彼には好きな人がいた。それはそれは、私なんかじゃ到底敵いそうもない素晴らしい人が。それとは別に、彼には恋人もいた。それはそれは私なんかじゃ到底敵いそうもない素晴らしい人が——。

私が彼を知ったとき、すでにその好きな人と恋人は彼の人生そのものだった。きっとこの先どんなことがあっても、誰もこの二人≠ニ彼の仲を、壊すことは無理だろう。

だって彼はもうすぐ好きな人彩子を残して恋人バスケのため自分のためにアメリカに行ってしまうのだから。








「あ、名前ちゃんってさ、英語得意だったよね?良かったら教えてくんない?」

普段は話しかけもしてこない宮城くんからの要望に、一瞬わたしは世界がまっしろになった。緊張すると何も考えられなくなるってこういうことを言うのだろう。

別に教育実習の大学生が朝礼で挨拶するわけでもないのに、なに固まってんだろ、わたし。

「……うん。わたしで良ければ」

宮城くんは私の返答に少しぎこちなく微笑んだ。今日に限って図書館に女子がいなかった。しかもまさか図書室に彼が出向くとは夢にも思っていなかったので、心底驚いたのだ。

どいらかと言えば、不良高校と言える湘北高校。その図書館に清楚な女子は入ってこない。そもそも清楚な女子って、この学校ではあの、バスケ部のマネージャー、一年生の赤木晴子ちゃんくらいしか思い当たらないけど。


きょうの図書室には真面目そうな男子が数名。だから私にはこの場所はひときわ居辛い。でもこうして何故かたまに来ちゃうんだけど。静かで集中できるのは確かだから。

「どこがわかんないの?」
「えっとね……こっから」
「え、一年からなの……?」

宮城くんが示したのは高校一年の一番始めの単元からだった。私は彼が登場した驚きを置き去りにして、いかんせん気が遠くなる思いがした。

「……」
「な、なんだよっ!悪かったね、馬鹿で!」

いやね、誰も高校バスケ界であの強豪の山王工業を打ちのめした選手の一人が勉強も両立してやってますなんて思ってないけども。そんなんやってたらホントに神だけど。天は二物をなんとやらってやつになってしまう。

「いいよ、なんかそれが宮城くんって感じだし。じゃ、始めよっか」
「うんっ」

周りの優等生群の視線が刺さる中、私は一生懸命彼に英語を教えてあげた。私の持っている全ての英語の学力を宮城リョータに。後悔なんてしないように、私の全てを彼に——。

決して勝てない最愛の恋人バスケ≠ノ抑えようのない嫉妬≠覚えながら。


「……そうそう、」
「で、ここに知覚動詞?ってやつが入って、ん?hearだよね?」
「うん。そしたらそのあとにね、Oと現在分詞がくるの」

宮城くんは案外飲み込みが早かった。まるで早く終わらせて大好きな想い人と恋人バスケのところへ行きたいんだとでも言うように。

「……」
「……」

宮城くんの指に思わず見入った。この指が、この長くて太くて関節ごりごりのこの指が、恋人バスケを触って掴んで離さない。今は不釣合、シャーペンが握られている右手。

ねぇ、どうしてあなたはそんなに恋人バスケを愛しているの?どうして私を見てくれないの?私の想いに気付いてないのなら、英語を教えてなんて言わないでほしい……。

無駄にふたりだけの時間を作って、私の気持ち、どうにかなっちゃいそうだよ……行き場のない、こんな感情が——。


「……宮城くん、部活は?」
「ん? 今日は休むよ」
「えっ!いいの?それ」
「え?教えてもらってんだから仕方ないでしょ」
「え、ええ……」

……嘘、でしょ?なんで宮城くんが恋人バスケより私を取るの?ダメ、喜びそうになっちゃう。

……ああ、違う。恋人バスケの……ための勉強だった。危ない危ない、忘れるところだった。

「宮城くん」
「ん?」
「もう、八時だよ」
「ん。」

あ、そうか。宮城くんにとっちゃ八時なんてまだまだ練習してる時間だった。帰宅部の私からしたら八時なんてどうした!?って感じの遅さなんだけど。改めて住んでる世界が違うんだと思い知らされる。

「……」
「あー、でも……」
「……ん?」
「名前ちゃんはあんまし遅くなるとヤバイのかぁー。外かなり暗いもんね」

すると突然、宮城くんは教科書とワークとノートとプリントと筆箱と電子辞書をナイキのスポーツバッグにしまい始めた。

「な、なに?どしたの?」
「ん?だって名前ちゃん帰んでしょ?もう暗ぇし。付き合わせちゃってゴメンね」
「えっ!?や、別にいいよ?宮城くんの勉強のが優先……」

——あ、だから違うって。宮城くんは、私なんてさっさと帰らせて、早く恋人バスケに会いたいだけ。

「……そうだね。ごめん。帰るね」
「うんっ」

宮城くんは、二ッと笑うと、バッグを肩に掛けて歩き出す。私も小走りでそれに続いた。まるで、恋人同士のように——。


階段を降りて昇降口に着いたとき。私は、きっと宮城くんはこのまま体育館に行くんだと思ってた。……ら、宮城くんはそのまま下足箱に向かっていて、驚いたからつい声をかけた。

「み、宮城くんっ!」
「んー?」
「……あの、部活は?」
「んぁ?だーかーらぁ、帰んでしょ?名前ちゃんは」
「いや、私は帰るけどさ、宮城くんはホラ、部活行くんじゃないの?」
「いや……今更行ったって彩ちゃんに絞められるだけだから行かないよ」

私は下足箱から自分のローファーを取り出しながら宮城くんの言葉を聞いていた。卒倒しそうだった。だって、部活……行かないなんて。大好きな恋人バスケが待ってんのに。——彩子に、会えるのに。


「おーい、置いてくよー」
「へっ!? ちょ、ちょっと待って!」

信じらんない嘘みたい。宮城くんが……わたしを呼んでる——。

「名前ちゃんは電車?」
「うん」
「じゃあ一緒だから送ってくよ」
「え!わわわ、悪いよ」
「いーじゃん♪いーじゃん♪」
「……」

わたしはきっと、都合のいい夢を見てるんだな。ああ、いい夢だなあ。覚めたくないな……。








「アイライクバスケボー!」
「……」
「アイムフロムジャパン、」
「……」
「ドゥーユーライクバスケボー?」
「……」
「ウィッチドゥーユーライクバスケオアバスケ?」

駅へ向かう暗がりの道、ずっと宮城くんは英語(なのかこれは?)を、ぶつぶつ呟いていた。

やっぱり全部、恋人バスケの内容だった。当たり前だよね。本当に好きなんだなぁ、バスケット……。


「アイライクユー」
「……」
「アイラブユー」
「……」
「アイニージュー」
「……」
「アイラブラブリーナマエチャン」

……いいなあ。恋人バスケは、毎日こうして宮城くんに愛を囁いてもらえるんだ。アメリカなんて遠い国へ行く理由も、あなたなのよ。……って、笑っちゃう。

だめだ、これじゃバスケ≠嫌いになりそう。そんなのだめ、宮城くんの大切な大切な恋人なんだから。そんなの——、

「……」
「……」
「え?」

……え、なに?
いま……なんて言った?


宮城くんは立ち止まっていて、街灯の変わりにもなっている月を見上げていた。私は月なんて見れなかった。街灯なんかより街灯に照らされた私より三歩くらい後ろにいる彼の表情を読み取るので精一杯だったから。

宮城くんは月という街灯を見終わって私を見た。左耳のピアスがきらりと光る。真剣な表情に思わず全身に力が入る。目が合っただけで、顔が熱くなったのがわかった。

「行く前にさ、言いたかったんだよ」

ばつが悪そうに、彼はそう言った。

「ご、ごめん宮城くん……さっきの、」
「……?」
「もう、一回……」
「えぇーー!!?」

宮城くんは素っ頓狂な声をあげて、頭をぼりぼり掻くと私たちの三歩の隙間を二歩でつめて、私の目の前に立った。私が彼を凝視していると、彼はゴホン!と咳払いをして再度、口を開いた。

「アイラブラブリーナマエチャンっ!」
「わうっ」

今度は私が素っ頓狂な声を出しちゃったのは急に彼に抱き締められて、ばこん!と彼の胸板に顔をぶつけてしまったから。

「ラブラブラブラブラブラブ!」
「みみみ宮城くん! なになになに!」
「こ、告白っ!だってば!!」
「えぇーー!!」
「ラブラブラブラブラブラブラ……」
「お、落ち着いて宮城くん、わっ、わたしもラブだから!」
「えぇー!!」

コントでもしてるんか、私たち。でも、ホントに夢じゃないよね?周りに誰もいなくてよかった。道行く人が今の私たちを見たら、きっと正真正銘のバカップルか、変質者だ。


「……高一のさ、」
「……」
「文化祭ンときから、好きだったんだ」

宮城くんは私を抱き締めたまま言った。

「覚えてる?俺が屋上で文化祭サボってボールと戯れてたとき」
「えっと……」

あれは確か私が実行委員で、担任に連れて来い!って言われて、頼りが屋上しかなくて……

「俺が文化祭つまんないっつったらさ、ほっぺをひっぱたいたの、俺の。」
「——!! きゃー!」

そ、それは……私たち実行委員が三ヶ月前から、血も汗も絞って一生懸命企画してたのを、つまんないとか言われたからで……。

「そんときの怒った顔が、かなりかわいくてさ」
「どっ、どんなよそれ!」
「おっ、これこれ♪」

宮城くんは、私の顔を見てケタケタ笑った。私に腕を回したまま。楽しそうに。だから私も笑う。


「宮城くんは、嘘つきだよ……」
「へっ?」
「好きな子がいるくせに……恋人だっているくせにさ。そのために苦手な英語も勉強してアメリカなんて遠い国行っちゃうのに」
「そ、それは……」
「わたしも宮城くん好きだよ。初めて宮城くんがバスケしてるの見たときから」

——でも、わたしはバスケには敵わない。


「でも……ありがとう、宮城くん。」

好きになってくれて。わたし知ってるの。バスケしてるときの宮城くんが、一番輝いてるんだってこと。わたしじゃ無理なんだ。——わたしじゃ、宮城くんを照らせない。


「……嘘つきは、どっちだよ」
「え?」

宮城くんは突如、重低音で呟いた。

「名前ちゃんがさ……俺のこと好きなのくらい、知ってたよ」
「……は?」
「練習試合でも公式戦でも欠かさず試合観に来てくれてたことも。あと、練習も隠れて見てたでしょ?」
「——は!?」
「俺がアメリカ行くって決めたときから、やけに英語頑張ってたのも」
「は……」
「いっつも話しかけてくんなかったろ?あんなに俺のこと見てたくせに」
「そ、それは……」

頭がまっしろになる。全部……知ってたなんて。

「名前ちゃんだけだよ。」
「え……」
「俺を、バスケで縛ってたのは。」
「——、」

宮城くんが言う、いつもよりも低い低い声で。 わたしは、宮城くんが見れない。

「だって……」

視界がぼやけ始めるのは、宮城くんのせい。私に回されたままの宮城くんの腕から、体温が伝わるせい。

「わたしなんて……宮城くんになんにも出来ないんだよ?」
「なんにも?」
「じゃあ、私は何が出来るの?バスケ以上になにが出来るの?宮城くんはアメリカ行くほどバスケが好きなのに、私がそれに、勝てると思う?」
「……」
「生まれたときから一緒だったんでしょ?人生かけて好きなんでしょ?私が好きでも……アメリカに、行くんでしょ?」
「……」

こんなこと、言うつもりなんてさらさらなかったのに。一度パンドラの箱を開けてしまったらもう止まらない。嫌われる、絶対にめんどくさいって思われるに決まってるのに——。

「知ってるよ、こんなの最悪な我儘だってこと」
「……」
「幻滅したでしょ?私、全然心が広くないの。」
「……」
「好きな人には私のことだけ考えてて欲しいの。そばにいて欲しいの。……呆れた、でしょ。」

宮城くんは黙ったまま。もういいんだ。このまま黙ってアメリカでもなんでも恋人のもとへ行けばいい。汚い私は置いてけぼりでいい。ばいばい、私の青春——。


「——っ」

突然、宮城くんの唇が私の唇に触れた。

「み、……っ、ん、」

そして、止まらなかった。

「……」
「……」

宮城くんの貪るような口付けは何か意外だった。唇が離れたとき、相手の息遣いが、ダイレクトに伝わるほど、至近距離にいる私たち。

「……っ」
「じゃあさ……、一緒に来てよ」
「!!」

私は宮城くんの顔を見上げた。彼は笑っている。いつもみたいに。眉を歪ませて。

「……来て、って」
「平気平気、俺ら来年結婚できんじゃん。この際婚約って意味でどう?」
「……は?」

開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。

「バスケのことなんて忘れちまうくらい、俺の頭支配しに来てよ。」
「……」
「そばにいて欲しいならついて来て。今なら一緒にいんの、永久保証書付いてくっから」
「そ、そんなの、」

——プロポーズって言うだよ、世間一般的には!


「宮城くん……だ、大好きっ!」
「ぷぉ!」

たまらなくなって、私は宮城くんに抱き付いた。きつくきつくきつく。ぎゅうぎゅうと。

「今すぐには行けないけど……でも、絶対に会いに行くから」
「うん」
「今度は、私がちゃんと証明してみせるよ」
「うん、じゃあそれまでは遠距離恋愛だね」
「うん」
「頑張れそう?」
「当たり前じゃん!もう、一生離れてやんないんだから……!」
「ははっ、上等。」

知らなかった。宮城リョータは、私が思うどんな男性よりも心が広くて大きかった。もう絶対一生離さないんだから。


「ずっと、宮城くんとこうなりたかったの」
「……俺もだよ。ありあと、名前ちゃん」
「……うん。」

幸せの涙は枯れることがなかったけど。きっと、それは、これからもずっと。


いってらっしゃい、宮城くん。

大好きだよ。

ありがとう——。










 すべて 運命 のせいにして



(彩子のこと好きだと思ってたのに)
(彩ちゃんは好きだよ?でも同志って感じかな)
(そっか……うん。)
(だから、名前ちゃんは特別なの)
(特別?)
(そっ。名前ちゃんが一番大好きなのっ)
(……うん、信じてるよ。)

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