きみのことを気にかけている僕
水戸くんって、どういう人なんだろう。そんなことを考えているうちにいつのまにか好きになっていたから驚いてしまう。
目つきが怖すぎて顔がよく見れなかったけれどたまに教室で転寝をしてる顔がすごくきれいで。通りすぎたときにタバコの残り香に混じって白いシャツの袖から、マリンみたいな匂いがしたときとか。不意に目が合ったとき「ん?」って顔で、勘違いかも知れないけどなんだか微笑んでくれたこともあった。そういう小さな積み重ねですこしずつ恋に至っていった。同じクラスにいるだけで嬉しくなるし毎日胸がいっぱいだ。だからどうにかなろうという気概はない。ただのクラスメイトのままでいい。好きだと気づいたときから告白はしないと決めた——。
*
「あれ?」
朝のホームルームを遅刻して水戸くんが教室に入ってきた。いつもはだいたい桜木くんと一緒に登校してくるけれどいま桜木くんは入院しているからルーティンが狂って、寝坊でもしちゃったのかな。つぎは移動教室ですでにここには誰もいない。私もミーティングの書記を終えたら、すぐにここを発つつもりだった。
「……きょう、もしかして学校ない?」
「ううん、あるよ。ふつうの平日だよ」
「だよな、よかった」
「みんなもう化学室だよ。白衣着なきゃだし」
いきなり水戸くんが姿を見せたことにびっくりしたし、水戸くんと普通に喋ってることにもびっくりしている。それに教室にふたりきりだという事態がゆっくりと私の体温を上げる。緊張するとぺらぺらといらないことまで話してしまいそうになるから、そっとくちびるを噛んだ。
「——名字サンは」
「え……」
「忙しそうだな」
「あ……、わたしは書記。さっきミーティングがあって。」
「そっか」
「先行ってて、大丈夫……すぐ行くから」
「うん」
��名字サンは�≠ニ彼は言った。私の名前、憶えていてくれてたんだ。クラスメイトだから当たり前かもしれないけど、すごく意外な気がした。まとも喋ったこと、なかったから。
水戸くんは柔らかそうに口元を緩めて、笑っていないのに笑ったみたいな優しい顔をしている。そのままじっと私を見てくるから私は彼を二度見して頭がこんぐらがってきそうになる。彼がぎしりと床を踏んでこちらに近づいてきて私は静かにパニックに陥った。
「ミーティング中、寝てただろ」
「え?」
「消しカス、ついてる」
私の頬のまえで指をくるりと回して、今度こそ水戸くんは眉をハの字に下げて笑った。頬を触るとぽろりと、消しカスが落ちてくる。水戸くんは私を通りすぎると桜木くんの斜め前、後ろから二番目の自分の席でゆっくり支度を整えはじめた。
息が、止まるかと思った。焦った……。笑った顔のとろけそうな目じりが、くちびるから漏れた微かな息が、なんだか、すごかったから。
(はやく、書き切らなくちゃ……)
つぎの授業まであと五分——動揺している余裕なんてないのに。
「字、うまいね」
「——!?」
あれ、いい匂いがする。と思ったら水戸くんが私の頭上から議事録を覗きこんでいた。気を抜いていなかったらギャー!とかワー!とかギエー!とか、そんなことを叫んでいたと思う。ぐうっと耐えて深呼吸して努めて冷静を装って。慌てない慌てない。そうだ、素数を唱えよう。
「え、ええー? 汚いよ……?癖あるし」
「ハハ。」
「はは……」
「おっと邪魔しちゃ悪いか。お、もう終わり?」
「うん、よし、終わり!」
「お疲れさん」
「ありがとう」
「じゃ、行こっか」
「え」
「え? 化学室だろ?」
………そ、それは、一緒に行くということ?
いや、待っていてくれたのかな?クラスメイトだから当然かもだけど。嘘でしょ、どうしよう。よろけそう。素数素数。
「やれやれ……遠いんだよなァー」
「そ、そうだね」
水戸くんは小脇にふわりと丸めるように畳んだ白衣を抱えて歩きはじめる。彼のうしろを歩いていると、やっぱりタバコと微かにマリンの香りがする……気がする。
そのまま無言で廊下を突っ切って三階に繋がる階段を上った。踊り場の鏡に水戸くんと私の姿が映っている。恥ずかしくなって鏡からすぐに目を逸らした。三階につくと、まっすぐ続いた窓からやわらかい風がそよと吹いてきた。水色の空に、群青色の穏やかな海が見える。眩しいほどの青い風景。耳を澄ませば潮騒が届くほどの。ふと人の姿が途切れた瞬間に見せる、海のあるこの景色が私は好きだった。なにか懐かしく心落ち着く風情があるから。そんな瞬間に、水戸くんと過ごせたことを幸福に思った。
「いー天気だ」
「うん」
「風もいい」
「うん、そうだね」
——本当にそうだね。水戸くんは、気持ちよさそうな顔をしている。気がつくと、自分もリラックスしていることに気がついた。さっきはあんなに慌てていたのに。まだドキドキはしているけど沈黙が全然苦しくない。なにも喋らなくていいだろうし、なにを喋っても水戸くんは聞いてくれるだろう。身構えなくていい。肩の力を吸い取ってくれるような、そんな大らかさがある。
水戸くんって不思議な人だ。私はこれ以上水戸くんのことを知ったら、きっとつらくなるくらい好きになってしまう。
「きょうの実験、グループでやるやつ?」
「うん。そうだよ」
「俺、何班だったかなぁ。ハハ、覚えてねーや」
「たぶん、6班だと思うよ水戸くん。桜木くんと同じでしょ?あ、でも桜木くん今日も休みかあ」
「ハハ、全員把握してんの」
「ううん、そんなことないよ、たまたまだよ」
「ふぅん」
水戸くんがちらと私を見てくるから、あわあわしそうになるけどそうならないようにくちびるを噛む。青い空と海。風。つるんとした廊下。私の上履き水戸くんの白いシューズ。どこかで、ひそひそと話し声が聞こえて、また聞こえなくなる。化学室が見えてきた。もう終わってしまう。こんな奇跡みたいなこともう二度とないんだろうな。
「6班なら、ほかにも水沢さんとか西本くんとかいるんじゃないかな」
「へえ」
「あと、さっちゃん」
「さっちゃんって名字サンと仲いい子?」
さっちゃん!!水戸くんとおんなじ班じゃん!いいなー!と電話で喋り倒したから、よく覚えている。さりげなくいま名前呼んでもらえてたな、いいなぁ、さっちゃん……。
「さっちゃん、水戸くんと気が合うと思うよ」
「そう?」
「うん、超癒し系」
「さっちゃんね、見とかんとな」
「え、しらないの?名前。」
「ハハ。ちょっと自信ないなー。女の子は特に」
「えぇ……」
「でも、名字サンは大丈夫」
「わたし?なんで?」
「……」
水戸くんはちょっと考える顔をして「なんでだろーな」と言った。すごくきれいに笑いながら。
「下の名前は名前、名字名前サン」
「え? あ、うん?そうだよ……?」
「字はこう」
と、指で中空にフルネームを書きだすから私はどんな顔をすればいいのか、わからなくなった。お願いだから��イトコに似てるから�≠ニか��婆ちゃんと名前一緒だから�≠ニか、なんでもいいから理由を言ってほしい。でないと盛大に勘違いしてしまいそうだから。
「あってる?」
「うん、……あってる」
化学室についてしまった。まだ授業は始まっておらず扉の向こうから銘々がお喋りしているざわめきが微かに伝わる。それなのに水戸くんは扉を開けようともせず、じっと私を見下ろしてくる。それですこしだけ困ったように眉を寄せて頬笑んだ。
「名字サン」
「なに?」
「入るまえに……深呼吸しよっか」
「!!……」
「大丈夫大丈夫。」
「いやだ、もう…………赤い?」
「ハハハ」
たぶん私はユデダコみたいになっている。顔が熱い。たぶん信じられないくらい赤い。これじゃ勘違いしてるみたいだ。いや、みたいじゃなくてしちゃってるのかな。絶対に手が届かない人なのに。淡い片思いなはずなのに。好きなだけで満足なだけだったのに。
「スーハー、スーハー」
「……このまま、サボっちまおーか?」
「え! それはだめだよ!」
「だめだよな」
そりゃそーかと肯いて水戸くんは思案顔で私をノートで扇いでくれる。タバコの匂い、マリンの香り……ああもう!なにがなんだかわからない!
「なんで、急にサボろう、って……?」
「え?あー、海でも行きゃあ落ち着くかと思ったんだけど」
「え、海?行きたい」
「だろ」
好きだってことばれてるのかな?え、恥ずかしいな。だって、水戸くんは笑ってるし。だめだ、こんなことを考えるから血の気が引かないのだ。素数素数、素数!
「くらぁ、水戸、名字! はやく入れ!」
しまいには、廊下の奥から先生が歩いてきた。でもおかげでさっと蒼褪めて、なんとか大丈夫な顔色になっただろう。水戸くんがガラっと化学室を開ける。とたんに、クラスメイトたちの活気に包まれて水戸くんと私はふたりきりではなくなった。ほっとしたような、残念なような。
急いで白衣に袖を通しながら自分の班の実験台に向かおうとしたとき——。水戸くんが、そっと耳打ちした。
「海は、次の土日にでも。」
掻き消すようにキーンコーンカーンコーンと、本鈴のチャイムが鳴り響く。でも低い声の吐息がまだ耳元の髪に残っていた。
「名前遅ーい、って顔赤くない!?熱!?」
「大丈夫!なんでもない!きょうも頑張ろう!」
赤くない?赤くないよ!とクラスメイトと応酬して白衣の襟を整えて、そうこうしているうちに先生が教壇に上がってくる。視線を感じてちらと6班のほうを横目に見ると、水戸くんがこちらを見ていた。なんだか、やさしくて、それでいて、楽しそうな眼差しで。
「……はあ。」
私は期待してしまってる、どうしようもなく。勘違いしてしまっている。素数も最早、役に立たない。
このままもっと好きになったらどうなってしまうんだろう。欲張りになってしまうのかな、叶いっこないのに、好きなだけで満足できなくなってしまうのかな。もしかしてもう、なってしまっているのかな。
その証拠に私は、次の土日が待ち遠しくてたまらないのだ。
君はいま 恋 をしていますか?
(水戸くん、さっきから誰のこと見てるの?)
(え? あ、いや……誰も?)
(てか、しれっと名前と来て何してたの?)
(ははっ。マリンの香りに導かれただけさ)
(マリン? なにそれー?)