——昔から、男運がないといわれる。

 段ボールを抱えて途方に暮れていると、雑踏の向こうから現れたのは、寿くんだった。真夜中をすり抜けてラフな格好でもそのスタイルの良さでなのか、はたまた無意識に放っているオーラか、彼の周りがきらきらして見える。

 彼は私に気づくと「よぉ」と言って、近づいてきた。こんな街中で段ボールを抱えて座り込む女≠ネんて、ワケがありすぎる私に好きこのんで誰も近寄りたがらないはずだ。それなのに彼は「なにしてんだ?ソレ、どうした」なんて、声をかけてくれるんだなぁ……。

「いやぁ、ちょっと困ってて。ホテル満室だし、ネカフェもいっぱいだし」
「なんだよ……路頭に迷ってんのか?」
「……うん、まあ、そうなるね。」
「彼氏は。家、この辺だったよな」
「それが、叩き出されまして……」
「ハア?こんな時間にか?出ていくなら男のほうだろうが」
「もう彼女じゃないから私。そんな義理はないんでしょうね」

 チッという短い舌打ちのあと、寿くんの口元が苛立たしげに歪む。「ったく呆れた野郎だな」と心底からそう言い放ち私の代わりに怒りをあらわにして、ぶつくさ毒づいていた。
 だが私はとてつもなく哀れに見えるのだろう、彼はすぐに気遣うような眼差しをよこした。

「行き場がねぇんだろ?ならうち来いよ。こっからすぐだしよ」

 うなじに手を当てながら、弱ったように言う。街の雑音が、寿くんの低い湿った声より、ずっと遠くに聴こえた——。


 寿くんと出会ってからかれこれ二年程になる。住んでいたところの近くにあったスポーツバーで会ったのがきっかけだ。彼は、プロのバスケットボール選手なのでシーズン中は飲み屋で鉢合わせになる事は少ないが今はシーズンオフの期間だ。

 彼の家は、本当にすぐのところにあった。彼が雑踏から現れたのは、帰途に就いていたかららしい。それにしてもこんな日に街中でばったり会うなんて、なんだかメロドラマみたいだ。
 1LDKの扉を開けると、ほのかに、男性っぽいルームフレグランスの匂いと知らない家の匂いが優しく出迎えてくれるかのようだった。きっちりしてるんだなぁ、男の一人暮らしにしては小綺麗にしてある。

「風呂はそこだ。いま沸かすから待ってろ。ちったぁマシな気分になんだろ」
「……、いいの?」
「こうなりゃ乗りかかった船だ。かまわねえよ」
「ありがとう。ごめんね、疲れてるときに」
「ふはっ、お前のほうが疲れた顔してるっつの」

 このとき、照明の光を逃れて、彼の眼元を垣間みせた。なんでもない、普通の特筆すべき表情は見当たらない。けれど以心伝心とはこういう事をいうのだろう。
 彼が下心なく招き入れてくれた事がまるで一条の光のようにすっと射したのだった。本当に心配してくれているのだ。久しく体感していなかった。慈愛って、こういう眼差しの事をいうのだ。

 お言葉に甘えて、ユニットバスの深い湯船に顎まで浸かって濡れた目蓋を触った。
 さっき別れた男の事を考えていた。別れたのは今日でも恋愛はとうに死んでいた。付き合い初めには寿くんみたいな慈愛の目を向けてくれた事もあった。それは私もあったはずでお互いがお互いをいつしか大切にしなくなって、なるべくして、終焉を迎えたのだ。
 だが寿くんは恋愛じゃなくてもあんな眼差しを向けてくれるんだな……情に厚いんだ。それって損ばかりしそうだし、ひどくくたびれるだろう。
 打算なく人に手を差し伸べられる人間が、果たしてどのくらい存在するか。
 幼い頃にあった、他者を慮る気持ちはいつしか見失われ、自分の生活を守る事に必死になるものだ。それがこんな街の片隅で元彼に追い出されたタイミングで自分に向けられるなんて、奇跡よりも信じがたい気がする。

 とはいえあの瞬間下心がなかったのは確かだとしても密室に女といて何とも思わないわけはないだろう。
 もし寿くんが気を変えて、迫ってきたらどうしよう。一宿一飯の恩があるから無碍にはできないし傷つけたくはない。気まずくなるくらいなら、私も覚悟を決めておこう。
 しかしバスルームを出ると部屋のあるじの姿はなかった。テーブルの上には鍵と、小さなバスケットボールがついたツインキーホルダー、それと一葉のメモが残されている。

 よそで泊まるから遠慮なく使えよ





 —


 翌朝になっても、彼は戻らなかった。
 不動産屋で即入居可な物件を紹介してもらい、明日から住めるワンルームを契約する頃には空は夕暮れに染まっていた。

「寿くん、来てたりする?」

 なじみのスポーツバーに顔を出すとマスターがカウンター越しに出迎えてくれる。マスターが「お!久しぶり。うん来てるよ、ホラあそこ」といって指差した。私はそれを一瞥して四、五人の群れのほうへと向かう。
 私の存在に気付いた寿くんとは別のバスケットチームに所属している宮城さんの「あっ」という声を確認してから、ぺこっと頭をさげると合皮の革張りのソファーに、気だるげに座っている姿がある。

「よぉ、どうした、なんかあったかよ」

 何だか鼻詰まりっぽい低い声。風邪、引いたのかな。シャープな肉のない輪郭、二重瞼、鼻筋が支柱のように通った顔立ち。かっこいいな……。はじめて寿くんのビジュアルに意識してしまった事を自覚する。私は動揺しているのを押し隠して鍵を彼に返した。
 そのやり取りを見ていたからか宮城さんは残りのメンバーに、「ダーツやろうぜ」と声をかけて席を立つ。そんな宮城さんに寿くんが「悪ィな」と小声で返していたので宮城さんそれはやっぱり気を遣ってくれての行動だったのだろう。

「ありがとうございました。昨夜は本当に助かりました」
「おう。今日は寝るとこあんのか?」
「それが、まだ……」
「おいおいマジかよ……しょうがねえなぁ。鍵、また持ってっていいぜ」
「ビジホでも探すつもりだったんだけど、いいの?」
「今更なぁに言ってんだよ。一泊も二泊も変わらねえだろ」
「ありがとう……寿くん、夕べはどこに泊まったの?」
「あー、よそにちょっとな……まぁ俺の事は気にすんな」

 まさか彼女の家とか…?と、このタイミングでマスターがお水を持ってきてくれた。テーブルにグラスを置きながら、感情の見えない顔で「三井くん、今日も宮城くんのとこ?」と問う。

「……あ?」
「ソファーじゃ寝れねえでしょー。枕持ってく?俺の仮眠用のやつあるけど」
「いらねーっすよ。あ、俺だけ会計で」

 マスターは、にやりと笑って「はいよ」と言い置き、その場を後にした。マスターが去ってから寿くんはむっとしてほぼ空になっているグラスに入っていたレモンサワーらしき物を飲んでいる。きっと私に気兼ねさせまいと秘密にしたかったのだろう。

「寿くん」
「……なんだよ」
「お寿司食べに行こ、奢らせてよ」
「……」
「ね?」
「……しゃーねえな。よっしゃ、行くか」

 仏頂面が微かにやわらぐのが見えた。宮城さんたちに挨拶をしてからバーを出ると、景色は宵の口を迎えていた。紫紺の夜空は遠くに押しやられ街のネオンが輝いている。
 喧噪を眺めて自分はその泡沫でしかないのだという気がした。しかし、寿くんはそうではない。何といっても昔からこの街の住人だ。その生まれ育った街でバスケットをして、地域に貢献して。こんなにも他者に思い遣りの気持ちを持っているという事はちゃんと己を貫く強さがある証拠だ。それだけでも私とは違う。

 地元民しか知らない穴場の寿司屋に入って二人で美味しいお寿司を食べた。

「男と別れたんなら、また観に来れるよな?」
「え……?」
「おめぇ、男いるとめっきり来なくなんだろ」
「そ、そう?」
「はあ?自覚ねえのかよ。チケット渡したって、ゴミになっちまうだろうが、いっつも」
「……」

 なんか寿くん、今日はよくしゃべるなぁなんて思いながら押し黙ってたら「別に深い意味はねぇよ、気にすんな」とか弱々しく言うから、可愛いとこもあるんだなって思った。
 だいじょうぶ。応援行くよ、今度は必ず。例え特定の誰かが、このさき出来たとしたって——。

 食べ終えて、「ご馳走する」と言ったのに彼が先に会計をしたので封筒にお金を入れて無理やり彼のポケットに突っ込んだ。当然、お金の所在をめぐって「いらねえって」「いいから」の応酬で押し問答になる。
 寿くんが私の手首をつかんだとき——あっ、と思った。この人、私の事ちゃんと女だと思ってるんだなって。だって彼も「あ」て顔をしたから。まぁ、その隙に抜け目なくポケットにお金をねじ込んだのだけど。なんだか、くすぐったかった。

 その後はまた別の店に一杯引っかけに行ったり足りない一人暮らし用の買い物に付き合ってもらったり。そうして寿くんの家に帰る頃、夜はすっかり更けていた。空気に水分がある。すこしだけ夏の匂いがする。
 隣に寿くんがいて荷物を持ってくれている——二人きりでこうして行動を共にするのははじめてだった。
 何だろう、デートではない。厄介事を引き受けてくれている。世話を焼いてくれているにすぎない。なのに寿くんは私に目を細める。気まずいような照れ臭いような、そういう雰囲気。こういうとき、目に見えない波を作るものだ。ちゃんとしなきゃ。

 部屋に上がって奇妙な空気を湛えたまま、彼は「じゃ、俺は行くぞ」と低く言った。
 入ったばかりの室内は彼の匂いがした。夕べは知らない男の人の匂いと思っていたそれが今では知った異性の匂いに感じる。
 私は、動揺をひた隠しながら「今日は、ここで寝なよ」と言った。

「へ……?」
「気を遣って出てってくれたんだろうけど、ここ寿くんの家だし、申し訳ないよ」
「……いいって。だいたいお前、そんなタマじゃねえだろーが」
「どういうイメージ?だって宮城さんちのソファでゆっくり寝られなかったんでしょ?あ、枕カバーとシーツ洗っといたよ」
「お、洗濯してくれたのか。悪ぃな、サンキュ」
「勝手に洗っちゃ悪いかと思ったんだけど、他人の寝たあと嫌な人いるし。こっちこそ、ありがとうね」
「おまえの寝たあとを嫌がるようなら、初めから泊めたりしねえだろ」

 淡い微笑はすぐに気まずそうに掻き消される。まるでお互いに、一線を探り合っているかのようだ。この空気を打破して、ふつうの友だちに戻りたい。彼はまだグダグダ言っていたが半ば強引に部屋に連れ込んで、一緒にお酒を飲んだ。お酒が尽きると、一緒にコンビニまで買い物に行って、またすこし飲んだ。
 自然とあくびが漏れる頃、それぞれシャワーを浴びて歯を磨いて眠る支度を整えた。彼が部屋着のラフな恰好になると何だか目新しすぎておしゃべりの途中で見惚れてしまう。だが本人はまったく気付いていないから不思議だ。まるで、秋波を感知する能力をどこかに落としたみたいだと思った。そんなわけがないけど。
 そして私はその能力をちゃんと兼ね備えているので、彼がこちらを見ないように努めているのを気づいていた。
 寿くんに借りた私には大きすぎるTシャツと、スウェットのズボン。ゆるっとしていていい匂いがする。

「……俺がいたら、寝れねえだろ?」
「ううん、寝れる。爆睡できる」
「ならいいけどよ……つかそれも考えもんだな」
「大丈夫大丈夫。ていうか、またベッド借りちゃったね。せっかくシーツ洗ったのに」
「いまさら気にしても遅ぇよ。けど……案外床もそんなに、悪かねぇな」

 電気を全部消しても街の青い光が窓べから射し屋内の様子を物静かに照らしていた。
 ベッドの隣の床にタオルケットや毛布を敷いて彼が横になっている。整った横顔に、街の灯りが縞模様を投げている。彼は目を閉じていたけれどそっと目蓋を持ち上げて、壁に向かってまばたきしたのが見えた。

「……なあ。明日から、大丈夫かよ?」
「……え?」
「いま、苦しい時期だろ。おまえ、何も言わねぇけどよ」
「あ……元カレのこと?」
「あぁ」
「うん、大丈夫。寿くんのおかげでこの二日間、全然考えなかったよ」
「そうか……ヤロウは連絡してこねえの?」
「うん、ブロックしてるからね」
「ははっ。おまえってサッパリしてるよなぁ」

 ほろ苦く笑って寿くんがいう。
 そんなことないよ。でも、言わない。寿くんの恋愛についても訊いてみたいけれど勝手な想像に任せておく。知れば苦しくなるのがわかっているから——。

「わたし、男運悪いみたいなんだよねぇ」
「あ?男運?……へえ」
「友だちにも言われるし。でも男運っていうか、私の付き合い方が悪いんだろうなぁ。長続きする努力を怠るっていうか……」
「ふーん……」
「だから、次はちゃんと努力する。いい加減落ち着きたいし」
「そか。そりゃいい心がけだ」

 寿くんは黙って目を閉じている。このまま眠りに落ちてしまおうか。朝起きたとき、ふたりしてのそのそ起きて、ありがとうございました、お世話になりました、なんて挨拶して、別れるのだ。お礼の連絡をいれて、次にいつ偶然出会えるかは運次第。ふたりともちゃんと大人だから、礼儀を守って、適切な他人同士の関係に戻っていく。
 ——そんなのいやだ。と、気づけば勝手に話しかけていた。

「寿くん、こっちきて」
「……」
「いっしょに寝よ」
「……お前なぁ、意味わかって言ってんのか?」
「わかってるけどそういう意味じゃないよ。取って食ったりしないから。寝るだけだよ、なんにもしないよ」
「女側のセリフじゃねぇだろ……ふざけてねーで早く寝ろ」
「うん、ふざけてない」
「………」
「きて」

 驚いたような顔で私を見つめている。差し出した手をゆっくり長いため息を吐いてから彼は掴んだ。あたたかくてちょっとかさついた指だった。彼がベッドの端に座ると私の体まで軽く揺れる。弱りきった背中。なんだか気の毒になってくる。

「狭くしてごめんね」
「……おう。つか、もっとそっち詰めろ」
「寝よ」
「ぅおい——!ひっつくなっ!」

 ばさばさ掛け布団の衣擦れの音が響く。寿くんが入ってきた瞬間、布団の中に外気がすべりこみひやりとした。次に彼の胸板から熱が放射されていることに気づいた。
 寿くんの匂い——さわやかな香りに、ほんのすこしのハーブみたいな、よくわかんない胸が痛くなる苦味。
 忘れてしまってはもったいない。ふしぎなほど躊躇いなくその胸に頬を寄せた。少し早い鼓動がなんだか彼らしいなと思う。

「ごめん」
「……あ?」
「結局、ゆっくりさせてあげられないね」
「ふはっ……ほんとにな。まったくだぜ」
「ありがとう」
「……、それよりおまえ、大丈夫か」
「うん」
「それならいいんだけどよ」

 わりとはっきり響いたその声に続いて、ほそりと掠れた声が言葉を紡いだ。

「ついでに、甘えて行きゃあいい」
「……うん」

 寿くんの腕がゆるく私の背にまわる。手が遠慮がちに私の頭を撫でた。布団の中で抱き合っている。バイクの音。部屋を照らす夜の街の明かり。触れた胸があたたかい。頬に彼の吐息がかかる。髪を撫でていた手がゆっくり下りて、背を優しくさすった。
 誰かに大切にされるって、こんなに気持ちいいんだな……。

「……香水、つけてんのか?」
「今?ううん、つけてないよ」
「へえ」

 シャンプーもボディソープも着ているものまで寿くんに借りたものだから、彼の匂いに包まれている。しかし彼は「けどお前、なんかいい匂いがすんだな」と、珍しく率直に述べた。

「そう?ちょっと恥ずかしい。そして変態発言」
「そりゃ悪かったな……ってか、だいたいお前がくっついてくるからだろうが」
「寿くんもいい匂いするよ」
「んーなこたねぇだろ。男の匂いなんか、知れたもんじゃね?」
「するする。好きな匂い」

 首すじに顔を埋めて深呼吸する。瞬間、寿くんの肌が、ぴくりとした。ため息をのみこむ気配がする。私という異分子を、どう取り扱ったものか弱った時期は過ぎ、今はただ優しく徹してやると決めたようだ。
 それはきっと彼氏に追い出された哀れな女だからかもしれないし、男気というものなのかもしれない。いずれにせよ彼の弱いところにつけこんでこうして腕の中にいる事を申し訳ないと思った。しかし今では寿くんのほうから抱き寄せてくれている。それが、鳥肌がたつくらい嬉しかった。

「寝ろ。疲れてんだろ」
「寝ちゃっていいの?」
「は?」
「本当に寝ちゃっていいの?なにもしないの?」
「バァカ、いーに決まってんだろ」
「ふうん……」
「……何だよ」
「べつに。ちょっと残念なだけ」
「……そんなブー垂れたツラすんじゃねえ」

 悪態ついた後その皮肉な口元が仕方なさそうにゆるい弧を刻む。それからゆっくり口を開いた。

「泊めてやってることタテにそんなマネしたらよ前の男どもと同じになっちまうだろーが」
「……」
「だから、なんもしねぇよ。まーた男運悪いとか言われんのもシャクだしな」
「……」

 この人——こんな人だったんだ。優しいな、とは思っていた。でも、ただ優しいだけじゃない。強面な見た目で(目つきが悪いから)こんな倫理観を持ち得るものだろうか。概念を覆されるほどの器量だ。懐の内側を知ったら明日引っ越すのがさみしくなる。多分、このまま同棲したいと訴えれば、彼は怒りつつも結局受け入れてくれるのだろう。
 でも、そんなことは決してすまい。色恋はさておいて、まずは自分の生活を立て直してからだ。でなければ、彼氏に追い出されたから新しい男の元へ転がり込んできたみたいになる。そんな事をしたら寿くんまで汚してしまう気がした。
 だからちゃんとした大人になるのだ。リセットする期間を設けて、こんどは、堂々と泊めてもらえますように……。

 強い眠気に引き寄せられて目が開いてられなくなる。私の顔を見て、寿くんがくすりと笑うのが見えた。低い湿った囁きは、夢と現実のあいだにふわりと響いた。

「どうせ寝れねえ俺のぶんも、代わりによく寝ろよ。……おやすみ」



 —


 朝が来て目を開けると、家主の姿はなかった。まさか、また宮城さんちに寝泊まりしに行ったかと思いきや玄関の扉ががちゃりと開いて、寿くんが帰ってきた。

「おう、起きたか。……ゴミの日だからよ、捨てに行ってたわ」

 その眼元には濃いくまが刻まれている。人間、一睡もしなかったら、こういう顔になるだろう。でも、あえてそこは言わないでおく。

 きちんと身なりを整えてから、朝食はふたりで近所の喫茶店で済ませた。いざ転居のため寿くんは荷物もちをしてくれた。そして新居に着き彼はさっさと荷を下ろして帰っていった。
 じゃあな、っていう声。なにか言いたげな瞳と言わない口元。私を拾ってくれた夜にはなかったやわらかな一体感。しかし彼は行ってしまい彼の匂いが薄れていけば、一体感は喪失感に変わるだろう。
 スマホの時計は朝の9時を指している。一人になって段ボールを開けマグカップを探した。なみなみ注いだ、あたたかいカフェオレがほしくて。

 がらくたみたいな荷物の一番上に封筒が入っていた。中には入れたままのお金がある。寿くんのポケットにねじこんだ封筒だった。カフェオレのことは忘れて、窓ごしに街の雑踏を眺めた。

 さっき別れたばかりなのに……もう会いたくてたまらない。





 —


『よお、元気にしてるかぁ?俺だ、あー三井。』

 夜の8時。寝ながら出た着信。スマホから響く声に目が醒める。私の反応が筒抜けであったのだろう。彼はくっと喉の奥で笑って、『なんだよ、ずいぶん良い子ちゃんの時間に寝てんだな』と、言った。

「ちょっと寝てただけだよ」
『ちょっとって声かよ。で、新生活はどうだ?』
「まだ始まって二日しか経ってないけどね。凄くいい感じだよ。家具も何もないけど、わりに静かだし、水回りも綺麗だし」
『そか。そりゃ上等だな』

 本当によかった、と思ってくれている、それがわかる声音だった。あたたかい気持ちになる。
 すこし間があった。これで通話はおしまいなのかな。心配して掛けてくれただけならば、要件はもう済んだ。
 誘いたいけど別れてから二日しか経ってないのだ。会いたいけど、それよりも寿くんが同じ気持ちでいればいいのにな、と思う。彼が会いたいと思ってくれるならば、私はいくらでも耐えられるだろう。

『……なあ、よかったら、今から出てこねえ?』
「え……?」
『引越し祝いもまだだしよ。旨い酒置いてる店があんだ、行こうぜ』
「——、」
『あ……や、都合悪けりゃ、べつにいいんだ……悪かったな、急に誘ってよ』

 通話相手は突然しゅんとしてそのまま切りそうな勢いだったから、慌てて「待って!いく、いきたい」と食らいついた。

「——会いたかった、だから嬉しくて、ぼうっとしてた。ごめん。行く。すぐ用意するから」
『そうか?……なら、そっち行くな。別に、用意なんか適当でいいぜ、もう寝顔もすっぴんも拝んでんだし』
「どうせひどい顔でしたよ、悪かったね」
『俺はひでぇの逆だと思ったけどな。名前の気ぃ抜いたツラ』

 ——え、と思った瞬間、窓の向こうで酔っぱらいが集団でウェーイ!してる歓声が響いた。そしてそれは、同時にスマホからもクリアに聴こえてきた。

『もう名前んち着くぞ』

 はっ、と笑みと吐息を含んだ声。きっと、窓の下を見れば街灯に照らされた彼がいる。
 どんな顔をすればいい?寝起きだし、髪もボサボサだし、服もヨレヨレだ。でも、かっこつけてばかりではきっとまた長続きしない。素直に笑顔で出迎えるのだ。

 窓べに駆け寄り、カーテンを掻き分ける。
 ほの明るいブルーベリー色の夜空、小さく手を挙げる姿が見える。目が合うと照れ臭そうにはにかんだ笑みを浮かべるだろう。私は、大きく手を振った。大好きな人が、そこにいる——。










 それは確かに、だった。



(なに食いてえの?)
(んーっ、焼き肉っ!)
(おっ、偶然。今から行くのも焼き肉屋だ)
(すごい、ほんと偶然)
(いや——、運命だな)
(えー?なにそれ、どういうこと?)
(はぁーあ、頭痛ェわ……鈍感女が)

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