※痴漢等のセンシティブな内容を含むため閲覧注意



 彼と出会ったのは、通学途中の電車内だった。私はいつもの如く満員電車にもみくちゃにされ、不快感でじっとりと汗をかいていた。人の多さが原因ではなく、ずっと一人の中年男性が手や足を故意に、ぐりぐりと押し付けてきていたので不快だった、と言う理由からだけど。
 そう……私は人生初の痴漢被害に遭ったのだ。それで私は恐怖と不安で硬直していた。とてつもなく気持ち悪くて、貧血気味になってきて意識が遠のいていきそうになった、まさにそのとき——


「——なぁ、おっさん」


 ドスの効いた低い声で若い男性がその中年男性の肩に手を置いた。……デカい。目つき悪い、と私までひくっと息を呑んだ。見れば彼は学ランを着ている。私の通う高校はブレザーなので、この電車に乗り合わせると言うことは瞬時に湘北高校の生徒かな?と、恐怖に支配されていた意識の中でも私は思った。

「お前今、痴漢してただろーが。いい大人がよ」

 彼が言った瞬間、その男性は一気に青ざめた。周囲の乗客の視線が中年男性に集まる。続け様に彼は「女子にンなことして恥ずかしくねーのかよ?」と言い、その男子高校生が男に詰め寄った刹那、電車が駅に着いた。中年男性は、すぐさま電車を降り、人を押しのけながら、走って逃げて行く。私や周囲の乗客は、呆然とその様子を見ていた。扉が閉まる。——嵐のような瞬間だった。

「大丈夫か?」
「——あ、はい。ありがとうございます」

 ぼーっとしていた私の背後から、密やかにそう声を掛けられ私はその男子高校生に深々とお辞儀をする。

「気にすんな、あーいうおっさん許せなくてよ」
「……本当に、ありがとうございました」

 私は突然の出来事と安堵感で泣き出しそうになったが、ぐっと必死に抑え込んだ。それでも彼は「その制服、翔陽か?」と緩く世間話に入ろうとしている。うちの学校の制服は色も緑色で、周りから見ても特徴的だからそれできっとすぐに気づいたのだろうと思った。なので私は、首肯した。そんな事をしている内に電車は次の駅に着いた。

「……お、じゃあ俺はここで降りるぜ」

 彼は「気ィつけてな」と労りの言葉を言い残し降車してプラットホームを踏んだ。そのとき咄嗟に「あっ!あの——名前だけでも」と電車内から私が声を張ると、彼が足を止めて振り返る。


「……三井——、三井寿だ。」


 扉が閉まる寸前、彼は笑って教えてくれた。
 そのとき、ドカンと。私は恋に落ちてしまったのだった。


 *


「湘北かぁ……あー!!私、湘北に行けばよかったぁ〜!!この緑の制服もだっさいしさぁー!」

 午前の授業が終わった放課後に私が頭をガシガシと掻きながら机に突っ伏して叫べば、隣の席の藤真が鼻先で笑ったあと言った。

「もしかして、今付き合っている彼氏か?」

 私が勢いよく顔を上げて、ブルブルと首を横に振ると藤真は、ん?と言うように小首を傾げる。自己紹介が遅れたが、彼の名は藤真健司。私とは同じ学年、同じクラスの同級生だ。彼はバスケ部所属で今年は強豪校と謳われているウチの翔陽がまさかのインターハイ予選で敗退。それでも三年生は冬の選抜にも出場し、華々しい成績を収めて引退を飾った。私は、机の上に両手で頬杖を付き正面を向いたままぽつぽつと彼に今朝の電車での一部始終を語り出す。

「実はさぁ今日わたし人生初の痴漢に遭ったの」
「おいおい、それってヤバくないか?おまえ普通のテンションで言ってるけど……」
「ヤバいと思った。でも——助けてくれたの」

 私は感慨深げに呟いた。ぽわぽわと今朝のあの情景を思い出しながら、ニヤニヤしていたらしい私の顔を怪訝な面持ちで覗き込んできた藤真が「誰が?」と淡々と問う。メルヘンな気分をぶち壊されて、私は藤真をキリッと睨む。彼は「なんだよ」と、やや身を引いて見せて、また椅子の背もたれに背中を預けた。

 そう言えば私、高校生にもなったのに、一度も彼氏なんて出来ていない。それに比べれば藤真の行動力は素晴らしい。だって彼女候補と言われていた同級生の子と冬の選抜が終わるまではお付き合いしないとかいう徹底ぶりだった。相手もそれを了承していたのが凄いけど。そんな二人が今は晴れてカップルとなり一緒にいるその空間はもはや恋愛ドラマ。お似合いすぎて嫉妬しそうなほどだ。しかしそういうのを引っくるめても、藤真はやっぱりモテる男の典型なのだろうと思う。その彼女とは中学校からの仲で藤真が翔陽に入るからと、彼女はこの高校を選んだらしい。藤真がいる高校だから。
 藤真はモテる。女子からの人気は、校内トップクラスで男子からも信頼と人望があった。そんな藤真と恋仲になれるなんて彼女も同様に行動力があるんだろうな。きっと、勇気もあるだろうし。
 私はダメだ。行動力や勇気はおろか、結局名前しか聞けなかったし。そんなことを考えていたら藤真が「駅で待ち伏せして声かけたらいいんじゃないのか?」と言った。ギョッとして私は動揺を見せないように即答した。

「無理だよ。待ち伏せなんて気持ち悪くない?」
「じゃあ憧れで止めておくんだな」
「うーん」

 そうだね、とすぐに首を縦に振らないのは私が諦めの悪い女だからだろうか。それとも何か他の理由があるからだろうか……自分でもよくわからない。でも、こんな気持ちは初めてだった。君の名前は——恋、ですか?

「——名前は、聞いたんだけどなぁ」
「ん?なまえ?」
「そう。みつい、ひさしって……言ってた」

 なぜかシン、と静まり返った私と藤真の空間。途端に教室内の騒がしい声や音が鮮明に耳に飛び込んできた。どうしたものかと私は藤真を見る。

「いま……ミツイ、ヒサシって——言ったか?」

 なんだかドキリとした。だって急に真剣な顔をして名前を復唱するんだもん。「あ、うん」と、吃りながらも返す私に藤真は、やや顔を顰めて「湘北?」とか「本当にそう言ったのか?」とか矢継ぎ早に質問攻めをしてくる。

「うん……てか、なに?どうしたの急に?」

 そんな私を一瞥して彼はフッと笑った。茶色いサラサラの前髪が吐息でふわっと浮く。ゴクンと生唾を飲んだ私は彼をじっと凝視するだけ。声が出なかった。なんだか、嫌な予感がしたから。

「あー、顔はいいかもな。身長も申し分ないし」
「……」
「体力は無さそうだけどな、確かにモテそうだ」

 ・・・。なんだそれ、知り合いかよ。いや本当に知っているのかも。だって明らかにそんな口ぶりだった。それでもすぐに「知り合いなの!?」とか「なんでそんなことまで知ってるの!?」と言う言葉が出てこなかったのは今彼が言ったその仮定が事実だったら今日偶然出会った私なんかは瞬殺で玉砕するに決まっていると思ったからだ。

「か、かのじょ……いるかな?」

 やばい。声が上擦ってしまった。それでも藤真は「さーな」と受け流して机の中の物を自身の鞄にしまい始めた。しかし鞄に荷物を詰め終わるとこちらに上体を向け珍しくニヤけ顔で「そう言えばさ」と、呟く。

「俺、今日予備校行くからお前と同じ電車だけど一緒に待っててやろうか?三井のこと」

 このタイミングなので私の諦めの悪さに気づいているのではないだろうかと訝った。その表情から判断するには彼の情報が足りなすぎる。隣の席とは言え真意までは知り得ない。気づいているのか、純粋に善意で力になりたいだけなのかが。

「揶揄ってるの?なんなの、あんたの真意は」
「揶揄うもんか。これでもクラスメイトの恋路を応援してるんだぞ」
「うーん。い、いるかな……ミツイくん」
「ダメもとで行くんだよ。告白したいんだろ?」
「いや!それはハードルが高すぎる!やっぱ無理行かない、私!!」

 藤真は苦笑した。私はブンブンと首を振り目を伏せた。きっかけがないと勇気を出せない自分が忌まわしいが、仮にこうしてきっかけが生まれたとて私にはそのあとの一歩が踏み出せない。彼は隣でころころと表情が変わる私を見ながら「一緒にいて飽きないな」なんて飄々と言いやがる始末だし、彼女以外にそんなこと言うな!と、いつもならすかさず突っ込みを入れる私でも、今は赤面してしまって、それどころではなかった。

「まあ、無理せず、マイペースでいいと思うよ」

 彼は励ましたつもりなのだろう。そして、そのまま自席を立った。せっかく一緒に駅で待ってくれると声を掛けてくれたのにそれを無碍に断ってしまった私の肩をポンと叩くと「じゃあな」と、言い置いて、我が校バスケ部の監督兼、キャプテンの藤真健司は颯爽と教室を出て行ってしまったのだった。
 うかうかしていると、いつ魅力的なあの電車の彼、三井寿が他の女に奪われるかわからないっていうのに……私は本当にダメだ。


 *


 ——2月14日、バレンタインデー。よくよく考えてみれば高校生活最後の恋愛イベントだ。今日私は、告白する覚悟で登校してきた。相手はもちろん、あの電車男……三井寿だ。
 今年もバスケ部(基本的には藤真)のチョコは豊作だったらしく両手に袋を持った藤真に帰り際友チョコと称してチロルチョコを渡した時に彼、三井寿に本命チョコを渡して告白することを報告した。それを受けて藤真は「展開早くないか?」みたいな顔をしていたけどそれもそのはず。結局あの一件以来、電車内で彼と出くわすシチュエーションがなかったからだ。あれ以降会ってもいない相手にいきなり告白?とでも思ったのだろう。
 でも藤真情報だと彼も三年生との事だったのでぼけっとしているとすぐに卒業シーズンを迎えてしまうと焦った結果、目前にバレンタインデーと言う、なんともゴットハンド——神の救いの手が巡ってきたので、私も腹を決めたのだ。

 彼の連絡先はもちろん知らないので私は放課後彼の降りた駅、『湘北高校前駅』と言う駅に降り立った。しばらくすると湘北高校の生徒と思わしき団体がぞろぞろとやって来て個々に電車に乗って行く。それから約40分は待っただろうか……生徒たちの姿が少なくなった頃、ついにお待ちかねの彼が現れた。私は一気に緊張感が高まった。
 一人なのか、周りには友人らしき人物は見受けられない。微かに白い息を吐きながらポケットに両手を突っ込んで、やや視線を落としつつ、彼がこちらに向かって歩いてくる。彼の周りだけキラキラと輝いて見えるのは、やはりこれが正真正銘の恋≠ニいうものだからなのだろう。
 不意に顔を上げた彼が見慣れない制服姿の私を見つけるや否や「あ」と口を開いたのがこの位置からでも確認できた。私は鼓動が速くなり、顔が赤くなるのを必死にひた隠しにする。

「……電車の、だよな?」

 薄暗いホームの下で表情はそれほど見えない、というか見れない。けれども、恥ずかしいことに変わりはない。だって向こうから声を掛けてもらえるなんて、願ってもないことだったから。頭の中で電車のだよな、電車のだよな……と彼の声で何度もリピートされる。なんですかその、電車のだよな、って!そうです、私が電車女ですっ!!

「この駅使うのか?初めて会ったよな、ここで」
「あ、あの……!」

 と、思い切って顔を上げたら「あ?」と、きょとんと私を見ている彼とバッチリ目が合う。油断したら「ぎゃあ!」とか声が出てしまいそうだった。イケメンすぎて。出す前に飲み込んだけど。私はハッとして現実世界に戻ってくると手に持っていた包装紙に包まれた今日のために唯一手作りしたチョコレートの入った箱を差し出した。

「実は……これっっ!」

 目を瞑って、両手で持ったそれをぐいっと差し出して90度でお辞儀している私の目線からでは彼の表情を窺うことが出来なかった。しかしややあって「おぅ」と、密やかに呟いた彼の声が頭上から降ってきたので私はその姿勢のままでパッと両目を開けた。見えたのはホームのコンクリートで出来た、冷え冷えとした地面だけだったけど。

「……チョコか?へえ、サンキュ」

 その言葉の後に私の手から持っていた箱が消えた。と、言うことは受け取ってくれたと取って、間違いないだろうと察する。私がそっと顔を上げて上体を戻すと彼は後頭部に手を当てがって少し照れたように眉根を寄せて私を見た。多数の女子から貰っているだろうけれど、この好感触なリアクションはありがたいと私は少しだけ安心した。てか、山ほど貰ったからすぐにこれがチョコって分かったんだろうけど。

「あの……!あと、えっと。実は……その」

 私はもぞもぞと身じろぎをした。彼はやっぱり「は?」みたいな顔をしてきょとんとしている。私は意を決し「好きです!」と言った。その声がやけにホームに響き渡って恥ずかしかった。でもこの恥ずかしさの勢いのままで、私は続ける。

「ずっと好きでした!付き合ってください!!」

 その発言に、彼はあからさまに困惑していた。きっと同じ学校の女子生徒にはこんなに動揺しないのだろうと思う。当たり前だ、私と会ったのだって約一ヶ月ぶりだし逆に私が同じ事をされたらそれこそ痴漢に遭った時に中年男性に彼が向けたような人として愚劣な行為だ、みたいな目で見てしまうかもしれない。要は、気持ち悪いって感じの目つきで。

「あ、あーっと……その、気持ちは嬉しいんだけどよ……」
「やっぱり、私に魅力がないからですね」

 私は気落ちしすぎて疲弊して心の中の声がぽろっと出てしまった事にすら気づいていなかった。「——や、そう言うことじゃ」と言った彼の言葉が耳に届きそこで初めて口に出してしまっていたことに気づいた。すぐに後悔したがもう遅かったようで、すでに先の会話を進めている彼を、逆にただただ呆然と眺めていた。

「その、俺あの、名前とかも……知らねーし、」

 と、彼はまた後頭部に手を当ててやや唇を尖らせ弁明した。確かに彼の言う通りで私はあのとき咄嗟に名前を聞いたから知っていたし、彼のことは同級生の藤真から情報収集をしていたけれど、彼は私の名前はおろか、何年生で何部でどこの駅を使っているのかさえ知らないのだ。なので彼が友人たちにあの日のことを報告したとて、きっと「翔陽のヤツ」とか下手すれば「痴漢女」と呼び名が付けられていた可能性は大いに考えられる。痴漢男から助けてもらって以来、色々とコミュニケーションを取っていたならまだしも、定期的に電車内で彼と会ったわけでもない。むしろ一回も会えなかった……連絡先も知らない。そんな相手からの突然の告白。誰だって困惑するに決まっている。それでもここまでくればもう怖いものなどない。私は諦めの悪い女、名字名前なのだ!

「じゃあ、これから仲良くなれたら、付き合ってもらえますか?」

 私は至近距離まで近づき、そう迫った。彼は、ずずっ、とたじろぎながら後ろに後ずさる。

「私は諦めの悪い女、名字名前です!」

 私はきっぱりと宣言した。宣言と言うよりも、自己紹介をしたかっただけなのだけれど。しかし彼が息をつく間もなく「なンだそれっ!」と馬鹿でかボリュームで叫んで突っ込みを入れて来たので私は虚をつかれ驚きの眼差しで彼を見つめた。

「とりあえずわーったよ、自己紹介ありがとな」

 彼は浅く溜め息を漏らした後、ぽつりとそう言った。そして途端に、真剣な表情をしてみせる。私が小首を傾げて怪訝な顔をすると、今度は彼がはにかんだ。私は彼のことをコロコロと表情の変わる人だな、と思った。見ていて飽きない、ってそれ、同級生の藤真にも言われた気がするけど。

「実は——俺も気になってて。お前のこと」

 まさかの予想外の言葉に私は当たり前に唖然とした。もしかしたら、夢を見ているんじゃないかって。静かに自分の頬を抓ってみたら、ちゃんと痛かった。それに顰めっツラをした私を見ていた彼は、ふはっと笑い、ぽつりぽつりと話し出す。

「あんな事があったから気になったのか、何なのか俺もよくわかんねーけど。ま、元気そうでよかったわ」

 彼はそう言ってフッ、と目を伏せて、その目を細めた。私は堪らず、矢継ぎ早に言葉を返した。

「じゃあ、私と仲良くなったら、お付き合いしてくれますか?あの卒業も迫ってますけど、あっ、三年生ですよね?!それでも仲良く——」

 と言い掛けたところで「たんま」と待てを強いられる。私は飼い犬の如く言葉を飲み込んで押し黙った。それを待って、彼が苦しげに言う。

「どうかわかんねーけど……お互い進路とかあるだろうし。でもまぁ、とりあえず——」

 と、その時だった——「三井サーン!」と手を振ってこちらにやってくる数名の学ラン姿の男子生徒たち。きっと、湘北高校の生徒だろう。

「あれー、まだいたんスか?何してんの?」

 その中の一人がこちらに駆け足で向かってきて彼にそう声をかける。彼は、あからさまに都合が悪そうな顔を晒して、慌てて誤魔化していた。

「あ、その、いや。ハンカチ拾ってもらってよ」
「ハンカチぃ?アンタそんなん持ち歩くガラ?」

 彼は「うっせ」とブツブツ呟いていた。すぐにその後輩らしき男子が「裏でラーメン食ってこ」と言い置き、さっさと向こうにいる残りの友人達の輪の中に戻って行く。彼もさっさとこの場から退散するだろうと思っていたのだか、後輩の背中を見送っていた彼がもう一度こちらを振り向き、「名前」と呟いたので私はそっと顔を上げた。

「——で、いいんだよな?」
「は、はい……」
「とりあえず、目の前の進路は決めたぜ」
「へ?」

 私がそうやって間抜けな顔で聞き返すと彼は、ニッと笑って「トモダチからな」と言い、さっき受け取ってくれたチョコの箱を持っていない逆の左手を、すっと私の目の前に差し出して来た。

 その手を握って握手を交わした時に見せた彼の笑顔は、私の手作ったチョコレートなんかよりも——確実に、甘かった。









 甘い かおり、苦い 味。



(……手、冷てぇ。ずっと待ってたのかよ)
(えっ、いや......一時間、くらい?)
(マジかよ。しゃーねェ、ラーメン奢ってやらぁ)
(それってあの、お返し……でしょうか?)
(バーカ。ちゃんと返すよ、チョコの分は別で)
(やった……!)
(……お前、単純って言われねぇ?)


※『 しずかだなぁ/手嶌葵 』を題材に。

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