風邪をひいて保健室に行ったら、となりのベッドに同級生の三井寿が寝てました。
「なにやってんの、あんた」
三井はぐったりと枕に顔を押し付けている。どうやら私と同じように風邪をひいたらしい。いま、三年生の間では季節風邪がちょっとしたブーム。まんまと二人仲良く(別に仲良くはないけど)とりあえず一緒に流行りに乗っかったってわけだ。
彼は徐に頭をすこしだけ起こして私を一瞥すると「なんだ……おまえかよ、名字」とだけ呟いて、また枕に頭を押し付けた。
「……見てわかんねーのか、死にかけてんだよ」
くぐもった声。たぶん私の聞き間違いでなければきっと「見て分からないのか、死にかけている」と言ったのだろうと思う。
春に短く切ったらしい短髪の髪。サラサラロン毛ヘアのときから「手触り良さそ」と思って密かに盗み見ていたが、今はその短い髪の毛先が白くぱりっとした枕に広がって、それがどれほど滑らかな手触りをしているかがここから見ているだけでわかるようだ。やっぱり性悪な性格に反して髪の毛だけは柔らかい系男子だったのか、こいつ。
「そのようですねー。実は私もなの、奇遇だね」
私も三井もぜえぜえしながら高熱にうめくのを我慢して弱り切った天敵のすがたを嘲笑っている。三井は頬を薄い桃色に染めて額に滲んだ汗を手の甲でぬぐった。私も首に貼りついた髪を払い横目で睨んでくる三井に必死で応戦する。こんなやつに負けてなるものか!という強い気持ちがさっき飲んだ風邪薬で追って来た眠気よりも勝っているのだった。
自分もたいそうみっともない形相をしているのだろうけれど、そんなことは棚に上げてしまって、三井がいかに弱っているか、みじめで哀れっぽいかを私は記憶に焼きつけた。
「三井、熱何度あるの?」
「あン?……38度2分」
「よしっ、勝った!わたし、38度5分」
「へっ。お前のほうがくたばり損ないってことじゃねーかよ、ばーか。なにが勝っただ、ったく」
「そう言うわりに、悔しそうですねぇ?ん?」
「……名字、おまえすこし黙りやがれ」
三井は私をギロリと睨みつけると、布団を顎までかぶって目を閉じる。私はぼうっとする頭で彼を見詰めた。こんどは、あいての弱点をあげつらうような、意地の悪い他意はなかった。たぶん。
「……なに見てんだ、見せモンじゃねーぞ。おめぇも寝ろ」
「いやいや、見世物でしょ。その顔は見世物にすべきだと思うよ。黙ってればいい男なのにねぇ」
「……あ?どういう意味だ。てめぇの顔も見世物にしてやっぞ?おン?」
「へぇー、どうやって?」
「てめぇが寝てる隙に隠し撮りしてやらぁ」
三井は身じろぎ、寝心地が悪そうに枕をゆすってため息をついた。私も三井も、ろれつの回らない調子でしゃべるのはいい加減にしたいが、真昼間の日の高いのうちから眠気がやってくるわけでもない。したがって、起きているあいだは、この詮なき争いを続けねばならなかった。
——と、いうほど多少の睡眠効果がある風邪薬の効き目が弱いわけもなく。つぎに私が目を覚ましたとき、すでに視界は夕焼けの茜色に包まれている頃であった。窓の外、公園のスピーカーから流れる『夕焼け小焼け』のメロディが微かに保健室のベッドの上でも聞こえてくる。
「……」
自分が眠っていたという意識はなく、まばたきをしていたら突然昼夜が逆転したかのように錯覚したので私は状況を把握するまでしばらくフリーズしていた。なんだか、しんと静まり返っていて、空気が冷たく、すこし水分を含んでいる。
眼球だけを右隣に動かすとベッドを囲むカーテン越しに隣のベッドとそこで眠る人影が夕日に透けて見える。ああ、そうだ。あれは三井だった。 三井も眠っているらしく、よく見ると幽かに胸のあたりが浅く上下している。
私はふとトイレに行きたくなって、まだ頭がぼーっとするのをどうすることもできないままベッドから起き上がった。ベッドの下にはスリッパが並べて置いてある。私はそれを履いて、ぺたぺたと冷たい床の上を歩きトイレへ向かった。
廊下に出ると体育館でバスケ部が練習している声が聞こえた。ぼんやりと歩いているうちに、いよいよ尿意は本格的になり途中から小走りになった。頭の中が鈍いままなのはたぶん薬のせいでもあるのだろう。おかげで、妙な心配……たとえばトイレの花子さんが鏡に映っていたらとか、後ろから誰かついてきていたら……などという不安も抱くことなく私は無事に保健室まで平常心で戻って来た。そしてベッドに入り、また目を閉じる。
きっと次に目を覚ますときには心地よい月明かりがやさしく目蓋を撫で、その青白い眩さに私は伸びをすることだろう……そう感じるくらいの気持ちのいいベッドの中。シーツはぱりっとしていて真新しいけれど自分の体温を含んで、それはすでに私の所有物、私を保護する物のように思える。
しばらくして、私は寝返りを打ち薄目を開けた。私の目蓋を撫でているのは夕日ではなく、月光であった。
「……」
さっきトイレに行ってから、どうやらさして時間は経っていないみたいだ。私は小さく伸びをしてまたごろんと寝返りを打った。そうすると、すぐに三井の肩にぶつかったので私は「あ、ごめん」と言って逆方向に寝返って元の位置に戻った。
「……ん?」
え……。なんで三井にぶつかるの?私と三井のベッドとベッドの間には、カーテンの敷居があったはずだ。三井は月光の中でますます青白い石膏のような横顔をして眠っている。こいつ、実は肌白いよね、なんて呑気に考えてみたりする。
月光の光りが額に掛かっていつもより少しばかり幼く育ちのよい、お坊ちゃんのようにも見える。長い睫毛と下がった目尻。いつもは嫌味な具合に皮肉と嘲笑を浮かべているくちびるが、今は美しく引き結ばれている。私はそんな三井をしげしげと見詰めた。
どうして私の10センチとなりで三井が眠っているのだろう。これではまるで同じベッドで眠っているようだ。ん?……同じベッド?——まさか!
私は、ある疑惑に心臓が強張るのを感じた。私は左隣にそっと目をやった。そこには私がさっきまで眠っていたベッドが私を待っているように存在していた。隔たりのカーテンは乱暴に押しあけられている。まさかトイレの帰りに間違えて三井のベッドに潜りこんだんじゃ……というか絶対そうだよね!?
私はギャー!と叫びたくなるのを寸でのところで抑え、深呼吸をしてから三井が起きないように、起きないように、慎重にそーっとベッドから降りた。
こういうとき、たいがいの場合、相手は目を覚ますものだ。多くの筋書きにお約束≠ニいうものが存在するけれど、その法則は現実にだって充分に起こりうる。だから事実は小説より奇なり≠ネんて言葉がこの世にあるのだ。
私はスクールソックスのまま音を立てぬよう保健室の床に立った。そして、そっと後ろを振り向いた。
「んっ……」
眉間にしわを寄せた三井が身じろぎをし、こちらを向き……かけて、向こう側に寝返りを打った。もし状況が許すなら私は両手を組んで神に祈りを奉げたであろう。けれども、まだ油断してはならない。
寝返りを打った≠ニいうことはいま三井は眠りが浅い状態だ。私は改めて息を殺し自分のベッドに向かうためにゆっくりと一歩進んだ。なにがなんでも私は間違えてベッドに潜りこんできた女であってはいけなかったからだ。
その事実を知っているのが私だけなら、それは私ではないということにできる。忘れてしまえばいいだけだもの。けれど三井に知られたら私はきっと一生この部屋から出ることは叶わないだろう。
これはどういうことだ、なんで俺と寝てんだと、あれこれ質問攻めにあって追い詰められた私は、きっと、言ってしまう気がする。実はわたし——アンタのことが……って。
「……名前」
「——ひっ。」
もう一歩。というとき、掠れた声が私の名前を呼んだ。背筋がぴんと強張り、私は恐ろしさのあまり冷や汗が流れるのを感じる。怖くて後ろを振り向けない。心臓がばくばくと早鐘のようだ。
私は、こわごわ泣き出しそうになりながら振り向いた。けれども意外なことに振り向いた先の三井は相変わらず、むこうを向いたままぴくりともしない。私は息を殺して、三井の顔を覗き込んだ。三井は、どうやらまだ眠っているらしかった。
「……」
え——じゃあ……なに!?
なんなの!?えっ、寝言!!?
夢の中でも私を小ばかにしているんだろうな、と思うのは腹が立つけれど、いまはもうそれでもいい。どうぞ夢の中で私を罵倒するなりお好きになさってくださいませ。けど、絶対わたしに気付かないで!あと一歩、もう一歩……やっと一歩。
私は、そろそろと自分のベッドに腰を下ろし、そっとカーテンを引いた。これで私と三井の間には正常にカーテンという隔たりが生まれた。ああ、私はついに無事だったのだ。三井に気付かれず、私は上手に自分の陣地に帰りつくことができた!
それに、薬もすっかり効き目があったみたいで、もう体の疲労感は取り除かれていた。私はいま、やり遂げた達成感と、自分のベッドにいるという安心感に包まれている。そしてそのまま、眠りにつけばいいのだ。
安堵したからか、今さらになってうっすらと保健室の先生どこ行ったのかな、とか、いつまでここで寝てていいのかな、なんて疑問が頭を過ぎったりもしたが先ほどの死闘のおかげでいまは完全に眠気が勝っていた。
私が目蓋を閉じ、まどろんでいると隣のベッドが微かに軋む音を立てたのが聞こえてきた。薄目を開けて見るとカーテンを透けて三井の影が浮かび上がっている。
彼はベッドに腰をおろして、窓のあたりを見詰めているらしかった。その影は、はあ、という深いため息を洩らした。
そして三井はベッドサイドのキャビネットに置いてあった500mlのポカリのペットボトルのキャップを開け、それを一口飲み込み元の位置に戻した。コトンと音がする。
そう言えば私ものどが渇いたなあ……三井が寝たら私も水を飲もう。たしかここへ来るときペットボトルの水を買って来てこっちのキャビネットの上に置いたはず。だが、いま私が水を飲んだら起きているのがばれてしまう。そうなるとまた喧嘩になる。この静かな空間を、くだらない口喧嘩で汚してしまいたくなかった。だから私は、わざと寝息のように深く深呼吸をした。
あれ?そういえば、さっきは気にも留めなかったけれど……三井のやつ、寝言で私の名前を囁いたとき、苗字じゃなくて下の名前で呼ばなかった?
掠れた、くぐもった、そして聞いたこともないような穏やかな声が、名前と呼んだ。それは確かに私の鼓膜に焼きついていた。
………え、なんで?
——そのとき。
シャッとカーテンを乱暴に引き開ける音がして、私はぎょっとした。薄目を開けると三井が隔たりであるカーテンを開けて、私の顔をじっと見詰めている。
え!?なに、なんなの?寝顔にマジックで肉≠ニでも書きに来たの!?……って、おい!!誰がキン肉マンじゃ、ボケ!って。
なんて慌てふためいている私になど気付きもせず三井はぺたりとスリッパの足音を立てて私のベッドまでやってきた。
そして、私のベッドのふちに腰を下ろし、右手でそっと私の額に触れる。硬い骨の感触が私の額を撫でた。
「なぁ、起きてんだろ?」
「……」
なんのことでしょうか。わたしは寝ていますよ。熟睡してます。話しかけないでください。
「……おい、本当に眠ってんのか?」
三井はそう囁き、しばらく私の反応を待っているようだったが、ややあって溜め息をついて顔をそむけた。私はこの瞬間、二度目の勝利を手にしたのだ。三井はどうやら私が本当に眠りこけているものと感じたらしい。馬鹿め、詰めが甘いのだ、あんたはいつも。
「……」
「……」
それでも彼は私の髪を撫で、私の額や頬にかかった髪を払いのける。その手はどこか不躾で、なんにも悪いことをしているようなこそこそしたところがなかった。まるで、寝ている女の子の領域にやって来て勝手に髪やおでこに触れることが至極まっとうなことのように。
ふと三井は忌々しげに深くため息を吐いた。そして、私のあごのところまで布団を引き上げると、気だるそうな動作で立ち上がった。
「鈍いにもほどがあんだっつの、てめぇはよ」
三井はカーテンを引きながら「気付いているくせにな」と吐き捨てる。カーテンがぴしゃりと閉まると再び自分のベッドへ潜りこんだのがわかった。そのまま保健室を出て体育館に行き、バスケ部の練習にでも途中参加するもんだと思ったからちょっと驚いた。まだ寝るんだ、って。
それから三井は私が知る限りでは、ひとつも身じろぎさえしなかった。私も同じ体勢のまま、ぴくりともする事が出来ず暗闇の中でまばたきをしていた。
………とりあえず。熱はどうやら、ぶり返したらしい。三井の長い指が触れた額が、やけどしたように熱を含んでいる。心臓がばくばくとうるさいし、息苦しいし、頭がぼーっとするし。
ところで三井は、さっき何がしたかったのだろう。何の意味があってこっちにやって来たのだろう?
それを本人に訊いてみるのは熱が引いて完治してからでもいいし、いま現在、息を殺してこのまま夜が明けるのを待っているこの瞬間でもいい気がする。いや、さすがに学校に泊まるなんて許されないだろうけど。
もう少ししてバスケ部の練習が終わったらきっとあの、いつも何かと騒がしいこいつの後輩たちが私の隣で狸寝入りをしている同級生を迎えに来てしまうだろう。
だから………
ねえ、三井——。
起きてる?熱はまだある?
もう、しんどくはない?
ねえ。
とりあえず——。
「わたしのこと、好きなの?」
と、訊いてみたっていいだろうし、そのあとに「わたしも実は」と続いて言ってもいいと思う。
私は大げさに咳払いをして三井に「起きてますよアピール」をする。
それから、「ねえ」と声をかけた。
知っているよ と彼は嘯く。
(——三井。)
(……)
(狸寝入りしてるでしょ)
(ふはっ。……どっちがだっての)
(——!!)
Back /
Top