その頃——私は、機内のトイレの中から必死にカートを押していた。機体がさらに傾き、足元をさらう浸水は次第に勢いを増し、煙が視界を覆い尽くす。酸素が薄く呼吸が浅い。気づけば機内にはもう他の乗客の気配はなかった。

 ——誰か。誰か、助けて……。

 そのときだった。乾いた通路の奥から、じゃぶじゃぶと水を蹴り進む足音が近づいてくる。酸素吸入器を乱暴にかき分け、何かが一直線にこちらへと迫ってきた。次の瞬間、視界を裂くように、緋色の羽根が舞い散り、強い風圧が吹き抜けた。

「——名前さんっ!」

 その声を聞いた瞬間に機内の空気が変わった。ホークス——私のマイヒーローだ。荒い息のまま彼は、周囲の荷物を豪快に弾き飛ばし、迷いなく私の腕を引き寄せる。その掌は燃えるように熱くそして、震えていた。

「寒かったでしょ?さ、急いで!行きますよ!」
「……」
「……なん?もしかして、動けないんですか?」
「……うん」
「どっか怪我しました? 待って、歩けます?」
「……無理だよ。ここからじゃ……出られない」
「えっ?……どこか、挟まれとーと?」

 耳をつんざくアラート音と、外では怒号が飛び交う混沌の中、なぜか彼の声だけがやけに鮮明に届いた。私は息を詰め諦めたように小さく頷く。すると彼は一瞬だけ私を見て短く、しかし力強く言った。

「——よしっ」

 その言葉と同時に、彼は迷いなく剛翼を大きく広げる。羽根の力と、自らの腕力の両方を総動員してカートを持ち上げようとするが、水を含んだ羽根はすでに重く、しぶきを上げるたびに、力を奪われていくようだった。何度も肩に力を込めるが、濡れた剛翼は、ほとんど機能せず、彼ひとりの力ではびくともしない。それでも、諦めるという選択肢は、彼にはなかった。食いしばった歯の間から漏れる短い息遣いと震える肩、羽根の付け根まで伝わる痛みに耐えながら、彼は、さらに力を込める。海水で冷え切った空気の中、額から伝う汗と水滴が混じり合い、視界さえ霞むのに、それでも彼の瞳は、必死に前だけを見据えていた。

「……ホークス、」
「はぁ、もっかい……! う、ぐぅぅぅぅっ!」
「ホークス、もう……」
「大丈夫! 絶対に助けますからねっ!」
「……っ、」
「死に別れなんて、冗談やなか——っ!」

 渾身の力でカートを押し上げるホークスの姿を私は、ぼうっと見つめることしかできなかった。やがて金属がメリメリと裂けるような音が響く。押しても動かないと判断した彼は、すぐに周囲を見渡して、壁際に立てかけてあったパイプを見つけると、それをカートの脇へ挟み込んだ。

「あの、ホークス、わたし……」
「いいけん! 今は——生きてここから出ることだけを考えてくださいっ」
「……っ」

 テコの原理を使ってカートを引き続ける彼が、力の限り、声をあげた。

「うあああああ……っ!」

 酸素不足で頭がぼんやりしていたはずなのに、その声だけが胸を打つ。次の瞬間、鋭い金属音とともにカートと扉の隙間が少しずつ広がり冷たい海風が一気に流れ込んだ。

「——出てっ! 早く、出てくださいっ!」

 肩に走る鋭い痛みに堪えながら、私は必死に、カートの隙間から這い出した。その間もホークスは、崩れかけた通路の中、片腕でカートを必死に押さえ続けている。ようやく脱出できた瞬間彼は迷わず私の手を取った。自然と恋人繋ぎのように絡んだ指先はヒーローと救助される者という関係を、どこか遠いものに感じさせた。彼に手を引かれながら出口へ向かう、そのときだった。機体が急激に大きく傾いた。天井からきしむような不吉な音が響く。ホークスが瞬時に頭上を仰ぎ見た、次の瞬間、視界の端で巨大な天井パネルが剥がれ落ちるのが、まるで、スローモーションのように見えた。

「危ないっ!」

 彼の叫び声と同時に、私の身体が前へ弾き出された。彼が咄嗟に私を庇いためらいもなく背中を強く突き飛ばしたのだ。次の瞬間、頭上で、鈍い破砕音が響き、崩落したパネルがホークスを直撃する。おそらく最後の力を振り絞って瞬時に強化したであろう背中の剛翼で衝撃を受け止めたものの羽に走った異様な負荷は抑えきれず、重く鋭い音とともに肩口がパネルに押しつけられ、バランスを奪われた彼の身体が大きく揺らいで崩れた。

「っ……くそ……っ!」

 巨大なパネルの一部がホークスの肩をがっちり押さえ込み、その場から動けそうにない。私は、必死にそのパネルを持ち上げようと力を込めるが鉄板はびくともしなかった。

「なんしよーと!?行ってください!早くっ!」
「いやっ、置いてくわけ……ないでしょっ!」

 私の声は震えていた。だけど冷たい海水はもう膝上まで迫り肌を刺すような冷たさが現実を突きつけてくる。叫ぶように「誰か!誰か来て!」と声を張り上げても、どこからも返事はない。

「逃げて! あなたは、逃げてくださいっ!」
「いや!」
「沈みますよっ!? せっかく出られたのに!」
「だめっ! 一緒にここを出るっ!」
「あなたが……あなたが助かってくれないと意味ないんですよっ!」
「んんんっ! 絶対、助ける……っ!」

 私は歯を食いしばりパネルを押し上げ続ける。そのとき不意に、彼の唇が、震えるのを見た。

「……会えて、よかったです」

 かすかに零れた言葉は、機内の騒音のなかで、私だけに届く、秘密のように響いた。涙が一気に視界を曇らせる。

「っ、やだ……そんなこと、言わないで……!」

 必死に鉄板を持ち上げる手に力を込めた、その瞬間、彼の剛翼の羽根が一枚だけ、火花を散らすようにぱっと弾け、私の腕にかすかに触れた。

「……名前さん」

 その声はあまりに弱く最初は、幻聴か何かかと思った。私は、彼をまっすぐに見据える。

「……えっ?」
「俺のこと……大嫌いなんですよね」

 一瞬、時間が止まったように感じた。喉の奥で言葉が詰まり、呼吸さえ忘れてしまう。

「……は? なに言ってんの、今は……」
「だったらもう、俺とあなたは……他人です」
「……」
「ヒーローでもない他人のあなたに、助けられる義理なんて、なかし……」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。あの空港での言い合い。「大嫌い」なんて、ほんとは嘘だったのに。そんなの、あなたが一番知ってるくせに。

「違う……そんなこと、思ってないっ!」

 振り絞るような声で叫んだ私を、ホークスは、ちらりと見上げる。琥珀色の瞳に宿る強い光が、一瞬だけ揺れた。

「ヒーローが、行けって言ってるんです……!」

 そう言うと同時に、彼は残った力を振り絞り、私の腕に触れていた剛翼で私の身体を出口側へと突き飛ばした。バシャン!と私は、尻餅をつく。そして彼は残っていた剛翼を一気に羽ばたかせ、崩れかけた通路を塞ぐ荷物を豪快に弾き飛ばす。

「ここから出ろっ!今すぐ!これは命令ばい!」

 怒鳴るような声。その刹那、機体全体が大きく揺れ、耳の奥を重低音が打ち抜いた。波のように押し寄せる濁流が膝を超え足元をさらっていく。
 そのとき、濁流をかき分けるように、背後から別の影が現れた。緊急用ライトに反射する銀糸のような髪——ベストジーニストだった。

「ホークス!」

 私が振り返るより早く、彼は状況を一瞥し低く息を吐いた。

「ベストジーニスト! 早く来てっ! 彼を……私の大切な人を——助けてくださいっ!」
「ホークス……もしかして、出られないのか」

 ホークスは短く頷き、ベストジーニストをまっすぐ見据える。

「ジーニストさん……彼女を、お願いします」
「はっ? なっ、なに言ってんのっ!?」

 濁った水の中で私は必死にベストジーニストに掴まれた腕を振り払おうとした。けれど膝上まで達した水が、足を取って、うまく動けない。息が詰まり、鼓動ばかりがやけに早くなる。

「いや、離してっ!行かない!ホークスを置いてなんて、行けるわけない!」
「バカ言わんでください!」

 ホークスの怒鳴り声は、揺れる機体の軋みをも突き抜けるように響き、胸の奥まで震わせた。
 けれど、その強さの裏側にある焦燥は隠しきれない。剛翼はずぶ濡れで重く、息も荒く、額には冷たい水滴と汗が混ざって伝い落ちている。それでも彼は必死に笑おうとしているように見えた。

「なんであなたは、そうやっていっつも……頑固なんです?ほんと、手ェ焼きっぱなしすよ、俺」
「……え?」
「最後くらい……ヒーローの言うこと聞いてくださいよ。もう、これ以上……困らせんでほしか」

 言葉は叱るように響いているのに、彼の声は、わずかに震えていた。水音と機体の軋みが混ざる中でその震えだけが不自然に鮮明で胸が締めつけられる。強がる笑顔の奥で彼が必死に飲み込んでいる恐怖と不安が、痛いほど伝わってきた。

「ホー、クス……」
「あなたには、世界一幸せになってほしいって、俺、前に言いましたよね」
「そ、それは……」
「だから……あなたは、生きて——。」

 言葉の途中で、ホークスは荒い息を吐き、それでも、笑ってみせた。血に濡れた頬を隠すように俯きながら、ぐっと奥歯を噛みしめる。

「ジーニストさん」

 鋭いその声に、ベストジーニストが一瞬だけ、唇を固く結んだまま、ホークスと、視線を交わす。そしてベストジーニストは、低く短く告げた。

「任されたよ」
「……ありがとうございます」
「必ず——必ず、迎えに来る」
「……、はい……。」

 ホークスは小さく頷き、目を閉じて、深く息を吐いた。次の瞬間、ベストジーニストの長いファイバーマスターが宙を走り、私の腰をしっかりと絡め取る。

「やだっ! いやだ! 離してっ!」
「聞け!」

 ベストジーニストの声が、鋭く響いた。私は、思わず息を詰める。

「君がここで死んだら、ホークスは死んでも一生立ち直れない!」

 その言葉に動きが一瞬だけ止まった。けれど、次の瞬間彼のファイバーがぐっと強く引かれ私はベストジーニストの腕のなかに抱え上げられた。濁流がすでに腰まで迫り、機体の軋む音が、耳を刺す。私はそれでも必死に腕を伸ばして、そのヒーローの名を叫んだ。

「ホークス——っ!!」

 けれど、ホークスは何も返さなかった。ただ、濡れた頬を隠すように顔を伏せたまま、崩落する天井パネルを最後の力で支え続けていた。


 *


 あー、やば……。クソほど冷たかぁ……。


 瞬間、肺の奥まで一気に水が押し寄せ、体温が削ぎ落とされていくようだった。耳鳴りが鼓膜を裏側から叩きつけている。かすかな灯りもすでに遥か頭上に遠ざかり、視界はゆっくりと、しかし確実に、闇へと塗りつぶされていく。
 必死に体を捻るが肩を押さえ込む天井パネルはびくともしなかった。指先にもう力が入らない。背中に重くのしかかる鉄の塊で身体の自由を奪われている。羽根を——彼女を庇うために使い果たした剛翼は今や一枚たりとも残っていない。でも後悔はしていない。これでよかった。大切な人を救えたのならば本望。ヒーロー冥利に尽きる、といったところだ。水音しか聞こえない。それでも彼女の声だけは、頭の奥で鮮やかに響いている。


 『——ホークスなんて、大嫌い。』


 ああ……あれは正直、効いたなあと思う。ショックすぎて、言葉も出なかった。『大嫌い』って言ったくせに俺を『大切な人』だなんて言うんだあの人は。ほんと、敵わない。
 苦笑いに似た吐息が、喉の奥で震えた。違う、分かっている。分かっていた。本当はそんなはずないってこと。空港でぶつけ合った言葉よりも、ずっとずっと深いところで、俺は、知っていた。彼女があのとき見せた震える声も泣きそうな瞳も全部、鮮明に焼き付いている。忘れられるわけがない。それでも。どうしても、もう一度、聞きたかった。俺に向けて、「違う」って言葉を、はっきりと彼女の口から。それが聞けただけで、もう充分だった。胸の奥に残っていた澱みが、ほんの少しだけ溶けていくのを、たしかに感じたから。

 ああ、酸素が足りない。ボンベ、忘れたなぁ。喉が焼けるように痛くて胸が苦しい。ザコ羽根でどうにかしようにも、水圧で重くて動かない。
 思考がぼやけていくなかで、自嘲気味な笑みが口元に浮かんだ。頭のどこかで「終わる」という言葉がよぎるたびにただひとつだけ思考が戻ってくる——「死にたくない」と。ふいに、肺の奥が強く収縮して、息が、息が……と喉が悲鳴を上げる。人間はなんて無力なんだろう。苦しい——。だがそれ以上に胸が焼けるように痛かった。まだ触れていたかった。名前を、呼びたかった。もう一度、目を見て伝えたかった。俺は、あなたじゃなきゃダメだ、って。
 でも、声はもう、出ない。喉から零れるのは、細かい泡ばかりだ。あの時、あんな形で終わらせるんじゃなかった。背を向けた彼女の目にあんなに寂しさが浮かんでいたことに気づいていながら見て見ぬふりをしたのは、他ならぬ自分だ。


(——ごめんなさい……名前さん。)


 喉奥でこぼれた声は水に溶けて消えていった。水面が遠い。光も届かない。冷たさが、指先から少しずつ感覚を奪っていく。耳鳴りがして心臓の音が、やけに大きい。
 金色の光を孕んだまなざしを彼女はよく、空を見上げるようにして、向けてくれていた。夜空の街灯の下、肩越しに振り向いて笑うたびに、息が止まりそうなくらい綺麗だと思っていた。俺は、あなたの目に映る、空気になりたかった。でも、一度も、言葉にして渡せなかった。

 好きだった。間違いなく、大好きだった。泡のように立ち上るその一言が息の最後の粒となって胸から喉から口から離れていく。肺は悲鳴を上げ続け、水が逆流するようにして身体中を満たしていく。
 まだ、約束もしてないのに。一緒に、見るはずだった未来も、まだ話してないのに。
 けれど、不思議と、怖くはなかった。あの人が生きてるならそれだけで、もう十分だったから。ほんとうに、そう思った。ほんとうに思ったはず、なのに。もう一度だけでいい……会いたい。触れたい。一緒に、笑いあって…………

 視界が遠のいていく。まぶたの裏に彼女の顔が浮かぶ。泣きそうな声も指のぬくもりも、残響のように心の奥で揺れていた。届かないとわかっていても願ってしまう。それが恋というものなら、最後の最後まで俺は、恋をしていたのだと思う。
 水中に溶けていく意識の中、ただ一つ、彼女の名前だけがはっきりと胸の中に残っていた。視界の端に、白いものが揺れた気がした。彼女の髪に似た柔らかな光。それに手を伸ばそうとするのに身体は動かない。意識が深い海の底に沈むようにゆっくりと落ちていく。

 最後に頭に浮かんだのは、空でもヒーローでもない——彼女の笑顔だった。
 幸せになってほしい。世界で一番あなたには。


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