気づけば私は足がもつれそうになりながらも、全力で駆け出していた。

「ホークス……っ!」

 その声に反応したのか、彼はゆっくりと顔を、こちらに向ける。驚いたように目を見開いたあとふっと目尻を緩め、ほんの少し、力なく笑った。

「……名前、さん……」

 私の名前を呼ぶ声が震えていた。そのまま制止する救護員の声を振り切るように、ホークスは、上半身を起こそうとする。そばに駆け寄って私はやや声を荒げた。

「動かないでってば!」
「もう、大丈夫ですって……。ほら、元気そうに見えません?」

 掠れた声でそんな冗談を言うから逆に胸が締めつけられた。涙が零れそうになるのをごまかすように、私はきつく唇を噛んだ。

「荷物……ぜんぶ、焼けちゃいました、ね……」
「バカじゃないの……そんなの、どうでもいい」
「新型の下着……入ってたでしょ。あれ、めちゃくちゃ好みやったけん……もったいなかぁ」
「……バカ。何で勝手に平気そうな顔してんの」

 そう言うと、ホークスは少しだけ肩をすくめていつもの癖みたいに小さく笑った。けれど、その笑みにはやはり力はなく、濡れた頬を伝う水滴が汗なのか涙なのか、判別できなかった。

「平気じゃなきゃ……あなたの名前なんて、呼べませんからねぇ」

 私は担架の横にすがりつくようにして彼の手を握った。冷たい水に濡れた羽根はまだ震えていてその手も冷えているのに、確かに脈はしっかりと打っていてその体温だけは現実味を帯びてここにあった。視界が滲んで、言葉が出ない。胸の奥が痛いくらいに締めつけられる。
 隣にいたエンデヴァーが短く息をつき、何かを言おうとしたそのとき、ベストジーニストが軽く肩を叩いて、視線を別の方へと誘導した。

「エンデヴァー、すこし向こうで確認してほしいことが」

 エンデヴァーは一瞬だけ私とホークスを見やってから、何も言わずに頷くと、その場を離れた。ベストジーニストもまた私たちに視線を合わせ、わずかに微笑んで言った。

「……あとは、君に任せたよ」

 それだけを言い残し、彼も去っていく。周囲の喧騒が少し遠くなる。私はそっと、問いかけた。

「……他人に、なっちゃった……?」

 ホークスは酸素マスク越しにふっと目を伏せ、小さな声で囁いた。

「ああでも言わんと……頑固なあなたは、逃げてくれなかったでしょ」
「……傷ついた、ちょっとだけ」
「ははっ……責任、取りますよ」

 わずかな沈黙が落ちた。すると、酸素マスクをやや乱暴に外した彼がそっと呟くように言った。

「……ごめんなさい。空港であんなふうにして」
「え……?」
「福岡への転勤が、延期になったの、まだ拗ねてたんですよ……子供みたいに」
「……」
「あなたと、離れたくなかったくせに、逆のことばっか言って……」

 言葉を重ねるたびに、掠れた声が少し震える。その揺らぎに私の胸の奥で何かが静かにほどけていく。

「本当に、失うとこやった」

 その言葉に呼吸が止まったようで、何も言えなかった。彼はゆっくりと視線を上げて真っ直ぐに私を見つめる。

「……生きて、会えて……よかった。」

 ただその一言がすべてだった。どんな慰めよりどんな謝罪よりも、深く響いて、涙が溢れそうになるのを、もう止められなかった。
 その声は小さくて震えていたけれど、確かに、心の奥に届いた。涙で滲む視界の中、彼の濡れた瞳だけが、はっきり見えた。

「助けてくれてありがとう、マイヒーロー。」
「……いーえ。どーいたしまして」
「もう、離れないで……」
「頭下げられても離れませんよ……もう二度と」

 そう言って握りしめられた手は海の底をくぐり抜けてきたはずなのにちゃんと人の温度が宿っていた。それは確かに、ヒーローの温かさだった。


 *


 奇跡の生還を遂げたトップヒーローホークスは「もう大丈夫ですってば」と、言い張っていたがエンデヴァーに「少なくとも一日は入院しろ」と命令されて、しぶしぶ病院で一夜を過ごした。
 翌日、私は見舞いに訪れた足で彼と一緒に空港まで来た。
 人々が流れる音。アナウンスの合間にキャリーケースの車輪が、床を擦る軽やかな音が混じる。そのざわめきの中で私だけが時間を失ったように立ち尽くしていた。赤い羽根を背負い、ぽつんと立っている彼は、これから空へ戻る人間らしくも見えて、けれどどこか、この世界から少し離れた別の場所に存在しているようにも思えた。

「今度は、俺の乗る便が落ちたらどげんしよ」
「もう……縁起でもないこと、言わないで」
「ははっ。すんません」

 笑っているはずなのに、彼の声はどこか掠れていて、その軽口の裏に滲む不安が、かえって胸を締めつけた。
 見送るためだけに彼の前に立っているのに目の前にいるはずのトップヒーローは、指先からすり抜けていく光を見送っているかのようで、不意に現実感が揺らいだ。
 搭乗口へと続くエスカレーターの手前で、私はふと足を止めた。振り返ると彼はまるで私の姿を一枚の写真に焼きつけようとしているかのようにじっと、瞬きもせずに見つめていた。ほんの少し前までふたりで笑い合っていたはずなのに。どうして時間というものは、こんなにも残酷に、やさしい顔をして、終わりを告げるのだろう。

「ほんとにもう……行っちゃうんだね」

 なるべく笑顔をつくって言うと、彼はこくんとまるで子供のように頷いた。

「うん、行っちゃいますねぇ。でもまたすぐ会えますよ」
「……それ、あと何回、言うつもり?」

 少しだけ意地悪な響きを含ませて彼に言われた言葉を、そのままそっくり送り返す。すると彼は、ふっと目を伏せて、照れたように笑った。

「そのときはまた……ただいまって、言ってくれます?」
「……もちろん。何回でも」
「じゃあ、おかえりって言う準備、しときます」

 そう言って、彼が笑った。その一言が胸の奥でそっと灯りのように残った。その笑顔が眩しくて私は思わず顔を背けた。でも——

「名前さん」
「ん?」
「大好きですよ、とっても」

 不意打ちのような言葉に、胸の奥が一瞬で熱を帯びた。

「……うん、私も大好き」
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」

 声は低く抑えられていたけれど、隠しきれない想いがその端々から滲み出していた。その一言で胸が、ぎゅっと締めつけられる。
 気づけば私はほんの数歩彼のもとへ歩み寄っていた。距離がぐんと縮まると、彼の琥珀色の瞳に自分が映り込む。

「——ねえ。ひとつだけ、お願いしていい?」

 問いかけた瞬間、声がかすかに震えているのが自分でもはっきりとわかった。

「なんでもどうぞ、お姫さまー。」
「ほんとに? なんでもいいの?」
「あー、転職の相談とかじゃなきゃ大丈夫です」
「転職はしない。あなたと仲間でいたいからね」
「あっ、待って。浮気とかじゃなければ、全部、大丈夫です。借金?整形?実は、ヴィラン?」

 軽やかな調子で返したはずのその声音の奥に、かすかに潜む緊張を、私は見逃さなかった。彼の笑みはいつも通りの余裕を装っているのにどこか不自然で心臓の鼓動が同じ速さで響いているのが伝わってくるようだった。

「最後に……キス、して?」

 言葉にした瞬間、胸の奥から何かがふっとほどけるように溶け出した。こんな場所で。こんな、人混みの中で……。目の前にいるのは誰もが知るヒーローなのに。それでも、私の心を占めているのは——ただひとりの人への、あまりに普通で、あまりに切実な想いだけだった。
 恥ずかしさと、ためらいと、どうしようもない迷いが幾重にも絡みつき、それでも��今�≠セけはどうしても伝えたかった。彼はすぐには答えなかった。ただ静かに一歩、更に私と距離を詰めるとそっと私の頬へと手を伸ばした。指先が柔らかく触れるだけで、涙がこぼれそうになる。それは、言葉よりも深く確かに想いを告げる仕草だった。

「……もう。最後なんて、言わんでくださいよ」
「先に��最後くらい�≠チて言ってきたのホークスでしょ」
「えっ?ああ、たしかに。根に持ってますねぇ」
「うん。死んでも、根に持ってやろうかなって」

 言いながら、強がるように笑ってみせたけれど胸の奥はちくりと痛んだ。彼の瞳がわずかに揺れたのを見た瞬間、私の中で言葉にならない想いがせり上がってくる。次の瞬間、彼の額が、そっと私の額に触れた。息が止まるほど近い距離で彼が私の名を呼ぶ囁きが、小さく落ちる。耳に届いた声は、風に乗る羽根のように軽いのに、胸の奥で確かな波紋を広げた。
 そして、唇が触れた。驚くほど優しく、ほんの一瞬だけ。けれどその短い触れ合いは、深く深く私の中に沈んでいった。目を開けたとき彼はもう少しだけ近くにいた。触れたばかりの温もりが、まだ頬に残っていて、彼の息遣いがかすかに肌を撫でる。視線を逸らさないままで、彼は静かに、けれど揺るぎない声で言った。

「——待ってます。どれだけかかっても、あなたが帰ってくる場所は必ず、俺が作っておくんで」

 問いではなく、祈りのようなその一言に、私はただ、うなずくことしかできなかった。
 その言葉のあと、彼はすこし照れたように笑いながら両手を広げた。私は何も言わず、迷わず、
その胸に飛び込む。その腕のなかがあたたかくて切なくて、でもとても、安心できる空間だった。そのぬくもりに包まれたまま私はしばらく言葉を失っていた。何かを言えば、ほどけてしまいそうだったから。
 ——と、そのときだった。身体を離した彼が、そっと私の左手を取った。まるで、その温もりの続きを確かめるように、掌を優しく包まれたまま指先に彼の指が触れた。それはただ、手を繋いだだけとは違う。薬指のあたり。そこを彼の指先がやわらかく、なぞっていく。その動きは驚くほど繊細で、まるで指の細さや関節の丸みや、骨の感触まで記憶に刻もうとしているかのように静かで、丹念な動きだった。
 私はくすぐったくも、その愛しい仕草に微笑みながら彼の胸にそっと額を預けた。こうしている時間が、少しでも長く続けばいい――そう、願うばかりで。
 彼は、なにも言わなかった。けれどその沈黙のなかにこそ、確かに何かを託していた気がした。

「——じゃあ、行ってきます。名前さん」

 そのとき初めて、彼が真顔で名前を呼んだ気がした。ちゃんと、まっすぐに呼んでくれた名前。その響きが空港のざわめきのなかで、やけにくっきりと胸に残った。
 目を細めたその声が、空調よりも温かかった。そして私はまた帰る場所ができたことを胸の奥で確かに感じていた。

「うん、いってらっしゃい。……啓悟くん。」

 エスカレーターに乗った彼が、少しずつ視界の奥へと遠ざかっていく。人波に紛れてしまいそうなその背中を私はただ、呼吸することさえ忘れるように見送った。
 それでも、今この瞬間だけは——背中に向けたまなざしが、どうか彼に届きますようにと、祈るような気持ちで、ただ、願い続けていた。





泡沫にほどけし誓ひ



(——啓悟くん、だいすきだよ。)

(愛してますよ、名前さん——。)


※image song『 Believe/シェネル 』


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