高校一年生の春、あの人はいつも線路のあっち側にいて私はいつも線路を挟んだこっち側にいる。

通学時、必ず通る踏み切りで毎朝すれ違うバスケ部の誰かさん。方向から言って多分、湘北の生徒だと思う。背が高くて、ちょっとかっこいいかもなんて気にしてるうちに、すっかり好きになってしまったのだから救えない。

でも接点といえば、この毎朝すれ違う瞬間だけで名前も知らないし学年だって知らない。学校だって湘北かどうかも実際、怪しい。だからって今更「名前教えてください!」と言うのもどうなのかなって。朝すれ違うだけの人に。むしろ向こうは私なんて見てないかもしれないし。てか、きっと見てない。

訊いたところで「誰おまえ?」とか言われるのもなぁ……だめだ、そんなこと言われたらもうこの先ぜったいに立ち直れない。

そんなことを思ってるうちに彼の姿を見ることはなくなり二年が過ぎ去った。気付けば私も、もう高校三年生だ。


たとえば——それは他人からすれば至極他人事でどうでもいいことなんだろうなと思う。それに、そんな些細なことで傷つく私が大袈裟なだけなのかもしれない。

私はクラスから逃げていて、親友なんてできなくていいと思っていて、勉強も、運動も、部活動もできなくていいと思っていて、行事も目立たずにただしたいことだけして生きようって思ってた。だからどんなに後ろ指差されたって平気だった。自分でそう決めた、道だったから。

問題が解けなくて笑われても、授業中バスケットで毎回ゴールが決まらなくても、誰からもパスがこなくても。テスト順位が学年ビリでも、校則をやぶって、バイトしてても、持久走でビリでも。なんにも悔しくなんてなかった。

この高校生活は捨てよう。たった、三年でしょ。大人になったらもっと楽しいことたくさん待ってる。中学のときとは違うから。どんどん狭くなる視界だって、知ってたはずでしょう?苦しくなることだって目に見えていたでしょう?

そもそも私は、自分の人生に期待なんてしていなかったはずでしょう、はじめから。

それでもひとつだけ——。気掛かりだったことは二年前、線路の向こう。よく見掛けた彼のこと。たぶんあれは、人生はじめての、一目惚れだったんだと思う。

ストーカーみたいに後を追って同じ電車に乗ったわけでもないのに、彼を線路で見掛けなくなってから約二年が経ったある日、いつも私が乗る電車に彼が乗り込んで来たのだ。もうこれは運命だと思った。確実に。

二年前よりも身長がぐんと伸びていて体も大きくなっていて肩にはあのとき見たボストンバッグが掛けられている。線路で見かけたときよりも短く切られた髪の毛。顔中のあざ、バンソーコだらけのその高く頭上にある顔を見上げたとき知った、彼の左顎に、傷がついてることを。


そうして彼と、二年越しに電車で再会した日からほぼ毎朝彼は、私の乗る車両に乗って来た。彼は私と同じドアから乗るようで、やっぱりカッコイイなって二年前と同じように私の胸は高鳴った。

驚いたことは、何度か痴漢に遭っていた私の目の前に彼が立って守ってくれたこと。優しいなって思った。

ちらっと見上げてみても彼は私を一瞥もしない。見えるのは左顎の傷だけ。もちろん話したこともないけれど、見ず知らずの他人にも優しさを向けてくれる人なんだなと思って、なんだか、とても嬉しくなった。

彼が見当たらないときは、いつまでも電車の中を捜した。どうしても会えなくて、ホームでずっと待っていたこともある。仮に会えても、声なんて掛けられないくせに。

私のような、人生に諦めて悲観的になっている、友達でもなんでもない、ただ同じ電車でよく会うだけの存在だった者にも優しかった彼。そんな彼と再会してからは朝の電車に限らず、学校帰りの電車でも、彼をときどき見かけたりもした。

当たり前にかっこいいし、背も高いし男らしい。絶対に彼女がいる、そう思って私はもう、この、溢れ出る想いを制御できなくなる前に、考えないようにしたんだ。

それでも、いつも守ってくれる彼に甘えて、満員電車のこのときだけならと、勝手に、恋人同士の気分でいた。

それくらいなら、神様も許してくれるかなって。








制服のポケットに手を突っ込んでカツカツとローファーの靴底の音を響かせて、コンクリの被った排水溝の上をひとり歩く。

重くない鞄がやけに重くて笑った。悔しくないと言い聞かせるのに涙ばっかり出る自分に笑った。

今日もいつものように、学校でほんのちょっと、悔しい思いをしただけだ。このクソったれなプライドのせいで、自分の思いがうまくいかなくて。


「……へっくし!」

……彼、今日は電車に乗ってなかったな。線路でもすれ違わなかった。また、会えなくなっちゃうのかな……。

夜も更けてきた湘南の海風。潮の匂いが、鼻腔をかすめた。思わず出たくしゃみ。五月の夜はまだ冷える。

「あー……」

鼻水をズズッと啜って胸ポケットからわけもなく携帯を取り出す。悲しみを紛らわすために携帯を頼るなんて私もたいがいガキだなぁと思う。液晶画面が眩しい。目を細めながら適当に電話帳から愚痴をこぼせそうな友達の名をさがす。

そうしていると不意に、小さな公園が目に入る。歩きながら電話するのも無駄な労力だと思って、適当にブランコに座ることにした。そう思って、公園内に足を踏み入れると、ブランコには、既に先客がいた。

「……」

ベンチに行こうかとあたりを見渡してもこの公園はあまりにも敷地が狭すぎて寛げるような空間はないらしくベンチがなかった。どうしようとただ立ち尽くしていると、その人影がこちらを見た。

「……座れよ」
「え、わたし?」
「おめぇしかいねーだろ」

自分を指さして問うとそんな答えが返ってくる。知り合いかなと思ってよく目を凝らしてみれば、まさかの、線路で出会った彼、だった。

「……」
「……」
「……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて」
「おぅ、勝手に座れ。俺のじゃねーし。」

彼にバレないように涙をこっそり拭いて彼の座るブランコに近づく。

もう片方のブランコに座ろうと目をやると、彼の大きなボストンバッグが置いてあってそれは敵わなかった。どけて欲しいんですけど、と目で訴えると、彼はそれに気づいたらしかったけど、なぜか無視して私の右腕を急にぐいっと引っ張った。


「!?」

彼の前に立たされる私。ただ、手はまだ離れなかった。と言うか離す気もなさそうだ。そう思ってしまうほどに力強かったから。彼に掴まれた部分に熱が集まってくる。

「——ちょ、なん……ですか」
「いーから」
「……」

そして当たり前に沈黙が生まれる。公園の周りは民家で、カチャカチャとどこかの家の食器洗いの音が聞こえた。お皿同士のぶつかり合う音。

公園の前を、一台の車が通り過ぎる。

「……」
「……」

彼の手はいまだに離れなくて腕を掴まれたまま。どうして自分が今、こんな状況なのかわからなくて、とりあえず気まずかった。紛らわすように、その腕を見詰めていた。すると彼の腕がするっと下に動いて、私と手を繋ぐような形になった。

「——!」
「……」

恥ずかしくて思わず顔を反らすと、ざりっと靴が地面を擦る音がした。私の、音だ。その音のすぐあと彼はふと私の手を持ち上げた。何かと思ってまた目を向けると、彼は、まじまじと私の手を、見つめていた。

暗がりでも分かる。公園に設けられた街灯が彼の顔を覗かせて見せた、その真っ直ぐで綺麗な瞳。私は一瞬で、釘づけになった。

「あ、あの……」

手を引こうと少し動かすと、爪の先にちゅっと、キスをされた。

「——えっ」

思わずそんな言葉が出る。顔があつい。ど、どうしよう、急にすごく緊張してきた。


「泣いてただろ」

彼はぽつりとそう言葉を発した。バレてる。何て返せばいいのかわからなくて、私はただ無言で。

「……」
「……」

聞きたいはたくさんあった。もちろん、言いたいことも。でも今は、なにを言っても言い訳にしか聞こえなさそうで。

「……」
「……」

たとえば、この彼が、私が泣いた理由を少しでも訊ねてくれたら。

「……」
「……」

たとえば、問い質してくれたなら、私はきっと、失敗なんてしなかった。

「……」
「……」

このつまらないプライドが、意地を張ることも、なかったのに……。

「……ッ」
「……」

ただ——この空気がどうしても優しかったんだ。今のバカな私の心には。

「……」
「……っ、っく」

流れる雫を必死で押さえた。ただ顔を背けることで必死だった。

「う、っく、ひっ……」
「……」

空いてる左手で口元を押さえる。醜い嗚咽が駄々漏れだったから。

彼は私をわかっていた。ここで抱きしめられでもしたら私はきっと彼を平手打ちする。そんな甘いもの私にはいらない。このプライドがそんなことを許したりしないの。

「ご、めん、なさい……」
「……別に。」
「……っ、」
「泣けるなら、泣いた方がいいぜ」


ただこの手だけは離れてほしくなかった。私が泣きやんだ後も離れなければいいと密かに願った。

バカでどうしようもない、この、心の奥で——。

「……」
「……」

震える指を強く握ってくれていた彼。もし、私が泣きやんでもこの手を離さないでいてくれたら。


「……もの好きな、ひと、だね。」
「ああ、知ってる」

この繋いだ手を、お願いだから……離さないで。今だけは——。


人生を投げやりになっていた私だったけど、彼と出会えたことで、本物のヒーローは、日常にいるのだと知ることが出来た。

真の意味でも、私も彼みたいなかっこいい大人になりたいと思った。本物のヒーローはもちろん、彼、ひとりだけだけど。








それから約半年後、いつもの線路の向こう側に、あの人はいた。

はじめて出会ったときのように、彼はあっち側にいて、私は線路を挟んだこっち側にいる。外は、すっかり雪景色で、道は凍結していてよく滑る。現に私もここに来るまでに、既に三回もこけた。

おそるおそる足を踏み出す私は、どんなに滑稽に見えたことか。しかも今日は、単語テストの日。朝に気づいて愕然とした。すこしでも満員電車を待逃れようと早く出てきたので、太陽だってまだ満足に顔を覗かせていない。

そんな中、遮断機は、警報器をけたたましく鳴らして降りてくる。

「……」

ちらと向こう側をもう一度見てみれば、やっぱりいた。見間違いじゃなかった。赤と黒のチェック柄のマフラー姿のあの人。白い息を吐いて手をポケットにつっ込んで眠そうに遮断機の前に来る。

私は、冊子型の単語帳で顔を隠しながら、電車がくるまでのあいだ、彼をそっと盗み見る。


——カンカンカンカンカンカン
——ガタン ゴトン ガタン ゴトン……

——カンカンカンカンカンカン……

江ノ電が通り、遮断機が上がる。私は下を向いたまま歩き出した。単語帳を見ながら。好きだなあわたし。こうして数ヵ月経ったいまでも、彼と、すれ違える、この瞬間が——。


「……わっ!」

突然。ローファーの靴底が、踏み切りのレールに固まって張り付いていた氷に、うまく踏み込めずバランスを崩した。……ヤバイ! こける!

今日、四回目のこの感じ。覚悟を決めて、目を閉じて、衝撃に耐えようとした、そのときだった。


「……っぶねー」
「……?!」

来るはずの衝撃もなく、不思議に思って恐る恐る目を開ければ、目の前に、愛しのあの人の姿が。

「滑りやすいんだから、本なんか見てんなよな」
「す、すみません……」

び、びっくりした……。彼が私をまるでなんかの王子様みたいに、抱きとめたから。待って、こ、腰に手が……。そのとき、カンカンカン!とまた警報機が鳴り始める。

「やべ! 急がねーと!」
「ぎゃあ!」

私たちはダッシュで向こう側、いつも彼が向かう方向へと避難する。遮断機をくぐると彼の右手は私の左腕をつかんでいて……刹那、あの日、公園で腕を掴まれた光景が、脳裏に蘇る。

彼は私の腕を掴んだままで走り去る電車を眺めている。私は視線を、掴まれた腕に落としたまま。間も無くして、遮断機があがった。

「……、」
「——あ! わ、悪ィ!」

私がそれに見入っていると、彼も気づいたようで慌てて手をぱっと離した。ちょっと寂しかった。

あの日、公園では、さらっと手を握ってくれて、私の指にキスをしてくれたはずなのにって……。


「……」
「……」

なりゆきでこうなったものの実際なんだか居心地悪い。そうだよ、話すことなんてないし。きっとあなたは私なんて知らないし。満員電車で、痴漢から守ってくれた相手だなんて、ましてや公園で手を握った相手だなんて……。夢にも思って無いんだろうなぁ。


「……あの、すいません。ありがとうございました、もう、大丈夫なんで……」

私がぺこりとおじぎして踏み切りに向き直ろうとした、そのとき——。


「あ、あのよ!」

彼が私の肩を引いた。勢いでまた彼と向かい合うかたちになる。すこしだけ眉間に寄せられた皺。

やっぱりくっきりと、見間違いでもなんでもなく彼の左顎には傷があって、その瞳は真っ直ぐで、きれいで——思いがけず私は、顔があつくなる。


「公園で、会った……よな?」
「え? あ、……はい、」
「あと、電車でも……。」
「あっ、その説はお世話に……なりました……」
「……あ、いや。お、おぅ……」
「……。」
「で、……その、」
「……」
「名前、教えてくんね?」


彼は、照れたように笑って、そう言った。










 その 笑顔 は反則だから。



(名字、名前……です。)
(俺は、三井……寿、だ。)
(あ、そうですか。三井、さん……)
(あの、呼び捨てでいいぜ)
(あ。じゃ、じゃあ……三井……?)
(や——、その。下の名前で、いい)
(……ひさし、くん。)
(……おぅ。)

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