夢ならばここで終わらせて(3/4)


「……どうりでなぁ。なんかおかしいと思った」

 洋平くんがベッドに座って「はぁ」と溜め息をついた。びっくりして身体が硬直したままなのを感じながら私は彼の足元のフローリングに座る。思った以上の気まずさに洋平くんがすごく遠くに感じられる。
 時計を見ると、二十時を過ぎたところだった。メールを見せたのが十九時頃だったからあれから一時間ほどしか経過していないのに、なんという状況の変化であろうか。あんなに落ち込んでいたことも、今はなんの影響も持たないただの一通のメールでしかなかった。そのあと起きた出来事が私には衝撃的な事件過ぎたのだ。

「あの……洋平くん、」
「……」
「ひどいこと言って、ごめんなさい……」
「え? ああ、気にしてないよ。」

 目を伏せる洋平くんは本当にもう気にしてなさそうだったのでほっとした。けれど気持ちを知られて気怠そうな顔をされるなんて、なんか悲しくなる。でも彼の気持ちを想像するのは難しいことではない。この人が親友の従姉妹、しかも何年も前から世話を焼いて来た私からの好意に、戸惑ったり面倒に思うのは当然のことだ。絶対にこいつだけはありえない!と思う相手から好かれても、迷惑でしかないだろう。私に置き換えてみれば、例えば、花道くんから告白されるようなものかも知れない。洋平くんにとっては、ちょうどそれにあたるのかも知れないなと思った。もしそうだったら二度と来ないでと言い放ったこと以上に彼にストレスを与えてしまうことになる。

「洋平くん……ごめんなさい。」
「あー、もう。だから、気にしてないって。」
「いや、そのことじゃなくて……」
「ん?」
「その………好きに、なっちゃって……」

 壁に目をやっていた洋平くんがベッドに座ってから、初めて私を見た。鋭い目つきに細い眉毛、通った鼻筋。大好きだなぁと思った姿も今は知らない人みたく怖く感じる。まるで、初めて会ったときのように……幼少期ぶりに再会した花道くんから誕生日会に誘われ開催場所の居酒屋に入ったとき「花道の知り合い?」と目を細めて、怪訝な顔を向けられた、あのときのように——。

「べつに、謝ることじゃないだろ?」
「でも……洋平くん、もうここには……来ないでしょう……?」

 ここに来なくなったらそれが一番辛いなと私は思った。嫌な気持ちにさせてしまうことより彼が私を嫌うことより、ここに来なくなってしまう、永遠に二人きりになることがなくなってしまう。そう考えると背筋が凍るようだった。
 二度と会えなくなるということは、恐らくないだろう。花道くん絡みで、少なくとも遠目にこの人を見ることくらいはできよう。でもこの部屋に眠りに来る洋平くんや安心しきって膝に頭を乗せる洋平くん、優しく微笑みかけてくれる洋平くんジェラートを持って入って来る洋平くんには会えなくなる。そんなのはつらすぎる。とても耐えられない。そんなのは、仮免一発合格できないことより仕事で企画が通らないことより、洋平くんに最愛の彼女がいることよりも、ずっとずっと辛いことだ。

「そんなこと言ってないだろ……あーもう、泣かないでくれー」
「……、泣いてないけどねっ」

 泣いてはいないけども青ざめて涙目にはなっている、たぶん。

「いいから、はい。とりあえず、ここ座って」

 洋平くんが自分の隣を叩いたので私は一瞬呆然として立ち尽くしてしまった。隣に座れなんて、想定外の命令だった。お説教とかならまだ分からなくもないけど。血の気が引いた自分の頬に熱が灯るのを感じる。なんて忙しい顔なのだろうか。とりあえずおずおずと近寄ってベッドの端に少し離れて座る。自分の心の平穏のために、すこしの距離感は必要だ。会えなくなるのは死ぬほど嫌なくせに、ぴったりくっついて座る勇気はない。

「で? 名前ちゃんは俺にどうして欲しい?」
「……え?」
「ほら、言ってみて」
「ど、どーして、って……」

 洋平くんにして欲しいこと……髪を撫でたり、顔に触れたり、意味もなく見つめたり。あの人に許していることを、私にもさせて欲しい。しかしこのあと、お説教タイムが待っているかと思うとあまりうかつな事は答えられない。けれど少なくとも洋平くんが変に気を回して、ここを避けるという選択肢は無くなったように思われた。私には今はそれだけで十分に感じられる。
 嫌わないで、避けないで——いままでどおりにしていて。でもきっと数日したらもっと欲張りになっている。
 結局そのまま押し黙る私に、呆れたような顔で洋平くんが言った。

「え? なんもねーの?」
「……」
「好きだったら一個くらいない?付き合ってくれとか一緒に寝てくれとか、旅行つれてけーとか」
「………ぜんぶ。」
「へ?」
「ぜんぶ、して。」

 押し黙ったあとなのでなんだか変な具合に声が出る。全部。付き合うとか一緒に寝るとか、旅行とか。提案されたら全部して欲しくなった。もちろん断られて叱られるのはわかっているけれど。

「そのうち、全部して。」

 全部して欲しいし、私だけを見ていて。嫌なら諦めるけど言ってみるだけは許されるなら——。

「……へえ。」
「……」
「ははっ、いい根性してるなぁ。」
「……、」
「さすが。花道の血を引いてるだけはある」

 洋平くんが微かに笑う。黒い瞳に宿る光が呆れによるものなのか好奇心によるものなのか私にはわからないけれど。

「けどなぁー、なんつーの?俺には今すぐに名前ちゃんをそーいう対象に見ることは出来ない」
「……、うん」
「ごめんね、はっきり言っちゃって」
「う、ううん……」
「妹までとは言わないけど、まぁ……親戚くらいには思ってたからさ?」
「……うん。」

 ぽろりと落ちた涙は、悲しみによるものと言うよりも、抑えて抑えていた感情が蓋から漏れ出てしまって感極まったためによる生理現象のようなものだった。洋平くんが私のことをひとりの女として見ていないことくらい百も承知なことなのでそれほどショックではない。そのくらいのことは想定内だ。
 それでもいい。付き合うなんて、夢の中の話なことくらい私だってわかってる。もう大人なんだから。それでもいいからそばにいて欲しい。他に特定の女の子がいてもいいから。

「それでもいいって言うんなら……いいよ。」
「——え? いいの?」

 涙を拭いながら私がきょとんとしていると彼は膝に置いていた手を私の髪にやった。彼の繊細でしなやかな指が私の髪をすくう。

「いいよ、」
「……」
「全部、やってあげる」
「……」
「名前ちゃんの望むこと、ぜーんぶな。」

 そう洋平くんは言った。素早く洋平くんの上半身が動いて私の顔の前に洋平くんの顔が現れる。驚くことも忘れて、ぼうっとしているくちびるに彼のくちびるが音を立てて、ちゅっと触れた。

「……え、……!?」

 互いの顔に互いの影が伸びるほどの近い距離で彼の口角があがったのが見えて目はぎらぎらしていて、その顔がもう一度近づいた。
 今度はくちびるが触れず彼の舌がぺろりと私のくちびるの真ん中を舐めて離れて行った。まるで味見でもしたみたいに。

「………ぇぇぇえええええ!?」

 驚愕して体に血液がドクドクと大わらわで巡りはじめる。心臓がばくばくしている。顔が熱いし洋平くんは真面目な顔をしているし。え、いま、キスされた………の? え、どうして……。

「名前ちゃん」
「え、なに?」
「もしかして、キスも初めてとか言わないよな」
「——初めてです。」

 今ならなんでも自供してしまいそうな精神状態なので馬鹿正直に答えてしまう。洋平くんは私が想像していた通りうんざりしたような、はたまた困ったような顔で「そっか」とだけ言った。
 だって、ずっと好きなひとがいたから……そのひとのことを想い続けているのにどうしてほかの男のひととキスなんてできるのだろう?

「だって……しょうがないじゃん。する相手が、いないんだから」
「しょうがないじゃん……ねぇ」
「もう、声マネしないでよぅ」
「はぁ……名前ちゃん。」
「な……なに、」
「いや? 君に女性を感じるのはいつになるんだろうな〜、って」

 真っ赤な顔のままじっとしている私に洋平くんが、ふっと笑う。その優しく笑った顔が、ずっと好きだった。

「じゃあ、とりあえず寝よっか」
「え、寝る? あ、じゃあ私……下で……」

 そう言えば落ち込んだりゴタゴタしていたけど元をただせば彼は、家に寝に来たのだった。ふと我に返ってベッドから下りようとした私の手を、あの彼の手が掴んだのでぎょっとする。

「一緒に寝るの。そうして欲しいんだろ?」
「え……でもわたし、まだ、眠くない……」
「ハァ、頭痛くなるって。いい、そこで待ってて電気消してくるから」

 ベッドから起き上がった彼が、いつもそうするように豆電球だけを残して、照明を落とす。たちまちあたりがセピア色に包まれる。肌はより白く髪や瞳はより黒く——茶色っぽい照明に包まれた彼が振り返ってベッドに座る私を見た。

「ほら、そこに寝てください」
「え。あ、う……うん」
「違う違う、大の字になんねーで? 俺も入れてください」
「ヒィイ……へ、ヘンなことしないでよっ!?」
「ハァ……ヘイヘイ。ま、約束はできないけど」

 異様なほど素早く、洋平くんがベッドに入ってくる。壁にくっついてなるべく身体が接触しないように出来る限り縮こまっている私をうしろから「もっとこっち来てみな?」と腕が伸びてくる。彼の手が私の首に触れ、肩を抱き、髪を撫でた。

「——さ、寝ましょ」
「……」
「……、」
「……」
「名前ちゃん……」

 ぷっ、くくく、と噴き出す声と振動が、薄手の掛け布団を伝わって感じられる。洋平くんが笑っているのだ。たぶん私が震えているからだろう。

「ほんと可愛いなァ〜。俺に、捕って喰われると思ってんだ?」
「そ……そういうわけじゃないけどぉ」
「まぁそのうち慣れるさ。はい、こっち向いて」

 震えながらそっと寝返りを打って壁側から洋平くん側に身体を向ける。私の頭の下に腕を通してもう片方の腕で私の肩を抱いた彼の顔が目の前にあって目がちかちかした。睫毛、鼻筋、くちびるが整っているから。目が怖いから。なぜか笑っているから。
 ドキドキしながらもう一方では、どこか冷静な私がいる。震えてドキドキして怖がりつつ、期待している私。なんて馬鹿なのだろう。

 飼い犬だから優しくする。頭を撫でてキスして悪いことをしたらその手を引いてやる。大人しくしていたらご褒美をやる。あらためて私はずっとそうだったのだと思った。洋平くんにとって私は犬と同じであるに違いない。弱って癇癪を起しているからこうして宥めてくれているのだ。それにあの女の人。あの人みたいに扱ってもらうには、どうすればいいのだろう——。


← - 本棚 - →
VERTEX