「水戸くんの彼女さんって、どんなひと?」

放課後の誰もいない一年七組の教室。うろこ雲が覆う夕ぐれの空が湘南の町のすべてを赤く染めていた。

放課後、いつものように生徒がいなくなった廊下を歩いて一年七組の教室に来てみれば、やっぱりそこには水戸くんがいた。

私は三年、水戸くんは一年生だけれども委員会とかなんかいろいろと関わることが多くなって勝手に水戸くんと仲良しを演じる私に水戸くんは文句も言わず付き合ってくれる。

むろん、恋人同士というかたちでは、付き合っていない。それでもこの立ち位置でいさせてくれることに私は甘え切っているのだ。


教室の入口から入ってきた相手を確認すると水戸くんは、壁にもたれかかりながら眉と右の口角をすこし持ちあげ私を一瞥する。

すずりで磨ったばかりの墨みたいな彼の瞳と筆ペンみたいな細い眉はあざやかなほど真っ黒で夕陽の赤にも負けることはなかった。

「俺、彼女がいるなんて言ったことあった?」
「ううん……ただなんとなく、そんな気がする。いるんでしょ?」
「さあ」

水戸くんは肩をすくめ鞄を脇に挟んで椅子から立ち上がる。私は彼の目から目を逸らすことなく、ぼんやりと水戸くんは彼女さんをとても大切にしてるんだ、と思った。

あまり話したがらない彼の態度がそう物語っている気がして。

「まだ帰らないの?俺は帰りたいんだけど」
「あ、帰る。ねえ、駅裏でさ、たこ焼き食べよ?お腹空いた」
「たこ焼きなんか腹の足しになんのか?まあ……ラーメンなら付き合うけど」
「じゃあ決まりね、背脂しょうゆラーメン!」

私たちはぶらぶらと学校を出て住宅街を抜け、湘北高校前駅の裏手、こざっぱりとした食堂やらが並ぶところまでやって来た。

そこに辿りついたときには空はとっぷりと暗くなり小さな銀色の星がかすかに夜空に瞬いていた。

赤い暖簾の古いラーメン屋に入り、カウンターに肩を並べて座る。

ぐつぐつとお湯が煮立つ音とか、他のお客さんが麺をすする音だとか、換気扇がごうごう動いている音とか、いろんなものがしゃきしゃき活発に動いてて、おいしそうな匂いがしていた。

水戸くんと私はここにきてもメニューは見ない。いつもなにを食べるか決まってて、そしてそれが一番おいしいと悟っているほどに私たちは常連なのだ。こんな関係も、もう半年か。

店員さんに水戸くんが注文を告げて「お腹空いたね」「そうだな」とだけ話すと、あとはラーメンが来るまで黙っていた。

スープの香りが湯気と共に溢れかえる厨房から、やがてお腹をすかせた私たちの前にラーメンが届けられる。私と水戸くんはつるつると麺をすすった。

水戸くんはすぐに口に入れてしまうのに、私はいちいちふうふうして食べなければならないので、そのぶん彼のほうが食べるのが早い。

「おいしい」

おいしい、というと、もっとおいしくなった気がした。ねぎやメンマを掻きわけて細い麺を取り、ふうふうして口に運ぶ。

そんなことを繰り返しているあいだに水戸くんはさっさと食べおえて、たばこに火を点ける。深く吸いこんだとき、彼の胸がわずかに上下した。

「ねえ水戸くん」
「ん?なんですか、先輩。」
「彼女とラブラブ?」

水戸くんは苦笑して、ふうと煙を吐きだした。 そしてまた彼がたばこを吸うと火の点いた先端がちりちりと燃える。私はそれを見ながらメンマを口のなかに入れた。

「それには、違う、と答えるべきなんだろうな。それより、早く食わんと麺がのびるぞー」
「……別れの危機到来中?」
「さてな……とにかく、振られてるようなもんだよ、俺のほうは」
「…………そ、なんだ」

それってつまり、もう別れてしまったのかしら。でも私は、そんなに嬉しくなかった。

だって水戸くんは好きなひとがいるんだと思う。そして多分、その彼女さんのことをまだ好きなんだと思うから。

水戸くんを振れるなんて、どんな人なのかしらと私は思った。

だって水戸くんは色男だし、私みたいに、いちど水戸くんのよさに気付いてしまったら、もう離れられなくなってしまうのではないだろうか。

水戸くんはそんな魅力のある人だから私もまんまとそれに引っかかってしまったわけだから、わかるんだ。

「ねえ、水戸くん」
「もうこれ以上は教えません。違う話しよ?」
「違うの、聞いて。もしね」
「ん?」
「もし水戸くんのことを好きな女の子がいたら、どうする?」

水戸くんは無表情で正面を向いたまま水を飲んだ。

「そんな女の子がいるとは思えないなー、なにせ俺はもてないもんで、残念ながら」
「もし、だってば。その子は美人じゃなくて、 性格がいいわけでもないけど、すごく水戸くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい………どうする?」
「さあねぇ。害がないならほっとくかな」
「……告白されたら?」
「断るよ、そりゃ」

水戸くんはたばこをアルミの灰皿にもみ消し腕を組んだ。腕を組む仕草は半年間のあいだで初めて見たかもしれない。

私は自分の顔から表情が消えていくのを少しずつ感じた。

「………前の彼女が忘れられない?」

言っていいのか、よくわからなかった。いい気はしないだろうし、こんなことを訊く権利は私にはないはずだ。

思わず口走ってしまったことを後悔したけれど、気になっていたのは事実だった。彼は前を見据えていたが、ゆっくり瞳を動かして私を一瞥した。

「違うだろうな。そういうことじゃない。ただ、恋人をつくろうなんて気が起きないだけ」
「じゃあ、なんで?すこしは考えてあげたりしないの?」
「俺は考える時にしか考えるとは言わないタチ。でないと俺に言わせりゃ不誠実ってもんだ」

私はからからに渇いた喉に唾を流し込む。

「………じゃあ……、もしその女の子が私だったら、こんなふうに、もう一緒にラーメンを食べに来たり、しない?」

くちびるが震えた。
心臓が、ひくりと強ばって、冷たくなった。

水戸くんはもう一度ふところを探りたばこに火を点ける。ちりちりと燃える。

私の止まってしまった手、割り箸の先からスープのひとしずくが零れチャーシューの上に落ちた。

「名前サンさ」
「なあに?」
「俺、そんなこと訊かれるとめっぽう弱るタチなの。好奇心を満たせられず悪いけど。それに麺、すっかりのびてる」
「………あ、ほんとだ」

ぽちゃり。

その子は美人じゃなくて、性格がいいわけでもないけど、すごく水戸くんがすきなの。すごく、とっても、死んじゃいそうなくらい……

私は、もうおいしくなくなってしまった麺をすすりながら自分の言葉を反芻して違う、と思った。

まだ死んじゃいそうなくらいなんて、そんなに熱烈に好きなわけじゃない、はず。

大好きだけど、悲しいけど、なにも始まってはいないもの。私は今、彼を好きになりはじめている段階なんだ。

まだ途中で、これから本当に死んじゃいそうなくらい好きになってしまうだろう。そうなる前に、もう手を引いたほうが良いのかもしれない。

水戸くんにこんなふうに甘えてみても、一緒にラーメンを食べる仲でも、彼はきっと私を好きにはなってくれないだろう。

ただ——彼はさっき、言ったけど

害がないなら、ほっとくかな

——私はただ、今はまだ害がないからほっとかれてるだけなんだ。これからどんどん私はよくばりになり、わがままになって、彼に距離を置かれるようになる気がする。

そんなことになったら、そのときはきっと、もう私の気持ちは死んじゃいそうなくらいにまでふくらんでしまってて。

でも、そんなことが予期できるからって、はいそうですかと彼から離れるには、もう遅すぎた。

私は彼が好き。水戸くんが。
死んじゃいそうなくらいじゃないけど、もう離れられない。

 
「さて、帰りますか」

ラーメン屋を出た私たちは、またぶらぶらと歩きだした。駅前はお勤め帰りのひとびとが行き交いいろんなお店の看板が様々な色にぼうっと光り薄暗い夜の道を賑やかに照らしている。

「うん……ね、カラオケ行こうよ!」
「却下。俺が歌うまいタイプに見える?」
「………じゃ、じゃあー、ボーリングとかは?」
「そうしたら、きっとボロボロに負けちまって、名前サンは不機嫌になると思うに一票」
「もー、水戸くんと私ってほんっとに趣味合わないよね!でもまだ帰るには早い……よ、ね?」

水戸くんはくつくつ笑いくちびるの隙間から白いきれいな歯を覗かせた。

「名前サンは18歳だろ、俺は15歳。健全な高校生はもう帰る時間です」
「みっつしかかわんないじゃん!しかも、健全な高校生がさっき普通にタバコ吸ってた」
「10代だと、3歳差でもでかいんだって」
「ふうん?」
「わかったよ、負けた。 じゃあ15分だけ、7時まで。名前サンちの近所の公園に行くってことでOK?お姫様はまだ遊びたらんようだからな」
「7時半まで!」
「だーめ。7時まで。俺の最後の良心」
「じゃ、付き合ってくれるお礼に私がジュースを買ってあげます」
「そりゃどうも。でも7時までね」
「ちっ」


私たちは、何気ない世間話をしてときどき笑ったり、ふと黙って夜風を楽しんだりしながら、私の家の近くにある公園までやってきた。

途中自動販売機で買ったコーヒーふたつを大切にかかえて私は誰もいないうす暗い公園の亜麻色の土を踏みしめる。水戸くんは目を細め「いい公園だな」とつぶやいた。

「あそこのベンチにしよ」
「おや、名前サンはブランコやシーソーにはもう興味ないのかい?」
「どのくらい私のことガキだと思ってんの!?」
「違ったかぁ。そりゃ悪かったです」

水戸くんが破顔するから、私もついついつられて笑ってしまう。ふたりでベンチに腰を下ろして、コーヒーを静かに飲んだ。

「でねえ、また三井くんのことだけど、ほんとに最低なんだよ。私の友達、他校の子なんだけど、三井くんに告白したの。そしたらなんて言われたと思う!?火遊びなら歓迎だぜ、だって!信じられないでしょ!」
「ははは、ミッチーらしいな」

水戸くんはあんまり興味なさそうだったけど私は構わずまくし立てた。

なにかしゃべってないと、水戸くんはさっさと帰ってしまいそうな気がしたから。

「三井くんにもさ、赤木くんとか木暮くんとかの穏やかさがあればいいのにね。おんなじ高校生には見えないもん……ほんと!なーにが火遊びなんだか、変態なんだよ三井くん。私だいっきらい」
「そんなことで嫌いになってやるなって、女子は時として残酷だよなあ。それに多分、ある意味誠実な男じゃねーの?ミッチー。よく知らんけど」

私はびっくりして、水戸くんの顔を覗きこんだ。水戸くんは缶コーヒーを傾けると、ふところをごそごそ探りはじめる。きっとたばこを探しているのだ。案の定たばこを取り出し、彼はそれを口に咥えた。

「あらかじめ火遊びって言ったってことは、予防線を張ってるってことだろ。本当に火遊びとやらが目的なら、そのまま黙ってたほうが得策だろうからな」
「ふうん……?」
「名前サンにはまだわからないか」
「……水戸くん、今日はやけに子ども扱いしてくれるよね……?」
「名前サン。人生こんな日もあるってこと」
「なあにそれ」
「それにミッチー、イケメンなんだろ?女子たちの間では。名前サンが夢中になるのもわかる」
「はあ?!」

びっくりしすぎて、自分の声が裏返るのがわかった。ぶらぶらさせていた脚もぴたっと止まった。水戸くんは屈託なく笑って煙をおいしそうに吸い込んでいる。

「なにそれ!私、三井くんのことだいっ嫌いっていま言わなかった!?」
「喧嘩するほどなんとやら。よく見るぞ、名前サンとミッチーが言いあいっこしてるのを」
「ちが……違うよ……!!だって、三井くんが、からかってくるんだもん……!」

動揺と戸惑いで紅潮した私の顔を見て水戸くんはにやりと笑った。

「そうか。じゃ、俺の勘違いか。それはすんませんでした」
「絶対まだわかってないでしょ!笑ってるもん!ねえってば、水戸くん聞いてよ、三井くんなんかほんとになんとも思ってないんだよ!」
「ムキになるほど怪しいぞ、誰にも言わないって。俺、恋のキューピッドにはなれないけどな」
「水戸くんってば!」

ムキになるのはそんな誤解されたくないから! ってゆうか、私が好きなのは——!!

どれだけそう叫びたかったか知れないけれど、 反論すればするほど泥沼になりそうだったので、とうとう私は口を噤んだ。

水戸くんは本気でそう思っているというよりは、私のことをからかっているだけのようだし、明日になればきっと忘れてくれているだろうと願いながら。

それはそれで、私なんかまるっきり無関心みたいで悲しい気がするけど……。
でも、水戸くんの笑った顔は素敵だった。


「……水戸くんさあ」
「んー?」
「前の彼女さん、どんなひとだったの…?」
「なんだ、今日はやけに突っかかるなぁー」
「だって…」

彼の目蓋がゆっくりまばたき、電灯に照らされた睫毛の影が長く涙袋に伸びた。

白い電灯の下で紫煙がゆるゆると空にのぼり途中で大気に溶け込んでゆく。

「水戸くん……ラーメンおいしかったね」
「満腹になれたかい?」
「うん、……」
「さあ、もうすぐ7時だ、そろそろ行くぞ」
「まだ55分だよ」
「そうだな。それで名前サンちまで5分。ちょうど7時だ」

水戸くんが私の手の缶を取ろうとしたとき、彼の指が私の爪のあたりを触れた。

私がつい咄嗟にそれを握り返したので水戸くんは目を丸くして見せる。私自身驚いていたのだから手をつかまれた水戸くんは尚更だろう。

「ん?なんだろ、この手」
「……水戸くん!」
「はいはい、なに?」

彼の手に触れたせつなに、私のなかで大きな変化が訪れた。突然。たちまち。ものすごい速さで。

「私の目、みて」
「見てるよ」

それは強い光が予期せず私を照らして私の目をくらくらにさせてしまったみたいなそんな感覚だった。甘い戸惑いよりも驚きでいっぱいな感じ。


私、水戸くんのこと死んじゃいそうなくらい″Dきになってしまった。

今、手に触れてしまっただけで頭のなかにぱっとなにか閃いたときみたいに。

そして、その感覚がまだ残っているあいだに私はこのことを教えたい。水戸くんに。

水戸くんは多分もう、私の気持ちに気付いていて私の告白も上手に交わしてしまうに違いない。

考えられないとか、困ったな、とか言って。でも私は、一回こっきりで諦められないだろう。しつこくしてしまっても、なんとか好きなことだけでも許してもらいたい。

私は水戸くんより二個も年上だし、でも彼は私を子ども扱いするし、だから許してくれるかもしれない。仕方ないなって。大目に見るよって。


「水戸くんのこと、好き。だから、キスして」

だめだ。離そっか。なんのことやら。水戸くんが答えうる可能性のある言葉を思い浮かべながら、私はじっと彼を見詰めた。

彼もじっと私を見詰めている。黒曜石のような、危なっかしい黒をした瞳が一瞬細められた。


「帰宅時刻が迫ってるけど、3秒待ってくれる?考える時間をちょーだい」

彼はそうささやき、たばこを地面に捨てた。
——さん、にい、いち……










 したくない。



(誰から聞いたの、彼女いるなんて)
(……三井くん)
(ハハッ、やっぱり。そりゃデマ情報だな)
(え、そ……そうなの?)
(ミッチーに悪いことしちまったなぁー)
(え? どういうこと?)
(んー?こっちの話)

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