明日よりは名にてぞ呼ばん


 会社という場所は、どうしてこうも、光と影の落差がくっきりと残酷に浮かび上がるのだろうかと私はいつも考えてしまう。若い後輩が失敗してはそれを庇い、帳尻を合わせるのは決まって私の役目になってしまいその繰り返しがまるで出口の見えない回廊を歩くように私を疲弊させていく。けれどもそんな私の隣にはいつだってゆるやかに笑みを浮かべながら支えてくれる人がいた。
 水戸洋平くん――私が心のなかで、その名前を呼ぶとき、ほんのすこし呼吸が浅くなる。けれど彼は決して、私を名前では呼ばない。ただ職場で当然のように苗字で呼び、その余韻をやわらかく響かせて口にするだけでそこには一定の距離感とけれども確かに感じ取れる優しさとが、同居していた。

「おいおい、大丈夫かー?」

 オフィスに差し込む午後の光はやわらかく床に広がり、その中で彼は、肩にかけたジャケットを無造作に椅子へと放りながら私の机に手をかけて覗き込んだ。

「今朝の件、また全部引き継いだんだって?」

 その眼差しはどこか茶化すようでいてけれども深く、私の沈黙の奥底まで見透かしてしまうかのようだった。

「誰から聞いたの……?」
「んー、隣の部署の男の子?」
「……まあ、慣れてるからね」

 そう答えながらも声の奥には隠しきれない倦怠とどうにもならない諦めが沈殿していて、それを聞いた彼がふっと息を抜くように笑った。

「慣れるなよー。そういうのさ、俺のとこに回しといていいぜ? ま、名字さんほどのスピードで片付けられるかはわからんけどな」

 彼の声音には不思議と押しつけがましさがなかった。ただ軽く心に余白をつくるように差し出される言葉は、日々の中で乾ききっていた私の心を少しずつ潤してくれるものだった。
 机に散らかった書類を彼が片手でまとめていくその手の甲に見える血管がなぜかひどく印象的で目を逸らすことができなかった。まるで、些細な仕草ひとつにさえ長い年月の中で培われた確かな強さや優しさが、刻み込まれているように思えてしまうのだ。

「洋平くん」

 呼んでしまってから、胸の奥が少し熱くなる。

「ん?」

 何でもないとごまかそうとした私を彼は優しげに見た。その笑みは出会った頃から変わらない。飄々としていて、それでいて人を安心させる力を持っていた。
 オフィスの窓の外では街路樹の葉が風に揺れ、光を反射してきらきらと踊っている。目を細めてそれを眺めながら私は思う。どうしてこの人は、こんなにもさりげなく私の弱さを許してくれるのだろう。どうしてこの人の背中はこんなにも自然に頼もしく映るのだろう。そしてどうして私は、名前を呼ぶだけでこれほど心が波立ってしまうのだろう、と。

 その日もまた私は机に広げられた資料の山と、背後であれこれ言い訳を繰り返す若い後輩の声に内心で小さく、歯噛みしていた。どうしてこうも毎度毎度最後に矢面に立たされるのが私なのだろう。抑えきれない苛立ちは指先からペンの先へと滲み出し、メモ用紙の文字は、いつもよりも深く刻まれていく。そんなとき隣の席からガラガラとキャスターの音が近づいてきた。横目でちらっと見やれば、洋平くんが椅子に座ったまま無造作にこちらへ移動してきて背筋を軽く傾け、私の耳のすぐ近くで声を落とした。

「あいかわらず、尻拭いさせられてんなぁ」

 唐突に届いた低めの囁きに肩が小さく跳ねる。息を吸い込んだ瞬間ふわりと鼻先をかすめる匂いに思わず目を瞬かせた。煙草の残り香と彼自身の体温が混じったような、どこか甘くて、落ち着く香り。思考がほんの一瞬止まり、胸の奥で鼓動が早鐘を打つ。

「こりゃ尻拭い手当てでも貰わんと、やってらんないだろー」
「あ……洋平くん」
「ん?」
「タバコ、吸ってきたでしょ」

 社内禁煙のルールを知っているからこそ咎めるように口を尖らせてみせると彼は、「げっ、バレた?」と眉をひょいと上げ、わざとらしく驚いてみせた。その顔には確信犯の笑みが浮かんでいて怒りを持続させようとしていた私の頬は、思わず緩みそうになる。

「それにしても、あの子いい性格してるよなー」

 まるで同じ側に立って見ているような言葉を、洋平くんは、さらりと投げかける。敵意も皮肉も混じらないその声音は、ただの観察のようでいて妙に、味方の匂いがした。机に散らかった書類を前に苛立ちと疲労で重くなっていた肩から、少しだけ力が抜けていくのを感じる。彼はほんとうにいつもこんなふうに絶妙なタイミングで現れて、私の中に溜め込んだ感情をほどいていってしまうのだ。

「あの子さぁ、すみませんも言わないんだよ」

 声に出した瞬間、胸の奥で渦巻いていた怒りが少しだけ形を得て、机に置いた両手が、かすかに震えた。

「あー、わかる。あれはなかなか図太いよなー」

 洋平くんはわざとらしく眉を上げまるで珍しい生き物でも観察しているみたいに、肩を揺らして笑った。

「ねえ、笑い事じゃないよぉ……私さ、何回同じことで謝ればいいの」
「はは、たしかになー」
「いつも私が先方やら、経理に謝ってるんだよ?もう、意味わかんない」

 呆れにも似た吐息を混じらせて言うと彼は椅子の背もたれに片肘をかけながらこちらを覗き込みその表情をほんの少しだけ和らげた。

「でもさ、名字さんが謝ると、なんか本当に収まっちまうんだよなー。不思議なもんで」
「……褒めてるの、それ?」
「え、褒めてる褒めてる。俺じゃ絶対無理だし」

 不意に差し込まれた肯定に、心のなかで揺れていた怒りの芯が、じんわりと別の温度に変わっていく。からかい半分に聞こえるのになぜだか本気でそう思ってくれているような響きがあって視線をまっすぐ受け止めることができずに私は机上の書類へと視線を落とした。

「……洋平くんは、ずるいよね」
「え、びっくりした。なんで? 急に?」
「そうやって、こっちの気持ちを軽くしといて、自分は何でもないって顔してる」

 彼は一瞬きょとんとしたあと、すぐに唇の端を歪めて「まあ、そういう役どころなんで」と軽く答えた。その無責任そうでいてけれども誰よりも気を配っている姿に胸の奥がじんわりと熱を帯びる。鼻先にまだ残る煙草の匂いが、妙に彼という存在の輪郭を鮮やかにしていた。

 例の後輩の尻拭いで押しつけられた地獄のような電話対応がようやく終わり受話器を置いた私の耳にはまだ、鈍い残響が残っていた。散らかった資料を一枚ずつ片づけていたそのとき、彼女が、背後で、やけに楽しげな声を弾ませて言った。

「水戸さ〜ん、私も��洋平さん�≠チて下の名前で呼んでいいですかぁ〜?」

 その場の空気が一瞬薄く揺れる。手元の書類を抱えたまま私は、息を止めてしまった。彼がどう答えるのか無意識に耳を澄ませている自分がいた。洋平くんは「お、おう?」と間の抜けた声を漏らし、眉をかすかに寄せて苦笑した。

「いやぁ、それは……ちょっとやめとこっか」
「えぇ〜、なんでですかぁ〜?」
「えーって。んー……なんて言うんだろ、なんか呼びにくいし。ミトの方がほら、短い」
「え、なにがですかっ?」
「んー、文字数?」
「え〜、でもだって名字さんは下の名前で呼んでるじゃないですかぁ〜」

 後輩の軽い口調に、私は心臓を鷲掴みにされたみたいに脈を早めた。洋平くんはちらとこちらを横目に見て、それから後輩に向き直ると肩をすくめて笑った。

「それは、まあ……名字さんだから、ってやつ」

 やんわりとした声音で、けれども、はっきりと牽制するように告げられた言葉は空気をさらりと和ませながらも、それ以上を許さない確かな線を引いていた。後輩の女性は「えー不公平〜」と、唇を尖らせただけで深くは追及しない。その軽い抗議が遠ざかるのを横目に私は書類を抱え直した。胸の奥では静かに火照るような感情が滲んでいる。
 ��名字さんだから�≠サの一言がずっと頭の中で反響していた。

 その日の定時を少し過ぎた頃、パソコンを落として片づけをしていると「あのさ?」と、不意に隣から声がした。

「ちょっとさ、帰り付き合ってもらえない?」

 顔を上げると、洋平くんが立っていた。いつもなら「おつかれ」だけで帰ってしまうのに珍しくそんな言葉をかけてくるものだから、一瞬、胸がざわつく。

「え?」
「桃、好きって言ってなかった?」
「あー、うん……」
「知り合いから箱でもらったんだけど、さすがに一人じゃ運びきれなくてさ。手伝ってもらえたら助かる」

 下心など微塵もなくただ当然のように差し出される頼みごと。けれどそれがかえって胸を温かくし、頬の内側にじんわり熱が広がっていく。

「……いい、よ。桃の、ためなら」
「ははっ、助かるわ。恩に着る」

 会社を出て、並んで歩く帰り道。夕暮れの光が街路樹を黄金色に照らし長く伸びた影がふたりの足元で重なった。荷物を片手に抱えながら私は、ふと日中のことを思い出し、半分わざと軽い声を作る。

「そういえば、さぁ……」
「んー?」
「名字さんだからって、言ってた、よね?」

 横を歩く洋平くんは、すぐには答えずに、口の端を上げて笑っているような表情を崩さぬまま、前を見ていた。

「んー、言ったな」
「ほんとに……不公平って、思われちゃうよ?」
「あー、べつにいいんじゃないかー? 不公平なくらいで」

 余裕のある声音。肩越しに投げられたその一言に、思わず心臓が跳ねる。彼の声には照れもごまかしもなく、ただ当然のことを述べているような落ち着きがあった。

「……ずるい。」

 小さく漏らした呟きは夕焼けに紛れて聞こえなかったふりをされる。その余裕の笑みがかえって胸を掻き立てるのだと気づいてしまいながら私は彼の横顔を盗み見ることしかできなかった。
 会社から少し離れた住宅街の角を曲がったところで彼は、手にしていた段ボールを片手に軽々と持ち直した。二人で分けて運んでいたはずなのに気づけば私の手は空になっていて、思わず、足を止めてしまう。

「ちょっと、待って。重いでしょそれ」
「平気平気」

 彼はあっけらかんと笑い、片手でひょいと肩に箱を乗せる。筋肉を誇示するような素振りではなく、ごく自然に身についた力強さで。
 夕暮れの風に混じって、少し残る煙草の匂いと彼自身の匂いがかすかに漂い、胸の奥が静かに波立つ。

「桃は冷やして明日食べな。甘いからたぶん元気出る」

 軽く告げられたその一言は何気ないようでいて私の弱った心を、まっすぐに撫でていくみたいに響いて言葉が出てこなかった。彼は気づかぬふりで歩を進め私は小走りで追いながら、ふと横顔を盗み見る。夕焼けの残光に縁取られたその横顔はいつもの飄々とした笑みを浮かべていて、それがどうしようもなく安心を呼んだ。
 名字さんだから――。その言葉と同じように、きっとこの優しさもただ私だから向けられているのだと信じてしまいたくなる。
 大きな段ボールを片手で担いだまま洋平くんは何気ない調子で言った。

「このままウチ寄ってってよ。全部は持って帰れないだろ、冷蔵庫に入れとくから」
「え……」
「食いたくなったら、いつでも取りに来て」

 唐突に差し出された提案に心臓が跳ねる。けれど彼の声音には一切の含みもなく、ただ実用的な選択肢として口にしたのだとわかる。それでも、胸の奥が妙に熱くなっていくのは私自身の勝手な期待のせいだ。
 住宅街の奥へと進むと、彼のアパートは思っていたよりも素朴で、どこか、居心地のよい匂いの漂う場所だった。彼がドアを開けて先に靴を脱ぎ段ボールを台所の床に降ろす。

「ねえ、冷蔵庫……ちょっと大きくない?」
「え?ああ、まーね。いっぱい食う奴いるから」
「あ、なるほど。だから冷蔵庫に入れておくって言ったのか」
「そーそー」

 冷蔵庫の扉を開けて、彼は片手で桃を数個取り出しながら言った。

「ほら、これ持って帰りな。今日のやつ、冷やすのはこっちでやっとくから」
「え……そんな、いいの?」
「いいよ。俺ひとりじゃ絶対食いきれねぇし」

 軽やかに笑いながら、桃をビニール袋に詰めて渡してくる。その仕草は会社で見せる頼れる同僚の顔とも、街で見かける不良上がりの男とも違うどこか生活に馴染んだ柔らかさを帯びていた。
 受け取った袋は手にずしりと重く、それ以上に心がふわりと満ちていく。

「……ねえ、洋平くん」
「んっ?」
「やっぱり、ずるいね」

 唐突にこぼれた言葉に、彼は目を瞬かせ、それからすぐに笑みを深めた。

「またそれ?俺、ずるいキャラで通すつもりないんだけどなぁー」

 冗談めかすように返されても、胸の奥ではもう少しだけ特別に触れ合えたような気がして言葉を重ねることはできなかった。
 窓の外には夏の夜気が忍び込むように暗がりが広がり、街灯に照らされた桃色の果実が袋の中で静かに、光を宿していた。袋に入った桃を片手に提げながら玄関へと向かう。靴を履き終えた私の背に洋平くんの声があまりに自然に降ってきた。

「じゃあ……また明日。」

 その言葉は会社で日常的に交わす挨拶の延長のようで、軽く風のように通り過ぎていく。けれど私の胸には、その響きがやけに深く沈み込んで、足を止めてしまった。
 また明日――たったそれだけなのに、まるで、当たり前のように彼と私の明日がつながっていることを告げてくる。私にとっては、特別に思えてしまう響きが彼にとってはただの習慣の一言なのかもしれない。その温度差が、胸の奥に切なさと同時に、奇妙な甘さを残していった。

「……うん、また明日ね。」

 笑って返す声は思ったよりも震えていた。洋平くんは特に気づいた様子もなく片手を軽く上げて見送る。その仕草は、昔からそうしてきたような馴染んだ動作で、そこに特別な意図はないのだと知りながらも私は心のどこかで勝手に色をつけてしまう。
 夜の街に一歩踏み出すと、ひんやりとした風が頬を撫でた。手に提げた袋の中で桃が一つころりと転がる音がして私は思わず目を細める。きっと明日もまた同じように、彼と職場で顔を合わせるだろう。けれどさっきの「また明日」が耳の奥に残る限り、その当たり前の明日がひどく愛おしいものに思えてならなかった。


 *


 翌朝。まだ冷たい空気が残るオフィスに入ると蛍光灯の光が白々しく机を照らしていた。いつもの席に腰を下ろしパソコンを立ち上げようとしたそのとき、背後から軽やかな声が降ってくる。

「おはよ」

 何の含みもなく何の気負いもなく。洋平くんのその一言は昨日の玄関先で聞いた「また明日」と同じように、ごく日常のものだった。けれど私の胸はたったそれだけでざわついてしまう。まるでその声に触れただけで、心の奥底が水面のように波立つのだ。

「……おはよう。」

 努めて平静に返したものの喉がわずかに乾いているのが自分でもわかる。
 と、そのやり取りを遮るように甲高い声が近くから響いた。

「水戸さぁ〜ん!この資料なんですけどぉ、ちょっと見ていただいていいですか〜?」

 振り返らずとも誰の声かはわかる。例の彼女だ。視線を向ければ彼の机に身を乗り出すようにしてあからさまな笑顔を向けていた。洋平くんは困ったように眉を下げながらも「おう、ちょっと待ってね」と軽く応じる。その声音には私の時と同じ柔らかさがあるように聞こえて胸がわずかに痛んだ。
 理性では理解している。彼は誰に対しても分け隔てなく接する人だ。特別な態度を見せるはずもない。けれど頭でわかっていても、感情は勝手に嫉妬の色を帯びていく。机に置いた指先に、力がこもる。キーボードの上で、ただ手を止めていることしかできずにいる自分が情けなくて、それでも彼の背中から目を逸らすことができなかった。
 「また明日」と約束してくれたのは、確かに私だった。けれど、その特別さが揺らぐ瞬間を見てしまうたび心は静かに、苦しく軋んでいくのだ。後輩の甲高い声と、それに応じる洋平くんの低い返事がオフィスの空気に軽く弾んでは消えていく。しばらくして彼女が満足したのか、手にした資料を抱えて自分の席に戻っていった。室内には再びキーボードの音とコピー機の低い駆動音だけが残りさっきまで騒がしかった空気が嘘のように沈静する。
 私が画面に視線を戻したその瞬間、不意に机の端へ影が差した。

「……あの子さ、さっきの案件、また名字さんに飛ばしてくるぞー」

 小声でぼやくように言いながら洋平くんがいつの間にか立っていた。彼は、軽く片肘を私の机にかけ、さっきまでの気の抜けた笑みをほんの少しだけ、険しいものに変えている。その表情を見ただけで胸の奥に張りつめていた嫉妬の膜がゆるみ息が吸いやすくなる。

「……よくわかったね」

 思わず苦笑混じりに返すと、彼は肩をすくめて目を細めた。

「見りゃわかるよ。あんな調子で頼まれたら断れねえだろうなーって、名字さんは」

 半分呆れ、半分優しさの滲んだ声音。その瞬間胸の奥に静かに沁みていくのは彼が私を理解しているのだという確信だった。

「……洋平くん、今日もずるキャラ健在だね」

 ふと零れた言葉に彼はにこっと笑って、わざと大げさに両手を広げて見せる。

「ほらぁ、また言われた。もうこうなったら俺、ずるキャラで押すしかないなー」

 その余裕のある笑顔に、心のざわめきが次第に溶けていく。オフィスの空調の音の中で、ふたりだけに通じる温度の違う時間がさりげなく確かに存在していた。
 時計の針が十二を少し回った頃——オフィスのざわめきが昼休みの気配にゆるんでいく。お弁当を取り出そうかどうか迷っていた私の机にひょいと影が落ちた。

「気分転換に、外で食わない?」

 洋平くんはいつもの調子でそう言いながら首を傾ける。その何気ない誘いがまるで呼吸のように自然で、断る理由など一瞬で消えてしまう。
 オフィスを出て街に出れば、夏の光が白くアスファルトを照らしている。駅前の定食屋に入ると彼はメニューを開きもせずに店員に声をかけ私の分まで当然のように注文を済ませた。

「……え、頼んじゃったの?」
「うん」
「えー」
「えー、いいじゃん。どうせ好きそうなやつだって」

 たしかに、運ばれてきたメニューが好きそうなやつで驚いた。もしかして彼はエスパーかなにかなのかもしれない。

「なっ? 好きそうだっただろー?」

 そう笑って箸を割る仕草の自然さに、胸の奥がじんわり温まる。
 昼食を頬張りながらも頭のどこかでずっと引っかかっていた問いが、喉の奥で渦を巻いていた。彼は誰にでも優しい。けれど時折私にだけ向けられるように思える特別な眼差しや言葉があって、それがただの錯覚なのかどうかをどうしても確かめたかった。湯気の立つ味噌汁を口に運んだあと思い切って声を落とす。

「あの……洋平くんってさあ、」
「ん?」
「いま……彼女とか、いるの?」

 箸を持った彼の手が一瞬だけ止まった。わずかに驚いたように目を瞬かせてけれどすぐに口角を上げ、いつもの余裕ある笑みを作る。その反応に私は心臓を握られたような感覚を覚えながら彼の答えを待っていた。箸を止めたまま洋平くんは、ほんのわずかに目を細め、天井の隅に視線を泳がせた。笑っているようで、からかっているようでそれでもそこには少しだけ、素の気配が混じっている。

「……今は、いないなー」

 さらりと告げられたその一言に胸の奥で何かが小さく弾ける。けれど彼は続けて、味噌汁の椀を手に取り、何気ない調子で付け足した。

「でも、まあ……近々できたらなって」

 曖昧で、揺らぎを残す言葉。冗談めかしているようにも聞こえるし本気の響きを隠しているようにも思える。私は返事を探そうとして、喉がひりつき、箸の先を持ち上げる手がわずかに震えた。

「……へえ、そっか」

 ようやく絞り出した声は思った以上にかすれていた。彼はそれ以上深追いせず軽く肩をすくめて「そっ」とだけ笑う。その余裕の笑顔がかえって言葉以上のものを孕んでいるように見えてしまい心臓が強く跳ねる。昼下がりの定食屋のざわめきのなかで、ふたりのあいだだけ時間が少し歪んだように感じられた。
 近々できたらな――その言葉が誰を指しているのか考えたくても怖くて私はただ味噌汁の湯気に視線を落とすしかできなかった。

 そして彼は、会計のときも当たり前のように、財布を出して支払ってしまう。またもや驚いて、言葉を挟む隙もなく、彼はレシートを丸めてポケットに放り込んだ。

「洋平くん……」
「ん?」
「……ありがとう。ご馳走様。」
「え、いいって。だって俺の気分転換に付き合わせてんだからさ」
「……」

 この人……本当に誰にでもこうだとしたらもうそれは特級呪物並みではなかろうかと少しだけ、不安になった。
 食後、定食屋の自動ドアを押して外に出ると、昼下がりの陽射しが一斉に降り注ぎアスファルトは白く眩しく光っていた。街路樹の影が濃く落ちる歩道を、並んで歩く。蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、熱を帯びた夏の空気に溶け込んでいく。
 洋平くんはスーツのポケットに片手を突っ込んだままもう片方で額の上に手をかざし、日差しを遮るようにして空を見上げた。

「……まあ、名字さんは違うだろうけどな」

 唐突に落とされた言葉に思わず足が止まりかける。「えっ?」と聞き返す前に彼は口角を上げ、眩しそうに目を細めたまま歩みを続ける。

「ほらぁ、彼氏作りたいとか、そういう感じじゃないだろーって」

 冗談のように軽い調子で言われても、その裏に何かを隠しているような気配が滲んで、胸の奥が静かにざわついた。

「……うーん……う、ん?」

 精一杯取り繕ってそう返すと彼は「だろ?」と笑い、肩を小さく揺らしてみせた。その余裕ある態度に言葉以上のものを読もうとしてしまう自分がいて視線を足元の影に落とす。アスファルトに並ぶ影は、まるで一つに重なろうとして、微妙な距離を保ちながら揺れていた。その曖昧な距離感が、いっそうもどかしく、愛おしいものに思えてならなかった。
 午後の仕事に戻ってからも胸の奥のざわめきは一向に静まらなかった。昼下がりの陽射しの下で彼が何気なく言った私は違うだろうけど、という一言が耳の奥にしつこくこだまし続けていたからだ。冗談めかしていたようでいて、冗談にしては妙に重く、かといって本気だと認めるには曖昧でその境界を読み解けないまま、時だけが過ぎていった。
 気づけばオフィスは一日の終わりを告げる静けさに包まれ、同僚たちが次々に帰り支度を始めていた。私は机の上の書類を整えながらも、頭の中ではまだ、彼の言葉を反芻していた。そんなときだった。

「おつかれ」

 すぐそばから声がして顔を上げると洋平くんが椅子の背に腕をかけながら、こちらを覗き込んでいた。光の落ちた室内でその笑みだけが不思議と軽やかに浮かんでいる。

「今日もだいぶ残ってたな。一緒に帰る?」

 あまりにも自然に投げられた言葉は提案というより習慣のようで断る余地すら見つけられない。驚いたように瞬きを繰り返す私を見て彼は口角をさらに上げた。

「ちょうど駅まで同じだし。荷物多そうだしさ」

 理由を重ねる声音は軽く、それでいて不思議な説得力を持っていた。気づけば私の指先は無意識にバッグの持ち手を掴んでいて、首はまるで操られるみたいに素直に縦へと動いていた。

「……お、願いします。」
「よしっ、じゃあさっさと出よ」

 出口へ向かって歩き出す彼の背中を追いながら昼間の一言がまた蘇る。
 ――まあ、名字さんは違うだろうけどな。
 本当にそうなのだろうか。違うと思っているのなら、どうしてこうして当たり前みたいに、隣を許してくれるのだろう。
 夕暮れの街に出ると夜風が頬を撫で、すれ違う人々の喧噪が微かに耳をくすぐった。彼の歩幅に合わせて並んで歩くその時間は曖昧な答えを抱えたままでも不思議と確かな温もりを帯びていた。街灯がひとつ、またひとつと灯り始める時間帯。駅へ向かう通りはまだ人通りが多く買い物帰りの家族連れの笑い声や自転車のブレーキ音が交じり合っていた。私たちは、その喧噪のなかを並んで歩きながらぽつぽつと他愛ない話を交わしていた。けれど、ふとした沈黙に耐えきれず私は自分でも驚くほど不器用な声で、口を開いていた。

「……昼の話、気になってて」

 横を歩く洋平くんがわずかに首を傾けてこちらを見やる。その表情は街灯に照らされて柔らかく視線に捕らえられるだけで心臓が跳ねる。

「昼?」
「あの、近々できたらいいなって……彼女の話」

 言い切った瞬間、胸の奥で、羞恥と不安が入り混じり、足取りが一瞬重くなる。すると彼は歩きながらポケットに突っ込んだ手を少し動かし気の抜けたような笑みを浮かべた。

「もしさぁ、近々彼氏ができたらいいなーって、思ってたらさ」

 唐突に投げられた言葉に呼吸が詰まる。そして一拍置いて彼は、にこやかな声音で続けた。

「……俺も、候補に入れといてくんない?」

 何でもない雑談のように言うその口調なのに、そこには隠しきれない本音の熱が滲んでいて胸の奥をまっすぐに撃ち抜いてくる。頭では冗談だと笑い飛ばすこともできた。けれど、彼の眼差しは笑みの奥で真剣に揺れていてその軽さに隠された重さを、私の心ははっきりと受け取ってしまう。
 駅前の雑踏の音が遠のき足元に並んだふたりの影だけが街灯に照らされて寄り添うように重なり合っていた。喉の奥が乾いて心臓が落ち着かなくて、それでも、このまま黙ってやり過ごしたら、きっと一生後悔すると思った。夜風が頬を撫でる瞬間、私は思い切って口を開いた。

「じゃ……じゃあ洋平くんは、一番の候補っ!」

 自分でも驚くほどはっきりとした声が、雑踏の中に放たれた。恥ずかしさに頬が熱を帯びるのを必死に隠そうと、背筋を伸ばして言い張るようにもう一度、続けた。

「一番。元気に言っとく。文句なしに、一番!」

 一瞬、隣を歩く彼の足取りが、止まりかける。
「……は?」と驚いた声が漏れ、それから、次の瞬間には堪えきれないみたいに笑い声が弾けた。そして洋平くんの足取りが止まり、横顔に驚きが走る。けれど次に浮かんだのは彼らしい穏やかな笑みだった。

「……そっかー。うん、ありがとう。」

 低く優しい声でそう言ったあと彼はふと視線を前に戻し、何気ない口調で続けた。

「じゃあさ、とりあえず……名字さん呼び、卒業から」
「へっ?」

 思わずきょとんと振り返る私に、彼は優しげに微笑み街灯の灯りに縁取られた横顔を、少しだけこちらへ向ける。

「明日からは、下の名前で呼んでいい?」

 その一言は、軽やかでいて、不思議なほど真剣だった。夜の街に差す光の中、胸の鼓動が一気に高鳴り、返事をするより先に頬が熱くなる。
 「また明日」がこんなにも特別な響きに変わる日が来るなんて。私はただ、こぼれそうな笑みを必死に押しとどめながら、その余韻を抱いて彼の隣を歩き続けた。










 その呼び名は 恋 の、しるし



(あ、の……私の下の名前、わかる?)
(ははっ、わかるに決まってる)
(え、言ってみて……)
(……名前、さん?)
(——! もういっかい!)
(ははは!さくらんぼ到来?さすが同世代)


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