昼下がり。来客欄に私の名前を呼び出す通知が出た時、誰だろうと首を傾げた。受付に出向くとそこには淡い色のワンピースに、やや憔悴の影を残した、一人の若い女性の姿があった。

「すみません、少し遅れてしまって。私を呼んでくださった方で、お間違いないですか?」
「あ、はい……こんにちは……」
「ええ。こんにちは……」
「あの……どうしても、お礼が言いたくて……」
「お礼……ですか?」
「はい。先日は、ありがとうございました……」

 深々と頭を下げられて、私は思わず姿勢を正し慌てて手を振った。「先日」と言われて胸の内にわずかな波紋が広がる。——私、何かしたっけ?

「あの、私……電話で、助けていただいた……」
「……?」
「えっと、あの……ビルの、屋上から……」
「……ああ!いえいえ、無事でいてくれたことが一番ですから」

 そうして少しの間だけセンターを出て、言葉を交わした。センター前の街路樹の陰。彼女は伏し目がちに、そして、途切れ途切れに自分があの日どんな気持ちでビルの屋上に立ったのか、どれだけ苦しかったかを語り、最後には「助けてもらえてよかった」と小さく微笑んだ。その笑顔に安堵しながらも、胸の奥には妙なざわめきがあった。

「それに、助けてくれたのが、ホークスで——」
「……」
「私、それが一番、嬉しかったんです」
「相変わらず人気者ですね、彼は」
「ええ。彼は——福岡の象徴ですから」

 その言葉を口にしたとき彼女の表情がふわりと明るくなった。誇らしげに、顎を少しだけ上げる仕草や、目尻に浮かんだやわらかな笑みからは、彼の存在を語ること自体が喜びであると伝わってくる。

「あれから、ちょくちょく様子なんかも見に来てくれているんですよ」
「……え?」
「ほんと……お世話になりっぱなし」

 彼女のその声にはまだ熱が残っていた。まるで一人のヒーローとしてではなく、一人の人間を、好いていると言っているように聞こえてしまう。胸がちくりと痛む。私はただ相槌を打ちながら、平静を装うしかなかった。
 そして、帰り際。踵を返しかけた彼女が思い出話でもするみたいに、軽い調子で言った。

「……あ、そうそう。実は、わたし……」
「……」
「ホークスとは、ちょっと前に、付き合ってた仲なんですよ。恋人でした」
「……、」
「やだ、内緒ですよ?なんだろう、わたし自然と言っちゃった」

 言葉が、心臓に落ちた石のように重く響いた。私は、曖昧に笑みを浮かべて「そうなんですか。内緒にします」とだけ返した。

「周りからは遊ばれてるだの、私が勘違いしてるだの、散々揶揄われて……」
「……」
「それでも私は、信じてました。だって、彼は、優しい」
「……」
「たとえ私の勘違いでも、それでよかった。私はそれを糧に、これからも生きていけるから」
「……。」

 今、彼女にとって彼が『過去』か、『今』かを確かめる勇気は出なかった。私は、知っている。ホークスが今は私を選んでいることも。けれど、それでも過去に触れた途端に揺らいでしまう自分の心を、抑えられなかった。時間が止まったようだった。それでも私は笑顔を崩さないようにし、曖昧に笑顔を返した。それ以上は、聞けなかったから。聞いてしまえば、何かが壊れてしまう気がしたから。彼女のヒールの音が遠ざかっていく。残された私は胸の奥でどうしようもないモヤモヤを抱えたまま、ただ、その背中を見送るしかなかった。
 彼女の背中が人混みに溶けていくのを見送ったあと、胸の奥に残ったのは説明のつかない重苦しさ。彼があの女性を『ヒーローとして助けた』ということは分かっている。それでも、過去という言葉が突き刺さり、モヤモヤが消えないまま残り続けた。

 その日。仕事から帰宅し、夕食の支度を整えても、味見をしても、どうしても舌の上に違和感が残った。昼間センター前で話した彼女の姿と幸せそうに「付き合ってた仲」と言った一言が、頭の奥で何度も繰り返される。言うべきか。いや……黙っていた方がいいのか。自分でも答えの出ないまま、玄関の扉が開く音がした。やや疲労の色を滲ませた彼がニカっと笑って「ただいま」と言う。その笑みが眩しくて余計に胸が苦しくなる。

「おかえり。……疲れたでしょ」
「まあ、ちょっと。でも、名前さんの顔見たら、元気出ましたよ」

 言いながら、彼は当然のようにソファに座っていた私の隣に腰を下ろし、肩を寄せてきた。私は少しだけ強張ったまま、手元のマグカップを握りしめる。
 ——今、言おうか。今なら、まだ。喉の奥まで出かかった言葉は彼の腕が私を抱き寄せると同時に消えてしまった。

「なんか顔、暗いっすよ? 大丈夫です?」

 心配そうにのぞき込む目があまりにも真っ直ぐで。私は慌てて笑みを作り「ちょっと眠いだけ」と、言ってみせる。

「そっか。じゃあ今日はご飯食べたら、もうゆっくりしましょ」

 彼はそれ以上追及せず温かな羽根で私を包んでくれる。その優しさに胸が熱くなるのに、昼間の出来事を打ち明ける勇気は出なかった。
 言えない。聞けない。ただ、その罪悪感とモヤモヤを抱えたまま、私は彼の胸に顔を埋めるしかなかった。

 夕食を済ませ、互いに風呂から上がりベッドの中、私は、彼に背を向けるようにして横になっていた。隣にいる彼の体温が、じわじわと広がってくる。寝入りばなに、背中へ伸びてくる腕、腰に回される指先。甘えるようにすり寄ってきた彼の羽根が、やわらかく覆いかぶさってくる。

「……ねぇ、名前さん?」

 低く落とされた声。唇が、うなじをかすめて、さらに深く求める気配が伝わってくる。それだけで彼のいつもやる誘い文句だとすぐにわかった。けれど、私は肩をすくめて小さく笑った。

「……ごめん。」

 一瞬、彼の指が止まった。わずかに空気が張りつめ密着していた腕と体温がふっと離れていく。その気配の先で、彼が天井を仰いでいるのが伝わってきた。

「イエス・ノー枕、買っていいです?」
「……ふふ、いらないでしょ」
「いると思います」

 声色はいつも通り軽やかで、冗談めかしているはずなのに、その裏にある小さな寂しさが、耳に残る。私は胸の奥で痛みを覚えながらも、かろうじて笑みを保った。

「ごめんね……今日は、ちょっと……疲れてて」
「……そっか」

 彼の声が短く落ちた。羽根のざわめきも部屋の時計の音も不自然なほど大きく響いて聞こえた。そして、それ以上寄り添ってこなかった彼の背中からやはりほんの少しの寂しさが伝わってくる。私は目を閉じたまま胸の奥で小さく痛む気持ちを抱え込む。昼間のことを引きずっているせいだ。わかっている。でも、言えないまま、やんわりと断った自分の態度がさらに彼を遠ざけてしまった気がした。

「名前さん」
「……ん?」
「おやすみなさい」
「……ん、おやすみ。」

 その夜は互いに眠ったふりをしながらそのまま気まずい沈黙だけが長く続いた。


 *


 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋を白く染めていた。隣にいるはずの彼はもう起きていて、キッチンからはパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。私はゆっくりと身を起こした。眠ったはずなのに胸の奥の重たさは拭えない。昨夜、やんわりと拒んでしまったあの瞬間がまだ空気に残っている気がした。
 ダイニングに足を運ぶと、彼は、いつも通りの笑顔でこちらを見た。

「おはようございます。コーヒー入れましたよ」
「……うん。ありがとう」

 言葉は交わしているのに、どこかぎこちない。彼はマグカップを差し出しながら、わざと明るい声で話題を探しているようだった。

「あっ、今日、早めに任務終わるかもです」
「……え? ああ、そうなんだぁ」
「一緒に、買い物でもどうです?」
「……そうだね」

 笑って答えようとしたけれど声の調子が上がらなかった。彼の琥珀色の瞳が、一瞬だけ揺れて、それを誤魔化すように、パンを皿に移す。何気ない朝のはずなのに言えなかった言葉と昨夜の沈黙がテーブルの上にまだ影を落としていた。

「そういえばキッチンで何か欲しいものあるって言ってませんでしたっけ?」
「……え? あ、うん」
「新しい洋服も見に行きましょ?俺、プレゼントしますよ!てか、プレゼントさせてください」
「……」
「そうだ、お揃いの部屋着も欲しくないです?」

 あの日、彼女が言っていた言葉が、頭から離れなかった。彼は、『ヒーローとして』動いていただけ。理屈ではわかっている。けれど彼女のあの言葉は、棘のように胸に引っかかり続けていた。

 お昼過ぎ、任務がひと段落したらしいホークスから『お疲れさまです。6時に駅前で待ち合わせで!』と、軽い調子の文章とスタンプが届いた。私はスマホ画面を見つめたまま既読だけをつけて返事を打てなかった。返すべき言葉が見つからなかったのだ。
 夜の8時過ぎ。私はあのまま適当にセンターの屋上で時間を潰し帰宅すると、マンションの扉を開けた瞬間、赤い羽根が視界に入った。リビングのソファに腰を掛けていたホークスが振り返る。琥珀色の瞳はいつもの笑みを含まず、ほんの少し、怒りを帯びていた。

「……おかえりなさい」
「…………ただいま。」

 靴を脱ぎながら答えたけれど空気は重かった。彼は立ち上がり、テーブルに置いてあった自身のスマホを指先で軽く叩く。

「既読だけつけて返事なし。電話も出ない。どういうつもりですか」

 声は低い。ふだんの軽口の影もなく、胸の奥に溜め込んだ苛立ちがにじんでいた。私は、うまく言葉を出せないまま、肩からバッグを下ろした。彼の視線が痛いほど突き刺さり、胸のなかのモヤモヤは、ますます膨らんでいく。

「心配するでしょ。センターに問い合わせても、もう退勤したとか言われるし」
「……」
「行きたくないならそう言えばいい。わざわざ、既読スルーなんて、感じが悪い」
「……」
「やっぱなんかここ数日、ずっと変ですよね?」

 彼の問いかけに口を開こうとしては閉じ、また唇を噛む。——言うべきか。でも、言えない。
ずっと胸に絡みついている「付き合ってた仲」と「あれからちょくちょく、様子なんかも見に来てくれている」という彼女の言葉。それを吐き出した瞬間、二人の間に、取り返しのつかない隙間が生まれてしまう気がして怖かった。黙り込む私にホークスの眉が、ぐっと寄る。

「なんで……黙るんですか。俺になに隠してるんです?」

 低く押さえられた声に、胸が締めつけられる。違う。隠したいわけじゃない。それに隠しごとをしているのは私じゃなくて——でも、言えない。言ってしまえば、壊れるかもしれないから。
 そうして言葉を探すうちに、視界がじんわりと滲んでいた。気づけば頬を伝って落ちていたのは涙だった。自分でも驚いて慌てて拭おうとする。けれど彼が一歩で距離を詰め、愕然としたように目を見開いた。

「え」
「……っ、」
「ちょ、ちょっと待って……なんで、泣いてるんですかっ!?」

 さっきまでの苛立ちは一瞬で消え動揺と焦りが彼の声を震わせる。羽根までわたわたと動いて、私の顔に伸ばした手は、どう触れていいのか迷うように、宙を彷徨った。

「ご、ごめんなさい! 俺、怒りすぎた……?」
「……、」
「あっ、ちょっと……声が、低すぎましたっ?」
「……っ、」
「えっ、なん? えぇ……どげんしたとぉ?」

 必死なその声音に、胸がまた揺れる。でもやっぱりその理由(わけ)は言えないままで、私はただ、涙を拭きながら首を横に振るしかなかった。それでも指先をぎゅっと握りしめ、気づけば勝手に、声が出ていた。

「……ホークスこそ、隠してることあるでしょ」
「へっ……?」

 彼は本気で驚いた顔をした。眉をひそめ、首を傾げて、まるで心当たりが一切ないという仕草。

「な、なんすかそれ……?俺が、隠してること?いや……、えっ、なん?」

 必死に探すように、言葉を並べるけれど、その反応が逆に胸をえぐる。ほんとに、わかってないのだ。瞬間、張り詰めた糸が、ぷつりと切れる。

「……もういい」

 私はそう吐き捨てて彼に背を向けた。背後から彼の視線が追ってきたけれど振り返らなかった。

「ちょ、待って! どこ行くんですかっ!?」

 声を背に受けながら私は玄関の方にすたすたと向かい、ドアをやや乱暴に開けた。冷たい空気が吹き込む。羽根がばさりと動く気配を感じたが、それでも振り向けなかった。とにかく、この部屋から出なければ、涙は止まらない。私はそのままマンションを飛び出した。夜の冷気が、肌を刺す。マンションの前の通りに足を踏み出した瞬間——背後から、羽音と共に声が追ってきた。

「名前さんっ! 待ってくださいって!」

 腕をぐいと掴まれる。振り払おうとしたが彼の力は強く、そこから必死さが伝わってくる。

「……離して」
「離せません。こんな時間に飛び出して……危なすぎますって。もっと、危機感持って」
「……」
「福岡の夜、舐めんでくださいよ——」

 視線が交錯する。彼は困惑と焦燥で眉を寄せていた。そして、溜め息とともに言葉を吐き出す。

「すんません、俺、なんであなたが怒ってるのかマジでわからない」
「……」
「でも……どうしても、一緒にいたくないなら、出て行きたいなら、俺が出ていくんで」
「……」
「だから、お願いだから、中に戻ってください」

 その声が少し震えていた。責めるでも怒るでもない。ただ、彼なりに必死に守ろうとする響き。胸が痛んだ。言葉にはならない思いを抱えたまま私は観念するように、小さく息を吐いた。

「……わかった。とりあえず戻る。」

 腕を掴む彼の手が、ゆっくりと緩む。お互いにまだ何ひとつ解決できていないのに二人は黙ったまま並んでマンションの階段を上がっていった。すれ違ったままでも同じ場所に帰るしかなかった。玄関の鍵の閉まる音が、やけに重く響いた。
 ふたり並んでリビングに戻ったものの、空気は張り詰めたまま。ソファに腰を下ろした彼もテーブル越しに立ったままの私も互いに口を開けない。時計の針の音だけが、やけに大きく刻まれていく。

「……」
「……」

 もうこのまま黙っていても仕方ない。私は胸の奥にずっと引っかかっていた言葉を、思い切って吐き出した。

「……センターに、あなたがこのあいだ救助した女性が来たの」
「このあいだ、救助した……?」
「私が電話を取った。あのビルの屋上にいた人」

 ホークスの瞳が大きく揺れた。しかし次に彼が見せたのは驚きや焦りよりも気まずそうに視線を逸らす仕草だった。その瞬間、堰を切ったように胸の奥の怒りがあふれ出る。

「どうして……言ってくれなかったの?」
「……なんを?」
「付き合ってたんでしょう?今もちょくちょく、様子見に行ってるんでしょ……?」

 喉が乾いて、言葉が刺のように突き出ていく。自分でも、もう抑えが効かないとわかっていた。止まらない。また、同じことを繰り返す。

「ヒーロー活動の仮面かぶって私には隠し通す」
「……」
「ずるい。こっちには、あなたの過去がたくさん眠っていることは知ってた。でも、聞いてない」
「……」
「わざわざ、相手側から申し出てくるなんて……そんな想いさせられるなんて、聞いてない」

 まるで子供みたいな言い分だとわかっていても声は震えて、涙が混じっていく。けれど彼は黙り込んだまま俯いて答えてはくれない。胸の奥からじわじわ怒りが煮え立つように込み上げてくる。

「自分は独占欲強いだとか嫉妬深いとか言って、向こうでの私の交友関係に散々口出しておいて」
「……」
「福岡来た途端に、こんなことばっか起こるの?なら、ちゃんと言ってよ」
「……」
「言ってくれたらこっちだって構えられるのに」
「……」
「なんで……ずっと、黙ったままなの?」
「……」
「……。——もう、いい。」

 私は寝室へと足を運び扉を閉めた。鍵はかけなかったが、扉を閉めたその音は、境界線のように重く響いた。ベッドに沈み込み、布団を頭までかぶる。リビングからは羽根の擦れる音がかすかに聞こえて、やがて、ソファに沈む気配が伝わってきた。
 同じ家にいるのに、こんなにも遠い。胸が張り裂けそうに寂しくて、それでも涙は出なかった。ただ虚ろな心の中で、言葉にならない独白だけが繰り返される。好きなのに。どうしてこんなに、すれ違ってしまうんだろう。


 *


 朝の光はいつもと同じように、カーテン越しに差し込んでいた。でも部屋の空気は、ひどく重たかった。
 寝室のドアを開けてリビングに出るとソファに横たわったままのホークスが、ぼんやりと天井を見つめていた。彼の前のローテーブルには冷めたままのコーヒー。羽根は力なく垂れていて、いつもの軽やかさは微塵もなかった。私に気づくと、彼はゆっくりと身体を起こした。

「……おはよう、ございます」

 その声は小さく探るような調子だった。けれど私は応えられなかった。喉まで出かかった「おはよう」を、どうしても声にできなかった。
 気まずい沈黙が落ちる。食器棚の扉を開ける音さえ、やけに大きく響いた。そのとき、シンクの上に置いたスマホが震えた。ふと、画面に視線を向ければ、そこに表示されていたのは、彼からのメッセージだった。


ホークス

俺と口は聞きたくない感じで?







 私はそれを読んで画面を伏せた。しかしすぐに思い立って『イエス』のスタンプを送る。今度は向こうで彼のスマホが震えた。ちらりと目をやった彼はその表示を見て小さく肩を落とし深い溜め息を吐いた。おなじ部屋にいるのに、どこまでも遠い。心の中で、何度も繰り返す。こんなはずじゃなかったのに——と。
 時間は刻一刻と過ぎていく。出勤の準備を整えバッグを肩にかけるころ、視線の端で、ソファに沈んでいる彼の背中が映った。無言のままで靴を履こうと玄関へ向かう。ここで振り返ればまた、泣いてしまいそうだったから。けれど——。

「……待ってください」

 背後から伸びてきた声と腕。振り返る間もなく手首をそっと掴まれていた。強くはない。けれど逃げようと思えば簡単に振り払えるくらいの力。

「黙ったまま、出て行くんですか」

 低く落ち着いた声なのに、どこか震えていた。喉の奥が、きゅっと詰まる。言葉を繋ごうとした瞬間、彼が一歩、踏み出して距離を詰めてきた。見上げると、琥珀の瞳が真っ直ぐに私を捕らえている。

「少しだけでいい。ちゃんと、話がしたい」
「……」
「ちゃんと、説明させてください」
「……」
「逃げるくらいなら……俺が、引き止めます」

 その声音に心臓が大きく跳ねた。掴まれた手首から伝わる体温が、妙に高い。このまま、仕事へなんて行けない。私は深く息を吸った。掴まれた手首が熱い。視線を逸らすこともできず胸の奥でごちゃごちゃに絡まった思いが、せり上がってくる。もう、逃げるわけにはいかない。

「……べつに、わざわざ隠さなくていいのに」

 自分の声がひどく震えているのがわかる。彼は瞬きをひとつして、じっと耳を傾けた。

「実はあの人、昔付き合ってた人なんだって言われても、私は誰かさんと違って拗ねたりしない」
「……」
「過去の交友関係を全て知りたいだなんて思ってない。むしろ知らなくていいことのほうが多いと思う、お互いに」
「……」
「ただ——相手の人から、聞きたくなかった」

 空気が固まった。彼の瞳に一瞬だけ強い動揺の影が走った。

「お礼を言いたいって。救ってくれたからって」
「……」
「私、なにも言えなかった。今付き合ってるって言えなくて……言うべきじゃない、って。」
「……」
「でも、彼女があれから様子を見に来てくれてるって言ったのが、ずっと頭から離れない」
「……」
「それはヒーローとしてなのか、それとも——」

 言葉を重ねるほど、胸が締め付けられる。彼は口を開きかけて、何も言わずにその唇を閉じた。

「ねえ……どうして、黙ってたの。今も、会いに行ってること」

 静かな問いかけが、部屋に落ちた。答えを待つ間の数秒が永遠みたいに長かった。彼はすぐには答えなかった。喉が詰まったように、何度か口を開いては閉じ、視線を床へと落とす。そして、ようやく口を開いた。

「……それは、」

 低く漏れた声は、いつもの軽さを欠いていた。
彼の眉間に深い皺が刻まれ、唇が震えているのが見える。

「説明すれば、余計に傷つけるかもしれないって思ったんです」

 言葉を選ぶようにして、目を少し泳がせながら途切れ途切れに彼は続ける。

「ヒーロー活動の一環で……見に行っただけで」
「……」
「それ以上でも、それ以下でもない。ほんとに、深い意味はなかった……」

 彼の声はますますか細くなっていった。逃げるように伏せられた瞳が、痛いほど正直に見えた。私は心の奥で、波立つものを感じながらも、ただ黙って、彼を見つめるしかできなかった。

「でも、それをあなたにどう言えばいいのか……俺にも……わからなくて」

 彼の声が、途切れる。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていた何かがぷつりと切れた。

「わからなくて……?」
「……」
「……ねえ、ホークス」
「……はい」
「あなた、どういう理由で、こっちに来てほしいなんて言ったの?」

 声が震える。悲しみを抑えきれないまま怒りがにじみ出てしまう。

「そういう、ちゃんと切れてないかもしれない、わからない(・・・・・)縁の人がたくさんいる地に、どういうつもりで私を呼んだの?」
「や、切れてないって……そういうわけじゃ」
「……ん? そういうわけじゃ? なに?」

 私は乾いた笑みを零した。喉の奥で掠れるような音がして、自分の声じゃないみたいに思えた。

「私はただ、あなたの口から聞きたかっただけ。隠されてるって思うことの方がどれだけ苦しいかわかってる?」
「……」
「私たち一緒に暮らしてるんだよ。隣で眠って、同じテーブルでご飯を食べて未来の話だってする」
「……」
「なのに都合の悪い事は黙って背中を向けるの?逃げるの? 黙ったまま、出ていくのかって?」
「……」
「それは——こっちのセリフだよ」

 気づけば涙が視界を滲ませていた。口にすればするほど自分でも惨めになるのに止められない。喉を通って零れてくるのは怒りでも責め立てでもなく、どうしようもなく拙い愛情のかたち。

「……私、あなたの信じていい相手には、なれてないんだね」

 その言葉に彼がはっと顔を上げた。琥珀の瞳が大きく見開かれ、瞬間的に強い光を宿す。

「違う!そんなことなか!俺にとって、いちばん信じられるのは、あなただけで……っ」

 食い気味に声を張り上げる彼の必死さに、胸がまた揺さぶられる。けれどその必死さを受け止めてしまえばきっと自分が崩れてしまう。また涙で溺れてしまう。だから——

「……ごめん、仕事に遅れるから」

 わざと、冷たく言い放った。バッグを握る手に力を込めて彼に背を向け、ドアに手をかける。

「名前さん」

 玄関のドアが開く。私は彼に背を向けたままで立ち止まった。

「ここに——帰ってきてくれます?」
「……もちろん。」

 そう言ったあと、衝動に突き動かされるまま、私は勢いよく振り返った。

「だって私にはもう、どこにも帰る場所がないんだから」
「……」
「ホークス。あなたがそう、仕向けたの」

 語気を強めたその一言は、刃のように鋭く彼の胸を刺した。彼は片目を細めて、悔しげに奥歯を噛みしめ、口の中で舌を打ち鳴らしたように顔を顰めて見せた。私は、そんな彼から視線を逸らすように背を向けて玄関のドアに再度手をかける。
 「いや、待って!」と、背後で必死に縋る声とバサバサと揺れる羽根の音が響いた。けれど私は振り返らなかった。そうして逃げるように、外の朝の光へと飛び出したのだった。


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