愛の言葉はむずかしくて(3/5)


「木暮、これ。こないだのチョコのお礼だ」
「え、わざわざそんなのいらなかったのに」

俺はこの日、木暮を飯に誘った。木暮は現在あの有名な超高級製菓会社ジゴバの本社で働いているスーパーエリートだ。なにかと会うたびにそこの菓子をくれるので、礼なんて今さら渡すもんでもないかと思い悩んだが彼女がチョコ一箱であんなに喜んでくれたということへの恩もあり、今日はワインを手土産に持って来た。

「なあ木暮、年頃の野郎でよぅ、誰を紹介したらいいと思う?」
「え?……話がまったく見えないけど、何に紹介するんだ?」
「そのぉー手のかかる女に……いい男を紹介してやるって言っちまってよ……」
「……女?…………三井、お前が、か?」
「……あ?なんだよ、俺が仲介するのはそんなに不自然か?」

「いや……」と言った木暮が閃いたみたいに「ああ、その子にチョコを渡したのか」なんて確信をついて来て思わず俺は木暮から目を逸らす。

「驚いたな。お前が彩子や晴子ちゃん以外の女性と交流を持ってるなんてさ」
「俺にだって女の知り合いくらいいるっつの」
「宮城に組まれる知らない女性たちとの飲み会に飽き飽きしてた奴がか?」
「……マジうるせぇ」

俺は唇をやや尖らせて酒の杯を呷る。それを見て木暮は高校時代のような柔らかい表情で、且つ、情けなさそうに笑う。

「ははは。いい男ならいるだろ?」
「っ、ほんとか!?木暮」
「あぁ。俺の目の前に、な」
「………そ、それは、」
「お前がそこまで関わるなんて珍しいことじゃないか。気になってるんだろ?」
「……バカ野郎、相手はブースターだぞ」
「関係ないんじゃないのか?少なくとも三井は、俺の知っている中ではいい奴だよ」
「……」
「嫌いじゃないならまずは仲を深めてみたらどうだ?案外、運命かもしれないし」

——運命。
食事をした帰り道、車の中で彼女が言った言葉が不意に蘇って来る。

「………あいつは、妹みてぇなやつだ」





—


三井さんとレストランで食事をして以降……私は三井さんとほぼ毎日のように会っていた。それは今がシーズンオフだからという理由も、もちろんあるだろうけど。

と、いうのも夜道を歩いて帰っている私になぜか過剰とも思えるほどに心配をした三井さんが一人で帰るとき(まあほとんど一人だけど)には迎えに来てくれているというだけ。

一度申し訳なくて同僚と帰ると嘘をついたらなぜかバレた。ほんとになぜ。そして、一人で歩いているところを後ろからクラクションを鳴らされてめちゃくちゃ怒られた。過保護がすぎる。まるでお父さんみたい。いや、牧さんみたいだ。

今日も今日とて三井さんとトークアプリで連絡をとって【今から帰ります】とつぶらな瞳の白くまのスタンプを送信したと同時に珍しい相手からの着信が入り、私はすぐにその電話を取った。

「もしもしっ!?神さん?」
『名前ちゃん?こんばんは』
「こんばんは!神さんから電話なんて珍しいね!なにっ?ノブに用事?今日は一緒じゃないよ?」
『ううん、……それより最近名前ちゃんさぁ』
「ん?」
『………いや、なんでもない。久しぶりに夜ご飯でも食べに行かないかなって、二人きりで』
「……………え!!? 神さんが誘ってくれた!ちょ、ちょっと待って!すぐにかけ直します!」

そう言って一旦電話を切った私は、急いで最新の着信履歴をタップする。


———プルルル、ぷッ

「もしもし、三井さん!?もう出ちゃった!?」
『いや、悪ィ……すこし手間取っててよ、なんかあったのか?』
「あの!今日ね、神さんが!珍しく食事に誘ってくれて!」

急に電話の向こうがシーンとなって不思議に思った私がそのテンションのまま「三井さんっ?」と問いかけると電話口から『ン、ああ……悪ィ』という歯切れの悪そうな三井さんの声が聞こえた。

『……あァ、なら今日は送ってもらえ』
「うん!いつも貴重な時間を割いちゃってほんとスミマセン……!」
『俺が好きでしてることだし、気にすんな』
「男前が過ぎる……!ありがとうございます!」
『楽しんでこいよ……またフラれてやけ酒なんかするんじゃねェぞ』
「そ、そんなに頻繁に告白するわけじゃないですから……!そしてフラれる前提!!」
『ふはっ……。もしそうなったら連絡してこい。他の男に喰われねェように監視してやるぜ』
「えっ、それ三井さんが言います!?」
『ちがいねーな。けどよ、一応俺の名誉のために言っとくが、あの日誘ってきたのはお前だぞ?』
「う゛ぉう!?」
『じゃ——、またな』
「ちょ、三井さ……って、もう切ってるし……」

最後に投下された爆弾のせいで顔が熱い。きっと真っ赤だ。普段は意外と優しくて紳士的なくせにたまにこうしてからかってくるのだからその不意打ちに大ダメージを食らってしまう。そしてそれは大抵自分の覚えていないあの夜の事なのだから尚更だ。

火照る額に手を押し付けて唸っているとポンポンと、背後から肩を叩かれたことで正気に返った。振り向けば、そこには神さんがいた。

「……あれ? 神さん」
「うん。病院出たら見かけたから」
「えっ! あ、ここ神さんの病院前だ!」
「さてと、俺の気が変わる前に行こっか」
「はーい! ご飯デート行きましょー!」
「ははは。これは、デートじゃないです」
「相変わらずつれないーっ!」

まとわりついてくる彼女をあしらいながら、俺はその手に握られているスマホを見た。なんだか知らない彼女が増えている。それが気に入らない。そして先日、牧さんから聞いた言葉が過ぎる。


��名字はもう、
 なにも知らない子どもじゃないぞ。��



—


珍しく神さんから誘ってもらえたと喜んでいたのは最初だけで、なんだか様子がおかしい神さんに私はひたすら困惑する。

「じ、神さん……?な、なんか、飲むペース早くない?お酒に強いのは知ってるけど」
「……気のせいだよ。それより……いや、」
「ん?……なんか今日やっぱり変だよ、神さん」
「……変なのは、最近の名前ちゃんでしょ」
「へっ?」
「………君はさ、まだ俺のことが好きなの?」

そのことを神さんから振られるのは初めてで、慌てるよりもきょとんとしてしまう。本当に様子が変だと心配にすらなってくる。

「もちろん。でも、神さんがそういう相手に私を選ばないってことも知ってるよ」
「……君のことがね、嫌いなわけじゃないんだ」
「……」
「名前ちゃん、おれは——」



—


初めて神さんから語られた胸の内に目を丸くした二人きりの食事会。まさかそんなことを考えていたなんて。そして私は同時に決意したのだ、何があっても神さんの傍にいる——と。

私の気付かぬうちに会計を済ませていてくれた神さん。ほかの誰にもこんな気遣いを神さんは見せない。ノブたちに奢ることはあっても、無造作にカードを手渡すだけだ。そんなさり気ない所作が私が神さんの特別だと自惚れさせる。

とても嬉しくて、普段よりも酒が回っているのか顔を若干赤くしながらも玄関まで送り届けてくれる優しさも好きだ、と思う。

嬉しいはずなのに……神さんを見送ってだれもいない玄関に一人佇むと寂しさだけが募っていく。

寂しい。悲しい、悔しい——神さんがあんなことを思っていたなんて。地団駄を踏んだって、発散出来るわけがない。それほどまでに、哀しい。

好きだった。誰よりも理解していると思ってた。でも私は、神さんの想いを知らなかった。優しい神さんが好きで、愛しくて、悲しくて、寂しい。

10回目の失恋をしたときよりも、
いまの方が何倍も心が痛かった。


———ぴろん

いつの間にか蹲っていた足元の鞄から軽快な音がした。頭に三井さんの顔が過ぎり、すぐにトークアプリを開く。


三井 寿

無事に家についたか?




たったその一言に、涙が溢れそうになる。傍にはいないのに、まるで傍にいるようなその心強さに唇を噛み締めた。

やばい……三井さんに——
会いたい、かも。


———たーんたったたーんたらん!

突然軽快なメロディーが鳴り響き出してびくっと肩が震えた。すぐにそれが着信だと気づいて思わずスマホをお手玉する。ギリギリ床に落とす前にキャッチして、通話ボタンをタップした。相手はだれかなんて、予想がついていたから。

「……、」
『……』
「あれ?……もしもーし?三井さん?」
『名前』
「……!」

突然名前を呼ばれて心臓が止まりかけた。なにこれ、癖になりそう……。神さんに名前を呼ばれるよりもドキッとした確実に。温かみがある、私の名を呼ぶその声に一気に視界が涙で歪み始める。

「……はい?どうし、」
『なんかあったのか』
「……、なんかって、なにが、ですか」
『いつもなら既読がつけばすぐに返信があんじゃねーかよ、電話に出たときだっていつもはもっとテンションが高けーだろうが。寝てたわけでねェだろうし』
「………。」
『——何があった』

相変わらず目ざとい。まるで心の中が見えるかのように、長年の付き合いであるかのように、三井さんは私の感情を、いとも簡単に読み取るのだ。

「うーん、さすが三井さん……。実はやっぱり、読心術が使えたりします?」
『……名前、』
「今日はうちに来ないでくださいね?ただ——、今だけ……聞いてください」
『………あァ、ちゃんと聞いてるぜ』
「わたし、やっぱり神さんが好きです。神さんから離れられない。私は神さんを独りにできない」
『……』
「だから神さんを大切にする私ごと好きになってくれる人、いないかなって」

あぁ、ずいぶんと無茶なことを言っていると自分でも思う。でも結局はそうなのだ。そういう人でなければ私は相手を好きになれ……、


———とすッ


ドアの向こうから軽く扉に凭れる音がした。スマホを耳に当てたまま反射的に振り返る。徐に立ち上がって、おそるおそるドアのスコープを覗くと何かに塞がれていて何も見えない。

「……っ、来ないでくださいって、いったのに」
『バーカ、最初からいただけだ』
「……なんですかぁ、ソレ……」

扉を開けろとは言わない。でも扉を隔てた向こうに三井さんがいる。二度目に会った時もそうだった。近すぎずでも遠くはない位置でそっと傍にいてくれる。それに落ち着く自分が不思議になる。

『——名前』
「……ン、なんですか」
『……紹介してやるよ、おまえの想いごとお前を受け止められる奴を』
「……あ、あの。自分でも無茶なことを言ってるって分かってるので」
『すこし待ってろ………心当たりが、ないこともねぇ』
「え、えぇ……そんな、あの、ほんとむりだと」
『お前は、そいつへの愛を抱えたままで……その恋を、まぁ……捨てたんだろ』
「え。えっと……捨てたわけじゃ」

扉の向こうで小さく舌打ちした三井さんの気配を感じる。なんとなく、髪の毛をガシガシと掻きむしる気配も。

『あー!ったく、ほんとこういうのは苦手だわ。悪ィな、語彙力なくてよ』
「……い、いえ」
『言い方が悪かった。そいつの想いを尊重して、自分の想いが重荷にならねェように、手放そうとしてんだろ?』
「……ホントに、三井さんってエスパー?」
『身内を大切にすることは、変なことじゃねぇ。あとは相手次第だ』
「……え?」
『相手の男がお前からの愛を勝ち得られるかだ』
「いや、それ以前の問題で」
『家族愛は一つじゃなくていいだろ、家族としてそいつを愛していることは大した問題じゃねぇ。相手の男が、お前に愛されるならな……』

なんなの、このひと……。なんでこんなに、いい男なんだろう。なんで貴重な時間を、私みたいな女に割いているんだろうか。もったいないよ。

「………ほんと、ずっるい……」
『……今日はこのまま帰る、何かあればいつでも連絡しろよ』
「……三井さん、」
『……ん、』
「ありがとうございます……おやすみなさい」
『あァ、おやすみ』

扉の前から気配が去っていく。不思議ともう、 さっきまでの寂しさは感じなかった。





—


なんだか三井さんのおかげで吹っ切れた、とはいかないけども心が軽くなった翌日。朝から元気に出勤した、はずだったのに……。

その日の夜、ノブと牧さんと夜ご飯を食べに出掛けた。先に私とノブが居酒屋に到着してなんだか腰が痛いな、歳かななんて考えていたら絞られるように腹が痛み出して、私の隣でタッチパネルを操作しながら酒やら食べ物を注文するノブに、「トイレ!」と言って駆け込んだら……

「おぉう。まじか……」

——案の定。少し下着を汚しただけですんだが、とうとう来てしまった恐怖のエックスデーに浮上した気分も急降下だ。

痛み止め持って来てないや……。でも小一時間、いや二時間くらいなら生きてられるかな。牧さん持ってないかな、痛み止め……。

比較的に重い部類で何度か婦人科にかかったこともあるが、子宮もきれいで異常なしで、まったく機能的には問題がないのはありがたいが痛みだけひどいのは、なんだか納得がいかない。

知人がお医者さんとは言え専門外だろうし、いくら気心が知れているとはいえ相手は男性(内ひとりは想い人)の牧さんや神さんに相談できるわけもなく。

そろそろ本格的に専門医さがさないとなぁ……などと、どうにもならないことにぶつぶつと呪詛を唱えながら席に戻れば遅れてきたらしい牧さんも席にいた。とりあえず、自分の椅子によろよろと向かって行って座る。

「ん?……大丈夫か、名字。顔色が真っ青だぞ」
「……ゆだんしてたの、牧さん……」
「ああ、アレ(・・)か。清田、タクシーを呼んでくれ」
「タクシー? りょーかいっす!」
「横になったほうがいいだろうが少し我慢しろ」
「うぅぅぅ……ありがと、牧さん」

お腹を押さえながら隣に座るノブの肩に頭を寄せると「タクシーいま来るってよ」と、ノブも心配そうに私の顔を覗き込む。そして私の肩に自分の羽織っていたジャケットを掛けてくれた。

そのとき朦朧とした意識の中でふと思い出して、徐にポケットからスマホを取り出し開いたトークアプリの相手はもちろん三井さんだ。


名前

お疲れ様です!無事に月のモノがきたのでご報告します。
ご心配をおかけしました!


名前

あと今日はお迎え大丈夫です。ノブと飲んでるので!お仕事頑張ってください、ふぁいと!


名前

【スタンプ】




「……、と。これでいいや……」

三井さんにメッセージを送ってスマホをテーブルの上に放り出しまた腹を抱えて唸る。どれくらい経ったのか牧さんの「タクシー来たみたいだぞ」と言った声に私はそっと目を開けた。

「タクシーのとこまで着いてってやるぞ」
「ごめん、牧さん……何から何まで」
「気にするな。じゃあ清田、俺がこいつを見送ってくるから先に飲み食いしてていいぞ」
「はい。……名前、体温めろよ」
「はぁーい……ノブもありがと、また飲もうね」
「わかったわかった、早く帰れ」

牧さんの手を借りてよろよろと立ち上がる。荷物を持ってくれている牧さんに、ほぼしがみつきながらなんとか居酒屋から外へ出ると——

「名前っ!」
「………あれ? 三井さん……?」
「………三井……?」
「オイオイ、大丈夫じゃなさそうじゃねーかよ」
「……名字、三井と知り合いなのか……?」
「あ、うん……ともだち………かな?」
「今はな」
「えっ、いまは……?いま…え、いまだけ!?え……もしかして私、見捨てられる………!?」
「見捨てはしねーけど、今後のことは分からねェってことだっつの」
「それ見捨てられる、いや飽きられるやつ!!」

——やっぱりこいつだ。この男、三井寿だと思った。確信した、名字の首元に赤い印をつけた相手が誰なのかを。

「三井……」
「あ?」
「半端な気持ちなら手を引け」

名字に関する勘は残念ながら外れたことがない。ずっと父親みたいな立ち位置にいたから尚更だ。

「半端って、遊びならって意味か?牧」
「……こいつには、長いこと想う男がいる」
「悪ィけど、それはもう聞いているぜ」
「……」
「何かよくわからないけど見捨てられない?」
「だから、見捨てたりしねーって言ってんだろ。投げ出すなら今日連絡が来た時点でそうしてたっつの」

その言葉には痛みで普段以上に回転の遅い頭でも納得が出来た。子どもができる心配がなくなったならいつまでも相手をする必要がない。それだけを気にかけていたなら。

「それより、そろそろそいつを連れて帰っていいか。顔色が悪ィ」
「……名字、どうする?」
「しょうじきすんごくありがたいけど、でも三井さんしごと……」
「問題ねぇ。ほら、こっちに来いよ」
「……かさねがさね、もうしわけありません……牧さんもここまでおくってくれてありがと、」
「あぁ……本当に信用できるのか?」
「三井さん……?むしろ三井さんが信用できなかったらもう牧さんたち以外の誰も信用できない」
「……、そうか」

そっと牧さんが私を解放した次の瞬間、私は三井さんにもたれかかってしまった。それを、簡単に受け止めた三井さんはやっぱり良い匂いがした。もちろん牧さんも大人の良い匂いだったけど。

「だからテメェは警戒心がなさすぎだっての……牧、手間かけたな」
「三井……��俺たちの�£mり合いだからな」
「だァから!��今はな�≠チて言ってんだろうが、ったく。しつけーな」
「……」
「なんでこうも神奈川県勢の元キャプテンたちは頑固者が多いんだ、勘弁してくれよ」
「……っ」

何だか牧さんの眉間がピクッと動いた気がした。なんかこわい今日の牧さん。しかも元キャプテンって、なんのはなしですか?

「なんの、はなし?なんか、空気が痛い……?」
「気のせいだ、気にすんな。それより家に食べるモンあんのか?車に、こないだ渡し忘れたチョコしかねーぞ」
「………もしや、ジゴバ……の?」
「あぁ」
「もうそれだけでいっしょういきていける……!三井さんすきあいしてるぅ」
「……ったく。ほら、帰るぞ」
「はぁい……!じゃあね、牧さん」
「あァ。無理はするなよ」
「俺がしっかり看とくぜ」
「それは初耳!おとこまえ、みついさん!」

私にとってはいつもの三井さんとの感じに変わりはないのだけれど、牧さんがそんな私と三井さんのやり取り?コント?を呆然とその場に突っ立って眺めていたのが目の端に映ったので反射的に牧さんに対してニコッと微笑みかけてみれば牧さんが溜め息をついて言った。

「……名字、何かあったらすぐに連絡しろ。すぐにだ」
「三井さんがいるからだいじょぶだよ、ありがと牧さん」
「……」
「ほら、先に乗れ」
「……ぅおぅ!?あいかわらずレディーファースト……っていたたた……やだもうむりしぬ……」

会話の最中にも絶え間なく続いていた痛みが安心した途端大きな波となって襲ってきて、すぐにあとから乗り込んで来た三井さんのスーツを思わず握りしめて額を押しつけて唸る。化粧がついちゃう……!と内心では慌てて顔を離そうとすれば、胸元に押しつけるように三井さんが頭を押しつけてきたので考えるのを放棄した。だって死ぬほど痛い、お腹と腰が。



—


やっと戻ってきた俺に「思ったよりも時間かかりましたね」なんて呑気に返す清田がこころなし、いや確実に機嫌が悪い俺に目を瞬かせる。

仲間内でもいつも感情の起伏を表情に大きく出さない俺にしては珍しいとでも言いたそうだ。たしかにこうも不機嫌を全面に出すなんて何年ぶりのことだろうかと自分で自分を客観視する。

「牧さん……あいつ無事に帰りました?」
「……」
「……牧さん?」

一度座った席から勢いを緩めずに立ちあがり近づいて行く俺に清田が退き逃げ腰になった、ときには遅かった。俺の感情の篭った一撃が清田の頭に炸裂した。まさに高校のとき以来の鉄拳である。

「っ!!!??」
「清田てめぇ、この野郎。なんであのとき名字を置いて帰りやがったこの尻軽男がっ!!」
「まっ、牧さん? ちょ、あの誤解を招きそうな発言は控えて、」
「だいたい神も神だ!あの傍若無人っぷりについてこれるのは名字だけだっていうのに……」
「へっ?」
「……たかだか菓子ごときでうちの妹分をかっ浚えると思いやがって、あの野郎……」

意外と俺が名字をすごく可愛がっていたことを知って驚いたのか、目を見開く清田の口から「あぁ菓子か、あいつならあっさりついて行きそうだな」なんて、ぼそっと呟いた声が聞こえた。



—


名前がすっかり寝入ったのを確認して俺は時計を確認した。二十一時前。そろそろ帰るか、と帰り支度を始める。出ていくときに使ってと不用心にも彼女から合鍵を預かっていたため遠慮なく使うことにする。

もう一度、名前の寝顔を確認し部屋を出る。なんとなく後ろ髪を引かれて振り返れば、この質素な部屋の中で一番価値があると一目で分かるコルクボードに貼られた写真の数々に目がいく。

「命の恩人、か……」

飾られた写真にはまだあどけなく大学時代だろうか、自分と同じようにバスケットボールを追い掛けていたであろう時代の姿と思わしき牧に神。今では同じチームメイトでもある清田、その三人と一緒に撮ったらしい名前の写真が飾られている。

驚いたのは目を凝らした先、そのコルクボードのど真ん中一番スペースを取っている人物の写真。

「……ん?」

俺は清田に呼び出されたあの日の彼女との会話をふと思い出す。清田が女に会いにいくとかでその場からいなくなってから二人でした会話だ。すでにその段階で彼女は記憶を飛ばすくらいに酔っぱらってはいたらしいけれど……

「——じゃあお前は、毎日なにが楽しくて生きてんだよ」
「ええ?私ですかぁ?そうだなー、私の楽しみはぁ……毎日寝る前に部屋に飾ってあるコルクボードの中の大切な人たちに『今日もありがとう』って言って眠ることです!」
「なんだそれ。はっ、綺麗事だな」
「きれいごとじゃないですよぅ!かぁぞくよりもたいせつなひとたちを〜飾ってるんれすっ」
「へえ、そりゃ心が綺麗でいいこったな」
「ど真ん中に飾ってある人物がぁ憧れでぇ、今のわたしの〜いちばんのきぼうれすっ」
「あ?希望だぁ?」

ニコニコと上機嫌な彼女に怪訝な表情を向ける。この話の流れで言う希望となれば家族か友人か、そんなところか?あと恩師とか……か。

「誰を飾ってんだよ?兄妹とかか?」
「んーん……えーっとぉ……るかわ、かえで?」
「るか……って、へえ。ああ清田も言ってたな、お前が流川のファンだって」
「はいっ!かれのプレーを見ながら死にたいれすねえ。わたしの希望れすっ、太陽れすっ!」
「……」


彼女の言ったコルクボートとは正にこのことだろう。その中のど真ん中に飾られているNBA選手の流川楓ではなく、三井寿——自分の姿。リーグ優勝したとき最後に決めたスリーポイントを打った瞬間の写真。その、自信満々で楽し気な表情を浮かべる自分の姿を見返して思わずフッと小さく笑った。

「なァーにが流川だよ、嘘つき。」





—


「もしもし、木暮——」
『三井、どうしたこんな時間に電話なんて。また彼女とのことか?』
「………彼女じゃねーっての。けど、さっき具合悪くなって家まで送ってきたとこだ」
『そうか、大丈夫なのか?』
「あぁ、いびき掻いて寝てるわ」
『はは、よかったな。大事に至らなくて』
「……なあ、木暮」
『ん? どうした』
「少し……付き合ってくれよ」

俺は、彼女のアパートを出たその足で木暮と待ち合わせしたバーに向かった。さっき牧に言われた言葉を思い出し、またひとつ溜め息をつく。


「それで?一体どうしたんだ?」

バーに着くなりいきなりウォッカをストレートで飲み干した俺に木暮は、手元の杯を揺らしながらそう訊ねる。無言で瓶ごと頼んだそれを自分でグラスに注ぎながら喉に流し込むことしばらく。ようやっとグラスを机に置いた俺がぽつりと呟く。

「……例の、女のことだけどよ、」
「えっと三井が珍しく世話をしてやっているっていう?」
「泣き虫なんだよ」
「ん?」
「よく泣くし落ち込む。なのに俺に抱かれた事は大して気にしてねぇ。記憶飛ばしてるくせして」
「……待てよ、それは元副キャプテンとして聞いてないな、ちゃんと説明してもらうぞ?」

揶揄っているんだか、ちゃんと相談に乗る気で言っているんだか、よくわからない口調で緩く微笑む木暮をちょっとばかしぶん殴ってしまいたくなる気持ちを抑え込む。けど、抑え込んだ代わりに「なンだそれ」と言いながらギロっと睨みは効かせた。

「チョコを差し出せばすぐに泣いてたことを忘れちまう。警戒心が微塵もねえ。あいつは——菓子で釣れば誘拐だって簡単にされそうだ」
「……ずいぶんその、愉快?な……子?だな」
「ずっと好きな男に一筋だったくせに単純なくせに、心配かけねーように繕うことだけ上手くなりやがってよ……」
「……」
「あいつは自己犠牲の精神とかそういう類じゃなく、無意識に自分に価値がねェと思いこんでる」
「……なんだか、まるで昔のお前みたいだな」
「……」

それには同感だ——と思い今回は木暮を睨むのはやめておいた。その代わりとして俺は小さく溜め息を吐く。

「きっとあいつはよ、殺されたって殺したやつを恨まねェ。仕方ないで済ませるんだと思う」
「……」
「だから——放っとけなかった……手のかかる、妹みたいな奴だと思ってた」
「……今は、どうなんだ?」

思ったよりも深い事情があったんだな、と木暮も少し喉を潤して呟く。

「……今日あいつを迎えにいったとき、牧に会った。半端な気持ちなら手を引けって」
「牧? へえ、ずいぶん大事にされてるんだな」
「俺たちの知り合いだって。もし……あいつとそういう関係になったとしても、あいつの抱えてるもの全部を大事にしてやろうって思ってた」

きっと、優しい愛情で包み込めると。それこそ、俺が元湘北メンバーに抱くような家族愛みたいなかたちで。

「それはまた、ずいぶんと心が広いな三井。」
「けど俺は——そんなに心が広くねえってことを思い知っちまった」
「……」
「あいつらから……名前を奪いてぇって思った」
「あいつ?」
「神から——あいつを引き離したいわけじゃねェただ一番大切な存在になりてぇって……神よりもあいつに近い存在になりてぇって」
「……」

木暮はすこし考えるみたいにして宙を仰ぐ。その姿が目の端に映る。

「木暮、」
「ん?」
「これは……妹に対する、感情かよ……?」
「それは三井、お前がよく分かってるんじゃないのか?」
「……、」

わかっている。だからそれが受け入れられなくて俺は木暮を誘い酒に逃げようとしているんだ。

彼女のいう��男前�≠ネ男でありたかった。彼女の前では器の広い大人の余裕を持ちたかった。彼女のすべてを包み込んで慈しみ、他に好きな男が出来たら優しく背中を押してやれる存在になりたかったのに。

「俺でも手の届かねえ相手のファンでしかも他の男に想いを寄せている女に本気になるなんてよ」
「……」
「流川と神——かよ、って。こりゃ何の因縁なんだよって思ってたのによ」
「……」

木暮の飲んでいたグラスの氷が音を立てる。木暮はそのグラスを手に取りゆらゆらとグラスの中の氷を回す。それを目の端で追って「俺かよ……」と俺は小さく呟いた。

「……素直に言えってんだ、バカヤロウが」
「……」
「あーあ。馬鹿みてェだろ?何してんだ俺……」
「そんなわけない」
「……え?」
「むしろ安心したよ。お前はきっとバスケのためだけに生きていくんだろうなって思ってたから」
「……」
「お前がやっと手を伸ばしたいものを見つけたんだろ?バスケのためじゃなく三井自身のために」
「……あぁ。俺は——名前がほしい」
「諦めの悪い男——三井寿、か。」
「……」
「ははは、自信をもてよ三井。前にも言ったけど俺はお前以上にいい男は知らないよ。お前はお前らしく在ればいいじゃないか」

ちらりと木暮の表情を窺った俺は最後にトドメとばかりに瓶からウォッカを飲み干した。

赤くなっているであろう顔火照りは酒のせいか、それとも——。


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