「今日の日直はー。よし、じゃあ三井と名字にしようか。頼んだぞー」

と、担任の先生が朗らかにすがすがしく言うもんだから、その言葉の内容がどれほど重大なことか一瞬理解ができなかった。

先生は私の机の上に、ぽんと学級日誌を置いて、「じゃ、授業はじめる号令かけてくれ」と言う。

固まっている私をよそに三井くんが「起立、礼」と低い声で言って、みんなが机や椅子をがたがた揺らして立ち上がったとき、ようやく私も、我に返ることができた。

すこし離れた席で友人ふたりが、びっくりした顔で私を見ていた。彼女たちは私を哀れんでくれているのだ。


「名前ー。元気だしなよ。いくらあの三井が元ヤンで、体育館で暴行事件に巻き込まれた奴で。しかも、ロン毛で気づかなかったけど、実は超、顔がよかったからってさあ。」
「名前大丈夫。だって日直なんて黒板消しとプリント配りと日誌を書くだけよ?なにひとつ関わらなくても済ませられるって!」
「そうそう。しゃべるとしても一言二言で終わるでしょ。でもああいう強面の男って、おとなしそうな女が好きじゃない?意外と。」
「じゃあ名前が気に入られることはないから、大丈夫だね!」
「……」

あの……それは慰めてくれているのでしょうか。それとも、貶しているのでしょうか……。

「名前なんて黙ってりゃ清純派なのにねえ〜アハハ、黙ってればねっ!」
「もう!名前が涙目なってる!可哀相に」
「まあ、二人きりにならなければ大丈夫だって」
「そ………、そうだよね…………」


もはや私は、力なく肯くことしかできなかった。

教室の窓際、一番うしろの席の彼。私はトイレで友人に散々おちょくられたり励まされたりして、よろよろしながら教室に戻った。

教室に入った途端、一番に彼が目に入った——。やっぱり、三井くんは異質だ。

ほかの生徒にはない、なにか近寄りがたい、独特の雰囲気を漂わせている。なぜなら、周りの生徒は彼の以前≠フ外見や噂に怯えて、最初から、友だちになろうと言う気を見せる人もいないし。

そして三井くんも、周りから距離を置かれることを自ら望んでいるようだから。

その厳めしい外見だけがそうさせているのではないと思う。なにかもっと、近寄らせないようにさせる秘訣があるんだと思う。よくわからないけれど。

私がそんなことをぼんやりと考えていると、三井くんは読んでいたのか、持っていただけか、教科書を大きな手の中で広げたまま、ふと、窓の外に目をやった。

その動作がなんとなくきれいで私は、もしかしたら彼はそんなに悪い人でも、怖い人でもないのかもしれないと感じた。

その閃きは、さっき頭の中で展開していた彼の人柄への考察と同様なんとなく≠フ仕業だった。

なんとなく、彼はいい人なのかもしれない……。——きっとそうだ。かといって、関わろうという気はてんで起きないけれど。

よーくみたら友人の言う通りかっこいいし、でもやっぱり近付きたくはないけれど。

こういう直感は、なぜかよく当たるほうだから。








「みっ、み、みついくん………!!にに、に日誌書いてほしいんだけど………!」

——だめ!やっぱめちゃくちゃ怖い。私のあんな直感は、まるで当てにならない。

間近で見た三井くんは「暴力大好きです」とでも主張しているように顔中が傷だらけ。しかもその顔には、絆創膏が貼り巡らされているのだ。私は自分の足が緊張で強張っているのをどうしようもできなかった。

なんて野生的な、真っ黒い瞳だろう。あっ、左顎にも傷がある……いったいどうやったらそんなところに傷がつくの?くちびるは閉ざされて一度だって開いているのを見たことがない。

シャツの上からでもわかる、なんて筋肉のすぐれた肉体だろう。これは二年生の誰かを半殺しにしたとか、暴力事件がなんちゃらとか……そういうレベルじゃない気がする。

私、なぜ彼に日誌なんて書いてと頼んでしまったのだろうか……?私が男子っぽい筆跡を真似て代筆すれば、それで済む話じゃないのだろうか。ということが、ものの数秒で頭を駆け巡った。

三井くんは帰る身支度をさっさと済ませて、大きなスポーツバッグを肩に引っ掛け、今にも教室を出て行くところ、と言う状態だ。

教室にはこれから部活に行くのか、さっき散々私をこき下ろしたジャージ姿の友人と、あとはアイドルのことをおしゃべりしている生徒ふたりしか残っていない。

みんな、号令とともにさっさと部活やら帰宅やらで消えてしまった。私は、ぐずぐずしていないでみんながもっと教室に残っているときに言うべきだったと後悔した。


「は?……日誌?」

まるで、あ?知るかボケ、殺されてえらしいな。ちょっとこっちこいやっ!!とか言い出しそうな無表情で三井くんは私を見下ろした。

低い声。なんて背が大きくて、肩ががっしりしているんだろう。私なんかきゅっとひとひねりだろうな。

「ああ、そうか……学級日誌か。俺きょう日直だったな、たしか」
「そ、そうなんだけど……」
「学級日誌って、日直の俺とお前で書きゃいいんだよな。そっちのぶんはもう書いたのか?」
「う、ううん……」

(お、おまえって私のことだよね……?)


私は自分の体の皮膚が汗で湿っていることを感じながら、必死に首を横に振った。

「まだわたしは書いてないの……。ご、ごめん、気が利かなくて……」
「あ?」
「ひぃ………ッ」
「……。気が利く利かねえの話じゃねえと思うけどな……。いま書くから、ちょっと待ってくれ」
「あ、う、うん」
「それか、おまえが先に書いてもかまわねーぜ」
「え、」
「俺、別にまだそんなに……急いでねえしな」

私と三井くんの異様な組み合わせを、廊下を通った生徒らがチラ、と見た。なんだかどんどんいたたまれなくなってしまう。

「え、いい、いい、うん。先書いちゃって、私も帰り急いでないし……」
「そーか? じゃあとにかく、書いちまうわ」
「う、うん。お願いします」
「で……、悪いんだけどよ……その手に握ってるボールペン、ちょっと貸してもらっていいか」
「あ、ど、ど、どうぞ」

おろおろして挙動不審な私の態度を、彼はとくに妙に思ってはいないようだ。きっと、こんな扱いを受けるのは慣れっこなのだろう。

三井くんは、すぐ近くにあった教卓の上に日誌を置き、今日の日付のページを開いて名前を記入している。

角ばった左右対称な筆跡だな、と私はおもった。ふつう、右上がりだったり、斜めだったりするものだけど。もしかしたら、几帳面なのかも。

「A型………?」
「………は?」

顔を上げた三井くんと目が合う。思わずそれで身を引いてしまった私が、なんでもないと言うように、顔をブルブルと振ると三井くんはまた日誌に視線を戻した。

「今日………、」

今度は三井くんが今日の時間割をざっと書きながらつぶやいた。

それが三時限目を書いているときだったので、そのときの授業内容が思い出せないのかと思った私が「ああ、えっと今日の三限は数学の、」と言ったとき彼はちょっと口の端をあげて首を振った。

「いや、きょうって7月7日だな。七夕。」
「え………あ、そうだね?う、うん。幼稚園で七夕祭りしてたよ、お昼、窓から見えたんだけど」
「へえ。けっこう近けえもんな」
「うん。……」

なるべく三井くんの顔を見ないように、彼の手の辺りを見つめたりしたけど……、どこをとっても怖い。この人。

声も深くて低くて、こういう人って、どこかしら可愛いところがあるもんなのに、それが見当たらない。

三井くんはさくさく書き進めていったけれども、本日の感想という欄で、ちょっと手を休めた。

「感想かよ……、特になしなんて書いたら、担任の説教を喰らうと思うか?」
「たしかに。変なところは抜けてるくせに、案外熱血だからね、うちらのセンセ。」
「それは言えてるな」

三井くんは、前日の子たちの感想をチラと眺めてまたページを元に戻した。黒い瞳がときおり睫毛のしたに隠されながらまばたいている。

私はすっかりぎくしゃくしてしまった体をほぐすためにも、何気なくを装って、辺りを見回すふりをして体をひねったりしてみた。

そのあいだに三井くんはまたどんどん感想も書き終え、彼が「ほらよ」と言ったときには、日誌は私のほうを向いていた。

「あっ、こことかこことかも書いてくれたんだ。ありがとう……」
「いや、気にすんな」
「じゃあ、私は感想だけを書けばいいんだね」
「たぶんな。」

ボールペンを返してもらって、三井くんの視線を右手に感じながら私は「今日は」とまで書いた。

三井くんは、自分の文を書き終えたら、さっさと出て行くだろうと思っていたのに、まるでそんな気配を見せない。もしかして、私が書き終わるのを待っているのだろうか?……

ふつう、ほかの男子なら、「待っててくれてるんだな」と素直に悟るけれど、何せ相手は三井くんだ。いったい、どうしていつまでも突っ立っているのだろうと思ってしまった。


「今日は………、蒸し暑かった、ね」
「ああ、かなりな。てっきり、雨が降るかと思ったぜ」
「梅雨だもんねえ」
「それもあっけど、なんとなく七夕は……毎年雨が降ってる印象があるんだよな。」
「そう?」

なんだか、意外だなあ。三井くんみたいな人が、七夕なんて女子供の行事の日の天候を、ぼんやりながらだろうけど覚えているなんて。

私はそれを面白く感じ、家に帰ったらきっと「どうだった、大丈夫だった?!」と詮索の電話をよこすであろう友人には、黙っていようと思った。

「おまえン、どのへんなんだよ」
「え、わたしんち?……公園のすぐ傍なんだけどわかるかな」
「それって、あの赤い滑り台のあるとこか?」
「そうそう。」
「へえ。 俺、近所だわ。」
「あ、え!?そうなの!?」
「ああ。ときどき、あのへんでおまえを見かけたことあるぜ、近所の奴なんだろうなとは思ってたけどな……」
「……」
「ほんとに近いんだな。俺、あの公園の裏。」
「うわあ、ほんとに近いね!あの辺に住んでるんだ。っていうか私……そんなに目撃されてたの?気付かなかった、全然。三井くん目立つのに」
「いつも俯いて歩いてるからじゃねえのか?何か探し物でもしてるのかよ?」
「ううん、えっと……あの通りのアスファルトさよくキラキラした石が混じってるんだよね」
「……」
「それを見ながら歩いてるから……」

我ながらばかばかしいんだけど……と付け足して居心地の悪さを感じながら白状した私に、彼は「へえ」とごく普通に聞いているだけだった。

なんだか、また驚いた。絶対引かれるか馬鹿にされると思ったのに。

「………あ、あのへんに住んでるってことはさ、三井くんほんとに家族と暮らしてるんだ」

慌てて話題をすりかえようと、思いついたことをぽんと口に出してしまったけれど、そのあとで私は顔から血の気が引いていった。やばい……これはタブーだったかも……。

不良仲間と一緒に住んでる(噂)とか聞いたけど真偽はともかく、何か事情があるのかも知れないからずけずけと聞いてしまうことじゃない。

「……ん? ああ。家族と一緒だ。」


おお……、い……意外。怒らないんだ。ふつうに答えてくれるんだ。

「うるせー関係ねえだろ」くらい言われても仕方ないと思ったのに……だけど案外、深刻な事情を抱えている人こそ、触らぬ神にたたりなし……な態度を取られるほうが嫌なのかもしれないな。

それを確かめる勇気はないけれど。もうこれ以上の込み入った話は、話すまいと自分に決心していると、三井くんは続けて言った。

「不良仲間と住んでる、湘北の生徒を半殺し。」
「……え、」
「まあ、そんなとこか?噂として耳に入ってんのは」
「いや……、」
「……普通の家だぜ、さすがに女子を連れ込めるようなもんじゃねえけどな俺の部屋。」
「……」
「まあ、ありがてぇことに、いまンところ普通に暮らさせてもらってる」
「え、そ、そうなんだ………ふうん。」
「あのへんはスーパーとかコンビニも近けえし便利だよな」
「スーパーとか行くの!? いがーい!」
「……行くわ、普通に。どーいうイメージだよ」

三井くんは笑ってるけど、なぜか眉を寄せる。スーパーのかごを下げて、牛乳とか卵とかを手に取っている三井くんを想像すると、私もついつい笑ってしまった。

なんだ、やっぱりあるじゃん!可愛いところ!

こういう人ってどこかしら可愛いところがあるもんなのに、それが見当たらない。なんて思ったけれども。

「じゃあ、料理とかもするんだ?」
「あー、人並みにはな。なんだよ、そんなにやらなそーか?俺。」
「似合わないよー、おもしろいよ。」
「ちょっとはな。色々と親に迷惑かけてんだから親が仕事んときぐらいは自分でやらねえといけねーかなって」
「うんうん………」
「おまえこそ、家事手伝いしてんのかよ?」
「ん、ん〜、ちょっとだけなら。ちょっとだけ」

私が人差し指と親指で隙間を作って見せながら言うと、三井くんはくつくつ破顔する。その笑顔のおおらかさに、ちょっとだけどきっとした。

普段怖い人の、優しい一面を知ると、ものすごくいい人に感じてしまうけれど……それと同じで、ギャップに動揺してしまう。

「おまえ、前はどこに住んでたんだよ?」
「え?」
「転校して来たじゃねーか、二年の春に。」
「ああ……うん。 秋田……。」
「へえ、」
「あー、田舎だって思ったでしょ。」
「いや? ………、秋田 ………秋田、あ。」
「ん?」
「山王工業高校って知ってっか?」
「あ、まあ……。バスケットでしょ?強くて有名だよ。秋田県民の誇り。自慢なんだってさ」
「へえ、やっぱそうなのか」
「うん。バスケ、楽しそうだよね。一回見に行ったことあるの、秋田にいるとき。」
「なんだよ、興味あんのかよ?」
「うん。すこしね。」

「ふうん」と彼はちょっと目を伏せて「そうか」と肩をすくめた。それで私は、彼が実はバスケットに関することを話したいんじゃないかなぁと、直感的に感じた。

「……。三井くんさ、バスケ部復帰したんだってね。もうすっかり慣れた?」
「全然慣れねーよ、頑張って食らいついてってる感じだな」
「え、だって中学MVPだったんじゃないの? 大丈夫だよ、私スポーツ全然ちょんだけど、でも大丈夫だって、絶対。すぐだよ、すぐ」
「……」
「え、なに?」
「いや………、まあ、サンキュ。」

言われて私はそのまま教卓に体重を預ける。三井くんはクリーンガムを取り出して、私にもそれを勧めてくれた。だから素直に受け取った。

「じゃあもう試合にもでたりするの?」
「どうだろうな……、まあ、出てえけど。」
「ふうん、そっか。勝てるといいねえ湘北。さてなにを書こうかな」

と、ボールペンを握りなおしたら、三井くんが、片方の眉を持ち上げた。

「一応書く気はあったのか。ずっと手が止まってっから、もうこのまま書かねえで夜までいるのかと思ったぜ」
「だって、書くこと思いつかないんだよね……」
「今日は何の変哲もねえ一日だったからな」
「……」

本当は私にとっては何の変哲もないなんてことは全然なかった。

あんなに怯えて怖がってた人が、実はいい人だとわかって、しかも普通にしゃべっちゃって、すごくうれしいです!と書きたかった。もちろん、怖い人には変わりないのだろうけど。でも、意外とすごく話しやすい人なんだ。

私、明日からは、彼におはようと言おう。あの公園の傍を通るときは俯くまえに、三井くんの姿も見渡してみよう。

「………あ、そうだ。七夕だしさ、願いことでも書いておこうかなあ!」
「ハッ。まあ、あの熱血担任が叶えてくれっかも知れねーしな」
「あはは、だったらいいな」


私はたぶん、自分が彼を好きになるような気がしている。そんな恋の香りが、やわらかく顔の前に広がっている。

あのアスファルトに混じったキラキラした砂粒を見詰めているみたいに夢中になっているのだ。

彼の可愛いところを、もっと知りたいと言う欲望もあるし。あんまり調子に乗って、ほんとに怖い目にあったらたまらないけど……。

彼が決める、バスケットでのシュートも見てみたい気持ちもある。


「で、願い事、なににするんだ、名字。」
「ん、なににしよう。……ってあれ、私の名字、知ってたの?」

動揺して彼の顔を見上げると三井くんは含み笑いのようなものを、唇の端に浮かべていた。

「この日誌に、名字がいま自分で書いてんじゃねーかよ」
「………。あ。ほんとだ、びっくりした!!」
「けど、一度覚えたら俺はもう忘れないぜ。」
「うそ、明日には忘れてそうだよ。おまえ誰って言いそう」
「言うかよ。……まあ、嘘かどうかは明日にならねえとわかんねーけどな」
「んー、じゃあ、願い事決めた。名字を忘れられないように≠ノしとこーっと。」

実際にそう書き記す私の右手を見下ろして、三井くんは「担任は何のことだと思うだろうな」と、浅く笑う。

「……にしても、ずいぶん謙虚な願い事だな。」
「いいのいいの。本当の願い事は、ちゃんともっと叶えてくれそうな神社とかでするから!」
「ふうん……、あっそ。」


( 三井くんのこと、もっとよく知りたいです
  三井くんと、もっと仲良くなりたいです ) 


本当の願い事。たぶんこれは、直接三井くんに、お願いしたほうが叶えてくれるだろう。日誌や短冊にお願いしなくても、そのほうがよっぽど確実だ。


「……すっげー、ニヤけてんな」
「ええっ? まあ、今日はいいことあったからねっ」
「へえ……、そりゃよかったな。」


そんな彼の笑顔を見ていると、わたしの願いが、叶えられた気がした。










 もうは始まっていた。



(名前、このまま帰るのか?)
(うん? どーしたの?)
(いや……、好きなら観に来れば)
(え?なにを?)
(……バスケ部だよ。)
(え!!行くっ!!……え、てか名前!!)
(ホラ行くぞ、名字。)
(えぇ………、ハ、ハイ。)

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