香気を辿ればまた会えるよ

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  • 私の彼氏はバスケットボールの選手。しかも超絶人気者。最近ではメディアでも引っ張りだこで、彼が地上波に映し出されたもんならすぐにSNSのトレンド入りするほどだ。

    野球やサッカーほど世間的にはそこまで浸透していないプロのバスケットボール、Bリーグがここまで社会現象になったのには、贔屓目じゃなくてきっと、彼の影響も大いにあるのだと思う。

    そんな彼、三井寿と私は同棲して二年目になる。出会いは、元彼に捨てられて道端でダンボールを持ったまま途方に暮れている私に彼が声をかけてくれたことがきっかけだ。そのときはもちろん、スポーツ選手だなんて知らなかったし、彼も自分の素性を明かしたのは知り合って半年後のことだった。でも私は彼の素性を知る前から、もう彼のことが好きだったのだ。

    「俺と、付き合わねーか」

    そう告白されたとき、もちろんOKを出して浮かれている私に、話したいことがあると言った彼。ずっとスポーツ用品店で働いていると聞かされていて、疑う事もなく信じていた私に、「実は俺、バスケットボール選手なんだ」と言った。


    彼のことは大好きだ。それは出会ってから今でも変わらずに。でも私は、結婚願望がない。子供が欲しいとも思わない。その気持ちは彼にも伝えたことがある。

    彼は「そっか、俺は子供好きだけどな」といつものように笑っていた。あの、眩しい笑顔で……。だから私は彼と別れようと考えている。そう思い始めてもはや、数ヶ月が経過していた。

    長い付き合いになればなるほど、いろんなことがあった。バスケット選手の彼目的で近づいてくる女性の影。シーズンが始まるとすれ違いの日々。きっと彼は私にバスケットボールを好きになって欲しかったのだと思う。その気持ちには私も気付いていた。でも出来なかった。彼の愛するバスケットボールを知れば知る程、自分が惨めな気分になったから。

    私なんかより、彼を理解して一緒にバスケットボールを共有できる人がいいんだろうな、そう思って別れる道を考え始めたのが、そもそものスタートだ。なんて切り出そうかな……と考えていて、王道なのはバスケットと共に歩んで、もちろん結婚もして家庭を持って。俗にいう普通の幸せな人生≠歩んでほしい、ってことなんだけど。

    でも本音は、元彼に捨てられた私、それを救ってくれた彼。何も持たない一般人の私なんかが彼の彼女だとバレたときに、ひどく劣等感を感じる、そんな自分に耐えられなかっただけなのだ。

    ただ、彼は真っ直ぐで中途半端なことが大嫌いな人だから、素直にその想いを口にしたら彼の逆鱗に触れそうだし、なんならそれを言う私に対して本気で彼の方が冷めそうだとも思った。

    案の定、別れ話を持ち掛けたとき言われた言葉が今でも昨日のことのように私の胸を締め付ける。








    その日、一週間ぶりに寿くんが、私と一緒に住むマンションに帰宅した。

    「ただいま」
    「おかえり」

    リビングのソファでテレビを見ていた私の背後から聞こえた愛する人の声。いま「おかえり」と返した私の言葉は冷たく聞こえてはいなかっただろうか、とすこし不安を抱えながらも私は、視線を見もしていないテレビのほうに向けているしかなかった。

    「飯食った?」
    「うん」


    愛していた。彼のことを心の底から本気で。今までの私は男運が悪かったんだな、と思えるほどに彼は私を本当に大切にしてくれた。大きな喧嘩をしたこともない。幸せだった。彼が、私の人生のすべてだった——。


    「そか、俺も軽く食ってきたぜ」
    「……うん」

    ややあって、隣にどかんと座り込んだ彼の気配。突然のことに、私の心臓がひくっと跳ね上がる。寿くんが私のほうを見ている気がする。なにか、なにか……話し掛けなければ。

    「なあ、久しぶりに一緒に風呂入らね?」

    彼の長い腕がソファの背もたれ、私の背中に触れる感覚。そのまま肩を抱かれてしまっては、また私の決意が揺らいでしまうから——。

    「——ねえ、」
    「ん?」
    「話が、あるの」

    ゆっくりと視線を彼に向けたとき、寿くんが優し気な表情でこっちを見ていたから、思わず涙腺が緩みそうになる。それを必死に抑え込んで、私はまた、正面を向き直した。

    「なんだよ、話って」
    「……」
    「名前?」
    「——別れたい。」
    「……は?」

    テレビの音が虚しく鳴り響くリビングのなか、寿くんの返したその一声が私の脳裏に深く突き刺さる。ゆっくりとした口調で、ところどころ言葉に詰まりながらもずっと抱えていた自分の気持ちを彼に伝えた。

    一緒にバスケットボールを共有できる人が合っていると思うということ、バスケットと共に歩んで結婚もして、家庭を持って……普通の幸せな人生≠歩んでほしい。

    でも本音の部分、元彼に捨てられた私、それを救ってくれた彼。何も持たない一般人の私なんかが彼の彼女だとバレたときに、ひどく劣等感を感じてしまいそう、そんな自分に耐えられなかった、ということは、やっぱり言えなかった。

    納得がいかないようで、彼から質問攻めに合う。誰もが知ってるような有名人と一緒になれって言ってんのか?うん。バスケを知ってる人じゃねーと俺は幸せになれねーのか?うん。好きでもねえ奴と一緒にいれってのかよ!…わかんないけど。

    そんな、生産性のない言い合いが繰り広げられる中、寿くんは呆れたように鼻で笑って言った。

    「お前の言うその幸せって俺の親とか周りが幸せになるだけで、その中に俺はいねーだろ」
    「……」
    「俺のこと考えてるような言い方してっけど、 お前が一番、俺の幸せ考えてねーじゃねえか。」
    「……」
    「なんでお前が俺の幸せを決めつけんだよ。お前の言う普通ってなんだ?」
    「……」
    「黙ってねえで応えろ!幸せって何だよ、」
    「——、」
    「俺が今まで名前のこと好きだと思ってた気持ちはどーなるんだよ?なあ、」

    そう言って、彼は私に詰め寄った。私がどれだけ彼の将来を考えているかを言えば言うほど気持ちが覚めていくような寿くんの態度。そう言いたそうに、鋭い瞳が語っていたから分かった。

    最終的には心底冷たい目をして「わかった。もういいわ。」と吐き捨てられて終わった。


    それからの二人はと言えば、この部屋をどうするかとか、事務的な話以外で口を聞くこともなくなり、寿くんも私と顔を合わせなくなるような生活スタイルに変えていった。

    だから同棲解消をしたあと私が勝手にマンションを出て行って、仕事も辞めて住み慣れた神奈川を出た。新しい土地に住んで、私は彼と音信不通になったのだった。








    遠くから彼の幸せを願うくらいは許してほしいと思う。これで良かった、嫌いになってくれたら、彼も前を向いてくれるだろう。どうしようもないところもあるけど、あんな魅力的な人を好きにならないわけがない。きっと、誰かと愛し合って、私がいない人生が当たり前になって、いつか私のことを忘れて生きていって欲しい。

    そう思いながら私は一人で生きていくと決めて、数年後、本当にたまたまかつて同棲していた街に降り立つ機会があった。

    その頃わたしは、あんなに敬遠していたバスケットボールにも興味を持って、今では地元のチームの応援に行ったりもする。ただ、彼が所属するチームとの試合時には絶対に行かなかったけれど。


    「うわー、懐かしい……」

    そんな独り言を呟きながら用事を済ませて、昔、彼とよく行った場所を散策し始める私。あの人は幸せになっただろうか。そうであって欲しいし、きっとそうなのだろうと思う。いや、思いたい。

    一通り思い出の場所を巡ってから駅のロータリーでぼんやりする私。よくこうして、彼が降りてくるのを待ってたっけ。

    初めて一緒に迎えたクリスマス。私からの提案でお互いに香水を贈り合おうと言った私に「俺そーいうの付けねーからなぁ」と微妙な反応をしつつ私が選んだ香水を、たまにつけてくれていた彼を思い出す。あなたが私に選んでくれたあの香りは今でも私の必需品で、お気に入りだよ。


    この街の住人であろう人々が電車を降りて改札から出てくる。そして、雑踏の中に一つ頭が抜けたシルエット。

    そんな、いやまさか……。感傷的な事をしてるからだ、きっとそうだ。そんな事を思いながらも、私の動機は激しくなる。

    目が、離せない。嘘でしょ?違うよね。……あ、こっち見た。違う人、じゃ——。

    「……」
    「……」

    目があった途端、人の波を縫うようにしてこちらへ真っ直ぐ向かってくる人影。動けない。どうしよう……。


    「名前」


    上から降ってくる声は記憶と寸分違わなかった。

    「……、お久しぶり……デス。」

    カタコトで挨拶すれば、ふ、と柔らかく笑う彼。「他人行儀かよ」なんて浅く笑ったその顔が……ああ変わってないなって、少し体の力が抜けた。

    「ごめん」
    「……なにしてんだ?」
    「いや、たまたまこっちで、用事があって……」
    「……」
    「時間が余ったからさ、何か、懐かしーなって」

    彼の友人がよく言っていたおまじない。平気なフリ、平気なフリ。°vしく唱えてなかったその呪文を心で唱える。

    「まだ時間あんの?」

    そう聞かれたその問いに、嘘をついても仕方あるまいと、私は腹を括る。

    「今日はもう、うん。なにもないよ」
    「……そか。なら、」

    うち寄ってけよ。その言葉に若干の違和感を感じていて、返事を返せずにいると彼が、またフッと笑って言った。

    「今日、チームメイトからのお土産でアイスもらっちまってよ。」
    「……」
    「ほら行こうぜ。溶けちまう」

    と、箱を持ち上げてみせる彼。流されるまま彼の後をついていく私。なんだろう……、この状況。急展開すぎる。








    「おまえ元気だったかー?」
    「……ん。」
    「そか、よかった。俺も元気」
    「みたいだね、活躍見てるよ、テレビで。」
    「だろーな。お前は試合に絶対来ねーから」
    「えー?いじわるな言い方っ」
    「だって、当たってんだろ?」

    当たり障りのない世間話をしながら歩く。懐かしいな。あんな終わり方をしちゃったけど……またこんなふうに軽口を叩ける日が来るなんて。

    そしてふと気づく。見慣れた道、見慣れた景色、見慣れた……背の高い、彼の広い背中。

    「……寿くん、」
    「……」
    「もしかして、まだあの部屋に住んでるの?」

    立ち止まった私よりも、少し前を歩く寿くんが、同じく足を止めて、こちらを振り返る。

    「おう」

    と、笑っている。記憶と違わぬ、あの笑顔で——


    「ほら行くぞ」

    呟いて再び歩き出す彼に私はノロノロと着いていく。積乱雲がどこまでも伸びている。形容できない不安が胸に広がっていく。ガチャリと鍵を開けると、部屋に篭った熱気に当てられた。

    「あっちーな」

    そう言って部屋に入る彼の後に、私は続けない。立ち尽くしてしまう。あまりにも、記憶と違わぬ部屋に。不安ははっきりと輪郭を表し、それは、恐怖へと変わる。

    「入れよ」
    「……。」








    俺は名前と別れてからバスケットに関する事以外の興味をなくした。バスケットのために自分の体調管理はきっちりとしていたが、その他のことに関しては、何かが欠落したようだった。

    最低限≠サんな生活だった。そんな中でも異性関係は異様だった。俺の容姿や、肩書きに寄ってきた女は片っ端から抱いてやった。それだけ。

    俺はあまりにも、誠意に欠けていたんだ。

    「私、何かした?」

    ときには目に涙を浮かべそう問う女もいた。自分によってくる女を心底軽蔑し、憎しみに似た感情を覚えていた。

    なあ、名前。俺は憎かったよ。お前の言った「普通の幸せな人生」が。周りのチームメイトが結婚する度に反吐が出そうになったし羨ましくて仕方なかった。

    隣に人生を共に歩みたいと思える相手がいることが。お前は強いから、きっと一人でも生きていくだろう。だって、初めて会ったあの日だって……


    「……なあ、大丈夫、か?」

    こんな時代に、ダンボールを抱えて佇む女。俺が思わず声を掛けたとき見せた、あの、屈託のない笑顔に思いがけず胸が高鳴ったのを覚えている。

    「ちょっと、困り果ててまして」
    「追い出されたとかか?」
    「ご名答。お兄さん、するどいね」

    予想は的中。どうやら男に追い出されたらしかった。しかも相手の浮気が原因で。なのに彼女は「困ったなぁー」と笑顔で話す。強い奴だな、と思った。

    周りは、俺の素性を知ってる上で近寄ってくる、くだらない女ばかり。だから俺は、お前に賭けてみた。素性をばらさず初めて告白した自分のことと言えば、高校時代、二年間、馬鹿をやった話。

    それを聞いた彼女は、ただただ俺の話を親身になって聞き入れ、最後には——笑った。「じゃあ、強くなったね、寿くん」って。生身の三井寿≠受け入れてくれたんだ。

    等身大の俺を好きになってくれる相手と出会いたかった。中学MVPとか強豪校を打ちのめした選手とか、プロのバスケットボール選手、とかじゃなくて、ありのままの俺を愛してくれる相手が。

    だからこれは、俺が望んだ幸せだったのに。名前の存在が、俺の幸せそのものだった。俺は、ただそばに、お前がいてくれれば、よれで良かったんだよ。


    でも名前、お前は過去を切り捨てて行く人間じゃない。どんな辛い過去も引きずって進んでいく人間だ。だから俺は、この部屋から出ていかなかった。

    いつか、お前が再び現れる可能性に賭けたんだ。なあ、名前。なんで今日、あそこに居た?帰れば良かっただろ。なんで着いてきた?いくらでも、逃げれただろ。


    寿くんが近寄ってくる。息があがる。涙が止まらない。私の髪を撫でるようにかきあげる仕草も頬を優しく包み込む仕草もなにひとつ変わらない。

    この人は、変わらない部屋に、ずっと居たんだ。私が、閉じ込めたのかな。

    独りよがりな幸福論を振り翳して、この部屋に、鍵をかけたのは私だ。

    はっはっ、と早くなる呼吸を抑えられないまま、ボロボロと泣く私を見て苦しそうに彼は顔を歪めゆっくりと口付けてくる。


    ねえ、寿くん——。
    わたし、間違えちゃった?

    そう心の中で呟いた声は、無意識に口に出ていたらしい。寿くんは、首を横にも縦にも振らない。

    だけど、
    私を抱きしめて包み込んでくれた。

    力強く——、広い、その胸の中に。










     闇夜にえて、暖かい。



    (——戻ってこいよ)
    (……ん、)
    (もう、二度と……離れたくねえ)
    (うん、うん……わたしもっ)
    (もうぜってぇ離さねえから、覚悟しとけよ)
    (はは、わかった。覚悟しとく)



    ※『 Still love/Soala 』を題材に。

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