インターハイが終わって三年生が部活を引退した次の日の今日。帰宅部にして湘北バスケ部の応援団の一員である私はと言えば、まだはっきりと現実が見れていなかった。
だって、あんなにみんな毎日毎日毎日死ぬんじゃないかってくらい赤木に走らされて、怒鳴り散らされて、休みも365日ほぼなしで必死でやってきたのに……。
あの高校バスケで有名な学校、山王工業から勝利を勝ち取り。なのに次の試合であっけなく負けたなんて……私は咄嗟に、事実を受け入れることを拒否したのだ、きっと。それは今もそう。
まだ夢心地のまま私は夏休みの補習授業を受けるため午前から学校にいた。今日の湘北バスケ部は珍しくオフらしい。きっと安西先生なりの労わりなんだろうと思った。——だけど、こんなときに優しくしないでほしい。労らないでほしい。私は部外者だけども……だって思い出すたびに、また胸がズキズキしちゃうから。
冷暖房全完備とは言え結局夏の、特に猛暑の日にしかつけてくれない教室の冷房なんてあてにならない。だから私はいつでも冷暖房ばっちりの図書館へと向かった。とにかく涼しいところに行きたかった。
図書館は三年生の校舎の階にあるから、三年生の人が勉強してんだろうなぁとか思いながら私は辿り着いた図書館のドアを開けた。ひやっと涼しい風が私をするりと通り抜けて気持ちよかった。
がらんとしてシーンとした世界で、一番奥のテーブルに全生徒の平均よりは格段にでかい人が椅子に座って何かを必死に書き込んでいる姿が目に入った。その人物は時たま頭をガシガシと掻きむしっては小さく舌を打ち鳴らしている。私はその大柄な男子生徒に見覚えがあった。よくよく見たら同級生、同じクラスの三井寿だった。
私は図書委員すらいないその空間を進み、黙々と学業に勤しむ、そのバスケ部員のところに駆け寄った。奴は冬の選抜も出るらしいから、まだ引退していないと木暮から聞いたのはインターハイで広島に向かう一週間前のこと。
「三井、なにしてんの?一人で」
「……ん?あぁ、名字じゃねぇか。お前こそどうした、制服なんか着てよ。まだ夏休みだぜ?」
三井は開いていた本をパタンと閉じ、こちらに怪訝な顔を向けながらそう言葉を放つ。
「あー。私はほら、午前から補習だったの。教室クーラー付けてくれなくて、超暑いから図書館に逃げて来てみた」
「へぇ」
「……で、三井は?」
「俺? 俺ァ、まぁ……ちょっと勉強?」
「勉強?」
そこで私は三井の読んでた本が改めて参考書だと知った。ついこないだまでは授業中に週間バスケットボールを隠れて読んでいるか、隠れて昼寝をしていた人なのに。だから参考書なんかを真面目に開いているのが、なんだか少し寂しかった。
「三井ってさぁ、字」
「あ? 字?」
「うん……汚ない」
「なっ!? うるっせぇ!そうゆーお前だって、たいして上手くねーだろが!」
字が汚い私の想い人、三井寿。
こんな汚い文字から、あんな華麗なシュートが放たれてるとは誰も思うまい。
三井はいま、ちょっとした湘北高校の人気者だ。あの一年生の黒髪サラサラバスケ部員のイケメンとまでは言わないが、まあモテる。勉強はもちろんできないけど運動はバスケはともかく何でもさりげなくちょいちょいっとできちゃって、性格も意外とワンちゃんみたいにかわいらしいやつで、自慢じゃないけど私、こいつと三年間一緒のクラスなんだよね。三井は気付いてないと思うけど。
けど——、
「私も字汚いかもだけどさあ、あんたのコレより断然マシだと思うよ?だってほら、何コレ?こんな英文、人類解読不可能だって絶対」
「バーカ、読めるっつの。I like basketball.」
いや——。ほんとに字が汚い。発音もいまいち。
読めないって。最早、蚯蚓にしか見えないもん。
唯今、時刻は午後の二時過ぎ。
聞けば夏休み前に英語の時間、寝てばっかだった三井は罰として英語の補習に来ていたらしい。先生がインターハイが終わるまで先延ばしにしてくれたのだそう。そう言えば二年の頃も三年のはじめもよく一緒になって反省文とか書かされたっけ。それを見て周りからは何故かバカップルって言われたし。
でも三井はバスケに夢中になってからは一切、補習やら反省文やらとは無縁になった。部活がしたくてしたくて堪らないんだろうなあって思ってたけど、ちょっと、それも寂しかった。
「てかさ、三井。」
「ンあ?」
「三井はコレが勉強するためのノートって解かってんの?」
「は? 解かってるわ」
……ほんとかよ。
「——じゃあ、なんでアイライクバスケボーとか書いてんの」
「そりゃあ、バスケが好きだからな」
「まじめにやりなよー!それ終わらないと帰れないんでしょー?」
「あー......まあ、見てろって」
お、よかった。これならもうちょっとで三井も終わりそうだな、と思って私は三井の隣の椅子に腰をおろした。……カリカリカリ。シャーペンを動かす音が横から聞こえる。三井……頑張ってるんだね。
「……」
「……」
私の視線に気付いたのか、三井は苦笑しながら言った。
「……夏は、終わったからよ」
「……」
「俺は冬まで残っけど」
「……。」
「まあ、勉強も頑張ってかねーとな」
「……っ」
——あのときの記憶が蘇る。
試合終了のブザーが、頭のなかでエンドロールで流れてく。みんな泣いてた、あの瞬間。
「名字……」
悔しくて。ただただ、悔しくて。みんなの努力を知っていたから。
「みんな、頑張ったのに……っ!」
「だー、もう。……泣くなっつの」
あの日、晴子ちゃんたちと泣き合ったときと同じ台詞を私は呟く。三井はそんな私に仕方ねーなって感じで小さく溜め息をつく。だってさ、本当に本当に頑張ったんだ、みんな。未だに私はあの日を思い出しては、こうして涙が止まらなくなる。
「……過ぎたことは、仕方ねーだろ」
「でもっ——! みんな毎日あんなに……あんな必死で毎日夜遅くまで……っ、」
「けどよ、山王はすごかったからなァ」
「……」
インターハイ最後の相手愛和学院≠ナはなく、あえてそこを山王≠ニ言う三井のほうを私は見た。三井は参考書を開き、それをじっと見つめていた。
「相手にとって不足なし、ってやつだな。」
「……」
「夏の最後の相手としては最高の敵だったわ」
「……っ」
この人は、本当に素晴らしい人だと思う。私は敵の学校をそんなふうに見たことなんてない。むしろ見れない。見ようとできない。そんな私と比べて、この人はなんて大きな人なんだろう。
三井の真剣な顔を盗み見たあと、私はその目線を先のノートへと向ける。
「……」
「——!?」
え、なに、こいつ——。やめてよっ!!だって、そこには、三井の汚い文字で……
I love 名前
って、ノートのページに大きく書かれてた。
いつ書いたの?さっきは書いてなかったよね?
私がしばらくそれを見つめていると、視線に気づいた三井は参考書を置いて頬杖を付き私に満面の笑みを向けて言った。
「——今の、俺の気持ち。」
「……っ、」
「……なんてなっ。」
「——!」
……やられた。かわいすぎなんよ、アホ犬。
ありえないっつの……この元ヤンキーが!!
だけど——時が経ってお互いに大人になったときいま、この状況を振り返ってみて思い出すのは、三井のこの笑顔なのかなぁ、と私は思った。
「まっ!真面目にやれってのっ!」
「ふは、今うれしかったくせして」
私は照れ臭くなって下を向いた。窓から差し込む光は紫外線がたっぷりと含まれた刺激の強いものだった。
三井は未だ私をバカにした感じで笑いながら徐にそばにあった消しゴムを取ってノートに書いたI love 名前≠ニいう文字を消そうとする。それに待ったをかけるように私は「あっ!」と声に出し三井の腕をつかんだ。三井は目を見開いて私を見る。
「——ちゃ、ダメ」
「……あ?」
「だから……!消さないでっ」
「……」
「消しちゃ……ダメ……」
また赤面して語尾を窄めて言う私がそっとつかんだ三井の腕を離せば三井は一瞬きょとんとしたけど、すぐに口の端を吊り上げて「あっそ」と短く言い放った。私はすぐに三井から視線を逸らして窓の外を見た。
きれいな湘南の海が見える。そして小さく頷いてから悲しくて出たのか恥ずかしくて出たのか定かではない自分の目尻に溜まった僅かな涙を拭い、三井のほうに向き直る。
「……冬の選抜、頑張ってよね」
私はそう呟いたあと三井から視線を逸らしてまた窓の外を見る。私の声をしっかりと聞き取ったらしい三井が真横でふっと笑った気配を感じた。
刹那、ビリビリッ!というノートを破る音。目の前に差し出されたノートの切れ端にはI love 名前≠フ汚い三井の文字。それを無言で私が受け取ったとき、三井が勝気に言う。
「おう。まかせとけっ」
……って。
その言葉のあと微笑んだ三井の表情は、やっぱり少しだけ寂しそうだったけれど、とても晴れ晴れとしているように私の目には映った、そんな高校生活最後の夏休みの話。
今なら素直に 好き といえる
(さてと、さっさと終わらせちまうか)
(うん。じゃあ終わったら一緒に帰ろうよ)
(おう。帰りにチエコスポーツ寄っけどいいか?)
(いいよ!なに買うの?)
(あー。……バスケットボール)
(え?)
(桜木の——見舞いに持ってこうと思ってよ)
(ふーん。後輩思いのイイ先輩だねっ)
(……うるせぇ)
※『 KissHug/aiko 』を題材に。
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