きみのことを気にかけている僕

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  • 水戸くんって、どういう人なんだろう。そんなことを考えているうちに、いつのまにか好きになっていたから驚いてしまう。

    目つきが怖すぎて顔がよく見れなかったけれど、たまに教室で転寝をしてる顔がすごくきれいで。通りすぎた時にタバコの残り香に混じって白いシャツの袖からレモンみたいな匂いがした時とか。

    不意に目が合ったとき「ん?」って顔で、勘違いかも知れないけど、なんだか微笑んでくれたこともあった。

    そういう小さな積み重ねで、すこしずつ恋に至っていった。

    同じクラスにいるだけで嬉しくなるし、毎日胸がいっぱいだ。だから、どうにかなろうという気概はない。ただのクラスメイトのままでいい。

    好きだと気づいたときから、
    告白はしないと決めた——。








    「あれ?」

    朝のホームルームを遅刻して、水戸くんが教室に入ってきた。

    いつもはだいたい桜木くんと一緒に登校してくるけれど、いま桜木くんは入院しているからルーティンが狂って寝坊でもしちゃったのかな。

    つぎは移動教室で既にここには誰もいない。私もミーティングの書記を終えたらすぐにここを発つつもりだった。

    「……きょう、もしかして学校ない?」
    「ううん、あるよ、ふつうの平日だよ」
    「だよな、よかった」
    「みんなもう化学室だよ。白衣着なきゃだし」

    いきなり水戸くんが姿を見せたことにびっくりしたし、水戸くんと普通に喋ってることにもびっくりしている。

    それに、教室にふたりきりだという事態が、ゆっくりと私の体温を上げる。

    緊張するとぺらぺらといらないことまで話してしまいそうになるから、そっとくちびるを噛んだ。


    「……名字サンは」
    「え……」
    「忙しそうだな」
    「あ……、わたしは書記。さっきミーティングがあって。」
    「そっか」
    「先行ってて、大丈夫……すぐ行くから」
    「うん」

    ……名字サンは≠ニ彼は言った。
    私の名前、憶えててくれてたんだ。

    クラスメイトだから当たり前かもしれないけど、すごく意外な気がした。まとも喋ったこと、なかったから。

    水戸くんは柔らかそうに口元を緩めて笑っていないのに笑ったみたいな、やさしい顔をしている。

    そのままじっと私を見てくるから私は彼を二度見して頭がこんぐらがってきそうになる。

    彼がぎしりと床を踏んでこちらに近づいてきて、私は静かにパニックに陥った。


    「ミーティング中、寝てただろ」
    「え?」
    「消しカス、ついてる」

    私の頬のまえで指をくるりと回して今度こそ水戸くんは眉をハの字に下げて笑った。

    頬を触るとぽろりと消しカスが落ちてくる。水戸くんは私を通りすぎると桜木くんの斜め前、後ろから二番目の自分の席でゆっくり支度を整えはじめた。

    「——、」

    ……息が、止まるかと思った。焦った……。

    笑った顔のとろけそうな目じりが、くちびるから漏れた微かな息が、なんだか、すごかったから。

    (はやく、書き切らなくちゃ……)

    つぎの授業まであと五分。
    動揺している余裕なんてないのに。


    「字うまいな」
    「——!?」

    あれ、いい匂いがする。と思ったら、水戸くんが私の頭上から議事録を覗きこんでいた。

    気を抜いていなかったら、ギャー!とか、ワー!とか、ギエー!とか、そんなことを叫んでいたと思う。

    ぐっと耐えて深呼吸して、努めて冷静を装って。慌てない慌てない。そうだ、素数を唱えよう。

    「え、ええー? 汚いよ……?癖あるし」
    「ハハ。」
    「はは……」
    「邪魔しちゃ悪いか……お、もう終わり?」
    「うん、よし、終わり!」
    「お疲れさん」
    「ありがとう」
    「じゃ、行こっか」
    「え」
    「え? 化学室だろ?」

    ………。
    そ、それは、一緒に行くということ?

    いや、待っててくれたのかな?クラスメイトだから、当然かもだけど……嘘でしょ、どうしよう。よろけそう。素数素数。


    「やれやれ……遠いんだよなァ」
    「そ、そうだね」

    水戸くんは、小脇にふわりと丸めるように畳んだ白衣を抱えて歩きはじめる。

    彼の後ろを歩いていると、やっぱりタバコと——微かにレモンの香りがする……気がする。

    そのまま無言で廊下を突っ切って、三階に繋がる階段を上った。

    踊り場の鏡に水戸くんと私の姿が映っている。 恥ずかしくなって鏡からすぐに目を逸らした。

    三階につくとまっすぐ続いた窓から、やわらかい風がそよと吹いてきた。

    水色の空に群青色の穏やかな海が見える。眩しいほどの青い風景。耳を澄ませば潮騒が届く程の。

    ふと人の姿が途切れた瞬間に見せる、海のあるこの景色が私は好きだった。なにか懐かしく、心落ち着く風情があるから。

    そんな瞬間に、水戸くんと過ごせたことを、幸福に思った。


    「いー天気だ」
    「うん」
    「風もいい」
    「うん、そうだね」

    ——本当にそうだね。
    水戸くんは、気持ちよさそうな顔をしている。

    気がつくと自分もリラックスしていることに気がついた。さっきはあんなに慌てていたのに。まだドキドキはしているけど沈黙が全然苦しくない。

    なにも喋らなくていいだろうし、なにを喋っても水戸くんは聞いてくれるだろう。

    身構えなくていい。肩の力を吸い取ってくれるような、そんな大らかさがある。

    水戸くんって不思議な人だ。私はこれ以上、水戸くんのことを知ったら、きっとつらくなるくらい好きになってしまう。


    「きょうの実験、グループでやるやつ?」
    「うん。そうだよ」
    「俺、何班だったかなぁ……覚えてねーや」
    「たぶん、6班だと思うよ水戸くん。桜木くんと同じでしょ?あ、でも桜木くん今日も休みかあ」
    「ハハ、全員把握してんの」
    「ううん、そんなことないよ、たまたまだよ」
    「ふぅん」

    水戸くんがちらと私を見てくるから、あわあわしそうになるけど、そうならないようにくちびるを噛む。

    青い空と海。風。つるんとした廊下。私の上履き水戸くんの白いシューズ。どこかで、ひそひそと話し声が聞こえて、また聞こえなくなる。

    化学室が見えてきた。もう終わってしまう。こんな奇跡みたいなこともう二度とないんだろうな。


    「6班なら、ほかにも水沢さんとか西本くんとかがいるんじゃないかな」
    「へえ」
    「あと、さっちゃん」
    「さっちゃんって名字サンと仲いい子?」

    さっちゃん水戸くんと同じ班じゃん!いいなー!と電話で喋り倒したから、よく覚えてる。さりげなくいま、名前呼んでもらえてたな、いいなぁ、さっちゃん……

    「さっちゃん、水戸くんと気が合うと思うよ」
    「そう?」
    「うん、超癒し系」
    「さっちゃんね、見とかんとな」
    「え、しらないの?名前」
    「ハハ。ちょっと自信ないな。女の子は特に」
    「えぇ……」
    「でも、名字サンは大丈夫」
    「わたし?なんで?」
    「……」

    水戸くんはちょっと考える顔をして、「なんでだろーな」と言った。すごくきれいに笑いながら。

    「下の名前は名前、名字名前サン」
    「え? あ?うん?そうだよ……?」
    「字はこう」

    と、指で中空にフルネームを書きだすから、私はどんな顔をすればいいのかわからなくなった。

    お願いだから、イトコに似てるから≠ニか、婆ちゃんと名前一緒だから≠ニか、なんでもいいから理由を言ってほしい。

    でないと、
    盛大に勘違いしてしまいそうだから。


    「あってる?」
    「うん、……あってる」

    化学室についてしまった。まだ授業は始まっておらず、扉の向こうから銘々がお喋りしているざわめきが、微かに伝わる。

    それなのに水戸くんは、扉を開けようともせず、じっと私を見下ろしてくる。それで、すこしだけ困ったように眉を寄せて頬笑んだ。

    「……名字サン」
    「なに?」
    「入るまえに……深呼吸しよっか」
    「!!……」
    「大丈夫大丈夫。」
    「いやだもう…………赤い?」
    「ハハハ」

    たぶん私は、ユデダコみたいになっている。顔が熱い。たぶん信じられないくらい赤い。

    これじゃ、勘違いしてるみたいだ……いや、みたいじゃなくて、しちゃってるのかな。

    絶対手が届かない人なのに。淡い片思いなはずなのに。好きなだけで満足、なだけだったのに。

    「スーハー、スーハー」
    「……このままサボっちまおーか?」
    「え! それはだめだよ!」
    「だめだよな」

    そりゃそーか、と肯いて水戸くんは思案顔で私をノートで扇いでくれる。

    「なんで、急にサボろう、って……?」
    「え? 海でも行きゃあ落ち着くかと思ったんだけど」
    「え、海?行きたい」
    「だろ」

    好きだってことばれてるのかな?恥ずかしいな。だって水戸くんは笑ってるし。

    だめだ、こんなこと考えるから血の気が引かないのだ。素数素数、素数!


    「くらぁ、水戸、名字! はやく入れ!」

    しまいには廊下の奥から先生が歩いてきた。でもおかげでさっと蒼褪めて、なんとか大丈夫な顔色になっただろう。

    水戸くんがガラっと化学室を開ける。とたんにクラスメイトたちの活気に包まれて水戸くんと私はふたりきりではなくなった。ほっとしたような、残念なような。

    急いで白衣に袖を通しながら自分の班の実験台に向かおうとしたとき——。水戸くんがそっと耳打ちした。


    「海は次の土日にでも」


    掻き消すようにキーン、コーン、カーン、コーンと本鈴のチャイムが鳴り響く。

    でも、低い声の吐息が、
    まだ耳元の髪に残っていた。


    「名前遅ーい、って顔赤くない!? 熱!?」
    「大丈夫!なんでもない!きょうも頑張ろう!」

    赤くない?赤くないよ!と、クラスメイトと応酬して白衣の襟を整えて、そうこうしているうちに先生が教壇に上がってくる。

    視線を感じて、ちらと6班のほうを横目に見ると水戸くんがこちらを見ていた。

    なんだか、やさしくて、
    それでいて、楽しそうな眼差しで。


    「……はあ。」

    私は、期待してしまってる、どうしようもなく。勘違いしてしまっている。素数も最早役に立たない。

    このまま、もっと好きになったら、どうなってしまうんだろう。欲張りになってしまうのかな、叶いっこないのに、好きなだけで満足できなくなってしまうのかな。

    もしかしてもう、なってしまってるのかな。


    その証拠に、
    私は次の土日が待ち遠しくてたまらないのだ。










     君はいまをしていますか?



    (水戸くん、さっきから誰のこと見てるの?)
    (え? あ、いや……誰も?)
    (てか、しれっと名前と来て……何してたの?)
    (ハハ、レモンの香りに導かれただけさ)
    (レモン? なにそれ?)

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