「好きなヤツ、いっけどな。」

バスケットボールを人差し指でくるくる回しながら、寿くんはそう言った。中学を卒業したばかりの彼は、中学校、最後の試合で影響を受けた監督のいるらしい湘北高校への進学が決まっていた。

小学生のときから天才と呼ばれ、中学では中学MVPをモノにし、その名声は、日を追うごとに大きく熱狂的になっていった。それでも本人は、子供のころから矯正されず我が道を行くタイプで周囲の期待に軽々と応え、涼しい顔をしているのだ。きっとこれからもそうなのだろうと思った。そんな寿くんに好きな子がいる、と言われたのは彼が、中学校の全課程を修了してすぐのこと。

「武石中の子?同級生? 寿くん、もうすぐ高校なのに……離れ離れになっちゃうじゃん」
「いや? つか、年上だしな。」
「え、年上? どこで知り合ったの?」
「……さあ、覚えてねーなぁ」
「なにそれ? あ、わかった、芸能人でしょ?」
「さあー? どうだろうな。」

ボールを回転させたまま、反対の人差し指に受け取って、そのまま、くるくる回しつづけている。独楽みたいに華麗なテクニック。何だかくるくると話もはぐらかされている気がする。

寿くんと私は年齢が少し離れているけれど、母親同士が同級生だったので、よく互いの家を行き来するくらいには仲がよかった幼少期。彼の高校進学のため無償で家庭教師を引き受けたほど、互いの両親も含めて、良好な関係を続けてきた。

「名前さん≠ヘ浮いた話ねえーんですか?」

そんな彼が急に私をさん&tけで、こうして、慣れない敬語を使うのは、フリ≠ネのだろうと思う。変に大人ぶってみたりする彼が少しずつ、大人の階段を登っているのかと感慨深くなりつつも、やっぱり可愛いなぁ、なんて思ってしまったことは、彼の名誉のために言わないでおこう。

「なんで急に敬語?わたしは……ない。忙しくてそれどころじゃないし」
「へえ、」

寿くん、笑ってるのかな、と思いきや、まったくの無表情で遠いところを見つめていた。実のとこ浮いた話というのが、ないわけではなかった。

付き合っている彼がいたけれど、うまくいってなかったし思い出すと泣きそうだから、そんなことを昔から面識のある今ではすっかりとイケメンに成長した思春期真っ只中の異性の寿くんに話すつもりはなかったのだ。

だから、うそをついた。それで、寿くんの横顔にぎくりとした。なんとなく、うそをついたのが、バレている気がしたから。








数年経過して、その嘘を暴くことになった。失恋して部屋で丸くなっているところに寿くんが訪ねてきたのだ。今や彼は、プロのバスケットボール選手。練習の帰りらしくTシャツの肩にスポーツバッグを引っかけている。寿くんの肩越しの景色に、いつのまにか日が暮れたことを知った。

「留守なのかと思ったけどな、玄関開いてたから勝手に入っちまったぜ……」

春の終わりの雨が窓硝子に水玉模様を描いていたが、やがて雨脚は強まり透明な薄い水の壁となっていた。風がばさばさと吹いて、屋根を叩く雨音が、とんとんとん、だの、タタタタタ、だのと、小うるさく鳴り響いていた。

「……彼氏のことか?」

数日前に突然、寿くんから数年ぶりに連絡があった。緩い世間話をしていた最中、世間話をしていた最中、今度アパート遊びに行っていいか?住所教えろよ、の問いに素直にいいよ、と言ったのが甘かった。鍵を開けっ放しだったままのアパートの扉。寿くんは断りなく部屋に入って来た。電気を付けられたくないな、ひどい顔をしているから、という私の思いが通じたのか彼は、電気のスイッチに手を伸ばして、しかし押さなかった。

「………、わかる?」
「そんくらいしか思いつかねえしな」
「うん」
「別れたのかよ?」
「うん……」
「ずっと、長いこと付き合ってたんだろ」
「うん、まあね」

寿くんは電気を付けない代わりに窓のカーテンをしゃっと開け放った。水が、いくつもぽたぽたと軒先から落ちている。のたうったような筋をつくって窓硝子に落ちていく雫もあった。遠く、街の光がちらちらと瞬いている。

雨雲に隠れてとっぷりと闇が濃いけれど、ずっとこの環境でまばたきをしていたから夜目が利いている。寿くんは、見えているのか見えていないのかわからない窓の外を遠い目で眺めている。あのときの、好きな子がいると言った彼の横顔を思い出して私は、あ、と思った。

「……きょうはどうしたの?なんか用?」
「近くに寄ったからな。母親からも言われてて、もしアレなら顔見せに行けってよ」
「……アレ、ね。そっか、近いもんね、寿くんの練習コートと私のアパート」
「だろ。」
「寿くん、テレビで活躍、拝見させてもらってるよ。それにしても、背ぇ伸びたねぇ……」
「名前さんは……」
「ねえ、」

思わず私は強い口調で寿くんの言葉をさえぎる。少し目を見開いた彼は、すぐに眉間にしわを寄せてみせる。

「あ?」
「……サン付け、しなくてもいいのに」
「……じゃあ、名前は。」
「ん?」
「縮んだよーに見えるけどな、背。」

くしゃ、と眉間のあたりを歪めて寿くんは口角を吊り上げるといたずらっぽく笑う。中学のときからすでに周りの子たちの中でも背が高かった方だけど、いまでは天井につきそうなほどに高い。 ゆるく着たTシャツごしにも、筋肉の質量が伝わってくる。しなやかなその姿が私とは大違いで、まぶしかった。暗闇の中でも——。


「……大丈夫かよ?」

低く響いたその声、思いやるように静かだけど、ためらいがない。私は、小さくうなずいた。長く使い込んだソファに、寿くんは腰を下ろす。長い足を豪快に広げて、頭の後ろに両手を組んで当てがって背を預けるその姿が、大きくて、男らしくて、すごいなぁ。寿くんなら、きっと私のようなあやまちは犯さない。私のような悩みは抱かない。もし失恋しても正面から受け入れて、淡々と感情の処理をするだろう。

そもそも失恋なんて無縁なのだ。スーパースターなのにマイペースなんて、そんなのきっとみんな夢中になる。姿も、とてもきれいだし。ほんとに私とは大違いだ。

「寿くんの彼女って、幸せなんだろうねぇ……」
「……あ?なんだよ、急に。」
「寿くんて軽そうだけど優しいし、すごく大切にしてあげそうだもん」
「軽そうは余計だろ」
「ごめん」

小さく笑ったつもりが、掠れたため息にしかならなかった。私は、大好きな人を失ってしまった。あの人はもう私を見ないし、私のいない方角にまっすぐ進んでいく。私がこうして床に座りこんでいるあいだに、あの人の中で私は思い出になっていく。ふたりの人生が交差することはもうない。それぞれ、他人同士になった。

街中で鉢合わせることがあっても他人行儀に会釈するだけなのだろう。あんなに抱きしめあって、体温も、匂いも覚えているのに、この体にしみついているというのに、世界で一番——遠くなってしまったのだ。

あのとき、電話すればよかったのかな。疑ったりしなければよかった。もっと素直に……気持ちを伝えていれば。

ずっと一緒にいたかった。感情をぶつけて罵りあったこともあった。幸せなだけの関係ではなかったけれど、それでもよかった。もっと、ずっと、ずっと一緒にいたかった。

煩悶しているあいだに私はうつむいていて、私のとなりに寿くんが腰を下ろしていた。ふたりで、部屋の隅っこの床に座りこんで、かたや落ち込みもうひとりは天井を眺めている。……なんだろうこの状況、と思えるくらいには自分は元気なのだなと認識する。

寿くん、いつの間に私の隣に来たんだろう。雨による湿気のせいか、ほのかな石けんの匂いと熱い肌の気配がする。悲しみや後悔は、まるで幽霊のように片時も休みなく寄り添っている。私の思考に取りついて、私を泣かせようとしたり自己嫌悪に陥らせたりしてくる。

だけど、寿くんはそうではなかった。なんだか、隣にいてくれると、ひどく落ち着くような作用をもたらした。彼が、私を心配してくれているのがとても伝わってきた。黙って、並んで座っているだけなのに。


「……なあ、聞いてもいーすか」

なめらかな声が、そっと響いてくる。私は、鼻をすすりながら顔を上げた。

「……だから……、なんで、敬語?」
「……。そいつ、どんなやつだったんだよ?」

寿くんは床に置いていた雑誌で顔を扇いでいる。ぱたぱたと空気が揺れて、寿くんの襟から石けんではない、なにか、いい匂いがした。

「優しかったよ。すごい大切にしてくれた」
「ふうん、そうか。」
「そういえば寿くんは?まえに好きな子いるって言ってたよね、中学の頃だったけど。その子、どうなったの?」
「……。 どーだろうな」

寿くんはゆっくりわたしに視線を向ける。雨粒に宿った光が寿くんの黒い瞳を青く照らしている。長い睫毛、微かに細められたまなこ。いつも眉間に皺を寄せて、ふてくされ顔の寿くんが、ただ無表情で私を見たというだけで、さわ、と肌を撫でた気がした。

「……ごめん」
「あ?……なにが?」
「寿くん、もう子供じゃないんだから、聞いちゃ悪かったかなって」
「あー……まあ、ガキじゃねーけど、いや。ガキではあるか……」
「え?」
本気マジでわかんねえのかよ?」

私が、まばたきをしているのを、寿くんは黙って見つめていた。刹那ふわっと寿くんの香りが目の前にきて長くて綺麗な指先が私の髪を片耳に掛けた。そのまま、唇にわずかな体温を残して離れていく。そして、目の前にあったその暗く聡い瞳は一瞬逡巡して、身体ごと、私から離れていった。

「……寿くん」
「あー、……腹減ったなぁ。」
「え。あ、お腹? 夕飯まだ?」
「や、チームメイトと食ってきた。でも腹は減るんだよ」
「さすがスポーツマン」

いつもどおり、寿くんは表情をやわらげている。さっき一瞬、たしかに、ひどく大人びていたけれど。なにか、唇に触れた感覚があったけれども。おかげで自分が落ち込んでいたことを、束の間、忘れてしまうほどに。

寿くんはバスケ以外は、元々何を考えてるのかわからない不思議な子だったけど、表情一つでがらりと空気まで変えてしまう。子供のころからムードメーカーだったのだ。

「なにか作ろうか?」
「きょうは遠慮しとくわ、さすがにな」
「そう?気遣わなくていいのに」
「じゃー、つぎに期待しとく。つか、作りに来てくれよ、今度は俺んちに」
「うん、いいよ。目玉焼きくらいしか作れないけど」
「はっ?……ウソだろ?」
「アハハ。」
「目玉焼き、フツーに好きだけどな」

寿くんの声、くすっと笑ってふわっと耳に残っていく。心地いい、低くて男らしい声。それを聴いていたら、年下の子にここまで気を遣わせてちゃいけないなぁ、とゆっくりと思った。

寿くんが帰れば、私はきっとまたぐずぐず落ち込んでしまうだろう。付き合っていたひとは、もう二度と私の元には戻らない。その事実を受け入れ飲みこみ、過去のことだと流せるようになるには時間が必要だ。

だけどもう自分を責めたり、いじけたりしない。多分……。すくなくとも寿くんが隣にいてくれるうちは、そう思った。








「なあ、おねーさん。お茶しねえ?」

明るい改札を抜け暗やみの中を横切ろうとしたとき後ろから声を掛けられた。振り返ると寿くんが立っていた。コートを着ずに所属しているバスケチーム専用のスエット姿でバスタオルみたいな厚手のマフラーを首に巻いている。いたずらっぽく笑った口元から、白い呼気が洩れた。

「……寿くんじゃん。ちょっとびっくりした」
「キレーな姉ちゃんだなと思ったら、名前だったってだけだ」
「えぇ?なにそれ」
「ってのは冗談だけどよ。ここで待ってたら会えっかもなーって」
「もう……電話くれればいいじゃん」
「急に思い立ったんだよ。名前さん・・、なんか食いに行こうぜ」
「呼び捨てでいいってば。うん、じゃーいつものファミレスでいい?」
「いいな。そりゃ育ちざかりには最高だ」
「大げさだなぁ。嘘、今日はお寿司行こ?もう寿くんは学生じゃないんだからね」
「ふはっ、なら焼き肉にしようぜ」

寿くんが笑っている。わたしも笑っている。失恋してから、半年がたった。時間薬というけれど、効果はてきめんで、わたしはもうすっきりとしていた。思い出すと胸が痛むけれど、未練ではなく昔の自分が可哀相になるから。


一緒に焼き肉を食べて、スーパースターの寿くんは年上の私にご馳走してくれた。かっこいいな、って思った。スマートに会計を済ませている姿がもう立派な成人男性なんだなと思って、すこし、寂しかったけど。

帰り道、寿くんのマンションで飲もうという流れになり一緒にコンビニに入ってお酒と僅かながらのおつまみを買った。ゆるゆるとお酒を嗜んで、二人同じタイミングで笑って。途中、これ着ろよと寿くんに渡された部屋着に着替えさせてもらった。

そしてなぜかお風呂まで借りて、ビジホからかっぱらって来たであろう使い捨ての歯ブラシをもらって、歯も磨いた。「帰ろうかな」「帰らねえのか」と聞きもしなければ、聞かれもしなかったのでそのままその場をやり過ごしていた私はズルい。でも寿くんも十分ズルいなあと思う。

ベッド使えよ、と言われた言葉に甘えて私が「おやすみ」と言い置いてベッドに入ったのを確認した寿くんが部屋の電気を消したときはじめて、 わたし、なにしてんだろう……なんて、ようやくいま置かれている状況の異常さを把握する。

「じゃー、おやすみ」
「え、寿くんマジで寝るの? 床で?」
「あ?」
「そこでさ……、まじで寝るの?」
「あぁ……」

カチカチと寿くんの部屋の時計の機械音がする。息を殺しているのに息苦しさを感じながらも、なんだか楽しくて、それでいて時々漏れてしまう自分から発せられる音にも悪戯心をくすぐられる。

「さすがに固くない?」
「さすがに固てぇな」
「固いよね、寝て思わなかった?」
「いや……、一回寝てみていけっかなーと思った10秒後、マジで無理だなって思ってる」
「でしょー?……やっぱ——、」

言葉のキャッチボールでサラッと言いそうになってしまった。危ない危ない。ぐっと先の言葉を飲み込んだ私を不審に思った寿くんが身動ぎしたのか、タオルケットの布擦れの音が微かに響いた。

「あ?」

——まずい。聞き返されてしまっては、もう言うしかなくなってしまう。逃げようがない、きっと寿くんからは。だってしつこく聞いてきそうだし。なんだよ、って。

「………、一緒に、寝ようよ、こっちで……」
「いいのか?」
「うん。めっちゃ端っこで寝て、その代わり」
「ありがてえんだけど……俺まじで、あれだぜ?襲うかもしれねえぞ」
「はは、なにそれ。……ねえ、早く」
「あー、ちっと……じゃあ、すんません」

今度は大きめの布擦れの音が耳に届き、ついに、寿くんが立ちあがったことを察知する。寿くんに背を向けるようにしてしたけれど、何だか一気に自分の体の熱が放出された気がして恥ずかしい。

「すみませんっつっても、俺の部屋だけどな……ここ」
「ふはは、間違いない」

寿くんが遠慮がちに私が掛けていた布団を捲る。外気にさらされて火照った頬や身体がすこしだけひんやりした。

「うわぁー、……なんか、変な感じだね」
「なんで?」
「変な感じ」
「父さんと寝てる感覚か?」
「いや……お父さん、よりは……ドキドキする」
「え?」
「えっ?」

思わず聞き返した私。もうこれ以上、話し掛けないでほしい。だって、近い……。とてつもなく寿くんが近いんだもん。寿くんの息がダイレクトに私の顔に降りかかる。しかも、なんで私たち向き合ってんだろ。いつの間にこんな体勢になったのかな。自分でも覚えていないくらい、いま私は、テンパっている——。

「つか、その台詞にどきどきしたわ」
「ねー、嫌なんですけど……ちょっと、私こっち向いて寝るから」
「いいって、黙ってこっち向いてろよ」
「……、」
「おやすみ、名前」
「……おやすみ、寿くん」








あのときは、もう一生恋愛はできないと思ったけど、だんだんコントロールが利くようになり、光を見ては眩しいと思い、夜はよく眠り、欲しい服を買ったりするようになった。失恋をする以前の人間に戻ったのではない。感情は、以前よりも瑞々しく敏感になった。心の傷が完全にふさがったわけではない。それは機微となり、その翳りが共感力や表現力などに長じていくのだろう。

あんなに悲しかったけれど、立ち直ったいまとなってはいい経験になったと思う。元彼に幸せになってほしいと心から思えるのは、きっと、自分がいま幸せだからなのだ。


寿くんはあの日以来、ときおり様子を見に来てくれるようになった。こんなふうに、なんだか少し寂しい気がするとき、ふらっと現れる。ふしぎなほどぴったりと、会いたいときに来てくれる。 昔から空気や状況をよく読む子だった。

飄々としているから読んでいることを匂わさないけれど。会って、定食屋に行ったり、ただ、ぶらぶら散歩したり、公園でバスケしたり。たまに、なんか子守唄歌ってくれと頼まれたり。そして、歌い終わると彼は決まってウトウトしていて……その寝顔だけは幼くて、いつまでも眺めていたくなった。


「今日はなに食いに行く?」
「寿くんはなに食べたいの?てか、そんな薄着で寒くない?風邪ひくよ」
「なんとかは風邪ひかねーっていうだろ。大丈夫だって」
「……ほら、これ持ってなさい」

熱々のホッカイロを取り出して、彼の手に握らせる。存外、その手は温かかった。寿くんは、嬉しそうに目を細める。

「ああ」

そううなずいて長い指が、わたしの手を握った。

「……あったけえなー」

寿くんの掠れた囁きが白く浮かんで消えていく。繋いだ手も、寿くんの存在感も、自分の頬も胸もぜんぶあたたかい。

今夜こそちゃんと、自分の気持ちを伝えよう。 寿くんのぬくもりが嬉しくて、そっと幸せを噛みしめていた。










 よりの方が楽しいかもね。



(……手、冷たくね?)
(心があったかいらしいよ、)
(手ぇ、冷てえと?)
(うん。)
(へえ、明日チームメイトに教えてやろ)
(ははは。それ、もうみんな知ってると思うよ)
(えっ!そーなのか?)
(うん、そーなの。)


※『 青春の影/チューリップ 』を題材に。

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