初恋が最後の恋


 私はこの海浜公園によく訪れる。今日は天気もよく、とても静かな日だ。
 小腹が空いたので家を出て軽く買い物を済ませいつものベンチへ向かうと、左端に先客がいた。真っ黒なリーゼントヘアで今どき紙煙草を蒸かす治安の悪そうなお兄さんだった。ためらいつつも「隣、いいですか?」と声を掛けてみた。するとお兄さんは煙草を口の端に咥えてスマホに視線を落としたまま「どーぞ」と、やや低く掠れた声で答えた。
 お兄さんの右端に座り、有料のコンビニ袋の中からサンドイッチとパックジュースを取り出す。そのとき、お兄さんの視線に気付く。興味本位でパックジュースの絵柄を覗かれているに違いないそう思った。だってアンパンマンが描かれているから。けれども彼が覗いたのはパックジュースの絵柄ではなく、私の顔だった。

「名字——さん?」
「え?」
「やっぱ名字さんだ」

 目を悪戯っぽく細めて、下から覗き込むように身を屈めるその人は――。

「……水戸、くん?」

 そうだ。よく見るとそうだ。間違いなかった。水戸洋平――通称、水戸くんは私の初恋の人だ。
 中学二年のころ。水戸くんは転校生で、私とは同じクラスで隣の席だった。どことなく雰囲気が不良っぽくて、私とは住む世界が違うのだろうと思っていた。しかし毎日毎日その横顔を見ていて気づいたらいつの間にか目で追っていて、カッコイイなと思いはじめた。
 こっちを向かせたい。そんな独占欲が私の中で渦巻いた。これはきっと恋だ。思春期真っ只中。そう、あのころの私は、舞い上がっていたのだ。


 『……あの、水戸くん、好きです。』


 頭のなかがお花畑のまま、告白してしまった。放課後、人のいなくなった教室で。言われた水戸くんは、きょとんと私を見下ろしていた。

「あー……」

 目を逸らして考えるように呻く彼。フラれると思った。あっ、これは、告白され慣れている人の反応だ、と。

「じゃあ、付き合う?」

 しかし、なんということだろう。あっさりと、OKをもらってしまったのだ。これは夢か幻か何かだと思った。そうに違いない、って。

「……え、いいの?」
「うん」

 呆気にとられたのと同時になんというか、こんなもんなんだぁ〜、という気持ちさえ浮かんだ。
 けれども次の日、水戸くんには他に彼女がいることが判明した。しかも一人ではなく……二人も三人も。厳密な数は知らなかったし、知ろうともしなかった。彼とはとくに縁も所縁もなさそうな同級生から聞いた話だし、もちろん本人に確認もしなかった。


 『やっぱり無理ですごめんなさい』


 息継ぎもせず告白した場所とおなじ場所、人のいなくなった放課後の教室でお別れを切り出すと水戸くんは悪びれもせずに笑って告げた。

「名字さんって、そういうのダメ系な人なんだ」

 じゃあ無理だね、と、情けなく笑った彼の顔が今でもこの脳裏に焼き付いている。そんな感じで私たちは何事もなく終わった。きっと水戸くんの中では私のことを��元カノ�≠ニいう枠にカウントすらしていないと思う。
 それから数年。あの経験が痛手で……とは思いたくないけれど私はずっと恋をせず生きてきた。高校でも部活に入り大学でも一生懸命学問に励み今もこうして海へ来てもの思いに耽るほど余裕のある大人(?)に成熟したのである。

「よく元カレの隣に座れるね。気まずくないの」
「……ここが、私のベストポジションなので。」
「もし座ってるのがやばそうなオッサンでも?」
「そ、それでも、座ると思う……」

 たとえば、見るからに銀髪とか金髪とか。たとえば、シャンデリアみたいなピアスだらけのそういう系の治安の悪そうなお兄さんだったら違ったかもしれないけれど。

「ふーん。気を付けた方がいいよ、そういうの」
「まあ、わかってはいるけど、背に腹は代えられないといいますか……」
「ははっ、そんなに早く飲みたかったんだ、そのアンパンマンのジュース」

 気さくに話しかけてくる元カレ——水戸くんにパックジュースのストローを噛みながら相づちを打つ私。……って、なんで当時より会話が弾んでるの?私を覚えているだけでも驚きだったのに。いや、逆にそういうものなのかもしれない。取り留めない話ができるのは��遠い人�≠ノなったからこそだ。水戸くんとは高校が別々で、と言っても彼が無事に高校を卒業できたのかどうかは不明。成人式でも見かけなかったし、現に今の彼は私服だしその様になっているリーゼントヘアや慣れたようにタバコを吸っている姿を見ても残念ながら��真面目な好青年�≠ニは言いがたい。

「打ち込めるものがあっていいね」

 ふと、水戸くんがつぶやいた。彼の視線の先を辿るとそこには私の鞄からぶら下がるマスコットチャームがあった。Bリーグのチームマスコットが10番の背番号のユニホームを着ているやつ。そう私の現在の��推し�≠ナある。

「……逆に、愛だの恋だのに溺れなくなったし、今はこのチームの応援が、楽しいので……」
「……」
「逆に、って——なんか嫌味くさいね、ごめん」
「いや?うん、そういうの大事だと思いますよ」
「……。」

 水戸くんはただの不良で、女たらしだと思っていたのに、まさかそんな情緒を持ち合わせていたなんてすこし驚いた。勢いで告白するぐらいには暴走したくせに、私はこの人のことをなにも知らなかったんだなと、改めて思った。
 私は苦い顔をして、飲みかけのジュースを脇にこつんと置く。

「失敗?」
「うん。この味、初挑戦だったけど、ダメだ。」

 やや座る角度を変えて風景に目を凝らしたそのときだった。びょおっ!と強い海風が吹いてきて125ml入りの小さなパックジュースが飛びそうになった。

「わっ……!」

 慌てて押さえようとすると、それは水戸くんも同じだったようで——。ベンチの上で、手と手が重なった。

「……っ」
「……」

 目と目が合う。あれだけ焦がれた、真っ正面で端正な顔。こんなに至近距離でこの人を見たことはない。どきんと胸が高鳴り、顔に熱が集まる。

「あー……。悪い。乱暴に押さえちゃったな」

 水戸くんがすこしぐしゃっとなったパックジュースから手を離す。見るとストローから飛び出たジュースで彼の手が汚れてしまっていた。

「あっ……」

 慌てて鞄の中を探りウェットティッシュを取り出す。そのまま水戸くんの手を取り拭く。まるでお母さんが、子供にやるみたいにして。そのとき水戸くんが「また10番?」と笑った。きっとウェットティッシュのシールを見てそういったのだろうと思った。御名答、そのウェットティッシュは紛れもなく、試合観戦のときに入り口で配られたノベルティだったから。もちろん推しの背番号が印字されたものをもらった。
 しかし私はすぐに息を飲んだ。水戸くんの手のひらには、傷痕があったのだ。生命線と運命線を分断するように太く、短い線が。それはまるで、カッターの切り傷のような痕だった。

「ありがと……自分でやるよ?」
「あっ、え……でも、」
「てかべつに、このままでいいさ」

 水戸くんは儚げに笑って柔く私の手を離した。中学のとき——水戸くんと一日こっきりで別れたあと。席替えや、学年も変わりクラス替えを経て接点さえも一切なくなった。

「ね、ねえ……水戸、くん……」
「……」
「……な、なんで……」

 三年の水戸くんのクラスは、ずいぶんと荒れたクラスだった。彼の行った湘北高校も不良校だと聞いた。暴力沙汰——しかも流血騒ぎを起こしたなんていう噂もあの当時よく耳にした記憶。

「なんで、水戸くんは――……」

 私は、なにも知らなかった。違う、知ろうともしなかったのだ。
 もしもあの日、あなたに出会っていなければ、こんなに苦しくて、こんなに悲しくて、こんなに切なくて、こんなに涙が溢れてくるような想いはしなかったと思う。けれど——

「なんで私の告白、OKしたの?」
「……」

 けれど——。君に出会ってなければ、あんなに嬉しくて、あんなに優しくて、あんなに愛しくてあんなに温かくて、あんなに幸せな気持ちを知ることは出来なかったよ。たとえそれが、一日限定だったとしても。

「必死で余裕のない感じが、なんか、可愛かったから……かな。」

 あ、日が暮れる。そろそろ海の景色が変わる。海風を縫って降ってくる、優しくも色気を帯びたその声。

「……そう、だったんだ……」

 私にはそれを受け止める器すらなかったんだ。
 そのとき、まるでタイムリミットを告げるかのように、水戸くんのスマホが震えた。

「——じゃあね、名字さん」

 スマホをポケットにしまって彼は立ち上がる。ポン、と。去り際に、頭に手を乗せられた。傷も汚れもない、綺麗で繊細な左手の方を。私は声を絞り出す。

「……。じゃあ、ね。」
「頑張ってね」
「え……。なに、を……?」
「ん? その、チームの応援?とか、いろいろ」
「……うん、ありがと。」

 水戸くんの後ろ姿は見ていない。私はおもむろに、鞄にぶら下がったマスコットチャームに目を落としたままだったから……さあ、日が暮れる。風も冷たくなる。私も、そろそろ帰らなきゃ。
 脇に置いた美味しくないパックジュースを手に取る。半分くらい残っていたはずの中身が三分の一ほどになっていた。きっとさっき、水戸くんの手にかかってしまったからだろう。

「……っ、」

 手が重なり、目が合った瞬間を思い出す。
 胸の奥が疼いて潰れたパックジュースを持ったまま手で顔を覆ったら微かに、パックジュースの人工的な紙と、水戸くんの知らない匂いがした。










 ただ 海 を、見に来ただけ。



(気づいてないのかな、10番が誰なのかって……)


※ image song『 恋/Uru 』


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