ウイスキーの角瓶が空になりつつある。
 夢か現実か、境界線の曖昧な感覚が心地よい。高揚感に包まれた今、どんな冒険にも挑める気がするが体は鉛のように重い。スムーズなのはグラスを持つ手ぐらいのもので結果的に自分にできるのは、お酒を飲んで管を巻くだけだ。彼は酔っぱらいの相手はせずスマホを片手にいじっている。
 行きつけのbar。いつも並んで座るカウンター席。私は隣でスマホの光に照らされている、その横顔を一心に見つめた。


「だれと連絡してるの」
「ん……いや?別に。つかお前、そろそろ酒やめとけよ。呂律怪しいぞ」
「彼女?女の子?好きな子?」
「待て、酔っててなに言ってんだかわかんねぇ」
「酔ってないよ」
「ったく、酔っぱらいの常套句じゃねぇかよ」

 振り向きざま訝しむ瞳に睨まれる。彼は組んでいた足を解いてマスターに水を注文する。それを受け取って、私にその水をよこしてきた。断ると怒られるからとりあえず素直にその水を飲んだ。次にまたお酒も飲むけど。

「ミッチー」
「ん」
「私、彼氏いたことも、キスしたこともないの」
「は?」

 まじまじと、珍獣を見る視線に晒される。だがすぐに彼は好奇心は捨てポーカーフェイスという体裁を整えた。

「急になんだよ。それがどうした」
「もうアラサーだし、これはまずいと思ってね」
「おう」
「最近さあ、マッチングアプリで何人かとデートしたの」
「ハア!?危ねぇんじゃねーの、それ」
「しょうがないじゃん出会いないんだからさぁ、今時みんなやってるよ」
「ふうん……で、どうだった」
「イケメンと意気投合したよ」

 彼は「おぉ」と軽く相づちを打つ。けれど顔はスマホに向けられたままだ。

「飲みに行ったり、デートも何回かしたよ」
「ほぉ、うまいことやったじゃねえか」
「でも——好きになれなくて、だめだった」

 きぃとカウンター椅子が軋む。彼がスマホをカウンターの上に置いた。そして今度は腕を組む。

「そうか、なかなか難しいもんだよな」

 ウイスキーグラスがからりと音を立てる。それ私が入れてるボトルなんだけど。飲み過ぎはどっちだよってね……あ!待って、ボトルに引っかけてあるネームプレートの私の名前の横に、しれっと『三井』って書いてるし。いつ書いたんだろ、これじゃあ正真正銘、ふたりのボトルになっちゃったじゃないか。
 てか笑い飛ばしてくれたらいいのに、やっぱりここには、人生相談みたいな空気が流れている。残念だけど、いつもと同じパターンだ。

「私、もう彼氏は諦めます」
「いや、気ィ落とすなって。まあ、飲め飲め」
「だけど、キスはしてみたい」
「ほぉ」
「ミッチー、お願いがあるんだけど」
「断る」
「まだなにも言ってないけど!?」
「めんどくせぇ。どうせ誰か紹介しろってんだろ?」

 やれやれって顔。虚をつかれるって、こういうことだ。私のほうがビックリしてしまった。何でそうなるかなぁ……。

「一応訊くけど、誰かいるの?いい人」
「あー……まあ、乗っかってきそうなヤツが一人いるけどよ……ま、やめとけ」
「それさ、宮城さんでしょ?絶賛失恋中の」
「はは。バレてやがる」

 笑った横顔、かっこいいな。グラスをゆっくり回す仕種も絵になってる。指長い、鼻高い、顎下の傷は相変わらず色っぽい。そんなことをぼーっと考えてたら視線を感じたのか彼がこちらをチラ見する。そしてすぐに視線を正面に戻してから、不機嫌そうに言った。

「つか、なんで宮城がサン付けで俺が愛称なんだよ」
「あ、気にしてたの?」
「宮城のが俺より年下なんだよ」
「えー、そこ?」
「おーよ」

 特に深い意味はなかったんだけどな。でも……三井さんって言うとなんか他人行儀で。だって、こうして二人きりで飲んだりする仲なのにさ。
 でもだからって、寿くんってのも馴れ馴れしい感じが否めなくて。ほんとは呼びたいけど。呼んでみたいけど。寿くん、って。

「乗っかってきそうなヤツかぁー」

 横からそんな声が聞こえてきて私はそっと彼を盗み見る。さっきの話に戻ったみたいだ。けど「乗っかってきそうなヤツかー」と呟いたわりには、本当に誰か良さそうな相手を思い浮かべてる感じとかは見受けられなかった。

「ミッチーは?」
「あ?」
「乗っかってきてくれる?」
「あン?なにを」

 自分の唇をちょんちょんするとやっとこの鈍感屋にも理解が及んだらしい。声には出さず表情と唇だけで「ハア?」を表現した。

「乗るかバーカ。他あたれ。つかもう帰れよ……おまえ飲むな」
「ミッチーはさぁ、キスしたことある?モテる?一応プロのバスケットボール選手だもんね?」
「……」
「私はない。たぶん一生ない。可哀想にならない?」
「全ッ然」
「ぐっ……100円あげるから。一回だけ!ね?」
「100円だぁ〜?ナメてんのかテメェ」
「ナメてない!一瞬でいいから」
「バァカ、ダメに決まってんだろ」
「なんでダメなの?」
「あのなぁ。もっと自分を大事にしろよ」

 ぐっと噴きそうになるのを我慢した。頬の内側の肉を噛んで耐える。
 キスくらいで大事もクソもないと思う。その辺でみんなやってる。犬や猫もやっている。ただのコミュニケーションだ。でも彼にはそうではないのだろう。だから笑ってはいけない。

「自分を大事にした結果がこれなんですけど?」
「あそ。だからって俺を巻き込むなっつの。話くらいは聞いてやるけどよ」
「他に頼める相手いないんだもん」
「さっき話に出てきたイケメンでいいじゃねーかよ」
「好きじゃないから、無理だよ」

 正面を向いたままふと目を細める彼。そのあとすぐに眉間に皺を寄せるとふぅと口から溜め息を漏らした。

「ミッチーしか無理なの」
「……」
「意味わかる?」
「……、あぁ」
「じゃあ、してくれる?」
「無理だ」
「なんでよ」
「……今更、ンな目で見れねぇよ」

 今更そんな目で見れねぇよ………だって。ですよねー。わかってる、そんなの知ってる。いや、知ってた。承知の上で頼んだのだから。ミッチーが私のこと、ただのツレとか飲み友達程度にしか思ってないことくらい知ってますよ。だから私には一生彼氏ができない。

「わかった。ごめんね変なこと言って」
「……や、別にそれはいいけどよ」
「帰るね」
「待て、送ってく」
「いい、大丈夫。一人で帰りたいの」
「だめだ。安全なとこまで送るって。そんなフラフラで放り出せるかよ」
「もう酔いも抜けたし、早歩きしたら大丈夫」
「ダメだっつってんだろ。一応女なんだからよ」
「一応だとぉ!?だから大丈夫だって!ほっといて」

 私はふんっと顔を背けて、カウンター椅子から立って出入り口に向かおうとする。

「思いっきり千鳥足じゃねえか。生意気言ってんじゃねぇよ」
「すぐタクシー拾うから。ここ出てすぐのとこにいるじゃん」
「ならそこまでついてくからよ。なっ?大人しくそうさせろ」
「一人に……なりたいの」

 たしかに、ダッシュは無理だ。体が重い。心も重い。悲しいし寂しい。でもミッチーとは一刻も早く離れたかった。私は友達じゃない。友達なんかじゃない。ふりをしてただけなんだ、ずっと。


「いい加減にしろよ」

 きん、と空気が冷える音がした。静かにそっと言うだけで彼は威圧することができるのだ。肉のないこめかみに、血管が筋立っている。目つきの悪い瞳が吊り上がって怖い顔をしてる。だがその眼差しに私を案ずる善意が満ちていることを知っている。

「絶対一人にさせねぇ。拉致でもされたらどうすんだよ」
「……」
「ヤク漬けにして売られるか最悪殺されんだぞ。この辺の治安ナメてんじゃねえよ」

 物騒な事を言って私を怖がらせて降参させたいのかも知れないけれど、そんな手に乗ってたまるか。私達はその場で立ったまま睨み合った。バチバチ火花を立たせたいところだが客観的にミッチーが一方的に怒っているようにしか見えないだろう。それくらい、今の彼には迫力がある。

「——じゃあ、キスしてくれる?」
「……は?」
「キスしてくれたら、言うこと聞く」
「あ?……」
「はやく。」

 唇が躊躇って、はく、と空気を飲んで閉じるのが見える。一瞬私の暴論に惑わされたかに見えたが、すぐに我に返って「いや、おかしいだろ」ともっともな指摘が返ってきた。

「してくれたら送らせてあげるのに?」
「……頭痛ェわ。つかお前、なんでそんなにやりたがってんだ?」
「え?」
「思春期のガキじゃねんだからよ」
「んー、だって」

 ——なんでって。そんなの……理由なんて一つしかない。

「好きだから」
「……」
「友だちでいるのがつらくなったから」

 ……ぼたっ。大粒の涙が落ちるまで自分が泣いている事に気がつかなかった。変だな。こんなの恥ずかしい。
 私は泣き顔を見られないように風を切って勢いよく背を向けた。彼は多分ぴしゃりと横っツラを張られたような気分だろう。呆然としているであろう彼を置いて急いでドアまで早足で向かった。
 早くいかなくちゃ…店ミッチーが、追いかけてきてしまう。


「名前。」

 後ろからつかつか足音が聞こえてくる。無視。重いガラス戸を押すと半地下の階段ごしの外気がぶわりと鼻先をぶった。階段を駆け上がって右手にすぐタクシーがいるはず。そこまでは振り返らない。そして二度と永遠に彼には会わない。忘れられなくて苦しんでもいい。いつか時が解決してくれる。そのときを待ってやり過ごすのだ、これまでだってそうしてきた。

「待てって」

 でも、ドアを出る前に肩を掴まれてしまった。ぐいっと掴んでそのまま簡単に振り向かされる。彼の熱い目と、目が合った。怒気に似た乱暴さを孕んだ瞳。彼を怖いと思ったのは、初めて会ったあの日以来だ。気道がきゅっと細くなる。思わず後ずさるとガラス戸にどんと背中がぶつかった。

「逃げんな」
「……」
「ワケわかんねぇ。さっきまでご機嫌で酒飲んでたくせしてよ、なんなんだおめぇは、」
「……」
「……、やったら、逃げねんだろ?」

 突如、左手が伸びてきて急に私の顎を掴んだ。彼の綺麗な双眸に弱り切ったような光のかけらが写っている。その目は私の目を覗き込みゆっくり私の唇に視点を下ろした。

「してやるよ」

 あまりにもなめらかなぞくりとする声だった。彼の顔が、スローで寄せられてくる瞬間を見た。やわらかな、かさついた二枚の感触。それは——頬に触れて、音もなく離れていった。


「——ほっぺ!?」
「あ?悪ィかよ」
「……騙された気分」
「な……騙してねぇ!」
「普通キスしてって言われたら口にしない?」
「おめぇの普通なんざ知らねーよ」

 鼻に掛かった、いじわるな気取った声。鼻梁に皺を寄せてへっと歯を見せて嫌な顔をする。
 キスは乾いてやわらかで、触れた内側に傷痕を残すようだ。唇は特別な感触がする。たとえそれがどこに触れようと直接心に響く力がある。ほんの一瞬だったのに。

「ありがとう」

 頬に手を当てて、忘れないように抑えつけた。唇にはくれなかったけれど、でもこれで十分だ。追いかけてキスしてくれた。大好きな彼にしてもらえる最大の好意だ。だからもういい。忘れられないかもしれないけれど一区切りついた。感謝を胸に、この恋をしめやかに葬れる。

「ほっぺでも嬉しい。口にしてほしかったけど」
「……それはまた、いずれな」
「……へ?」

 ——いずれ?どういう意味。
 彼は唇を尖らせてムッとした顔で気まずそうに後頭部を掻いている。

「物事には順序、ってモンがあんだろ」
「ふーん、なんせ未経験なもので」
「だから……その、なんだ……そういうのは俺に任せとけ」
「はい?」
「俺が、キッチリ面倒見てやるよ」

 相変わらずばつの悪い顔で怒ったみたいに彼が言う。私が呆然としているのがますます癇に障ったようで、眉間の皺が深くなる。喉の下が熱い。飲みなれたウイスキーでは感じなかったタイプの熱だ。

「それ、プロポーズ?」
「はあ?な——ち、ちげえよ。ただ、俺は……」
「体だけの関係?」
「だぁから!ちげえって!」
「……だって私のこと無理って。そんな目で見れないって」

 バッサリ振ったのに。でも彼は怯まず私を睨んだまま、おぉと強気で肯いた。

「そう思ったんだよ、さっきは——無理だって」
「……」
「おまえは身内っつうか妹みてえっつうか、もうそういう枠ん中にいんだ。けどおまえが俺を避けて、このままいなくなっちまうのを考えたら」

 口角が歪んで一度、下唇を強く噛んだ。逡巡する瞳がいつにない感情の揺れを訴えている。言葉に迷って、やがて観念したように言った。


「そっちのが無理だった」


 ——時が、止まったような気がした。はっきり言って何を言われたのか意味がわからない。わかるのは彼が険しい顔をしていて、私の気持ちを、渋々受け入れてくれたらしいこと。

「付き合って……くれるってこと?」
「ハァ!?」
「違うの?」
「……」
「え?どういうこと……?」
「いや、……違わねぇわ。そういうことだ」
「え……嘘、」
「嘘なわけあるか。つか、嫌なのかよ……」
「嬉しい!」

 はしゃぐ私に彼は怒った顔のままフリーズして赤くなっている。柄になく私も大照れして、その日は借りてきた猫みたいに大人しく家まで送ってもらった。
 全然、実感が湧かないままだ。付き合うってなんだろうなんて真剣に考えた。タクシーの中では手も握ってくれないし。いつか彼の方からしたいと思って、キスしてくれる日が来るのだろうか。好きだと——言ってくれる日が。

 欲張りだから、色んなことを期待してしまう。だめだなぁ。信じられないからもっと根拠がほしくなる。でも、ひとつ確かなことがある。
 彼の、そっぽを向いてばかりのぶっきらぼうな態度が裏付けているのだ。これが、夢じゃないんだってこと。





 —


 二ヶ月たった。彼氏はできたがキスは依然したことがない。まだ、何も変わっていない。本当に付き合ってるのだろうか。夢だった気がしてきたし、最近では夢どころか、気のせいだったと思いつつある。

 だが彼が私に女を感じないのはわからないでもない。我ながら、心当たりが多すぎる。ゲラゲラ笑うしよく食べるし彼の前でセクシーめな格好もしたことないし。
 このあいだなんか、不可抗力でパンツが見えていたらしく「隠せよバカッ!」と、心底嫌な顔をしてジャケットを掛けられた。逆におしとやかにしていたら「腹いてぇのか?」と心配されたし。みんなで飲み会の夜、気合い入れておめかしして行けば「お前なぁ。流川と会えるからってよォ」とか言われた。全然、流川選手に興味ないのに。
 要するに、色気がないのだ。致命的に欠如している。素を見せすぎたのだ。それに友達のままなほうが楽なんだろうな、私たち。いつまでもこのままな関係のほうがいいって、彼が思うのも当然だろう。だってたぶん結局は私の片思いだから。友情は共有できても、恋心は伝播しない。

 付き合う前はいつか彼に彼女ができる日がくるのを恐れていた。彼はハッキリ彼女ができたとは言わず、ただ突然私とサシ飲みしなくなるのだ。
 なぜか彼は秘密主義みたいなところがあるから明言はすまい。一応ああ見えて、スポーツ選手だし……プライバシーも守ってあげないと。だからこちらが察して失恋するだけなのだろうな、私の気持ちなんか。そもそも、私の気持ちを気付きもしていなかったっぽいし。
 でもいまは一応彼女は私。だから急に失恋することはない。最悪の終わり方はこない。それだけでも満足しなきゃ。でも……二ヶ月って——長くない?


「旅行?」
「おう。休み取れるか?旅行っつっても、横浜で一泊だけどよ」
「うん」
「よっしゃ、じゃあ決まりだな」
「うん」

 じゃー、とキッチンで皿洗いする背中を見つめる。私の家で宅飲みしながら去年のBリーグ決勝戦(録画してたやつ)を見た夜、そろそろお開きになろうかという雰囲気だった。
 手料理を振る舞うようになったのは付き合ってからのことだ。最初は失敗もあって「…や、マズかねぇよ。気にすんな」と言われもしたが最近は「腕上げたじゃねぇか、美味いぜ」が聞けるようになった。ネットのレシピ様々だ。
 ……横浜かぁ。じゃあ中華街とかかな?美味しい小籠包とビール……考えただけでお腹が減る。

「でもなんで横浜なの?」
「あ?まぁ最近ちょっと行き来しててよ。いい店結構覚えたんだぜ。お前のこと太らせてやろうと思ってな」
「太りたくはないけど楽しみ」
「おー、覚悟しとけ」

 ふっと笑うのが聞こえる。背を向けていて顔が見えない。横浜で私を思い出して連れてこようと思ってくれたのだろうか。とても嬉しくなった。
 だが一泊ってちゃんとそういう意味だろうか、とじわじわ不安になってきた。ホテルについて、「お前の部屋あっちか。俺こっちだわ」とか言いそう。そんなことになったら、たぶん卒倒する。
 でもまだキスもしていない。二ヶ月キスしてないのにいきなりそういう事になるものだろうか。

 皿洗いを済ませて手を洗い、彼がゆっくり振り向いた。二重瞼と目が合って、「どうした?」と言われる。どうもしなさすぎて悩んでいる。とは言えない。

「んーん、お皿洗ってくれてありがとうね」
「気にすんな。嫌いじゃねーし」
「世話焼きだよねほんと」
「んなこたねぇけどよ。お前が世話焼けんだよ」

 彼の定位置は、はす向かいのラグだった。しかし彼はそこではなく、私の隣に腰を下ろした。酎ハイを噴きそうになった。何気に隣って居酒屋やbarのカウンターくらいでしか座ったことがない。
 そういえばミッチー、今日に限って妙に静かな気がする。お酒もあまり進んでないような。そこにきて旅行の提案。隣に座って、なんだか黙っているし。——やばい。どうしよう。今夜ひょっとして、ひょっとするのだろうか。酎ハイ飲んでる場合じゃない。歯磨きしてきた方がいいかな?

「ミッチー」
「なんだよ」
「ありがとう」
「あ?いいって。メシ作ってくれたんだしよ」
「それもだけど旅行。計画してくれて嬉しいよ」
「あ、あぁ。そっちな」
「……」
「……」

 ジャケットを脱いだTシャツの肩。桜木さんといるときは細く見えるけど結構がっしりしてるんだ。何かどことなく色っぽいんだよなぁ。私より色気があるんだろうなぁ、当たり前だけど。何回見ても手とか指が長くてきれいだし。……甘えてみようかな。気色悪がられるかなぁ。

「……この日な。大丈夫か?」

 ぬっ、と伸びてきた手にスマホを見せられる。そうか。画面見せるために隣に来たのか。危ない危ない。ひとりだけその気になるところだった。

「あ、うん。休みだよ。泊まるとこはどんなとこなの?」
「ん?あー、それな」
「うん」
「……まあ期待しとけ。おまえの好きそうなとこだぜ」
「え。」
「……、ンだよ」

 じろりと睨まれる。なんだか、急に動悸がしてきた。不意に匂い立った気がした。恋人らしい、雰囲気が——。

「部屋さ、一緒?」

 もっとそれとなく訊こうとしたのにそのまま口から出てしまう。いつだって、ストレートにしか打てない。とはいえ彼がそれに弱いことは知っている。

「あたりめぇだろーが」

 また正面を向いて、横顔しか見せなくなった。内心オーケストラをバックにガッツポーズを取っている気分だった。やっぱり私じゃだめなのかななんて悩んでいた日々が洗い流されていく。
 ネイル予約しなきゃ。なに着て行こう?どんな下着にする?いや、でも過度に期待しないほうがいいかもしれない。本当に寝るだけということも想定内だ。なぜなら、まだキスもしていないのだから。

 彼が浅くため息を吐くのが見えた。目が疲れたのか目頭を抑えている。目頭を抑えていた左手が私の肩を抱き寄せる。はだかの目元。生白く鋭い眼力に、金縛りにあったみたい。
 それは唐突なタイミングだった。ゆっくり顔が近づいてきて、一度顎を引いてから進んでくる。
 背後に押さえつける左手、ぎしぎしと、体重を受ける壁、互いの衣服が衣擦れる音、湿ったキス……吐息が顔を撫でる。口唇をついばみ馴染み合い、私のリップクリームや唾液と混じって、彼のかさついた唇の角が取れていく。


「……酒くせ」

 ——低い、重い声が静かに響く。ただの友だちだったときには決して見られない、秘密の表情。
 浅く笑った唇がもう一度私の唇に還ってくる。もはや、疑いようがない。

 下着は買おう。ネイルもエステも行こう。と、いうかもはや、旅行の前に一線を越える可能性も出てきた。キスがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。なにも考えられない。ああ、だめだ。いまはただ、キスの波に溺れていたい——。










 恋に恋して煩い。



(つか、いつまでその呼び方なんだよ)
(えっ? ミッチー?)
(ああ……もう、名前でいいだろ)
(……え、無理だよ……恥ずかしい)
(あ?名前にしろい、もうキスしてやんねーぞ?)
(だめ!じゃ、あ……ひ、ひさし、くん……)
(ふはっ、それめっちゃそそるな)

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