口の中がカラカラの状態で、まだ眠っていたいけれどなにか飲まなきゃいけないなぁとか、このままもう一度眠れたらラッキーなんだけどとか、散々迷いに迷って結局、身体を起こす事にした。

「——うっ、痛ったァ……」

 言葉の通り頭がとても痛い。夕べはスポーツ用品店で働いているリョータさん、ジムのインストラクター兼、小学校のミニバスの監督をしている三井さん、あと、誰かもう一人のメンズと、そのメンズが最近お気に入りだとか言っていた女の子と私の計五人でBリーグのチャンピオンシップを観戦しに行って興奮冷めやらぬ状態で行きつけのスポーツバーに行ってご新規で来ていたドイツ人(しかも超イケメン)の人達が勧めてきたレモンと蜂蜜を入れたホットワインをみんなで飲んだ。だからきっとこの頭痛は、そのせいに違いない。私と一緒に飲んでいた他のメンバーはお酒が強いし飲み慣れていただろうけど私はいくら熱くてアルコールが飛ばされているからといってホットワインなんて飲んだ事がなかった。そもそもワイン自体、過去には何度か飲んだ事はあったが数えるくらいしかなかったし。
 リョータさんと三井さんとはそのスポーツバーで仲良くなって、今ではプライベートでもかなりお世話になっている。
 
 水が欲しいなぁ…ときょろきょろ辺りを見回してみる。しかしここは、私の部屋ではなかった。だけどすぐに三井さんの部屋だと気がついたので思わずひゅっと息を飲む。
 まだ夜が明けていないらしく、静かすぎるほどしんとしている。光といえば電気暖炉のとろ火だけなので、部屋の中はその橙色に染まっている。最近インテリを気取って……いや、リョータさんが「三井サンこれからはエモい男になるんだってさ」とか言っていたから、きっと彼のことなのでエモいから連想してこの暖炉を買ったのだろうと想定する。けど……たしかにエモい、かも。

 三井さんの家で飲み直そうとかなんとか誰かが言い出して、いつものようにリョータさんたちと一緒にバーを出たところまでは覚えている。しかし、すでにテーブルの上や椅子に乱れはなくみんながいた形跡はきれいに片付いていた。すうっと息を大きく吸いこんだとき清潔ないい匂いがふわりと顔の前に集まった。枕元のスツールの上に、500mlの水とコップがあったので、遠慮なく手を伸ばしてごくごく飲んだ。なんという美味しさだろうと感動して、もう一杯飲んだけれど二杯目はすでに普通の水の味しかしなかった。きっとお酒のなせる美味しさだったに違いない。
 不意に扉の向こうの浴室からザーッと水を流す音がして驚きそちらに目をやる。誰かがいたのだこの部屋に。私以外の他の誰かが。リョータさんだといいなと思ったけど、状況からして三井さんだろう。そうに違いない。相手は入浴中らしく、さっき静かだったのは頭か体か、とりあえずどこかを洗っていたから水を止めていたのだろう事を察する。今は継続してぱしゃぱしゃと聞こえてくる。この隙に帰ろうか考えつつベッドの居心地がとてもよかったため頭痛も止まないしもう一度眠ってしまおうとシーツにくるまって寝転がった。本当に頭が痛い。がんがんする。なのに、お腹がすいた。しかしそのまま目をつむっているうちに再び眠りに就いていたようで時間は多分、三十分も経っていないだろう。がちゃりと音がして目を開けるとたくさんの湯気をまとわせた三井さんがぴかぴかの照明の眩しい浴室から出てきた。部屋着っぽい柔らかそうな生地のTシャツと下は寝間着にしているのか高校か大学時代のバスケ部専用ジャージを穿いて頭にタオルを引っかけている。彼は、頭を下げてタオルで髪をごしごし擦った後そのタオルを脱衣所の籠に投げ入れた。おっ!!ナイッシュー!!……なんつって。

「なんだ、起きたのか」
「は、はい!お、おはようございます……!」

 三井さんはシーツにくるまっている私を不愉快そうに睨み暖炉の方に歩いていって火を鎮める。次に立ちあがってから、私のいるベッドのほうに向かってきたので、少し身を引いてしまった。

「水は?」
「——あ!い、いただきました、ありがとうございましたっ」

 思わず深くお辞儀をする私に無言のままベッドのふちに彼が腰を下ろしたので私の身体にもその振動が伝わってくる。そしてそれ以上に彼が露骨に機嫌が悪いことも……。

「あ、あのー......みんなは?」
「見ての通り、さっさとお前を残して帰ったわ」
「は、はぁ……」
「宮城の野郎は、いくら何でも深夜に俺とお前を二人にするのは非常識だとか言ってた」
「……」
「——けどな、お前が吐いたゲロを片付けたあと怒って帰ってったぜ」
「え?げ……な、なんて?ゲロとか聞こえたんだけど……う、うそでしょ?」
「女が吐くのを見たのは……俺も生まれて初めてだった」

 三井さんは「できれば一生見たくなかったぜ」と刺々しく付け加えて言った。あまりに衝撃的なことを言われて私はぽかんとしていた。そうして息を吐くように「……う、うそだよね?」と声を漏らした。そんなの、嘘に決まってる。だって、そんな感じが全然しないんだもん。記憶もないし吐き気も全然しないし。

「信じられねェなら信じなくていーんじゃね?」

 そんなこと絶対にありえないと一人、脳内会議をしている私の耳に飛び込んできた、三井さんのその冷めた声。もう一度、彼を見た私を一瞥したのち視線を逸らしてそのままの冷めた声色で彼は言う。

「でも今後は、誰もおめぇとホットワインを楽しもうなんて奴はいねーだろうな」

「てめえももう飲むなよ」と吐き捨てて洗いたての彼の柔らかそうな髪がふわりと揺れる。煌めく前髪の影は、彼の顔をいつもより少しだけ幼げにして見せた。

「うそだァ!わたし絶対そんなことしてない絶対絶対吐いてなんかないよっ!そんなこと起こるわけない!」
「ったく、てめェは……おめでてぇ奴だな。まあそう思いてーのもわからなくもねえ。俺なら死んじまいたくなるだろうしなァ」
「ああああああ……」

 シーツに突っ伏して悶え苦しんでいる私を無視して三井さんは立ち上がり、別のところへ歩いていくのがわかった。戻ってきたとき彼はまた同じベッドのふちに腰をおろして持ってきたコップの水を一口飲んだ。

「なんだ。じゃあ、あれも覚えてねーのか」
「え?なに!まだなんかあんの!?」
「ふうん、もういいわ」
「はいっ!?なに、もういいって!?」

 呆れ果てたように三井さんが目を細めて、ため息をつく。まるでメンズ雑誌のモデルのようだと私は場違いにも思った。小さな顔に神経質そうな眉ときりっとした瞳、長くて柔らかそうな睫毛、美しく整った鼻梁、その影、血色のいい唇、傷のある顎……昼間は、その青白い肌に日差しによる血の巡りを感じさせるが彼の部屋——それも暖炉の炎だけを頼りにした空間で三井さんの姿はますます人間離れしているように見えた。

「なに、なんなの?他にもまだやらかしてる?」
「いや、だからもういーって」

 つんとした態度に戦慄して私は死にたくなる。もういいなんて、いいわけがない!すくなくとも彼の態度から察するに私は許されざる失態を演じたことは間違いなさそうだ。

「言って言って!お願いっ!じゃないと私、死にたいから!」
「はぁ?それ、どういう脅しなんだよ」
「お願いお願い!ちょっとでいいから!」
「言ったら、余計死にたくなるんじゃねーのか?聞かねえほうがいいぜ」

 三井さんはベッドから起き上がりコップをローテーブルに押しやった。そしてまた戻ってきて、今度は私の傍に腰を下ろす。そのとき、ふわりと石けんの清潔な匂いがした。いつも通り過ぎ際に微かに感じる彼の匂い。その正体がお風呂の匂いだったのだと、今になって知る。

「どうしても……聞きてぇか」
「うん」
「ここが高層階だったら絶対に言えなかったけどな、そのまま飛び降りでもされたら面倒だしよ」
「え……」

 そのレベルだとは、想定していなかった。自殺したくなる程って、どういうことだろう。思わず怖気づく私の心情を機敏に読み取って三井さんはふんと鼻で笑ったが……目は笑っていなかった。えぇ……こっわ。

「やっぱやめとけ」
「え!……えっと……何系?」
「は?」
「こう……エンドレスで吐いちゃった系、とか?それとも、暴れて何か粗相を……」

 自分の酒癖を把握していないので、とりあえず酔っぱらいの行動パターンを想定してみる。だが三井さんは顔色一つ変えずに相変わらず凍てつく眼差しで私を眺め、静かに首を横に振った。

「あっ、まさか!あの私……お金は払えません、ご存知の通り安月給ですし貯金もそんなに……」
「あ?金だァ?」
「汚してしまった物の弁償と慰謝料なんかを請求されましても、その、困りますというか……」
「バぁーカ、違げーよ!」
「では、誰が被害に遭ったのでしょうか……?」
「俺」
「!!」

 衝撃を受けて三井さんを見る。三井さんの顔、いつもより精気ない雰囲気は、夜中の事で疲れているのか不機嫌なのか、それとも私のやらかしたことに甚く傷ついているのか。場合によっては、土下座……いや、寝下座をして謝りたいが、三井さんはやっぱり、教えてくれそうにない。私は口ごもり、どうすればいいのか考えあぐねて自分の服の裾を握りしめるしかなかった。

「よし、わかった!」
「……あ?」
「明日にでも私が何をやったのか自分でリョータさんに訊いてみる」
「宮城は何も知らねぇよ」
「そうなの?じゃあ……」
「全員が帰った後の事だからな。俺しか知らねーつの」
「えっ……」
「だからお前も忘れたほうがいいぜ。何もなかったってことにしとけ」

 何ですかその、まるで強姦でもされたみたいな言い草は。とてもとても、心外なんですけども。はっ!もしかして、本当に私、三井さんを襲ってしまったとか!?それは、やばい。それは、やばすぎる事態ではないか!!

「三井さんは、忘れてくれるの?」
「はぁ?忘れるわけねーだろ。一生覚えてて逐一恨みに思ってやるっつの」

 ひーっ!!ぞーっとして私が自分の身体を抱きしめると三井さんはすこし愉悦を感じたらしく、ふっと笑った。けれど、すぐに暗い無表情の手が彼の顔をさっと撫でていく。斜めからこげ茶色の影を浴び、鈍くとろけるような光を半身に浴びた姿は昼間見る彼とはまるで違っていた。まるで、大人の男の人にも見えたし、髪が下りているから幼くも見える。どこか、病的なその美しさが逆に恐ろしい。

「そんなの私も忘れられるわけないじゃないですかぁ……」
「いや、おめぇなら大丈夫だろ。神経図太てェし寝て起きたら、さっぱり忘れてるだろーよ」
「私って三井さんにそんなイメージ抱かれてるんだ……なんかショック。」
「……とにかくいーから。もう自分のアパートに帰れよ。俺はもう寝てぇんだよ」
「え。でもさぁ私本当に何しちゃったの?三井さんの大切な物を壊したとかなら多分弁償はできないけど、でも一生肩もみとかならやりますので」

 三井さんのことだから私はてっきり「そりゃいいな」と、にやりと笑いでもするのだろうと思った。だが彼は表情を変えず溜め息交じりに「ンなことやんなくていーわ」と、弱々しく呟いただけだった。

「壊されたりはしてねーし金が発生する問題でもねえ」
「え……じゃあ」
「あることを、お前から直接告げられただけだ」

 ——ぞくっ。胃の方から、冷たいものが流れてきて体温がすっと下がった。暴言を吐いたとか、そういうことならば、三井さんももっと直接私に強く抗議してくるだろうし肩もみも喜んでさせただろう。何だか、すごく嫌な予感がする。これはよくない。絶対に後悔する系の話だ。

「わ……わたし、帰るねっ!さよなら!」
「名前。」

 ベッドのふちから起き上がろうとすると、三井さんが私の肩を掴んで無理やり私をもう一度座らせた。驚いてその横顔を見る。彼は私の肩に手を置いたまま室内の光を眺めていた。まるで美しい女性のようにも見えるその横顔は実にミステリアスでなにを考えているのか、どういう状況なのか見当もつかない。わからないという事は、恐怖に繋がりがちだ。唾を飲んだら必要以上にごくりと響いた。

「まぁ待てよ」
「あのぉ、お腹が痛ぁいぃ……」
「嘘つくなっつの!あんだけ吐いたんだから痛いも何もねーだろうが。もう吐くモンもねーだろ」
「うっ……」
「——教えてやろうか?」

 美形だからこそ怖いのか。あるいはわざと私を怯えさせようとしているのか。全身を強張らせる私に三井さんは、そっとその端正な顔を寄せる。切れ長の瞳が今ではほとんど灰色に見える。青みは、茶色の影に飲まれ長い睫毛の影が彼の涙袋に長く伸びている。細い鼻梁と潤う唇。どこもかしこも悔しいほど綺麗で一瞬にして目を奪われる。

「三井さん……」
「お前は俺を傷つけたんだよ」

 けれどもその顔は穏やかで怒りを湛えている風ではなかった。だから余計に怖かった。爆発しそうで。爆発したら、私と三井さんは取り返しのつかないあやまちを犯してしまいそうな気がする。居心地のいい単なる飲み仲間≠ニいう関係性を捨てることになるような何か大きな過ちを——。

「そうやって、好き勝手に弄ぶんだもんな。いい度胸だぜ」
「なんか……こわいよ」
「教えてやるよ。お前が俺になにを言ったのか」
「やめて、やっぱ聞きたくない」
「おまえは、流川が好きだって言ったんだぜ」
「——!」


 あのね……わたし、好きなひとがいるの。
  流川……楓選手。片思いなの——


 ずっと、リア恋なの——%ェの片隅で響いたその声は確かに私の物で初めて聞いたのではなく耳馴染みのある、確かに一度口にした自分の言葉だった。
 誰にも言った事なかったのに。打ち明けられる仲間がこの飲みメンバーの中にはいないと思っていた。だって、彼らは流川楓選手と同じ高校の、同じ部活をしていた仲間で……それを知ったのもつい最近、なんなら昨日のスポーツバーで飲んでいたときのことなのだ。だから胸に秘めていた。彼を——遠くから見ているだけ、って。

「初恋の相手にそっくりでー、ってか?」
「……」
「悪かったよ、何も知らねーで後出しじゃんけんみたいに今さら俺らは知り合いだとか言ってよ」
「……」
「初めて流川選手≠見たとき運命だと思ったんだろ?」
「……」

 そんなことまで言ったのか、私は。こんな形で知られてしまって私はすっかり狼狽し赤くなって蒼褪める。三井さんは私の反応を見て歯を食いしばったらしく頬の筋肉をきゅっとこわばらせた。そして「忘れろ」と低く物静かに言った彼の声が室内に響く。

「アイツの事……何も知らねーだろ?ただキャーキャー言ってる周りのブースターと、同じ気分なだけなんだって、たぶん」
「……」
「チームのチアガールとかならまだいいだろうよでも、てめぇは一般人で——」

 三井さんは私の肩から手を離して、自分の膝のところで両手の指を絡めた。そうしてふぅと一つため息をつく。

「それに、俺がいんだろ」
「え……」
「だから、忘れろ」
「……」
「……な?」
「……う、うん」

 私が小さく肯く。三井さんがふはっと息を吐いて彼も肯いた。諦めるし、忘れる。そう約束したとき冷たくて苦しい粘り続けたいという気持ちが私の胸にぶら下がり、そして……落ちていった。どのみち諦めなければならなかった。三井さんの言うとおり、過激なブースター気分と評して間違っていない。彼の持つ伝説が何一つなくとも好きだったかと問われれば、自信もない。
 それと比べれば、三井さんのはにかむような、まるで少年みたいな微笑を垣間見るだけで幸せだったかも。スポーツバーの中ですれ違うだけで、一日中笑顔でいられたかも。声が遠くから響いてきたら、嬉しかったかも。そう言う感覚を私は、あの流川選手にも持っていたのだろうか。

 顔を上げて三井さんを見る。私は一般人だからいい加減にしなければならない。ワインを飲んで我を見失うくせにそう新しく胸に刻みつけた決意が私をすこし大人にしたような気がした。でも、苦くて——まだ今は、酸っぱすぎるみたい。










 さよならはいつも 片恋



(なんか……強迫されたような……)
(うぉい!人聞きの悪い言い方すんじゃねえ!)
(だって……な?って……なんか……)
(じゃあ、合意の上ならいーんだな?)
(へっ?)
(今からお前を抱く。ほら合意しろぃ)
(なっ!?なんですかそれっ!ちょ、たんま!)
(しぃー、痛くしねーから。な?)
(——ちょ!!ギャァ〜〜!!!)

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