ほら心臓だって抉り出せる

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  •  バレンタインだなんて。また、可愛らしい日もあったもんだ。しかしそんなものがこの炎の男、三井寿に通用するとでも思って?ふふん、そうよそうなのよ。クリスマスもバレンタインも、はたまたホワイトデーだってこの男にとってはただの日常にしかすぎないのだ。そんなの前から知っていた。何しろ私は三井寿と出会って今年で五年目だ。そんじょそこらの三井寿ファン一年目や二年目の奴等とは年期がちがうのよ、年期が。ええ、おばさんですよ。どうせおばさんですとも。ええい!何とでも言うがいい。老けてる分、誰よりも私は、三井寿という男を知ってるつもりだもの。


    「ミ、ミッチー。あ、あの!これもらってっ!!力作なの!」

     あの有名なNBA選手——流川楓選手ほどじゃないにしても、あそこまではさすがにモテるわけじゃないだろうけど、それでも三井寿にファンは間違いなくいる。この日本という狭い島国で男性の人口は35億——だなんて過去にコメディアンが言っていたけれど、じゃあ、単純計算でそれが人口の半分なのだとすれば女性の人口も35億という事になろう。そんな環境の中で職業がプロのバスケットボール選手でもあるこの男、三井寿は間違いなくモテているのだ。

    「おー、サンキュ」

     彼はにこやかに半年前くらいからよくこのスポーツバーに来るようになった女子の一人から可愛くラッピングされたチョコが入っているであろう箱を受け取る。しっかりと彼にそれを受け取ってもらえた彼女はそのまま元の席に戻って他の子達と「貰ってくれた」とか「キャ♡いい匂いした」とかコソコソ言いながらも、あきらかにここまで聞こえる程のボリュームでワイワイ騒いでいる。
     なんだ、その本命みたいなノリは……どーせ、お返し目当ての義理チョコのくせに。私は知っているんだぞ、初めてあなたがこのスポーツバーに来た日のことを——。

    『あれ?もしかして三井選手!?やっぱりっ!!やだぁ、ミッチーだぁ!!』

     と、あからさまに偶然を装った風にして、この横浜アルビレックスの選手御用達のスポーツバーにやって来た彼女。けれどこの三井寿という男は生粋の天然記念物≠ナあるからして、全くその下心丸出しな彼女の想いになんて気づいてもいなかったけど。きっと、今も知らないのだろう。
     三井寿——顔よしスタイルよし、しかも職業がスポーツ選手。そしてそして天然ときたもんだ。そんなの、モテ要素しかないじゃないか。

    「名字名前」

     名前を呼ばれてぎくり。しかも何故かフルネームという……とてつもなく恥ずかしい。うん十年と自分の名前と付き合っては来たものの突然フルネームを呼ばれてしまうと、急に小っ恥ずかしくなってくる……ので、私は無視することにした。

    「なァに隅に隠れてんだよ。こっち来いよ!」

     あーあ、なんだ。お見通しだったのか。私は、カウンターの一番隅に座って、顔を背けるように頬杖をつき天井からぶら下がっているテレビを見ていた。チラッと彼達が座っている卓を見やれば彼はこっちを向いて何故か溜め息をついていた。

    「なんで今日はそんなに元気ねーんだよ」
    「元気だよ」

     彼は「そうかー?」と首を傾げた。あのね……これは本当なの。元気は元気なんだよ?折角私が試行錯誤して今日の明け方までかかって作りあげた手作りのガトーショコラ——それを渡すぞって決意してほぼ寝ずに会社に行って、そうして今日はここに、意気込んで来たっていうのに。すでに目の前で何個もチョコを貰ってるのを見ていたらチャンスを逃しまくって結局渡す自信を無くしてしまって。今こそ!なんて思ったら、まるで本命さながらの緊張感でさっきの彼女が来たもんだから、ちょっと意気喪失してるだけ。
     まぁでも、あの彼女は目をつけた選手、みんなにそんな感じだっていう、ね。きっと寿くんは、いつも通り気づいていないのだろう。ちょっと前までは宮城さん、その前は南さん。そしてまた、現在は当初の推しだった三井寿に熱が戻ってきたらしい。言ってしまえば男好きってやつ。という負け犬の遠吠えですよ私なんて。はいはい、知ってますよ?これが、僻みだってことは。

    「さすが炎の男、モテモテだ。今年も相変わらず大量収穫だねー」

     私は足元に置いてあった自分の鞄の中に入っているガトーショコラの包み紙をチラ見しながら、目を伏せて言う。そうしてまたチラリと彼に視線を送ってみれば、彼は怪訝に眉を上げてみせた。

    「……なに、うれしくないの?」

     私が不思議に思って問うと彼はふっと微笑んでからゆっくりと席を立ち、そのままこちらに向かってきて、なぜか私の座っていたカウンター席の隣に腰を下ろし、さっきまで私が見ていたテレビの方を遠い目をするみたいにして見つめていた。テレビを見ているんじゃない。もっとその先の、どこか私の知らない世界でも見ているようなその視線。なんだか、胸が痛んだ。特に理由はない。

    「あんまり貰いすぎるとよぉ、お返しが毎年大変なんだよなぁ」

     はぁ〜あ、と彼は、溜め息をつきながら言う。お返し——たぶん彼のチームのスタッフ(きっと女の子)がせっせと用意するんだろうな。そしてそれをこの人はあたかも自分で選んで自分で買ったかのように、あなたを愛してやまない女子共に渡すんだ。そんなの……もう何年も前から知ってますよ。


     *


     私はもらいすぎて入りきらない手作りの物や、高価な百貨店にでも売っていそうな、見るからにバレンタインらしい派手な柄の包装紙に包まれたチョコレートたちが入っている彼の手に持たれていた大きな紙袋をチラッと見やる。

    「これ持って帰るのめんどくせーんだよな毎年」
    「いいじゃん。モテる男の特権じゃん」

     私は彼の少しななめ後ろをついていく。いつも行くスポーツバーからの帰宅路にはもう私達以外の人影は見えなかった。しんしんと冷える神奈川の夜。バレンタイン≠ネんてものがなければ、きっと一年の内で二月なんてイベント無しの寒いだけの一ヶ月じゃないか。いや、節分があるか。あと恵方巻き。私は断然そっちのイベントの方がお似合いだろう。いつだったか悪酔いして記憶を飛ばした寿くんに「恵方巻きみてェなツラして」って言われたことがあったな。あれってどういう意味だったんだろう。

    「——で、」

     彼が急に足を止めた。突然の事だったので頭がついていかなかった私は彼を追い越してからやっと立ち止まることができた。私はゆっくりと彼の方を振り返った。

    「お前はくれねーのかよ?今年は」

     彼が信じられない言葉を吐いている。一瞬頭が真っ白になる。そう——私は一年前も、もちろん二年前も、その前も、その前の年だってこの男にチョコレートを渡した。そして、しっかりとホワイトデーに他人が選んだのであろうお返しも受け取っていた。

    「あげないよ」

     私はそう言う。すると彼は、少し驚いたふうな表情をしてから下を向いてふっと笑いまた寒空の下を歩き始めた。

    「……ンだよ、そりゃ残念だな」

     そんなことを呟きながら、彼は私を通り越して行く。……なんだそれ、こっちの台詞だよ。残念なのは私の方だよ。なんだその態度は。私の立場はどうなるの。こうやって五年もあんたの後ろをストーカーの如くまとわりつく、女を捨てた私の意味を、あなたは知らないのね。そっか、意味がないとでも思っているのか。それとも、それすら知らないふりをしているのかも。

    「つーか義理でチョコ100個貰っても俺は嬉しくねーんだよなァ」

     彼はゆっくりと歩きながら静かにそう呟いた。私もそのまま彼の少し後からついて行く。私は何も答えない、何も言い返さない。その代わり彼が一人でぽつぽつと話し出した。まるで独り言でも言っているかのように。

    「一個でも本命貰えたらそれでいいんだけどな、俺は」

     軽くなった語尾に違和感を覚えながら私は彼の広すぎて逞しくて、ずっと……手が届かないその遠すぎる背中を、じっと見つめた。

    「ほんとに欲しい奴からは貰えねーんだけどよ」

     そのとき私は、自分の作ったガトーショコラの入った鞄を胸の前で抱き締めた。このまま、このまま投げ捨ててしまいたかった。彼が欲しいのは私からの、ガトーショコラなんかじゃないんだ。いたんだ。やっぱりいたのだ、三井寿にとって、ただ一人の本命の相手が——。
     ダサいよね、私ばかり焦って。こうして小さい事でも大きい事でも、私ばかりが傷ついている。しかも勝手に。彼が何かを言うたび、話すたび、脳みそをフル回転させている私は……本当に馬鹿みたいだ。

    「——だって、うれしくないんだもん」

     私は、数歩だけ手前を歩く彼の背中に向かって言う。けれども声に覇気がない。あるわけない、だって……彼には本命がいるのだから。五年経った今になって知ってしまったのだから。

    「チームの女の子が選んだお返しなんて貰ってもわたしは、ちっともうれしくない」

     彼の足は止まらない。ああ……これすら意味がないんだよね。当たり前だ、そんなの、分かっていたことじゃないか。私なんかが彼を想っていたところで彼の日常は変わらないし、気持ちなんてもっと変わるわけがない。何も変わらないんだ。私だけが苦しいのだ。私だけがこうして傷ついていくだけなのだから。


    「——わたしは、」

     そこまで言ったとき、ようやく彼の足が止まった。二度目の停止の後は、もう核心に触れたっていいでしょう?なんて、半ばヤケになって言ってしまおうって思った。だから、お願い。聴きたくないなら、止まらないで——。

    「寿くんしか、欲しくない」

     彼が振り返る。その顔は私をまるで哀れむかのような悪そうな彼らしい笑顔だった。ほらね……三井寿にバレンタインなんかないの。いつだってただの平日で、日常で。それこそ、人生で。私の想いなんて風に流されて消えていく。でもそれでよかったんだ。変に突き放されるより曖昧な方がずっとましだから。

    「ねぇ、寿くん」

     半分あきらめの気持ちで、彼を見上げた。彼が少しだけ目を細めて私を見下ろす。もう終わりにしよう。

    「——俺は、」

    できるかな、できるよね?しなくちゃ。もうこの報われない恋愛に、サヨナラを——

    「本命からのが一個でもありゃいーつったろ?」

     なのに彼は笑いながら、そんなことをぽつりと言った。そうして目を細めたまま、口の端をやや吊り上げた。……それを、なんで私に言うの。

    「そんなこと言うと、あげちゃうよ」
    「……」
    「無理やり……あげちゃうよ?」

     握り締めた本命ガトーショコラは無事ですか?今にも泣きそうな私は全然無事じゃないですよ。でもここで泣いたらダメ。さっきもう諦めるってもう終わりにしようって、サヨナラしようって、自分の心に誓ったはずなのに、泣いたらずるい。だからお願い——私の涙、もうちょっと待って。

    「おう」
    「おう、じゃないよ。味の保証、ないよ?」
    「ンな事は知ってらぁ」
    「えー、何それ」
    「何年お前からのチョコしか食ってねーと思ってんだよ」
    「え……?」

     三井寿ファンの一、二年目の奴等には、わかるまい。五年目の、この苦くて甘い傷みを——。
     しかし五年目の駆け引きは、どうやら成功したようだ。ただし、犠牲がでかすぎた。だって2月14日。突然降ってきたそのキスは——涙の味がしたんだから。










     夜にはもたべられる。



    (ねえ、恵方巻きみたいな顔ってどんな顔?)
    (あー、そうだな……縁起良さそうなツラ?)
    (何それ、意味わかんない)
    (俺、お前のツラ見ると試合勝てるんだよな)
    (えっ?)
    (なっ?縁起物だろ?)
    (天然たらしめっ……)

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