三井くんって、どういう人なんだろう。そんなことを考えているうちに、いつのまにか好きになっていたから驚いてしまう。

背が高すぎて顔がよく見えなかったけれど、授業中に普通に座ってるフリをしながら昼寝する横顔がすごくかっこよくて。あとは、通りすぎたときに運動部に所属しているにも関わらず白いシャツの袖から爽やかなレモンみたいな匂いがしたときとか。

目が合ったとき「あ?」って、警戒心ゼロのとぼけた顔で聞き返されたこともあったなぁ。

そういう小さな積み重ねで、すこしずつ恋に至っていった。

同じクラスにいるだけで嬉しくなるし、毎日胸がいっぱいだ。だから、どうにかなろうという気概はない。ただのクラスメイトのままでいい。


好きだと気づいたときから、
告白はしないと決めた——。







「うおっ?」

朝のホームルームを遅刻して、三井くんが教室に入ってきた。つぎは移動教室で、既にここには誰もいない。私もミーティングの書記を終えたら、すぐにここを発つつもりだった。

「……今日ってよ、もしかして学校ない日か?」
「ううん、あるよ。ふつうの平日だよ?」
「だよな、焦った」
「みんなもう化学室だよ。白衣着なきゃだし」

いきなり三井くんが姿を見せたことにびっくりしたし、三井くんと普通に喋ってることにもびっくりしている。それに、教室にふたりきりだという事態が、ゆっくりと私の体温を上げる。

緊張するとぺらぺらといらないことまで話してしまいそうになるから、私はそっとくちびるを噛んだ。

「……名字は——」
「え……。」
「なんか、忙しそうだな」
「あ……わたしは書記。さっきミーティングがあって。」
「へえ」
「先行ってていいよ、すぐ行くから」
「おぅ。」

……名字は≠ニ彼は言った。
私の名前、憶えててくれてたんだ。

クラスメイトだから当たり前かもしれないけど、すごく意外な気がした。まともに喋ったことなんて、なかったから。

三井くんは微かに口元を緩めて笑っていないのに笑ったみたいな、なんというか……やさしい顔をしている。

そのままじっと私を見てくるから私は彼を二度見して頭がこんぐらがってきそうになる。

彼がぎしりと床を踏んでこちらに近づいてきて、私は静かにパニックに陥った。

「ミーティング中寝てただろ」
「え?」
「消しカス、」
「ん?」
「ついてるぜ」

私の頬のまえで指をくるりと回して、今度こそ三井くんは笑った。頬を触ると、ぽろりと消しカスが落ちてくる。

三井くんは私を通りすぎると自分の席でゆっくり支度を整えはじめた。


……息が、止まるかと思った。
わたしこそ、焦った……。

笑った顔の、いつものきつめな印象に反してとろけそうな目じりが、くちびるから漏れた微かな息が、なんだか、すごかったから。

(はやく、書き切らなくちゃ……)

つぎの授業まであと五分。
動揺している余裕なんてないのに。


「字、うまいのな」
「!?」

あれ、いい匂いがする。と思ったら、三井くんが私の頭上から議事録を覗きこんでいた。

気を抜いていなかったら、ギャー!とか、ワー!とか、ギエー!とか、そんなことを叫んでいたと思う。

ぐっと耐えて深呼吸して、努めて冷静を装って。慌てない慌てない。そうだ、素数を唱えよう。

「えー、汚いよ?癖あるし」
「……」
「はは……」
「邪魔しちゃ悪りーか……お、もう終わりか?」
「うん、よし、終わり!」
「お疲れさん」
「あ、ありがとう。」
「じゃあ、行くぞ」
「え」
「あ? 化学室だろ?」

………。

……それは、一緒に行くということ?

いや、待っててくれたのかな?クラスメイトだから当然かもだけど。え……嘘でしょ、どうしよう。よろけそう。素数素数。


「ったく、……遠いんだっつーの」
「そうだね」
「一年はいいよなぁ、三年は一階だもんよ」
「う、うん……だね」

三井くんは小脇にふわりと丸めるように畳んだ白衣を抱えて歩きはじめる。頭をひょいと屈めて教室のドアをくぐる仕草が、どことなく優雅だ。私も教室を出るときドアの上部を見上げた。背伸びしてもぶつかりそうにない。本当に背が高いんだなぁ……。

このあいだ、ふと家にある冷蔵庫を見上げて、あ、三井くんくらいあるかもと思ってメジャーで測ってみたら184センチあった。ほんと、家の冷蔵庫くらいはある。三井くん、実際はどれくらいあるのかなぁ。でも、それを本人に聞く勇気はない。


そのまま無言で廊下を突っ切って、三階に繋がる階段を上った。

踊り場の鏡に、三井くんと私の姿が映っている。三井くんは背が高くて、肩くらいで途切れているけれど。私は恥ずかしくなって鏡からすぐに目を逸らした。

三階につくと、まっすぐ続いた窓から、やわらかい風がそよと吹いてきた。水色の空に、群青色の穏やかな海が見える。

眩しいほどの青い風景。
耳を澄ませば潮騒が届くほどの。

ふと人の姿が途切れた瞬間に見せる、海のあるこの景色が私は好きだった。なにか懐かしく、心落ち着く風情があるから。

そんな瞬間に、三井くんと過ごせたことを、幸福に思った。


「いー天気だな」
「うん」
「風も気持ちいいしなー」
「うん、そうだね」

——本当にそうだね。
三井くんは、気持ちよさそうな顔をしている。

気がつくと自分もリラックスしていることに気がついた。さっきはあんなに慌てていたのに。まだドキドキはしているけど沈黙が全然苦しくない。

なにも喋らなくてもいいだろうし、なにを喋っても三井くんは聞いてくれるだろう。身構えなくていい。見た目に反して肩の力を吸い取ってくれるような、そんな大らかさがある。

三井くんって、不思議な人だ。私はこれ以上、三井くんのことを知ったら、きっとつらくなるくらい好きになってしまう気がした。

「今日の実験って、グループでやんのか?」
「うん。そうだよ」
「オレ何班だったっけな……覚えてねーわ」
「たぶん、6班だと思うよ三井くん。コロイド溶液のチームじゃない?」
「へえ、全員把握してんのか」
「ううん、そんなことないよ、たまたまだよ」
「ふーん」

三井くんがちらと私を見てくるから、あわあわしそうになるけど、そうならないようにくちびるを噛む。

青い空と海。風。つるんとした廊下。私の上履き三井くんの白いシューズ。どこかで、ひそひそと話し声が聞こえて、また聞こえなくなる。

化学室が見えてきた。もう終わってしまう。こんな奇跡みたいなこともう二度とないんだろうなぁ……。

「6班なら、ほかにも話しやすい子たちいるんじゃないかな」
「へえ」
「あ、そうそう。さっちゃんとか」
「ふうん。さっちゃんは名字と仲いいのか?」

さっちゃん三井くんと同じ班じゃん!いいなー!と電話で喋り倒したから、よく覚えてる。さりげなくいま、名前呼んでもらえてたな、いいなぁ、さっちゃん……

「さっちゃん、三井くんと気が合うと思うよ」
「そうなのか?」
「うん、超陽キャ系」
「ほー。さっちゃんな、じゃあ見とくか」
「え、しらないの?名前」
「知らねーよ。女子は特にな。」
「えぇ……」
「名字は大丈夫だけど」
「わたし?なんで?」
「……」

三井くんはちょっと考えるみたいな顔をしてから僅かに口の端を吊り上げる。そして目を細めると、「なんでだろーな」と言った。すごく、きれいに笑いながら。

「下の名前は名前、名字名前。」
「え? あ……うん? そうだよ??」
「字は、こうだろ」

と、指で中空にフルネームを書きだすから、私はどんな顔をすればいいのかわからなくなった。

お願いだから、イトコに似てるから≠ニか、婆ちゃんと名前一緒だから≠ニか、なんでもいいから理由を言ってほしい。

でないと、
盛大に勘違いしてしまいそうだから。


「——で、あってるか?」
「うん、……あってる」
「おー、よかった」
「……」

化学室についてしまった。まだ授業は始まっておらず、扉の向こうから銘々がお喋りしているざわめきが、微かに伝わる。

それなのに三井くんは、扉を開けようともせず、じっと私を見下ろしてくる。それで、すこしだけ困ったように眉を寄せて微笑んだ。

「……名字」
「なに?」
「入るまえに……深呼吸すっか」
「!!……」
「落ち着け、大丈夫だって」
「いやだ、もぅ…………赤い?」
「赤けぇ」

たぶん私はユデダコみたいになっている。顔が熱い。たぶん、信じられないくらいに赤い。これじゃあ、勘違いしてるみたいだ……いや、みたいじゃなくて、しちゃってるのかな。

絶対に手が届かない人なのに。淡い片思いなはずなのに。好きなだけで満足、だったのに。

「スーハー、スーハー」
「ふはっ、……なあ、このままサボっちまうか」
「え!それはだめだよ!」
「だよな、だめか」

そりゃそーだ、と肯いて三井くんは思案顔で私を持っていたノートで扇いでくれる。

「海でも行きゃあ落ち着くかと思ったんだけどな」
「え、海?行きたい!」
「だろ?」

好きだってことばれてるのかな?恥ずかしいな。三井くんは笑ってるし。……だめだ、こんなこと考えるから血の気が引かないのだ。素数素数、素数!


「くらぁ!三井、名字! はやく入れ!」

しまいには廊下の奥から先生が歩いてきた。でもおかげでさっと蒼褪めて、なんとか大丈夫な顔色になっただろう。

三井くんがガラっと化学室を開ける。とたんにクラスメイトたちの活気に包まれて三井くんと私はふたりきりではなくなった。ほっとしたような、残念なような。

急いで白衣に袖を通しながら、自分の班の実験台に向かおうとしたとき。三井くんが私にそっと耳打ちした。


「海は、次の部活休みな」
「——っ、」
「日曜の夕方にでも行こうぜ。」


掻き消すようにキーン、コーン、カーン、コーンと本鈴のチャイムが鳴り響く。

でも、低い声の吐息が、まだ耳許の髪に残っていた。

「名前遅ーい!って……顔赤くない!?熱!?」
「大丈夫!なんでもない!さぁ今日も頑張ろう!」

赤くない?赤くないよ!と、クラスメイトと応酬して白衣の襟を整えて、そうこうしているうちに先生が教壇に上がってくる。

視線を感じて、ちらと6班のほうを横目に見ると三井くんが机に頬杖をついてこちらを見ていた。

なんだか、やさしくて、それでいて口角を吊り上げながら楽しそうな眼差しで。

「……」

私は、期待してしまってる、どうしようもなく。勘違いしてしまっている。素数も最早役に立たない。

このまま、もっと好きになったら、どうなってしまうんだろう。欲張りになってしまうのかな、叶いっこないのに、好きなだけで満足できなくなってしまうのかな。

もしかしてもう、なってしまってるのかな。


その証拠に、
次の日曜日が待ち遠しくてたまらないのだ。










 裸足で駆ける きみ を描いて。



(三井が遅刻すんの久々じゃね?)
(あ?そうか?)
(おー、バスケ部戻ってから初めてだぜ)
(うっせ。けど、今日は寝坊してラッキーだったわ)
(は?何だ、なにかいいことあったのか?)
(ええ?あった。ぜってー教えねーけど)
(えー!なんだよ〜!教えろよ〜)

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