吸って吐くだけの簡単な呪文

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  • 『三井スリーポイントきたー!決まりましたぁ〜やっぱり三井です!会場もミッチーコールが鳴り響いています!!』

    思わず手に持っていたビールの空き缶を握り締めていた。ぐしゃりと。三本の指を立ててコートを駆け巡る彼から、ひと時も目が離せなかった。

    その瞬間、ドシンと。
    完璧に、落雷が落ちた、みたいだった——。








    蔦に覆われた洋館のカフェ、くしゃくしゃの伝票コーヒーの香り、赤いクルミ材のテーブルやいすや床、白い壁、梢ごしの若草色の陽だまりが射しこむ窓べの席——に、わたしたち、というほどの連帯感があるわけではない、私と三井さん。三井さんって、なにを考えてるのかわからない。

    そういえばこのひとと喋ったりすることはあまりいままでなかったな、と思いながら静かにコーヒーを飲んでいる三井さんの顔に、盗み見るような気持ちで目をやる。

    桜木くんや宮城さんと昔からの仲間で、Bリーグの選手で、……と人から聞いた話と、いつも不機嫌そうで、話しはじめたらなんだか説明口調で、ちょっと口が悪い……というのが私が実際に会って得た情報だ。

    彼らと出会ってから私もよくテレビなんかで試合を見るようにはなったけど、まだ彼らの試合を、生で見た事はない。行ってみたいけど、知り合ったときにバスケットボールの選手って知らなかったから今更行くのが何だか恥ずかしい気もする。


    三井さんは、さっきまでカフェのメニューを眺めていたけど、いまはすこしだけ居心地が悪いのか単にそういう顔なのか、微かに眉をよせながら、考え事をしているのかぼーっとしているのか……とにかくそういう表情で、じっと座っている。

    すこしだけ気づまりする。無口で無表情(若干、不機嫌そう)な男のひとって、なんだかちょっと苦手かも。宮城さん、はやく帰ってきてくんないかなー。


    「名前——さん、は」

    ……あ、しゃべった。真っ直ぐに視線を感じる。顔を上げると、三井さんが正面から私を眺めていた。

    「はい」
    「腹空いてねえ……あ、いや。空いてねーすか?よかったら甘いモンとか」
    「甘いもの。あー、いいですね。でも今はべつにいいかなー......って感じです」
    「そーすか」
    「三井さんは?」
    「いや。自分も特に」
    「そう、ですか……」

    湿度のあるなめらかな低い声だな。なんか意外。このまま無言になるのだろうと感じた予感は当たり、コーヒーの香りに燻製された静寂が私と三井さんのあいだに漂った。


    「……」
    「……」

    ——あ、顔上げた。三井さんは一階へ下る階段に意識を向けているようだ。平らな額と、浮き出た眉弓骨の下で、二重目蓋の瞳が、伏せられがちにそちら側を向いている。

    むっとしているみたいな顔つきだし眉骨は高く、鼻筋もしっかり通っていて、頬骨や顎まわりに、皮膚の下の骨格の造形を思わせるラインを克明に描いている。まあ……世間一般的な観点で見たらイケメンなんだろう。

    けれども、よく考え事をしているみたいな瞳とか見た目に反して、その人懐っこい雰囲気はどこか親しみを感じさせるものだった。プロのバスケットボール選手なのに、変なの。オーラはあるんだけどなあ……なんかやっぱり不思議だ、三井さんって。

    「……」
    「……!」

    ぎゃ、目があった!!私の視線はよほど無遠慮なものだったのだろう。片方の眉をゆがめてどこか笑うようにくちびるを持ち上げた三井さんに私はごまかすために頬笑みかけた。

    「……あの、このカフェいいですね」
    「ああ。座り心地もいいし、コーヒーも旨めぇ。こうゆっくりできんのは久しぶりだ、ずっとこうしてたいぐれぇーだわ」
    「三井さん、お忙しいそうですもんね」
    「名前さんも、仕事が忙しいらしいな」
    「そうですねー。休みはしっかりともらってるんですけどね」
    「あー......休みの日は、何してんすか」
    「私はだいたい休みの日は、遊びに行ってます。三井さんは?シーズンオフのとき」
    「いーすね。名前さんなら、友人も多そうだな。俺ァ……プライベートはほとんど誰かしら仕事上の人間と飲んでたり、買い物行ったりとか」
    「桜木くんとか?」
    「ああ。」
    「えー、あんまり休んだ気しなさそ〜」
    「ふは。なんとも言えねーな、それは」
    「ふふふ、……」
    「……」
    「……」

    あーあ、また静かになっちゃった。きっと静けさとか、空気感を楽しむことができるひとなのだ。静寂が苦ではなく。それでいて賑やかなのも好きなんだろうな。

    三井さん……話してみたら無表情でも優しそうに見える。あと少しだけ筋肉を上げるだけできっと微笑になりそうな感じ。彼の顔にはそんなふうな影が絶えず浮かんでいるのだけれども眉のあたりが厳しいから、表情が相殺されてよくわからないことになっている。

    私が三井さんという人をよく知らないというせいもある。しかし彼の持つ穏やかさは、かぐわしいコーヒーの湯気の導きによって、よく伝わってきた。ゆったりであり、堂々としているでもある、そういう雰囲気が。


    「あのう。こう日差しがいいと、なんだかぼーっとなっちゃいますね」
    「ん……?」

    と言いながら彼はすこし眉根を寄せた。私の発言は突飛なものに感じられたのだろうか。だが彼は頓着せず「そうか?……でも」と続けて言った。

    「きょうは——大人しいんだな」
    「えっ?」
    「いつもはもっとこう、元気……つーか。」

    三井さんは真面目な顔で私を見ている。私は核心をつかれた気がして、なんだかすこし動揺を感じたけれども、つとめて明るく、「そんなことないですよ。元気いっぱいです」と笑った。

    「なら、いいんだけど、よ……」

    三井さんの厳しい顔の頬にまろやかな影が浮かぶ。——それが微笑なのだと気づくまでたっぷり三秒間も見つめてしまった。

    「……あ、いつもはほらっ!ボケ役のひとがいるから。私、基本ツッコミ役なんで」
    「あぁ、なるほどな。」
    「宮城さんとかね、ほら、ね?」
    「はは。たしかに。」

    ——でも、たしかに。なんだか、わたし変かも。うまく誤魔化せたけど。いつもならもっと、ぺらぺら喋れるのに。

    三井さんと二人きりになった途端、とても内気になってしまったみたい。かといって、いまでは、切に宮城さんの帰還を願っているわけでもない。

    あれ……これってもしかして。いや、そんなことはない。たしかに、私は三井さんのこといいひとだなあ、お友だちになれればなあ、って思ってはいるけれど……。

    きっと、三井さんの雰囲気がそうさせるのだし、私は三井さんを尊敬しているから、彼と相反するであろう自分の自然な性格を、慎ましさや礼節で押し込んでしまおうとしているのだろう。

    「なら俺の思い過ごしだったみてぇだ」
    「え?」
    「名前さんに元気がねーと桜木もがっかりするだろうからな」
    「そうですか?喜ぶかもしれませんよ、特に毎度一緒にいる水戸くんとかは。いつもうるさいやつだって言われてるし、私。」
    「ふは、いや……そりゃ水戸なりの冗談だろーよ俺も、名前さんが元気ねぇと変な気がするくらいだ」
    「そうですか?」
    「ああ。いつも楽しそうなイメージしかなかったからなァ」
    「へっ、……」

    なんだかどきっとして。私が緊張して顔を強ばらせると三井さんは「あ?」という顔をしてそれですこし眉を持ち上げた。

    沈黙はだめだ。三井さんがまっすぐに見つめるから、押し黙るとループに陥ってしまう。どうしよう、なんでもいいんだけど。とにかくなにか話を
    ……そう思ったとき、「あっ!」と、女性の声がした。

    「ミッチーだぁ!」

    二人組の若い女性が私たちの席の方へとやってくる。声をかけてきたらしい女性をチラと見たら、たぶん三井さんのサインらしきものが、バッグの隅に書かれていた。

    「なにしてんの、ミッチー」
    「なにって、茶。」
    「お茶すんの?! えー意外なんだけどぉー!」

    そのあと緩く会話をして女性二人組は、またね!と三井さんに手をあげて階段を降り、レジの方に歩いて行った。三井さんも、おぅ、と言って軽く手を翳し返していた。

    カランカランと二人がお店を出て行った音を確認してから、とりあえず私から訊ねてみる。

    「ファン、の方……とか、ですか?」
    「え?あ、ああ……。よくファン感謝祭とかにも来てくれてる古参の子達だな」
    「すごーい。顔とかちゃんと覚えてるんですね」
    「まあな、ブースターあっての俺たちだからな」
    「へえー。サイン書いてましたもんね、鞄に」
    「あー、アレいつのだっけな、忘れたけど書いた記憶はある。高校ン頃から応援来てくれてたんだよ、家族揃って」
    「ふーん、なんかいいですね、バスケの選手って気取ってなくて」
    「そうか?」
    「はい」
    「……」
    「……」

    またも迎えた沈黙。あんま部外者が踏み込んじゃいけない領域だったかな。わかんない、私、ミスった?ど、どうしよう、なにか他に、気の利いた話を……


    「あの、三井さん……」

    そう言ったとき、軽やかな足取りで階段を上って宮城さんが戻ってきた。ずいぶん長いこと電話していたんだなぁと思ったが、たぶん、それにかこつけて外でぶらぶらとしてきたのだろう。コンビニで立ち読みとか。よくあるし、そーいうの。

    彼のコーヒーはすっかり冷め、元から誰もいなかったように席はがらんとしている。ガタンと椅子を引き寄せ、宮城さんが腰を下ろした。

    「おかえりなさい」
    「うん。花道まだかぁ。なんかまた面倒事に巻き込まれてなきゃいーけど」
    「桜木のことだからあり得るな」

    宮城さんの声と三井さんの声を聞きながら、私は黙ってコーヒーカップに手を伸ばす。苦く濃い風味が喉に絡みついて、もう冷めてしまった水面にミルクを注ぎ足した。

    「桜木は絡まれ体質だからな。絡んでくるほうも無知なのか気骨があってなのかは知らねーけど」
    「……そういや名前ちゃん、花道に助けてもらったのが出会いだったっけ?」

    突然話題を振られ、二人の視線が私に一度に注がれる。私は肯き事の経緯を簡単に説明した。宮城さんはへぇ〜と言い、三井さんは無言だった。

    「じゃあ花道とそんないい展開には今後もならなそーだねっ。最初は水戸あたりの新しい彼女かと思ったけど」
    「ないですって。アハハ。桜木くんはもちろん、水戸くんも、私に興味ないの丸分かりだし」
    「そーなの? じゃあいま彼氏はいないんだ?」
    「水戸くんにもそのうちいい男が見つかるさって言われるんですけどねぇ」
    「じゃあさじゃあさっ、三井サンなんかどう?」
    「へっ、」
    「なっ……!」

    ぐっと詰まってコーヒーに噎せだしたのは私ではなく三井さんだった。げほげほと咳き込んで眉間をぎゅうぎゅうに寄せて苦しんでいる様にぽかんとさせられる。

    「三井サン、名前ちゃんのこと可愛い≠チて言ってたもんねぇ?」
    「えっ……そ、そうなんですか?」
    「うん。ねっ?三井サン。」
    「宮城ッ!! その話は……!」

    少し声を強めて三井さんがそう言う。首を小さく横に一度振り焦燥を明らかにして宮城さんに訴える目は真剣だ。いつも冷静で、動じなくて……不機嫌そうなのに。


    「……勘弁、してくれ」

    三井さんの赤い耳と微かに血の巡りを思わせる頬を見たら……あっ。……これは、間違いない……

    その瞬間、テーブルのふちに置いていた伝票が、ひらりと落下したけれど。ああ、それよりも速くわたし——、ドシンと。完璧に、三井さんに落ちてしまった、みたい。


    ああ、これ——。

    この間、彼の姿をテレビで見ていたときと、同じ感覚だ。

    そっか……。いま、わかった。あのときから、私もう、三井さんに……

    恋に、落ちてたんだな……。










     恋に恋して、に恋した。



    (で?で? どーなの?名前ちゃん)
    (どっ、どう……って?!)
    (宮城っ! い、いー加減にしやがれっ!)
    (ひゃはは!あのねコレが三井サンの本性だから)
    (ンなっ……!てめぇ、覚えてやがれよ!)
    (はっはっはー......って、アラ、名前ちゃん......)
    (——っ、)
    (顔、真っ赤ッ♡)
    (ぎゃー!!!)

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