「三井くん、今日も部活に顔出すの?」
「あー、いや。今日は帰る」

放課後の誰もいない教室。うろこ雲が覆う夕ぐれの空が我が校、湘北高校のある湘南の町のすべてを赤く染めていた。

「三井くんってさ」
「こんどはなんだよ」
「彼女さんと、別れたの?」

三井くんは壁にもたれかかりながら、傷跡の残る左顎を親指でなぞって、次いで微かに口角を持ちあげ私を一瞥する。

すずりで磨ったばかりの墨みたいな彼の瞳と眉はあざやかなほど真っ黒で夕陽の赤にも負けることはなかった。

「俺、彼女がいるなんて言ったことあったか?」
「ううん……ないけどさ。てか、三井くんが公表しなくたって有名な話じゃん」
「あ、そ。」
「ねえ、別れたの? 一個下の幼馴染だっけ?」
「さあな」

三井くんは肩を竦め部活の鞄を肩に引っかけた。三井くんが持つと、とても小さく見えるその青いスポーツバッグ。

私は彼の目から目を逸らすことなく、ぼんやりと三井くんは彼女さんをとても大切にしてるんだ、と思った。あまり話したがらない彼の態度が、そう物語っている気がしたから。

「お前はまだ帰らねえのか? 俺は帰るぜ」
「あ、帰る。ねえ、駅裏でさ、たこ焼きおごってよ。お腹空いた」
「たこ焼きなんざ腹の足しにもなんねえだろ。 まあ……ラーメンならいいけどな」
「じゃあ決まりね、背脂しょうゆラーメン!」

私たちはぶらぶらと学校を出て住宅街を抜け、湘北高校前駅の裏手、こざっぱりとした食堂やらが並ぶところまでやって来た。

そこに辿りついたときには空はとっぷりと暗くなり小さな銀色の星がかすかに夜空に瞬いていた。

赤い暖簾の古いラーメン屋に入り、カウンターに肩を並べて座る。

ぐつぐつとお湯が煮立つ音とか、他のお客さんが麺をすする音だとか、換気扇がごうごう動いている音とか、いろんなものがしゃきしゃき活発に動いてて、おいしそうな匂いがしていた。

三井くんと私はここにきてもメニューは見ない。いつもなにを食べるか決まってて、そしてそれが一番おいしいと悟っているほどに私たちは常連なのだ。こんな関係も、もう二ヶ月か。

店員さんに三井くんが注文を告げて「お腹空いたね」「そうだな」とだけ話すと、あとはラーメンが来るまで黙っていた。

スープの香りが湯気と共に溢れかえる厨房から、やがてお腹をすかせた私たちの前にラーメンが届けられる。私と三井くんはつるつると麺をすすった。

三井くんはすぐに口に入れてしまうのに、私はいちいちふうふうして食べなければならないので、そのぶん彼のほうが食べるのが早い。

「おいしい」

おいしい、というと、もっとおいしくなった気がした。ねぎやメンマを掻きわけて細い麺を取り、ふうふうして口に運ぶ。

そんなことを繰り返しているあいだに三井くんはさっさと食べおえて、背後にある本棚から漫画を持って来て読み始める。彼が立ちあがったとき、彼の匂いが僅かにふわっと香ってきた。

「ねえ三井くん」
「あ? なんだよ」
「彼女とラブラブ?」

三井くんは苦笑して、ふっと鼻で笑った。そしてまた彼が漫画のページを捲ると彼の瞼が一度だけ瞬きをする。私はそれを見ながら、メンマを口のなかに入れた。

「それには違う、って答えるべきなんだろうな。つか、早く食わねえと麺のびるぜ」
「え、……やっぱ別れの危機到来したの?」
「さあな……とにかく振られてるようなもんだ、俺は」
「…………そ、なんだ」

それってつまり、もう別れてしまったのかしら。でも私は、そんなに嬉しくなかった。

だって三井くんは好きなひとがいるんだと思う。そして多分、その彼女さんのことをまだ好きなんだと思うから。

三井くんを振れるなんて、どんな人なのかしらと私は思った。

確かに三井くんは更生してから色男度がマシマシだけれども、私みたいに、いちど三井くんのよさに気付いてしまったら、もう離れられなくなってしまうのではないだろうか。

三井くんはそんな魅力のある人だから私もまんまとそれに引っかかってしまったわけだから、わかるんだ。

「ねえ、三井くん」
「もうこれ以上は教えねえぞ。みじめにならぁ」
「違うよ。もしね」
「あ?」
「もし三井くんのことを好きな女の子がいたら、どうする?」

三井くんはわざとらしくがしがしと頭を掻いて、それから漫画を片手に持つと水を飲んだ。

「そんな女子がいるとは思えねえな、なにせ俺はルーキーと違ってモテねえし、残念ながら」
「嘘、モテモテなの自覚してるくせに」
「ふはっ、自覚してねえって」
「もし、だってば。その子は美人じゃなくて、 性格がいいわけでもないけど、すごく三井くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい………どうする?」
「さあなー。害がねえならほっとくんじゃね?」
「……告白されたら?」
「断るっつーの、そんなん」

三井くんは持っていた漫画をテーブルに置いて、腕を組んだ。

私は自分の顔から表情が消えていくのを少しずつ感じた。

「………前の彼女が忘れられない?」

言っていいのか、よくわからなかった。いい気はしないだろうし、こんなことを訊く権利は私にはないはずだ。

思わず口走ってしまったことを後悔したけれど、気になっていたのは事実だった。彼は前を見据えていたが、ゆっくり瞳を動かして私を一瞥した。

「違げえよ。そういうことじゃねえ。ただ、彼女をつくろうなんて気が起きねえってだけだ」
「じゃあ、なんで?すこしは考えてあげたりしないの?」
「俺は考えるときにしか考えるとは言わねーの。でなきゃ誠実じゃねえだろ」

私はからからに渇いた喉に唾を流し込む。

「………じゃあ……、もしその女の子が私だったら、こんなふうに、もう一緒にラーメンを食べに来たり、しない?」

くちびるが震えた。
心臓が、ひくりと強ばって冷たくなった。

三井くんはもう一度そばに置いた漫画を手に取り中をパラパラと捲る。

私の止まってしまった手、割り箸の先からスープのひとしずくが零れチャーシューの上に落ちた。

「名字よ」
「なあに?」
「麺、すっかりのびてんぞ」
「………あ、ほんとだ」

ぽちゃり。

その子は美人じゃなくて、性格がいいわけでもないけど、すごく三井くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい……

私は、もうおいしくなくなってしまった麺をすすりながら自分の言葉を反芻して違う、と思った。

まだ死んじゃいそうなくらいなんて、そんなに熱烈に好きなわけじゃない、はず。

大好きだけど、悲しいけど、なにも始まってはいないもの。私は今、彼を好きになりはじめている段階なんだ。

まだ途中で、これから本当に死んじゃいそうなくらい好きになってしまうだろう。そうなる前に、もう手を引いたほうが良いのかもしれない。

三井くんにこんなふうに甘えてみても、一緒にラーメンを食べる仲でも、彼はきっと私を好きにはなってくれないだろう。

ただ——彼はさっき、言ったけど

害がねえなら、ほっとくんじゃね

——私はただ、今はまだ害がないからほっとかれてるだけなんだ。これからどんどん私はよくばりになり、わがままになって、彼に距離を置かれるようになる気がする。

そんなことになったら、そのときはきっと、もう私の気持ちは死んじゃいそうなくらいにまでふくらんでしまってて。

でも、そんなことが予期できるからって、はいそうですかと彼から離れるには、もう遅すぎた。

私は彼が好き。三井くんが。
死んじゃいそうなくらいじゃないけど、もう離れられないと思う。

 
「さってと、帰るか」
「ん。」
「あー、食った食った。ごちそーさんでしたー」

店主に丁寧にあいさつをした三井くんに合わせて私も「ごちそうさまでした」と頭を下げて三井くんのあとに続きラーメン屋を出た。

そのまま私たちは、またぶらぶらと歩きだした。駅前はお勤め帰りのひとびとが行き交いいろんなお店の看板が様々な色にぼうっと光り薄暗い夜の道を賑やかに照らしている。

「……ね、カラオケ行こうよ!」
「行かねえよ。名字は俺が歌のうまいタイプに見えんのか?」
「………じゃ、じゃあー、ボーリングとかは?」
「そうしたら、きっとボロボロに負けちまって、名字は不機嫌になると思うぜ」
「もー、三井くんと私ってほんっとに趣味合わないよね!でもまだ帰るには早いかなーって」

三井くんはくつくつ笑いくちびるの隙間から白いきれいな歯を覗かせた。

「名字は17歳だろ、健全なコーコーセイ演じとけよ」
「早生まれってだけでいっこしかかわんない!」
「10代だと、1歳差でもでけえんだよ」
「ふうん?」
「わーったよ、負けたよ。じゃあ15分だけ、7時までな。名字んちの近所の公園に行くか。お子ちゃまはまだ遊びたらねえようだからな」
「7時半まで!」
「だめだ。7時。俺の最後の良心だ」
「じゃ、ラーメンのお礼に私がジュースを買ってあげます」
「そりゃどーも。でも7時までだぞ」
「ちっ」


私たちは、何気ない世間話をしてときどき笑ったり、ふと黙って夜風を楽しんだりしながら、私の家の近くにある公園までやってきた。

途中自動販売機で買ったコーヒーふたつを大切にかかえて私は誰もいないうす暗い公園の亜麻色の土を踏みしめる。三井くんは目を細め「いい公園じゃねーか」とつぶやいた。

「あそこのベンチにしよ」
「おっ、名字はブランコとかシーソーにはもう興味ねえのかよ、押してやるぜ?ブランコ」
「どのくらい私のことガキだと思ってんの!?」
「なんだ、違うのかよ。そりゃ悪かったな」

三井くんが破顔するから、私もついついつられて笑ってしまう。ふたりでベンチに腰を下ろして、コーヒーを静かに飲んだ。

「でねえ、また小池のことだけど、ほんとに最低なんだよ。私の後輩、授業中具合悪くなってね?そしたらなんて言われたと思う!?サボりなら聞き受けん、だって!信じられないでしょ!」
「へえ」

三井くんはあんまり興味なさそうだったけど私は構わずまくし立てた。

なにかしゃべってないと、三井くんはさっさと帰ってしまいそうな気がしたから。

「小池さ、絶対40代じゃないよね。お父さんと同い年には見えないもん……ほんと!なーにがサボりなら聞き受けんだ、後輩、本当に具合悪かったのにさ。私だいっきらい」
「そんなことで嫌いになってやんなよ、女子って時たま残酷だよな。」
「え……?」
「小池って一年の担任だろ?今年の一年は手かかる奴が多いからな、ある意味苦労してんだよ。 小池っつーセンコーも」

私はびっくりして、三井くんの顔を覗きこんだ。三井くんは缶コーヒーを傾ける。その横顔につい見惚れてしまう。

「知らねえ?一年の、流川って男前。あれがずっと授業中寝てるって話だからな。センコーたちも大変なんだろ」
「ふうん……?」
「名字にはまだわからねえか」
「……三井くん、今日はやけに子ども扱いしてくれるよね……?」
「そう怒るなって、名字。人生こんな日もある」
「なあにそれ」
「それより、流川。名字が夢中になりそうなツラしてるぜ」
「はあ?!」

びっくりしすぎて、自分の声が裏返るのがわかった。ぶらぶらさせていた脚もぴたっと止まった。三井くんは屈託なく笑っている。

「なにそれ!勝手に私の好きなタイプ作り上げないでよ!」

動揺と戸惑いで紅潮した私の顔を見て三井くんはにやりと笑った。

「あそ。じゃ、俺の勘違いだな。わりぃわりぃ」
「絶対思ってないでしょ!笑ってるもん!ねえってば、三井くん聞いてよ」
「さっきから聞いてんだろ」
「私ストレートでサラサラな髪の男子苦手なの、流川くんとか知らないしたぶんタイプじゃないよ!」
「ふはっ、よく知ってんじゃねえか。ムキになるほど怪しいぜ、誰にも言わねえから安心しろい。俺は恋のキューピッドにはなる気ねえけどな」
「三井くんってば!」

ムキになるのはそんな誤解されたくないから! ってゆうか、私が好きなのは——!!

どれだけそう叫びたかったか知れないけれど、 反論すればするほど泥沼になりそうだったので、とうとう私は口を噤んだ。

三井くんは本気でそう思っているというよりは、私のことをからかっているだけのようだし、明日になればきっと忘れてくれているだろうと願いながら。

それはそれで、私なんかまるっきり無関心みたいで悲しい気がするけど……でも、三井くんの笑った顔は死ぬほど素敵だった。


「……三井くんさあ」
「ああ」
「前の彼女さん、どんな子だったの…?」
「なんだぁ? 今日はやけに突っかかるな」
「だって……」

彼の目蓋がゆっくりまばたき、電灯に照らされた睫毛の影が長く涙袋に伸びた。

白い電灯の下で紫煙がゆるゆると空にのぼり途中で大気に溶け込んでゆく。

「三井くん……ラーメンおいしかったね」
「満腹になれたか?」
「うん、……」
「もうすぐ7時だ、そろそろ行くぞ」
「まだ55分だよ」
「そうだな。それでお前んちまで5分。ちょうど7時だろ」

三井くんが私の手の缶を取ろうとしたとき、彼の指が私の爪のあたりを触れた。

私がつい咄嗟にそれを握り返したので三井くんは目を丸くして見せる。私自身驚いていたのだから手をつかまれた三井くんは尚更だろう。

「ん? なんだよ、この手」
「……三井くん!」
「あ、なに?」

彼の手に触れたせつなに、私のなかで大きな変化が訪れた。突然。たちまち。ものすごい速さで。

「私の目、みて」
「……、見てんだろーが」

それは強い光が予期せず私を照らして私の目をくらくらにさせてしまったみたいなそんな感覚だった。甘い戸惑いよりも驚きでいっぱいな感じ。


私、三井くんのこと死んじゃいそうなくらい″Dきになってしまった。

今、手に触れてしまっただけで頭のなかにぱっとなにか閃いたときみたいに。

そして、その感覚がまだ残っているあいだに私はこのことを教えたい。三井くんに。

三井くんは多分もう、私の気持ちに気付いていて私の告白も上手に交わしてしまうに違いない。

考えらんねえとか、困るんだよ、とか言って。 でも私は一回こっきりで諦められないだろう。しつこくしてしまっても、なんとか好きなことだけでも許してもらいたい。

私は三井くんと同じ学年だし、でも彼は私を子ども扱いするし、だから許してくれるかもしれない。仕方ねえなって。大目に見てやるよって。


「三井くんのこと、好き。だから、キスして」

だめだ。離せ。なに言ってんだ。三井くんが答えうる可能性のある言葉を思い浮かべながら、私はじっと彼を見詰めた。

彼もじっと私を見詰めている。その黒曜石のような、純粋な黒をした瞳が一瞬細められた瞬間——


「あーあ。とっくに帰宅時刻が過ぎてんのによ」
「……」
「ハァ、3秒待ってくれ。考える時間、くれよ」

彼はそうささやき、私の頬にそっと手を添えた。
——さん、にい、いち……










 首を痛める 3秒 前。



(もう、いいの?彼女さん……)
(じゃなきゃこんなことしねーよ)
(もう、吹っ切れた?ほんとに?)
(ったく、しつけえな。吹っ切れてるっつの)
(ほんと?)
(名前、それ以上喋るとまた口塞ぐぞ)
(もっと…名前呼んで?んでいっぱい口塞いでよ)
(バーカ。変態かよ……オラ、じゃあ覚悟しろよ)

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