愛の言葉はむずかしくて(4/5)
ぼんやりと目が覚めた。あれだけ私を苦しめていた腰の痛みはだいぶ楽になっていて寝起きなのに安堵して再び脱力した。当たりは真っ暗だから夜だということは分かるが、痛みではない目覚めはずいぶん久しぶりだ。なぜだか心地よい温もりを感じて顔の側にあったタオルケットを抱え込む。
あぁ良い匂い……ん?いい匂いのタオルケット?そんなものうちのベッドにあったっけ?いや、ちゃんとタオルケットは洗ってるけどさ。つい安心する香りに導かれて顔を埋めてしまったが、頭にははてなマークが浮かぶ。でもどうしても手放すことができな……、
「………おい」
「ンェ!?」
この上なく不機嫌な声が聞こえてきて今度こそ、目がぱっちり開く。枕元にノブが座っている。がばっ!と勢いよく上半身を起こせば当たり前だが治りきっていなかった痛みがぶり返した。痛い。
「ノ、ノブ……。め、めずらしいね?てかノブが合鍵使うの久しぶりじゃない……?」
だいたい合鍵を使ってなんだかんだ世話を焼きに入ってくるのは牧さんだが。でもここ何年かは牧さんも過保護がマイルドになったのか、勝手に入ってくることはなくなったかも。昔はたまにノブが酒を持ち込んで飲んでいることもあったけど、牧さん同様、最近はめっきりなくなったのに。
一人暮らしを始めたときに過保護な二人に合鍵を持たせたのは、もう何年前の話になるだろうか。
「……ずいぶんと、信頼してるんだな」
「へっ?」
「三井さん。けど……に、したって本鍵を渡すのはどうかと思うぜ」
「え……え、え!?ほ、本鍵!?あ、合鍵を渡したはずだけど……?」
「予備の合鍵は上から二番目の引き出し、本鍵は上から三番目だろ」
「…………あ、あれ?そうだっけ?」
「お前が馬鹿なのはよくわか、いや再認識した。間違えて本鍵渡すようなアホだってことをな」
睨むノブの視線、先程から私の視線とかち合うことがない。なんだなんだとノブの視線の先を辿れば私がタオルケットだと思って抱き寄せていた、も、の……は。
「………これ!三井さんの上質ジャージじゃんっ!!」
しっかり握りしめてしまっていたらしい皺くちゃになってしまった高価そうなジャージの上着を慌てて引っ張ったり押しのばしたりする。もちろんそんなことで皺がなくなるわけがない。
まさか!そんな、何で三井さんのジャージが!?これか、安心したのって。これの匂いか……三井さんの匂いがする、いい匂い……って!ちがう!やばい、分かんないけど三井さんの持ち物が安物なわけない!これ、普通のクリーニングに出していいやつ!?とパニックになって挙動不審な私にノブが目を細めた。
「……お前さぁ、」
「うぅ、弁償できるかなぁ……ん?あい?」
「……いや、なんでもねェ」
「なんか最近、みんなそればかりだね。変なの」
「……仕方ねェだろ。こっちだって複雑なんだ」
「何が複雑かよくわかんないけど、頑張って?」
「……はァ。離れられないのは一体どっちなんだかな」
「はい?」
「いい、こっちの話」
「ふーん、あっそ?」
—
やっと体調もすっかり元に戻り元気に足取り軽く出勤する毎日に戻った私。神さんの気持ちを知って飲み込めたためか、それとも、三井さんが傍にいてくれたおかげか。
ここ何年か蟠りとなって澱んでいた心の奥底もすっかり晴れたような気がして絶好調な私とは反対に……同じくらいの時期から、私の気持ちと反比例するかのように牧さんの機嫌が悪い。もう底辺なんじゃないだろうか。
それに大きな被害を被っているのはノブでたまに神さんにすらその矛先が向かうらしい。私は牧さんの餌食になることこそなかったが一緒にいるときなんかに私のスマホが通知を知らせるたび私がスマホを触るたび牧さんから熱い視線を感じる。
ちなみに最近の神さんはそれもあってか牧さんを避けているようだ。ノブから助けを求める視線を感じるが巻き添えはゴメンである。そんな今も一緒にお昼ご飯を共にしながら何やら睨みを効かせられているノブの犠牲に合掌し、ポケットの中で震えたスマホをこっそり確認する。予想通りの相手になんとなく気分がさらに浮上する。
「ごめん、トイレ行ってくる」
と、牧さんたちから逃げた先で通知を確認する。

体調はどうだ?よくなったか?
あの日、ぐしゃぐしゃにしてしまったジャージを気にすることなく私の体調を心配してくれる三井さんは神様にちがいない。なぜ今でも私をかまってくれているのかは不明だが滅多に広がることのない交友関係に、しかもそれが推し。それも問題がないどころかもったいないほどに出来た人間であることに感謝しかない。

今晩、飯でもどうだ?よければ知り合いが名前に会いたいって言っててよ
「知り合い……知り合い!?三井さんのプライベートの!?え、……今日っ!!?」
すっかり恒例となった三井さんとの食事だが三井さんが誰かを連れてくることは今までなかったし私もなかった。しかもプライベートの知り合い。
「ちょ、今日の私服どんなんだっけ……!?め、メイク直しの道具……は、持ってきてる!」
たぶん身嗜みは問題ない、よし大丈夫!と勢いで【OKです!】というスタンプを送信してから、ああやってしまったと頭を抱えた。
三井さんの知り合いだもん。きっと、三井さんと同じくちょーセレブに決まってる、なんでノブはセレブっぽくないんだろう。同じバスケット選手のくせして。てか三井さんは気にしないみたいだけど、マナーとかどうしよう。三井さんのご友人に、お前みたいな庶民が俺の友達に近づくなとか言われたら……。
「……そしたら私、どうするんだろう」
反論できないだろうな。そもそも今だって、もう会わない方がいいに決まってるのに。そんな未来を想像したら胸がちくりとした。
トイレから出て席に戻り、がちがちに緊張しながら何度も時計を確認する。まだ昼なのに。今晩の食事のことに気を取られている私は牧さんとノブが不審がって、こちらの様子を窺っていることにすら気が付かない。
「……名字、」
「ねぇ牧さん、きょうの私どっか変なとこない?すこしはお淑やかに見えるかな?」
「……」
「……あー、名前。カワイイから大丈夫だ」
「……ふぅ、ありがとノブ。あっ、あとお昼休憩10分もない!じゃあね私リップ買いに行くからお先っ!」
お昼代をテーブルに上げて颯爽と店を去って行く名字の姿を見届けた俺と清田。「ありゃ三井さんとデートだな」なんて呑気に彼女を逃がしてやった自分はなんて出来た男なんだと言いたげにドヤ顔で自画自賛している清田の肩を俺は砕きそうなほどの力で掴んだ。
「ぃだだだだだだだだっ!!ま、牧さん牧さん!骨が……!おれの骨が砕けますって……!!」
「知るかっ、また三井か……!」
「ぎゃあぁ!ゴリって!ゴリって言ったァァァァああ!」
—
——やばい、遅れるっ!!時間も守れないなんて印象さいあくだと職場を出てからヒールのある靴でダッシュをかける。今日は太めのヒールの靴でよかったと心底思いながら通り過ぎる人達が何事かと振り返るのも気にせずに駐車場まで走った。
もう少しで駐車場というとき、三井さんほどではないがスマートな男の人と目が合った。スピードを緩めないまま、なんとなく私もその男性を眺めてしまう。
大人な雰囲気だなぁ。そして穏やかそう、なんて思ってしまうのは幼く見えがちな真ん丸なメガネをかけているからだろうか。思わず視線が釘付けになってしまっていたのが悪かったのか「すみません」と声を掛けられて私は急ブレーキをせざるをえなくなる。
「うぇ?!わ、わたし?!……あっ!患者さんのご家族さまですか……!?」
「ははは。いや、家の家族は健康そのものだよ」
「そ、うですか、それはすばらしいですね!」
あれ?じゃあなんで声かけられたんだろ、はやく行かないと、三井さんとお友達を待たせちゃう。しかし声をかけられたからには無視はできないと体は今にも走り出しそうな体勢のまま目をぐるぐる回す私に彼は尚も優し気に微笑み掛けて来る。
「……名前」
「ひえ、」
見知らぬ男性と見つめ合っていたとき——いまだかつて聞いたことのない低音ヴォイスが私の背中をさっと撫でた。いつもは低い中にも優しさを含ませる響きのそれが、感情が変わるだけでこうも変わるのだと初めて知った。あまり知りたくなかったけど。
「み……つい、サン………!?」
三井さんは誰が見てもわかるような不機嫌そうな顔で私を見下ろしている。しかも、いつも華麗なシュートを打つその手が私の頭を鷲掴みしているのだ。
「——あ? なんだ、木暮じゃねえかよ」
「え、知り合い……!?」
「初めまして。木暮って言います。三井とは古くからの友人なんだ」
「あらてのナンパかと思ったじゃねーか」
「ははは、きっとこの子かなって思ったんだ」
「………………ハッ!」
今気づいたとばかりに目を丸くした私だが、三井さんのご友人に会うと決まってから勤務中、上司に呆れた目で見られ続け、同僚のイライラゲージを溜めながら練習した、よそいきの大人しめで、優しそうに見えるよう意識した笑顔を思い出し、それを必死に取り繕うことに成功する。
「は、初めまして、名前と申します。三井さんにはいつもお世話になっております」
……決まった、とばかりに内心ドヤ顔を決める私だったが。頭は三井さんに掴まれたままである。
「……ほんとアホ」
「ん?なに、三井さん」
「なんでもねーよ……」
「……あ、あぁ、こちらこそ三井がいつもお世話になってます……(想像以上に愉快な子だな)」
なぜか二人に呆れられた私は、なぜだと心の中で嘆いたがそれも長続きしなかった。木暮さんと名乗る人物から「あ、これどうぞ」と差し出されたプレゼント。ジゴバのチョコ詰め合わせ(非売品)に声にならない叫びをあげて三井さんに抱きつきながら興奮と喜びを表現する。
「キャー!な、なんでジゴバぁぁぁ!!」
「実は影の支配者は俺なんだ。なんてね」
「ええ!?やっぱ三井さんの周りはセレブ!」
「ったく、木暮。持ってくんなっつったろ……」
「いいじゃないか、お近づきの印にさ」
ここ最近の自分の運はおかしい……推しとこんな関係になって、人生で一度手に入るかどうかわからないジゴバのお菓子が何度も手元に舞い込んでくるし。しかも無料で。しかもしかも、ジゴバの中でも特に人気なお菓子ばかりで金銭感覚はそのままに、自分の舌がおかしくなりそうだ。
普通のお菓子で満足できなくなったらどうしてくれるのか、責任をとってくれるのか、でも嬉しい!たとえ今だけだとしても生きててよかった、神様ありがとう……!
瓶すら可愛いジゴバ。この瓶も、一生の宝物だ。チョコの詰め込まれた瓶を胸に抱いて、スキップしながら三井さんの車に向かう私の後に続く三井さんと木暮さん。まるで、幼い子供でも見る視線だったが、それでもその表情は柔らかいからほっとする。
「どうぞ!木暮さん!」
「え……そこは逆じゃないのか?」
ささっと三井さんの助手席側のドアを開けて木暮さんに笑顔を向ける私に苦笑いをする木暮さん。
「ところで、名前ちゃんって呼んでも?」
「はい、もちろんです!木暮さんは下のお名前、なんて言うんですか?」
「下の名前?えっと、公延。木暮公延だ」
「きみのぶ……じゃあ、公延さんって——」
「ダメだ。木暮さんでいいだろ、別に」
「えっ!?三井さん、何かそれだと逆に他人行儀すぎませんかぁ?」
高い位置にある三井さんの顔を見上げて首を傾げれば、三井さんはさっきまでの柔らかい表情を崩して眉間に皺を寄せる。あ……馴れ馴れしいって意味かな。私ったら、なんて失礼なことを……!ジゴバに興奮して気が緩んでた!
「名前ちゃん、いいんだ。木暮で」
「へっ?」
「三井が嫉妬しちゃうから」
「ンなっ——!?オイ!木暮っ!」
「え?じゃあ……木暮……さん?」
「うん、そう呼んでくれよ」
ドアを掴んでいた手を、三井さんにくるりと逆に掴まれアッという間もなく助手席に自分が座っていて思わずぽかーんとする。そんな私に構わずに後部座席に木暮さんが乗り込み三井さんが運転席に乗り込んだ。え、今いったいなにがおきたの?
「名前といつもいく居酒屋でいいか?木暮」
「あぁ、任せるよ」
「安物の酒しかねーけどな」
「なにそれ!私の月一くらいの贅沢だったんですけど、あのお店……!」
「どこでもいいよ、今日は酒が目当てじゃないからな」
「まあ、料理はそこそこだぜ」
「そうか、楽しみだよ」
「いつも奢られる私は毎回金額にビビってるんですけどねっ……!!」
いくら私が遠慮しても、三井さんが容赦なく注文するものだから意味がない。最近は好みを完全に把握されつつあり最初は勝手がわからず私に任せきりだったのが今や個室に通されるなりメニューも見ずに勝手に注文される始末。
しかも、私がそのとき食べたいと思っているものばかりだからついつい箸もすすんでしまう。三井さん自身も大柄な体格のためかよく食べるため、私は少しずつたくさんの種類が食べられる。料理を残すことなく良心の咎めも感じずに二人きりなのにいつも大満足してしまうという心からの贅沢に慣れつつあり恐れ慄いてもいるのだが。そして三井さんの財布の紐の緩さにも戦慄するばかりである。
今日も今日とて馴染みとなったパーキングに車を停め、歩いてすぐの個室のある居酒屋の扉を潜れば馴染みとなった店員がすぐに個室に案内してくれた。そして気がついたら座敷にいつもは向かい合わせで座るのに、今日は三井さんの誘導で私は三井さんの隣に腰を下ろしていた。
現実に意識が戻ってきたときにはすでに三井さんが私のビールと自分の烏龍茶、木暮さんのお酒、そして料理を数品頼み終えていてやってしまったと頭を抱えた。
「毎度のことですが、すみません……」
「あ?謝られる理由なんてねーけど。いつも俺が注文すんだろ」
「そ、そうですけど……相変わらずおとこまえ」
ちょうど運ばれてきた飲み物に今度こそは気の利いた行動を!と意気込み「飲み物が届きましたね!」と言えば私を嘲笑うかのように長い手を伸ばした三井さんがそれぞれの前に配る。三井さんにはまったく悪気はなくむしろ善意100パーセントなのだが、それが更に私に追い打ちをかける。
「……女子力皆無ですみません」
「……は?なに落ち込んでやがんだ」
「いやいや違う。私が悪いわけじゃない!!三井さんの気がききすぎるだけで……」
「なんか今日のお前、いつにも増してめんどくせーな。すっげえ喋るし。まぁ、いつもだけど」
「グサッ」
「おいおい三井、あんま虐めるなよ」
そう言って木暮さんが笑顔で「乾杯、名前ちゃん」とグラスを合わせてくれた。あーあ、乾杯の音頭もイケメンセレブたちに持っていかれた。
そうこうしているうちに最初に頼んだ料理が運ばれてきて机に並べられた。いつも多いと思っているが今日は木暮さんもいるためか、さらに多い。
確認に頷いた三井さんを見て、笑顔でゆっくりと去っていく店員がきっちりと扉を閉めたのを見て今度こそ!と料理を取り分けるのに私は意気込んでいた。
「………よしっ!」
「ったく、盛りすぎだ。んでもって彩りがねぇ」
「えっ、……………あッ。」
「お前が食べたいもんだろそりゃ。もうそれはお前が食え、んで野菜も食え。ほらカルパッチョ」
「わー、カルパッチョ大好き」
「ほれ、あと生春巻きも好きだったよな?アヒージョはもーちょい待て、いま食えば火傷するに決まってんだからよ」
「三井さん相変わらず女子力高いですね」
「お前といると嫌でも高くなるっつの!」
「……三井、お前……」
「……あ? なんだよ、木暮」
「ううん、いいんだ」と俺は言葉を濁した。三井がこうしてリラックスモードで心を許した俺たち以外の人物と食事をするのは珍しい。完全にこの子には気を許していて自ら世話を焼いている様子に驚き、なんだか肩の力が抜けた。長年気にかけていた戦友であり親友のこれからの人生。本当に彼女に心を傾けていることに安堵する。
「……名前ちゃん」
「ん? なんですか、木暮さん」
「……これからも、三井をよろしく頼むよ。大事な友人なんだ」
「木暮……」
項垂れているところになぜかそう声かけられて、よく分からないけどなんだか満足そうな木暮さんに、はて?と思ったのは一瞬。認められたと直感で理解してむずむずとした気持ちが這い上がってきた。
「……はいっ!」
俺の三井に近づくな!なんて言われなくてよかった……!これからの三井さんとの交友関係を改めて認められた気がして私は本日初めて、いつもの気の抜けた笑顔を浮かべた。
こうして三井さんと食事をすることが恒例になってから私はお酒に弱い自分に自覚しているので、前後不覚になるまで飲むことはない。なんせ出会いが出会いだ。あんな醜態を見せるのはもうゴメンだ、と思う。覚えてないけれど。正常な思考のときは、確かにそう思っていた、の……だが。
「うふふー!みついさぁーん!やっぱりおっとこまえですねぇー!」
「はじまった……ほら、名前水だ。飲めよ」
「やっ!おさけくださいおさけぇ〜!おさけしかうけつけませーん!」
「だから……飲ませんなって言ったろ、木暮」
「……悪かった。まさかここまでひどいとは」
「みついさんがこぐれさんとはなすときってぇ、なァ〜んか、かわいーですよねー!」
「……はぁ」
「じんさんがまきさんとはなすときと、おんなじみたい〜!」
「………じんと、まき……?」
「木暮——っ」
三井がそれ以上は突っ込むなと言いたげに俺に対して首を横に振る、が……彼女が「そうなんですよぉ」と語り出してしまって時すでに遅し。
「わたしぃ、じんさんがすきなんですー。もう、ずーっっとまえからぁ」
「……」
「わたしをねぇ、たすけてくれたのがじんさんだったんですぅ、でもほんとはあのとき、わたしがじぶんからどうろにとびだしたんですよぉ……」
「——!」
三井も初めて聞いた話だったのか驚愕して彼女のほうを見る。牧と神とはやっぱりあの、元海南の二人のことだろう。そんな気はしていた、三井から話を聞いたときから。単純に清田繋がりでそうだろうと予測したという部分もあるけど。でも言った、彼女は確実にいま自分の口で——自分から道路に飛び出したのだ、と。
「——離婚したんです、うちの親……それで行きたかった、好きだった男の子と一緒にいこうって言ってた高校にも行けず、大好きな友達とも離れ離れになって関東に来ました」
「……」
「……」
木暮は当然、俺もはじめて聞く彼女の過去になんと声をかければいいのか分からない。俺は神との出会いは少し聞いていたけれど。だが、重い過去を打ち明けていたはずの彼女から飛び出す話は、段々育ての親に対する愚痴になってきていることに気付き、思わず木暮と目を合わせた。
「愛って——なんなんですかね?私の、神さんに対する気持ちは、愛なんですかね、」
「……」
「……きいちゃったんです、神さんの、きもち」
だから……と、彼女はあの日、神を諦め、そして神の傍から離れないと誓った、と続ける。
「神さん——こわいんですって。かぞくをつくることが」
「……それって、お前が前に言ってた幼なじみと関係があんのか?」
「私もそう思ってました。でもちがったんです、神さんがこわいこと」
「……は?」
「……お医者さんやってて、医者は神様じゃないって知って人が死ぬのって呆気ないって。だから家族は作りたくないって」
「……」
「でも、私がそばにいると温かくなるんだって」
だから神さんは私を受け入れられない。私が大切だから。失いたくないから……ずっと傍にいたいから——。
「……」
「……」
しゃべりすぎたと少し冷静になってきた頭の隅で思ったとき、三井さんが低いトーンで言った。
「——執着だろ、ンなもん。」
へ?と三井さんを見たら、真っ直ぐに私を見つめ返してきた瞳に思わず反射的に目を逸らしてしまったが、まだやはり頭がぼんやりとしている。あ、待って。トイレ行きたい、かも……。
「……すみません、わたしトイレ」
「おお……、一人で行けるか?」
「あいっ! 大丈夫れすっ」
「ほんとかよ……」
すくっと立って、トイレに向かうべく廊下に出た彼女を目で見送り、それを待って俺と木暮の二人きりの空間に沈黙が流れたあと木暮が得意の落ち着いた口調で話し出す。
「三井の言ってた事が理解出来た気がするよ」
「だろ?まあー、せめて一個でもあいつに勝てるもんがあればな」
「神か?そこは気にすることはないんじゃないのか?結局は落とした者勝ちだろ」
「なんか……オメェらしくねえ回答だな」
「え、そうか?」
「だってよ、俺は別にあいつの命を救ってもねえし。なんならホテル連れ込んでるしな、酔って」
「ああ……そうだったな」
「優秀な医者で将来有望ってわけでもねえ。俺はいまだけだ、いつまた怪我すっかわかんねーし」
「……」
「高校最後の海南戦も——負けてるしな」
「……」
俺は一杯くらいならいいかと、残り少なくなった彼女のビールを一気飲みする。それをじっと凝視していた木暮が目を伏せてメガネをくいっと人差し指であげてから、そっと呟く。
「——いや、あるじゃないか」
「は……?俺が神に勝てるものだぞ?なんだよ」
「 愛。」
「——!」
「……」
「おまえ………よく恥ずかしげもなく言えんな、そんな言葉」
「ははは、だって事実じゃないか」
「……」
—
その日の帰り道、先に木暮さんを駅に下ろしたあと何故か三井さんは私をあの埠頭に連れて来た。車を降りて三井さんが歩く後ろをパタパタと追いかける。
「名前」
私に背を向けたまま三井さんがそっと私の名前を呼ぶ。すっかり酔いが覚めてしまった私は、三井さんのすこし後ろに立ったまま「はい」と小さく返事をする。
「単刀直入に言う」
「……え?」
「——好きだ。」
「——、」
心が——乱れる。胸がざわめく。
なにか大きく、間違えてる気がして……
「お前と神の関係は知ってる、あいつに……惚れてんだろ?」
「……」
今更ながら思ってしまう。知られたくなかったって。やっぱり三井さんには知られたくなかった。知られたくなかったよ。だって私ほんとは神さんのこと……好きなのかな。
��——執着だろ、ンなもん。��
そう呟いた三井さんの言葉が蘇ってくる。神さんに執着しているのは、わたしなんじゃないかな、って。
神さんが命を救ってくれて、偶然また再会して——神さんが自分の命を救った人だって、正当化したいだけなんじゃないかな。もう、分からなくなってきた。
「ごめんな、俺がこんなこと言い出しちまえば、お前は俺にも清田にも、もちろん牧や神にも気を遣いはじめるって分かってんのに」
「……」
「俺は気にしねえからいままで通り、普通にこうして会ったりしてぇなって思ってる」
「……」
「木暮もまた、会いてえって言ってたし、もっとお前を紹介したい奴らがいるんだよ」
「……」
「でもお前がもう俺とは会わねえって言うなら」
「……ううん、わかった。ありがとう」
ややあって、三井さんが驚いた顔をしてこちらを振り返る。私は思いがけずきょとんとする。すると三井さんは「はぁー」と大きく溜め息をついてその場にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「——よかった」
「え……?」
「おれはもう……それだけで充分だ」
「——っ」
——どうしよう、うれしい。
��名前ちゃんがそばにいると温かくなるんだ��
っていう神さんの、あんな本気かどうかも分からない、結局わたしはどうしたらいいのか掴めない感情の見えない言葉なんかより、何倍も嬉しい。
家族になれない。家族は持つ気がないんだって、ハッキリと言われた人を想い続けて何になるんだろう。
神さんをここまで想い続けていなければ、さっさと何年も前に諦めていれば、わたし絶対に三井さんのこと好きになった。三井さんの彼女に、なりたかった。
でも、もしまた神さんから一緒にご飯に行こうって言われたら私は結局また行くんだ。ずっと傍にいてよって言われたら、拒めないんだ。
私はいったい、何が欲しいんだろう。
こんな流されてばかりじゃ……
きっと何も摑めない——。