「——おめでとう。」
花束を受け取ると、みんながパチパチ拍手をしてくれた。あたたかい感動的な雰囲気。みんな優しい顔をしている。
きょうはバイト最後の出勤日だった。大学も明日卒業しその後は旅行してすぐに希望職種の企業で入社式を控えている。
「よく頑張ったな。お疲れさん」
三井さんが口角に微かな笑みを刻んで言う。深々とおじぎをしてチューリップでいっぱいの花束を抱きしめた。
——三井さんが、大好きだった。
きっと、一生忘れられないくらいに。
でも、忘れるくらいなら一生片思いしていたいなとも思う。こんなこと言ったらきっと三井さんは困った顔をするんだろうな。
——18ヶ月前。
「名前」
バックヤードの扉がすこし開いて三井さんの声がする。フロアで検品していた手を止めて扉を眺めるが中の人物は姿を現さず声だけが響いてくる。
「休憩いってきていいぞ」
「はい。お先に頂いてきます」
時計を見ると、お昼の11時45分。休憩はチエコスポーツ店舗内ではなく、同じビルの空き部屋を使用していいことになっている。そのまま店を後にしようと思ったがふと気になってバックヤードを覗いてみた。
三井さんがガニ股でうな垂れながらパイプ椅子に座っている。いつもと違うのは、顔がボロボロだったことだ。自分で消毒しながら「痛ってぇ」と呟いている。
「へ?! 三井さん、どうしたんですか!?」
「ん、おぉ、ちょっとな。ここはいーから、メシ行ってこいよ」
「いやっ!手当しますよ。 貸してください!」
「いーって。慣れてっからよ。」
……嘘だ。絶対に喧嘩なんかしたことないくせになにを強がってるんだろ、この人。
だからそう言われても私は引き下がらず消毒液とガーゼを奪って隣を陣取った。こうなるのが目に見えていたから三井さんは怪我を秘密にして私を休憩に行かせようとしたのだろう。
「……喧嘩、ですか?」
「あーちっと目障りな連中がいてな。わからせてやったまでよ、はっはっは。」
「……。」
「……嘘だっつの。ちょっと、昔の連れとな」
「ですよね、そんなことだろうと思いました」
血が滲みはしていても、いずれも大した怪我ではない。ただ口元とか、頬に真っ赤なあざができている感じだった。それでもきっと、じきに紫になって、カラフルな顔になりそうではある。
「せっかく男前なんですから、お顔、大事にしたほうがいいですよ?」
「あぁ?急に褒めてどしたよ。名前、おめぇ前に俺の高校時代の写真見てイキりヤンキーって揶揄ってただろうが」
「えっ? あ、あれはー、違いますよ!」
「こんなカスリ傷よりゃ、よっぽど傷ついたぜ」
ふはっと笑い飛ばす三井さん。あれは、よくここに遊びに来る桜木さんとか宮城さんと話してて、三井さんが私から見てどんな人なのか聞かれて、まだ働きはじめの時期だったから、とりあえず、雰囲気を伝えたくて……。
だって、おもむろに昔の写真を見せて来たのは、宮城さんだったし。でもまさか、後ろに三井さん本人がいるなんて、思いもしなかったんだもん。
ただ顔はかっこいいって最初から思ってはいた。口は悪いし、いつも眉間にシワを寄せて不機嫌そうではあるけど端正なビジュアルだし、しゅっとしてる。だからこそ余計怖そうに見えたっていうか。昔ヤンキーかじっててもおかしくないなって思ったっていうか。
——三井さん。フルネームは三井寿。コトブキと書いて一文字で「ひさし」と読むらしい。バイト初日、毎回このくだりになるからか、三井さんは自己紹介慣れしていた。
「コトブキ……?」「ひさしって読むんだよ」と本当に言い慣れた様子で若干うんざりみたいな顔で改めて自己紹介しあった日のことを思い出す。
三井さんは実は、B3というバスケットボールの実業団の人でプロ契約はしていないらしく、そもそもB3はプロリーグではないため、副業でこのスポーツ用品店、チエコスポーツの店長をしているらしい。
なぜこのお店の店長になったかは不明。ただ三井さんのバスケ仲間なのか、よく知り合いが出入りしているのは今となれば当たり前の光景だ。その中でもよく顔を出すのは、他の実業団に所属している桜木さんっていう赤い坊主頭の人と宮城さんっていう小柄なチャラチャラした人。
そして、このお店の従業員の一人、石井さんっていう男性は、三井さんの高校時代の後輩らしい。一緒のバスケ部だったと石井さんから聞いたのはバイトをはじめてから一週間くらい経ったときのことだったと思う。
「ごめんなさい。私の目が節穴でした。三井さんはかっこいいです」
「別に気ィ遣わなくたっていーつの。ったく。」
「本当ですよ?声も、かっこいいです。すっごいいい声」
「あー、そうか? そりゃ、ありがてぇこった」
「優しいし、いつも守ってくれるし、子どもにもお年寄りにも、若い子にも人気だし」
「……」
「最っっ高の店長です!」
「……」
三井さんは、渋い顔で反応に困っている。そして微かに赤くなっているようにも見えた。
「おう……なんか知らねえけど嬉しいわ。ありがとな」
「じゃあ、イキりヤンキーって言ったの、忘れてくれます?」
「あれは、なかなか忘れらんねぇよ。けどまぁ、はじめから怒ってねぇし、そんな気にすんな」
皮肉そうに笑う口元に、意地悪そうな皺が寄る。見た目とは裏腹に、本当は優しい人だということを、ちゃんと分かっているのだ、私は。
——12ヶ月前。
「よぉ、名前」
カウンターでノートパソコンを叩いていると三井さんが戻ってくるなり私の隣にやってきた。近!と思ったが、三井さんでなければ気にも留めない絶妙な距離だった。
三井さんって、普段全然近寄らないから、だからこそ意外で反応してしまった。ちょっと腕を寄せたらぶつかる、そんなくらいの近さ。三井さんの匂いが少しだけする、と思うと、ドキドキした。
私と一緒にパソコンを覗き込む横顔が、すぐ斜め上にある。なんということだろう。私ひとりだけ焦っている。三井さんはなんとも思ってないっていう真顔なのに。
「就活、どうだ。きついか」
仕事中にだけたまに掛けている三井さんのメガネに、パソコンの四角い光が照っている。その下で彼が、ちらと私を一瞥したのがわかった。
「なんとか頑張ってます」
「みてぇだな。飯ちゃんと食えてるか?」
「はい。」
というのは嘘で、実は食べたり食べなかったり食べそびれたり忘れたりしている。体重計に乗ってないけど痩せた気はする。今持っているスカートやデニムもゆるくなってきたし。それをわかっているから、三井さんもこうして気に掛けてくれているのだろう。
「そか」
「……はい」
けど、三井さんはそれ以上追及せず、手にぶら提げていたビニール袋をカウンターに置いた。がさがさと音を立てて、その中から500mlのポカリとフリスクだけを取り出して手に持つ。
「——これよ。持って帰って食え。甘ぇ菓子好きだろ?」
「え?わ。……なんですか、これ」
「限定発売の……なんつったかな、流行りのやつらしいぜ。ちょうど最後の一箱だったんだよ」
「え。私に?いいんですか?」
「おう。今日はもう上がってゆっくり休めよ」
「あ、ありがとうございます……」
中を見ると、SNSでバズっていたお菓子だった。深々とお礼を告げて、上がっていいという言葉に甘えて、早足で店を出た。
歩くたびにがさがさと袋が音を立てる。自分の顔が赤いことがわかっていたから、三井さんの顔をまともに見ることができなかった。応援してくれていることや、詮索しない気遣いが、しみじみと身に染みた。
それと同時にわかってしまったのだ。ああ、全然脈がないんだなぁって。
何とも思われてないからこそこんなに優しくしてくれるのだ。私がもっときれいな女の子だったらよかったのに。
それでも、三井さんの態度は変わらないのかな。顔がどうって問題では、ないのかな。それなら、もっと、どうしようもないではないか。
「はぁ……」
あれこれと考えて、一人で勝手に撃沈した。
——8ヶ月前。
「お入りください」
ノックの後、バックヤードからすごく凛々しい声が返ってくる。失礼します、と中に入り、面接官役の三井さんと目を合わせる。自分の身分を名乗り、「お掛けください」と言われてから一礼し、パイプ椅子に座る。
三井さんはニヤニヤしながら、わざとボールペンをカチカチ鳴らして圧迫してきたが、ははっと笑って「めちゃくちゃソツなくこなすじゃねえか」と言った。
「三井さんのおかげです。練習付き合ってくださって、ありがとうございます」
「こりゃ明日の最終面接も余裕だな。よし採用」
「あー、本当にそうなってほしいなあ……」
「そこ受かればもう就活は終わりなんだろ?」
「はい。あ。おかわり注ぎましょうか?」
三井さんがお茶をぐびっと飲み終えたので、そう申し出たが「バァカ、いいよ、水商売じゃねんだから」と断られた。そんなつもりで言ったんじゃないのに。
「おまえ、度胸あるからな。落ち着いて臨めば、きっとうまくいくって」
ボールペンを机に置いたあとのすこし伏目がちな目元。すう、と聴こえる息を吸う音。三井さんが好きだ。なんだかこの人、どこをとっても美しく見えるし、かっこいいなと思う。大人の男性だなって。
「度胸なんてないですよ」
「あンだろ。こんな、チンピラ連中が集まる店、並の人間にゃキツいと思うぜ」
そう三井さんが言ったと同時にピンポーンとお店の入り口の来客ベルが鳴る。いつの間にいたのか桜木さんの「いらっしゃいませー!」というバカでかボイスが聞こえて来た。
「……あンの野郎、まァた客にあれこれ売りつけるつもりだな」
「……」
「ったく、参っちまうぜ」
従業員でもないのに「なにをお探しで?」なんて言っている桜木さんの声を聞き捨てて三井さんは溜め息をついた。チンピラなんかじゃない、従業員に限らず、ここに来る人たちはみんな本当に、いいひとたちばかりだ。
——度胸か。本当にあるならきっともう少し踏み込めるはず。斜め下で固定していた視線をそっと三井さんに向けてみる。
「三井さんって」
「あ?」
「彼女、いるんですか?」
「……」
三井さんが一瞬黙ったのは、なにも私から発する下心に気づいたからではなく桜木さんがお客さんとトラブルにならないか聞き耳を立てているからだと思いたい。
でも三井さんは目を伏せて息を吸うとハァと溜め息を吐いた。なんて答えるのだろうと固唾を飲んで見守る中、三井さんがゆっくり唇を動かした。
「内緒。」
「……」
「余計なお世話だ、ほっとけよ」
「いないんですね?」
「うるせぇなぁ……。悪ィかよ」
「じゃあ、どういう子が好きなんですか?」
「ハア?」
「女子大生じゃ……だめですか」
「……」
ここで三井さんもようやく察するものがあったらしい。急に空気がぴりっとするのがわかった。
さっき、勢いに乗じて発した言葉が、ふわふわと頭上を舞っている。短慮に任せた衝動的な言葉は決して取り消せない。
「考えてみたこともねえよ。んなこと」
「……じゃあ、考えてみてください。」
「……おお。考えた。……だめだな。」
「……。」
拒絶を意味する冷たい一瞥。その後、顔を背けてまた深く溜め息を吐いた。Tシャツに隠された胸元が挙上する。私は怖くて、三井さんの顔を見ることができなかった。
ぎゅっと手を握って、自分以外の女の子になりたいと願った。でも、現実は甘くない。三井さんは学生はだめだと言うし、実際脈なしだし、明日は面接があるし。
三井さんは私を度胸があると言った。だから勇気を出してちらっとその顔を見た。そっぽを向いて不機嫌そう。おもしろくなさそうにブスっとしている。それなのに、照れ臭そうにも見えてしまうのは錯覚だろうか。すこし、赤くなってるような気がするのは——。
思わず笑ってしまったら「人のツラ見て笑うな、アホ」と、睨まれた。三井さんのお陰で、明日は頑張れるかもしれないな。
——7ヶ月前。
内定をいただく運びとなったことを報告する。 三井さんは椅子から立って、「やったな!」と、心から祝ってくれた。
他のスタッフ(桜木さん宮城さん含む)も、わらわらやって来て、「おめでとう!」「めでてえな〜」「あとは遊び放題だな〜」などと声を掛けてくれる。
「祝いに、メシでも食いに行くか!」
パンと手を叩いて、三井さんが呼びかける。それで早めに閉店し、皆で焼き肉をご馳走になった。当たり前についてきた桜木さんと宮城さんに三井さんは最後まで文句を垂れていたけれど。
たらふくお肉を食べたり、お酒を飲んだり、隣で三井さんが他のスタッフと会話しているのを眺めたりしていた。
三井さんはビールジョッキを傾けている。なんだか、いつもより近い気がしてドキドキしていた。口角を釣り上げて笑ったあとの三井さんと、ふと目が合う。
アルコールが入っていつもより血色よく、色気の滲む顔が私を見て、すごく優しい表情をした。
「いい顔色になってんなぁー。あんま飲みすぎんなよ?」
「はい。美味しくいただいてます。」
「まー、今日は飲みすぎんなっつうのも野暮だよな。なに飲んでんだ?マッコリか?」
「んー、マッコリベースのカクテル?ちょっと、わかんないです」
「ふはっ。なんだそりゃ」
「ひとくち、飲みます?」
グラスを差し出すと三井さんは「おう」と普通に受け取った。渡してから渡した相手が三井さんであることに気付いて、あっ、と思う。思う間に三井さんの赤くなった唇がグラスのふちに触れた。
「……甘。」
グラスが私の手元に返ってくる。三井さんは自分のジョッキを持って、また、男性スタッフや宮城さんらとの会話を再開させている。
勧めておきながらそれから飲めなくなってしまい氷が溶けていくのを、私はただ眺めていた。
——2ヶ月前。
バイトの帰り、コンビニ寄ろうかなと思いながら町を歩いた。きょうは三井さんを一目見ることもなかった。いつもならお店にずっといるのに。
ごみごみした街中でも夕焼けのセピア色に包まれれば、ノスタルジックな光景になる。路地の影を歩きながら光の差す大通りを見ると、三井さんがいた。
隣にすっごい美人を連れている。ショックで立ち尽くしていると、刹那、三井さんと目が合った。
「よぉ。お疲れさん。」
三井さんが、美女と一緒に近づいてくる。自分もおずおずと歩み寄りながら、二人の放つ非日常なオーラに気圧されていた。
三井さんが「彼女な、うちのバイトの子なんだ」と美女に紹介している。私は、半泣きで名乗って頭を垂れた。なんならこのまま、二度と顔を上げたくなかった。
「こいつァ、彩子ってんだ」
「宜しくね、名前さん。三井先輩とは腐れ縁の彩子です」
「オイこら!腐れ縁ってなんだ、腐れ縁って!」
「宜しくお願いします……彩子さんって、あの」
「……あのな。余計な心配してるだろ、言っとくが、俺の女じゃねーからな」
「私も三井先輩の彼女なんて死んでも嫌よ」
「はあ?! なんっだそれ!」
ようやくほっとして顔を上げる。恋人ではないと知れて、胸を撫で下ろした。
彩子さんは改めてめちゃくちゃ美人だ。遠くからでも綺麗だったのだから近くで見ると本当にやばい。顔が私の半分くらいしかないのに、目が私の倍くらいある。しかも、穏やかな微笑を浮かべている。今日はバイト先で棚卸があって汗だくになった私と違って、お花みたいないい匂いがする。
……三井さん、この人のことが好きだったらどうしよう。私じゃ、だめなんだなぁ。私は、こんな女性には決してなれないや。
「よかったわね三井先輩。こんな可愛いお嬢さんがいたら仕事にもハリが出るでしょ?」
「はは。働き者で助かってるよ。けど危なっかしくてな。ウチの店、ほら、馬鹿なチンピラ連中も顔出すからよ」
「ははーん、桜木花道やリョータのことね?」
「ご名答。」
「そうね、その辺は大丈夫そう?」
「こいつ、ウチで働いてくれんの来年まででよ。立派な企業の内定射止めやがったから。だから、それまでは責任持って守ってやらねえとな」
彩子さんは三井先輩なら安心、と花の咲くような笑みをほころばせる。
立派な企業の内定射止めやがったから
……三井さん、すごく誇らしげだった。まるで、自分のことみたいに言ってくれるんだなあ。
それから少し別の話をして彩子さんと別れ、なんとなくふたりで歩きはじめた。
一月の夕暮れ、町は今を盛りとばかりに橙色の光に包まれている。三井さんの髪が、茶色っぽい。
少しだけ、会話をするのが惜しい気がした。三井さんの端正な横顔に、ドキドキしていたから。
「素敵な人でしたね、彩子さん」
「おう、美人だよな」
「……。あの、今更ですけど、私を雇ってもらうの、大変だったんですね?」
「まあ、小さなスポーツ用品店だしな。けどこの街で、よその店で働くよか、まだウチの方が安全かって思ったんだよ」
「……」
「スタッフ総出で守ってやれるしよ。収まり効かなくなっても桜木たちがいるし」
「……」
「それに、名前はなんつーか根性あるツラ構えで面接で俺らに囲まれてもドンとしてたからな」
「たしかに。あの日もなぜか、桜木さんとか宮城さんいましたもんね」
「ああ。この子なら大丈夫だなって思ったんだ」
さっきから、胸の奥がぐちゃぐちゃだ。信じられないくらいの優しさを享受している。
こんなに優しくしたら恋されるに決まっているのに三井さんは全然その辺りのことをわかっていない。ただただ真っ直ぐな思い遣りしかないのだ。
叶わないことは、もうわかっている。それなのに日々思いは強くなる一方だ。苦しいな。でも嬉しかった。
叶わなくても、よかった。恋する気持ちよりも、三井さんに対する敬意が胸をいっぱいにしていたから。
——1日前。
明日で、チエコスポーツで働くのも最後になる。お世話になったお礼に、店内を徹底的にキレイにしよう。そう思って、客が引けたタイミングで、何日も前からちょこちょこ掃除をしていた。
きょうも手の空いたときに掃除して、やっとやるべきことは済ませたと思う。熱いお茶を淹れて、バックヤードの扉を開ける。すると椅子に座って腕を組み、三井さんは眠っていた。
薄い目蓋が、やわらかく閉じている。すこしだけ眉が寄っているのは、不機嫌でなくともそういう皺が刻まれているからだろう。綺麗な寝顔だな、なんか、死んでるみたいだけど。
「……」
そっとテーブルにお茶とお菓子を置いてカウンター下から膝掛けを持ってくる。その瞬間、端正な横顔が、ゆっくりとこちらを見た。
「あ……名前か。悪ィ。寝てたわ、俺」
「起こしましたね、ごめんなさい。お茶どうぞ」
「おう、サンキュ。」
まだ、まどろみの中にある目を擦って、その指がお茶を取った。一口飲んで、はあーと大きな溜め息をつく。
「お疲れみたいですね」
「いや、どってことねぇ。それより座れよ。いま客いねんだろ」
「はい」
私は簡易的なテーブルを挟んで三井さんの向かい側にあるパイプ椅子に腰を下ろした。
「……明日で、最後だな」
「はい……」
三井さんはお茶に手を伸ばして飲もうとしたが、やっぱり手には取らず足を組んで胸の前で腕組みをする。
「この美味い茶も、飲み納めか」
「早く飲まないと冷めちゃいますよ」
「あとでゆっくり味わうんだよ」
「……」
途端に訪れた沈黙。私の寂しそうな様子を見てか三井さんは目を細めてふっと笑った。
「……お世話になりました。いつも良くしてくださって、感謝してます」
「こっちがだ感謝してんのは。困った事があったらいつでも来い。愚痴くらいなら聞いてやるよ」
「はい」
「最初はつれえだろうが、名前なら大丈夫だ。俺が保証してやる」
「頑張ります。」
「おう。」
「——三井さん、」
「あ? どうした?」
私を眺めていた三井さんが、不意にまじめな顔をする。まだ言葉にしていないのに、私の気持ちが漏れ出ていたらしい。三井さんはこほんと小さく咳をして、わずかに姿勢を正して座り直した。
「——わたし、三井さんが大好きです」
「……、」
「……」
「……ありがとな」
「……気づいて、ましたよね?」
「まぁな、……勘違いかとも思ったけどよ」
「女子大生は、やっぱりダメなままですか?」
「……。名前。」
「はい。」
「お前はいい女だ。愛嬌あるし性格もいい。若ぇのに根性もある、ちょっとそそっかしいけどな。志望してた会社の内定も、本当に取っちまった、立派だ」
「……」
「だから悪ィな。俺にはもったいなくて、とてもじゃねえけど手ェ出す気にならねんだ」
三井さんは、ゆっくり慎重に、諭すように話してくれた。最初から受け入れられないってわかっていた。でも、ちゃんと振ってくれたら、私も次に進めるだろうか——そんな淡い期待を抱いていたけど。
でも、全然ダメだ。忘れるなんて絶対できない。そんなに心配そうに、見守ってくれてたら——。
「ありがとうございます」
「おう。こっちこそありがとな。楽しかったぜ」
「三井さん、最後にいいですか?」
「なんだ。なんでも言え」
「一回だけ、抱きしめてください」
「は、」
………しーん。告白されたときより驚いている。私も告白よりも恥ずかしい。三井さんは「いや、それセクハラにならねえか?」と眉をひそめる。
「セクハラ?私が三井さんにですか?」
「馬鹿、んなわけがねえだろ。俺がっ、おまえにだっての」
「私がお願いしてるんでセクハラにはなりませんよ。三井さんが嫌なのに私が強要したら、逆セクハラに当たるとは思いますけど」
「あのなあ……嫌とかじゃねーけど、……まあ、いいか。一回だけだぞ」
三井さんが、テーブルに手をついて立ち上がる。座って同じ目線だったときと違い、ぬっと大きくなって驚いた。私も椅子から立った。三井さんが近づいてくる。こんなに近づいたことはない。
「こっち、もっと寄れ」
「……」
椅子をテーブル下にどかしてあと一歩の距離まで縮まる。頼んでおきながら圧倒されて、私は呆然としていた。言ってみたものの、実際どうなるか想像もしていなかった。こんなに近くに好きな人がいる。満員電車とは訳が違う。抱きしめてくれようとしているのだから。
「名前」
「……!」
後頭部を片手が引き寄せて、トンと頬に三井さんの首筋があたる。
「……二年弱か、よく頑張ってくれたもんだぜ」
体に触れないように、気を遣ってくれているのがわかる、まるで肉親への抱擁だった。三井さんの優しい匂いがする。鼻を抜けて大人の、男の人の匂い。
頭を支えていた手がそのまま遠慮がちによしよし撫でる。あたたかい。三井さんの胸から、気持ちいいぬくもりが溢れ出ている。
「元気でな」
「はい」
——大好きだ。気持ちばかり、募ってしまう。
泣かないって決めていた。だから、目頭がツンとしても耐えなくちゃ。泣いたら、もったいない。涙で視界が曇ってしまう。これ以上心配かけたくもない。
でも、いろんな思い出が、鮮やかに息づいてよみがえる。プルプルして堪えていたら頭上で小さく鼻をすする音がした。
「……三井さん、泣いてないですよね?」
「あ? な、泣いてねえよ!バカヤロウ」
涙はないけど、三井さんの眉、若干、八の字になってる。その顔がおかしくて、つい噴き出した。笑われた三井さんは、ムッとしている。
「……笑ってんじゃねーよ」
「はは……、ごめんなさい」
おかしくて涙がこぼれて、結局私だけ泣いてしまった。
——6ヶ月後。
大学とチエコスポーツを卒業して、私は社会人になった。毎日大変だがそれなりに頑張っている。
三井さんに『初任給出たのでご馳走させてください』とメッセージを送ると、『そういうのは親に言え』と断られた。でも、続いて『また皆で焼き肉でもどうだ』と送られてきた。
それで、その週末、皆で焼肉に行った。ワイワイ騒いで結局ご馳走してもらって昔に戻ったみたいだった。ありがたいことだ。
名前
——今回は、二人きりになりたいな。
そういうお店となればこの辺では狭いお店ばかりだし、大勢でとはならないだろうという策略だ。すぐに既読がついて、もっともな返信が来る。
三井 寿
どうした急に。若い奴らが楽しむ雰囲気の店じゃねーぞ
ちまちま言い訳を練っている間に、また三井さんから送られてきた。
三井 寿
仕事を無理矢理、定時で終えて、ダッシュで髪とメイクを直してタクシーを拾い、「〇〇通りまでお願いします!」と伝える。
少しでも大人っぽく見えるだろうか。窓ガラスの自分を眺めて、ため息を吐いた。
九月の残暑がベールのようにただよう夕暮れ。19時だというのに空は、ほのかな明るさを引きずっている。
ヒールを鳴らして早足で待ち合わせ場所に行くと既に三井さんがスマホを片手に立っていた。
「三井さん!」
「……」
ゆっくりこちらを向いた瞳が私を捉えて、驚くのが見えた。やった!と思った。ばちばちにキメてきた甲斐があったというものだ。
「おう、よく来たな。」
「お待たせしました!」
「いや、俺もいま着いたとこだ。それよかスーツすっかり様になってんな」
「三井さんも。かっこいいです」
「よせって、褒めても何も出ねえぞ。行こうぜ」
「はいっ」
大通りを抜け、ごみごみした小路に入り、わりとしっとりした雰囲気のバーに連れて行ってくれた。大人の隠れ家って感じの暗い店内で、老齢のマスターがいる。居心地のよい、素敵な店だ。
カウンター席に座って絶品料理を食べたり、苦いお酒を飲みながら、いろんな話をした。
近況、将来のこと、最近ハマってること、小さな悩みや大きな出来事。三井さんはふうん、と口を尖らせたり、くつくつ笑ったり真剣な表情で聞き入ってくれたりした。
「てか、三井さんのことも話してくださいよー」
「俺かぁ? つっても、特に何も変わりねえぞ」
「彼女できました?」
「まったそれか?だから、内緒だつってんだろ。おまえはどうなんだ。さっきの話に出てた指導者とかいいんじゃねーか?」
「よくないですよ。既婚者ですから」
「あぁ、そいつはよくねえな、たしかに」
名探偵なら三井さんの変化を見抜けるだろうか。少なくとも私にはわからない。すこし痩せた気がするような。でも、相変わらず清潔感があって、それでいて男前だ。
そんなに綺麗な横顔じゃなくてもいいのにな、とすら思う。
「あー、そういや。あったわ、変わったこと」
三井さんが思い出したように、出し抜けにそんなことを言う。なんだろうと思って、私は真面目に聞く態勢を整える。
「あの店、辞めることにした」
「えっ?」
「石井に引き継いでもらう。あいつが店長だ」
「……」
どうしてですか?と、訊くのに躊躇いを覚える。なにか特別な理由があるのかも知れないし。社会人になって親しき中にも礼儀あり、という言葉を体感することが増えた。
何だか私は途端に気まずくなって目を泳がせる。それを目敏く見ていたらしい三井さんが緩く笑って、「そんな深刻そうな顔すんなよ」と言った。
「……」
「チームからオファーがあってよ、トライアウト試験、受けることにしたんだ」
「……あ、バスケット、の?でも辞めるってことは、もう受かるの確定ってことですか?」
「いや?受かるとか受かんねえとか考えてる間に全部まっさらにしようと思ってよ」
「……」
「願掛けみたいなもんだな。それぐれーしねぇと夢は掴めねーかなと思ってな」
「……うん、正論。」
「ふは、正論なもんかよ。ただのバスケ馬鹿だっつの。でも、俺にはバスケしかねえからなあ」
情けなくも浅く笑って謙遜する三井さん。それでも三井さんがとっても嬉しいんだろうなっていうのは充分に伝わって来た。
「名前の、お陰なんだ」
「え? わたしの、お陰?」
「ああ。度胸あるの見せつけられて目ェ覚めた」
「……」
「ありがとな。」
三井さんが心底優しい目をして私の頭をぽんぽんと撫で付ける。今までみたいな子供扱いの手つきじゃなくて、その温もりに敬意と感謝の気持ちが込められているような気がした。
私は不意に思い出す。チエコスポーツの店内に置かれていた年期の入ったバスケットゴール。暇があれば、そのゴールめがけてシュートを放つ三井さんの後ろ姿を。
必ず石井さんが「ナイッシュー!」と声を掛けるのを聞き流していた三井さんの顔と、いま目の前で見たはにかんだような笑顔が同じだったから。私も、嬉しくなってお酒が進んでしまう。
「……頑張ってください」
「おうよ」
「——てか三井さん、どういう人がタイプ?」
「またそれか。さあな、教えてやんねぇ。つか、教えたらなんだ、紹介でもしてくれんのか?」
「はい」
「バーカ。そこまで困ってねえよ、ほっとけ。」
「そう言わず。あのね、いい子がいるんですよ」
「……」
怪訝な顔で三井さんが首を傾げる。まばたきして私を眺めながら。
「その、いい子ってのは、新卒でOLやってて、元スポーツ用品店勤務の女だろ?どーせ。」
「はい、まあそうなんですけど」
「……」
じろりと睨む目がこわい。でも、怒っているわけではなさそうだ。だって、すぐに優しく目を細めたから。
「……おまえ、本当にいい度胸してるよな」
——そうなのだ。三井さんが、私を度胸あるって言うから度胸を出せる。大丈夫だって言ってくれたから、仕事もなんとかこなせている。
三井さんの言葉ひとつで、いくらでもたくましくなれるのだ。
「お褒めに預かり光栄です」
「あんま褒めてねえけどな」
「話、進めていいですか?」
「……なら、聞かせてもらうとすっか」
「……」
「そいつが……、どんだけいい女なのかをよ」
グラスに口付けようとした唇が、諦めたように、にやりと歪む。三井さんは余裕を見せているが、形勢逆転しても彼はすぐには気付かないだろう。
私はまだ、本気を出していない。三井さんを追い詰める口説き文句も今日は用意している。
それに今日だめでも、長期戦は覚悟の上だ。どう見ても不利なのは、三井さんのほうだった。
「望むところです。心して聞いてくださいね?」
スツールを近づけて、タイトスカートから伸びる膝を三井さんの膝に寄せる。腕にも肩で触れると三井さんが、大袈裟に品なくむせた。
三井さんはきっとプロのバスケットボール選手になるのだろう。そして高々と空を飛んじゃうみたいにジャンプして、ゴールネットを揺らすんだ。
鳴り止まない歓声、ガッツポーズをして、笑顔を見せる三井さんを思い描いて、私は確信する。
プレゼンは得意だし既に手ごたえを感じている。何にだってどうにだって度胸さえあれば大丈夫。
三井さんがいてくれるなら私も三井さんのように空まで飛んでいけるだろうから——。
だからきみは、その 手 をとって
(バッカ!足出し過ぎだ!仕舞え!)
(なんか三井さん、お父さんみたい……)
(うるせえ! だーっ、くっつくな!)
(三井さん、シーっ。ここ大人のお店)
(ぐっ……、覚えてろよ)
※『 突然/ZARD 』を題材に。