※宮城長編『Little Star』スピンオフ作品※
※映画ネタバレ有※


何か、日常の中には無い、においがする。
気が付いた俺は、着替えの途中で顔をあげた。

知らないにおいだった。
どこか甘い、でも妹や母親が使う制汗剤のにおいのような華やかなにおいとも違う。

そもそも、汗だくの成人男性が着替えをしている自室の中で、そんな匂いがするはずもなかった。

澄んだ、においだった。

最初は気のせいかとも思った俺だったが、隣で勝手に俺の部屋で寛いでいたアンナが、同じような顔をして、鼻をすんすんと鳴らしていた。

「リョータぁ〜」

「あのさ、」と彼女の声がキッチンからした。

まだ着替えてる真っ最中なのに、勝手に話し始める彼女に、思わず鼻で笑って着替えを中断して、急いでキッチンに行く。

彼女が、大きなダンボールをダイニングテーブルの上に乱暴にどさりと置いた。

「親戚が、送って来たんだけど。」
「……?」
「馬鹿みたいに大量にあるから、バスケのチームの子たちにも持ってってあげて」

ダンボールの中に真っ赤な丸いものが、本当に
馬鹿みたいに、たくさん入っている。

「リンゴじゃん」

すぐに続けて駆け寄って来たアンナが、ひとつを掴んで持ち上げた。

「うん、アンナも友達に配りな?」
「やった、ありがと!」

へえ、と俺も同様、ダンボールを覗き込む。
さっき嗅んだにおいと、同じにおいがする。

「いいの?名前ちゃん」
「ん。ご近所にもおすそ分けしたから。さすがに四人じゃこの量、食べらんないでしょ」

ふん、と少しつまらなそうに彼女は鼻を鳴らした。俺はそれを見てにやりと笑う。

「名前さん!ありがとね、持ってく!」
「うん、そうして。残されても困るから、ぜんぶ片づけてよね」

アンナは、リンゴをいくら手に取ると、友人に持っていくのか、スーパーの袋に小分けにして詰め始めた。

袋に入れながら「いただきます」と、アンナは赤い実を、豪快にもそのままガリッと口に運んだ。

しっかりと、俺のコーチをやっているミニバスのチームの分も分けてくれたアンナ。

すっかり空になったダンボールは、最後に名前ちゃんが片付ていた。

すぐにアンナは「行ってきます」と、スーパーの袋をいくつかぶらさげて、家を出て行った。








「ねえ」

数時間後、彼女とふたりきりの空間で、俺たちはテレビを見ていた。部屋着に着替え終わった俺が彼女に声をかける。

「あれ、家にはねえの」

俺がそう言うと、彼女は「あれ?」と聞き返す。

「リンゴ。」
「まだアホほどあるけど。もう、家の分は冷蔵庫に閉まったよ。」
「ふーん……」
「なにリョータ、食べたいの?」

「言ってよね」と、笑う彼女に、俺は目を細めて「ちょうだい」と唇を尖らせる。

「しょうがないなあ」

言葉とは裏腹に、少し嬉しそうな彼女に、俺も
なんだか嬉しくなって頬を緩めた。

「しっかし、沖縄は暑いねえ」

キッチンに向かった彼女に俺は、なぜか少しバツが悪そうに、ついていく。

「ちょっと待ってて」

すぐに彼女が冷蔵庫を開けた途端に、さっき嗅いだあのにおいがまた、目の前いっぱいに広がる。

「ほい。」

彼女がひとつ取って、俺の顔の前に差し出す。

「リンゴって、こんなにおいすんだね」
「ん? ああー、いいにおいだよね」

彼女が手に持っていた真っ赤なそれを持ち上げて自分の鼻に近づける。

「ねえ、剥いてよ。 いま、食いたい」
「はあ?私がそういうの得意だと思ってんの?」
「名前ちゃんって、リンゴも剥けないほど不器用なんだっけ?」
「………」
「得意なのは、かぼちゃの煮付けだけかあ」
「はあ?!ほとんど食べるとこなくても文句言わないでよね!」

ふん、とぶつぶつ文句を言いながらも、彼女はすぐに果物ナイフと、白い皿を取ってダイニングテーブルに置く。

椅子を引いて座った彼女の向かい側に、俺も椅子を引いて座った。

この子は、口は悪いくせに意外と面倒見がいい。
俺は、改めてそう思ったら小さく笑ってしまう。

「あざーす」
「なんで私が……」

リンゴを二つに割ったナイフが、ガン、とテーブルにぶつかる。

思わず「おいおい大丈夫?」と、俺が零すと、
彼女はじろりと俺を睨んだ。

「うっさいなー、手を切るヘマはしないから。」

四つに割ったリンゴの皮を、彼女がたどたどしい手つきで剥き始めた。

真剣な彼女の顔に、気を散らして怪我でもされたら困る俺も、静かにその手元を見守った。

「このリンゴ、送ってきた親戚の家がさあ」

皮むきに慣れたのか、彼女がぼそりと呟いた。
俺は、「ん」と小さく返事をする。

「ちょーぅ、雪降るとこなの」
「へえ」

テレビの音をBGMに彼女の話す声と、赤い皮と白い実をわける、しゃりしゃりという音だけが室内に小さく響く。

彼女の声は、いつもの食卓で聞くような乱暴な声でも、張り上げた声でもなく、年相応に落ち着いていて、俺はそれが少し落ち着かなかった。

二人しかいない部屋なのだから、いつものうるさい食卓と同じ声でなくていいのはわかっているけれど。

「小学生のときかな。住まわせてもらってたときにさ、」
「うん?」
「すっごく雪降んのよ。こんなでっかい雪が」

「こんぐらい、」と彼女が指で輪を作る。
そんな雪が空から降ってきったら大変だろう、というぐらいの大きさで俺は「大げさ」と笑った。

「いやまじで!雪が綿みたいで、でかいんだよ。そんで、どんどん積もってくわけ」

「このまま家が雪で埋もれちゃうんじゃないかと思ってびびったの」と笑う彼女が「はい」とようやくひとつ剥き終わったそれを白い皿に置く。

「あざーす」

俺が指で持ち上げたリンゴは、厚く剥かれた皮のせいで随分といびつだった。

「……ボッコボコ。」
「うっさい、文句言うなら食うな」
「食う食う」

しゃり、と果肉に歯が落ちる。
口に広がった果汁は、俺が知るリンゴの味ではなくて、俺は一瞬固まった。

「兄貴とさ、秘密基地作ったりしたんだけど」
「……ん」
「雪降ったら崩壊した、木っ端みじんに」

あはははと、彼女は楽し気に笑っていた。

沖縄出身の俺にとって、寒い地方で採れるリンゴは、遠い世界の果物だ。

神奈川に引っ越してからはスーパーで見ることもあったが、安くない代金を出し買うものではなかった。

スナック菓子の方がずっと安価で腹も膨れる。
俺が普段口にするリンゴは、せいぜい、ケーキにおざなりに入っているかけらか、冷麺や冷やし中華についてくる、ぺらぺらのリンゴぐらいだ。

「う、ま。 なにこれ」
「ねっ、おいしいだろぉ〜」

あっという間に彼女が剥いたひとつを食べ終わった俺に気をよくして、彼女もどんどん残りのリンゴの皮をむき始める。

彼女がひとつ剝くと、すぐに俺は手を伸ばして口に運んだ。

少し冷えた白い果肉からは、あのさわやかで甘いにおいをずっと濃くした味がする。

「雪って、音を吸うんだってさ」
「ふうん」

彼女の話より、リンゴの方が興味を引く。
おざなりに返事をした俺に、それでも彼女は話を続けた。

「雪が積もると、耳が痛いぐらい静かになって、親戚んち、古いから隙間風も凄くてさ。」
「ん」
「寒いし、怖いし、それからもう、冬は二度と
行かなかったわ」
「……行かなかった?」
「ああ、もう死んだけど、そこの家の父親から
追い出されたから。それからは行かなかった」
「……あ、ごめ。」
「ううん。 なによー?今さら?」

俺は面食らって、頬をぽりぽりと掻いてみる。

自分のルーツを語るのに、なんの抵抗も無い彼女を見ていると、いつも感心してしまう。

「名前ちゃん、テレビで雪降ったの見たとき、雪だるま作りたいってはしゃいでたじゃん」
「全然ちがうんだってば」

俺にとって、雪は神奈川で初めて遭遇したものだった。

空から落ちてくる白いそれは、ほこりのようで
まったくもって綺麗だとは思わなかった。

それでも、花道や三井サンのように、雪が降るとはしゃぐ周りを見ていると、ニュースキャスターが「明日は雪です」と天気予報で告げるとき、俺も億劫になると同時に少しだけ心がはしゃぐ。

けれど、彼女の言う雪景色は、
到底、俺には想像できない。

耳が痛いほど音を吸うほど積もり積もった雪も、膝まで積もった真っ白なふかふかの新雪も。

それを、彼女は知っているらしい。
そう思って、俺はふと気づく。

自分のルーツのひとつに、沖縄があるように。

彼女のルーツの中にも、今彼女が話した俺にとっては遠い異国のような景色がある。

そう思って、俺は何故だか急に鼻の奥がつんとした。理由はわからないけれど。

「ねえ?」

いきなり静かになって、リンゴを食べる手を止めた俺に、彼女が話しかける。

俺はそれに返事はせずに急に立ち上がって、彼女の頬に手を伸ばした。

俺の意図を察した彼女は、「アンタが剝けっつったんでしょ」と少し呆れながら、それでもナイフと剥きかけのリンゴを皿に置いて、彼女も少し腰を上げた。

傾けた俺の顔が彼女の顔に近づいて、薄く開けた唇がくっついた。

お互いの唇を吸い合うだけのキスは、優しいともつたないともとれる。

彼女の手が俺の頬に添えられると、その指からは胸がすくような甘いにおいがして、やっぱり俺は理由もわからず泣きそうになった。

俺が唇を離そうと顔を引いた際に、彼女の舌が
俺の下唇をペロと舐める。

「ん、美味い、やっぱり。」

満足げにそう言った彼女は、またナイフをとり
リンゴの皮むきを再開した。

剝かれた実をまた口に運びながら、俺はぽつりと「俺の、兄ちゃんがさ」と呟いた。

彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに穏やかな顔で自分の手元に視線を落とし「うん」と返事をした

彼女の伏せた目のまつ毛と、リンゴの皮を剥く薄い刃物を交互に見ながら、俺はぽつぽつと、彼女と話をした。


俺の話を聞きながら彼女がリンゴを剥いているうちに、すっかり遅くなったことに気付く。

慌てて支度をする俺に彼女が、さっきアンナがスーパーの袋に適当に詰めたリンゴを「チームの子たちによろしくね」と押し付けて来た。

家を飛び出した俺は、見慣れたスーパーのビニール袋の取っ手を、大事に握りしめて、幼い頃に通い慣れた体育館へと急ぐ。

スーパーの袋が揺れるたびに、リンゴのにおいが鼻をかすめた。








四人で一緒に住んでいる今の家で、彼女がリンゴを剥いてもらってから、俺の好物リストに、リンゴが追加された。

彼女の切ってくれたリンゴを食してから一時期、ジュース、ガム、キャンディーなど、目につくリンゴのパッケージを手に取っていた俺。

でも、人口の香料でつけたにおいや味は、あのへたくそに剥かれた白い実からはほど遠くてすぐに辞めた。

それでも俺は、彼女がときどき俺にする穏やかな声や顔に、どことなく、あの澄んだにおいを感じた。

『いつか、名前ちゃんが言ってた積もった雪、一緒に見に行きたいなあ。』

と、いつだったか、
俺がぽつりと呟いたことがある。

それを聞いた彼女は、ぽかんとしたあと、「アンタ寒いの苦手そうだから、無理じゃん?」と身も蓋もない返事をした。

そういうんじゃねえんだよ、と俺が、相も変わらずため息をつく。

「まあ、隣を歩くぐらいは、してやらんでもないけどねっ」

そう器用に片方の眉だけ上げて鼻を鳴らした彼女は、本当に隣を歩くだけで手を繋いで暖めてくれることすらなさそうで、思わず俺は笑う。

「君にしちゃ、じょーできっス。」
「馬鹿にしてんの?」
「まさか」

なんだかんだ言いながらも、きっと隣を歩く彼女は、俺が寒さで縮こまるなら「だから言ったじゃん」と肩をくっつけてくれるだろう。

俺が雪にはしゃぐなら「ガキだよねー」と言いながら呆れた顔で笑うんだろうな。

沖縄はもう来ちゃってるもんね、と笑う俺に、
彼女はただ吊り上がる眉を少し下げて、嬉しそうに目を細めた。










 互いの ルーツ の終着点。



(リョータは、秘密基地とかないの?)
(へ? 沖縄に?)
(そ。子供の頃とかに作った場所。)
(……、あるけど。)
(えっ?!マジ?)
(明日、行ってみよっか。)


※沖縄で暮らす、二人のお話。

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