恋だと嘲笑えばいいさ


 残っていた有休を、私はほとんど衝動のようにまとめて使った。土日を挟んで七日間——誰にも急かされない時間が続くという事実が、胸の奥の乾いた場所にゆっくりと水を注いでいくようで、嬉しいというよりもむしろ少しだけ不安だった。
 仕事に追われているほうが自分の輪郭を保てるときもある。けれど立ち止まることを恐れてばかりでは、いつまでも同じ場所で足踏みをしているだけなのだと、そんな理屈を自分に言い聞かせるようにして、私は休暇初日の朝を迎えた。
 その日は、やわらかな陽射しが部屋いっぱいに満ちていて、窓を開けた瞬間、あたたかく澄んだ空気がまっすぐ頬に触れた。冬の名残はもうどこにもなく、光そのものが季節の到来を告げているようで、思わず、深く息を吸い込む。胸の奥まで新しい空気が入り込み、身体の内側がゆっくりとほどけていくのがわかる。春が来たのだと、ようやく実感する。
 薄手のシャツに袖を通しながら鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺めると、光を受けた肌の色が、ほんの少し明るく見えた。どこか緊張感を欠いた顔つきで、それでも確かに大人になった女の顔をしている。学生時代の自分とどこがどう違うのか明確に説明はできないけれど、あの頃よりもいくらか、上手に笑えるようになった気がしている。

 朝食を済ませ鍵をかけ外へ出る。特別な目的もなく歩き出すと足裏に伝わるアスファルトの硬さや、遠くから聞こえる生活音が、やけに鮮明だった。普段は通り過ぎるだけの道を今日は少しだけゆっくりと進む。視線を上げれば、見慣れているはずの電柱の影が、いつもよりも長く伸びていることに気づき、道端の花壇には、名前も知らない小さな花がいくつも咲いていた。
 自宅から徒歩三分のところに小さな神社があることを私は今日初めて知った。石段は低く社殿も控えめで、けれど木々に囲まれたその空間だけが街の喧騒から切り離されているようで、胸の奥が静かに、澄んでいく。さらに歩けば、古い木造の雑貨屋がひっそりと佇んでいてガラス越しに並ぶ色とりどりの器や布小物が午後の光を受けて淡く輝いている。公園には、見事に咲いた花々が風に揺れ、少し足を延ばせば、釣りのできる池、その先には、小さな牧場まであった。プリンやソフトクリームの看板を見つけたときには思わず笑ってしまう。自分の暮らす街を、私はこんなにも知らなかったのだ。知らない場所を歩くとき、人は、少しだけ自由になれる。過去の自分からも、今の自分からも距離を取れる気がするからだろうか。今日はきっといい一日になる。根拠のない予感を胸に抱いたまま私は、普段は選ばない細い道へと足を向けた。
 やがて街はずれに差しかかり、空の色が夕暮れへと移ろうころ、視界の先に古びた暖簾が揺れているのが見えた。近づいてみると、それは昭和の面影を色濃く残した居酒屋だった。木製の引き戸、色あせた提灯、どこか懐かしい匂いが漂ってくる。気づけば時刻は六時に近い。思いのほか、歩き続けていたらしい。

「こんなところに居酒屋なんてあったんだ……」

 独り言は思いのほか静かな通りに吸い込まれていく。一人で居酒屋に入る事にわずかな躊躇いはあったけれど、それ以上に、今日という日を最後まで味わいたい気持ちのほうが勝った。
 私は暖簾をくぐる。ガラガラ〜と、戸が鳴る。店内はまだ客の姿がなく、木のカウンターといくつかのテーブル席が整然と並んでいた。空気には出汁と焼き物の匂いが混ざり、どこか家庭的で、懐かしい。そんな空間に、足を踏み入れた瞬間、奥から一人の男性が現れた。

「いらっしゃいませ……って、えっ?」

 その声に、私は顔を上げる。視線がぶつかる。時間が、ほんのわずかに止まったような錯覚。

「……え?」

 喉の奥からこぼれたのは驚きとも呼べないほど掠れた声だった。次の瞬間、胸の奥が強く脈打った。まるで内側から扉を叩かれたみたいに記憶が一斉にこちらへ押し寄せてくる。目の前に立っているのは数年前に別れた人——高校時代の後輩、水戸洋平だった。
 制服姿ではない。白いシャツに前掛けを結び、灯りの下で穏やかな顔をしている。その佇まいには年月の分だけ落ち着きが宿っていて、肩の線も声の低さもあの頃よりずっと大人びている。それなのに目元のやわらかさや何かを面白がるときにほんの少しだけ細められる視線の色は記憶の中の彼と寸分違わない。
 変わっている。けれど、変わっていない。その両方が同時に存在している事が私を戸惑わせる。すぐそこにいるのに遠い。手を伸ばせば届きそうなのに、もう触れてはいけない人のようにも感じる。店内の空気がわずかに重くなる。沈黙が場を満たす。換気扇の低い音や遠くを走る車の気配がやけに耳につく。何か言わなければと喉が動くのに、声はうまく出てこない。心臓の音ばかりが、自分の内側で大きく響いている。彼も、同じなのだろうか。ほんの一瞬、視線を逸らし、まぶたを伏せる。その仕草は、感情を整理するときの彼の癖だった。やがて小さく息を吐き表情を整えると私を��元恋人�≠ナはなく��客人�≠ニして見る目に切り替わる。

「えっと……お好きな席に、どうぞ?」

 穏やかな声。きっと、何度も繰り返してきたであろう接客の口調。その距離の取り方がかえって胸を締めつけた。

「あ、うん……」

 曖昧に頷きながら、私はまだどこか、現実感の伴わない足取りで、店内へと進んだ。入口に立ち尽くしたままではいられない。それだけは理性が告げていて視線を泳がせた末に窓際の二人掛けの席を選ぶ。理由はない。ただ、外の気配が見える場所に身を置いていたかったのだと思う。逃げ道を確保するみたいに。
 椅子に腰を下ろした瞬間、座面のひやりとした感触が太もも越しに伝わってきて、ようやく身体がここにあるのだと実感する。さっきまで歩いていた街の空気とは違う居酒屋特有の温度と匂い、木のカウンターに染み込んだ酒精の気配が、ゆっくりと肺に満ちていく。空間は、思いのほか静かだった。壁の時計の秒針が規則正しく刻む音が、やけに大きく聞こえる。その静寂のなかを、彼の足音だけが淡々と横切る。やがて、お冷の入ったグラスが目の前に置かれた。底がテーブルに触れる控えめな硬質音。ほんの小さなその響きが胸の奥に波紋を広げる。視線を上げると、彼の指先がまだグラスの縁にかかっていてその骨ばった手の形に、見覚えのある記憶が一瞬よぎった。けれど彼はすぐに手を離し、何事もなかったかのように距離を取る。

「あ、ありがと……でもなんか、意外だった」

 私はグラスに触れた。冷えた水滴が指に移り、じわりと体温を奪っていく。その確かな冷たさがいまここで再会しているという事実を、否応なく現実へと引き戻していた。

「ん? 何が?」
「その——居酒屋で、働いてるなんて……」

 そう言った私に彼は少しだけ肩をすくめた。

「あー、この店もともと叔父さんがやっててさ。俺はそのあとを継いだってわけ」
「そう、なんだ……」

 短い会話の合間に、私は彼の横顔を盗み見る。顎の線は以前よりも引き締まり、声も低くなった気がする。少年だった彼が、いつの間にか一人の男の顔をしている。その事実が胸のどこかを静かにざわつかせる。
 再び訪れた沈黙は先ほどよりも少し重い。過去と現在が同じ空間に同居しているせいだろうか。彼は一度、言葉を探すように視線を泳がせてからこちらを見た。

「あのさ……今さらだけど」
「……うん」
「あのときは、ごめん」

 その謝罪が何を指しているのか説明は必要なかった。高校三年の冬、私たちは短い交際に終止符を打った。理由は単純で、けれど、当時の私には受け止めきれないほど複雑だった。彼の隣には、いつも、赤い頭の親友がいた。彼——桜木花道の存在は太陽のように強烈でまぶしくて水戸洋平の視線は、いつだってその光を追っていた。

「いいよ。もう、気にしてないから」

 そう答えながら自分の声が思いのほか穏やかなことに驚く。本当に怒ってはいないのだ。ただ、あの頃の私は、彼の隣にいる自分よりも、親友と並んで笑う彼のほうがずっと自然に見えてしまって、それが少しだけ寂しかった。
 彼は小さく頷く。視線の奥に、かすかな後悔の色が揺れた気がした。

「……あいつ今、日本代表だもんなー」
「うん。すごいよね」

 桜木花道。あの赤い頭の少年は、いまやバスケットボール選手という肩書きを持つ。遠くへ行ってしまったようでいて、どこかで、変わらず走り続けている姿が目に浮かぶ。
 もし私との別れが彼が親友の夢を支える時間を少しでも増やしたのだとしたら——そんなふうに考えることでしか、あの失恋を意味づけられなかった時期もあった。けれど今、目の前にいる彼は私の知らない時間を生き抜いて、こうして、この店に立っている。その事実だけで胸の奥が静かに熱を帯びる。過去は終わったはずなのに完全には消えていない。触れればまだ微かな温度を持っている。
 グラスの水をひと口飲み込みながら私は思う。休暇の初日、偶然にしては出来すぎた再会だと。そしてこの静かな店内で私はまた少し自分の心の輪郭を、確かめ直しているのかもしれない。

「……それより、注文いいかな?」

 過去の余韻が店内の空気に溶けきらないうちに私はあえて、話題を切り替えた。これ以上、あの頃の記憶を掘り起こせば思い出はきっと美化されあるいは歪み、いまの私を曖昧にしてしまう気がしたからだ。

「え?」

 一瞬、素の表情を見せた彼の顔に私はかすかに安堵する。その戸惑い方は、昔と変わらない。

「えーっと、じゃあまずは生ビールと……枝豆、お願いします」
「りょーかい。少々お待ちくださいねー」

 語尾をやわらかく伸ばして、彼は厨房へと引き返していく。その背中を、私は無意識に目で追った。白いシャツ越しに見える肩幅は高校生だった頃よりもさらに広くなり、歩く姿にもどこか落ち着きがある。あの頃は、いつも誰かの隣で笑っていた印象が強いのに、いまは一人で店を切り盛りする背中だ。時間は思っているよりも静かに人を変える。
 窓の外に目を向けると、夕暮れの橙色が路地をやわらかく染めていた。まさか、こんなところで再会するなんて。風の噂で彼が地元にいるらしいとは聞いていた。けれどそれが私の生活圏と交差しているとは想像もしていなかった。叔父の店を継いだという話も今日、初めて知った。
 本当に偶然とは残酷だ。忘れたつもりの記憶をいとも簡単に連れてくる。けれど同時に彼がこうして元気に働いている姿を見られたことにほっとしている自分にも気づく。
 言えなかったこと、聞けなかったこと——あのとき胸にしまい込んだままの言葉は、いくつもある。それでも、彼と過ごした時間が確かに楽しかったという事実まで、否定するつもりはない。
 やがて、生ビールと枝豆が運ばれてきた。泡の立つ黄金色が、夕暮れの光を受けてきらりと揺れる。

「お待たせしました」
「ありがとう」

 グラスを持ち上げひと口飲む。炭酸が喉を刺激し、ほろ苦さがじんわりと広がる。その刺激が、胸の奥のざわつきを少しだけ、整えてくれる気がした。いまの私の複雑な心境には、ちょうどいい味だ。枝豆の殻を指で押し出すと、つるりとした豆が舌の上に転がる。塩気とほのかな甘み。単純な味なのに、妙に沁みる。今日は、思いがけない発見と、再会ばかりだ。街の新しい表情を知り、そして過去の一部と向き合うことになった。たまには近所を散歩するのも悪くない——そんな軽い感想の裏で私は自分の内側が少しずつ揺れているのを感じていた。ふと、カウンターの向こうから視線を感じる。顔を上げると、彼と目が合った。相手はすぐに逸らすでもなく、かといって見つめ続けるわけでもなく、どこか、様子を窺うような目をしている。

「……なに?」

 問いかけると、彼はほんの少しだけ口元を緩める。その笑みは大げさではなく思い出を確かめるような静けさを含んでいた。

「いや。変わんないなーって思ってさ」
「どこが?」
「んー? うまそうに食うとこ」

 自分では意識したことのない癖を指摘されて、頬の内側がむずがゆくなる。

「え、ああ……」
「一口目に必ず目ぇ、瞑るとこ?」

 なぜか語尾が上がる。断言ではなく、確認するみたいに。まるで私のことを覚えているかどうか自分自身に問いかけているようにも聞こえた。
 私は思わず瞬きをする。そんなところまで見られていたのかという驚きと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなる。何かを口に運ぶ自分の仕草を彼があの頃もこうして、眺めていたのだろうかと想像すると、急に視線のやり場に困る。

「……無意識なんだけど」

 そう言い訳のように呟くと、彼は肩を揺らして笑った。些細なことだ。食べるときに目を閉じるかどうかなんて取るに足らない癖。それなのに、そんな細部を覚えているという事実が、私たちの間に確かに流れていた時間を静かに証明している気がして胸の奥がやわらかく揺れる。忘れられていなかったことが、嬉しいのか。それとも、まだ覚えていてくれたことが少しだけ怖いのか。自分でも判別がつかないまま、私はもう一口ビールを含んだ。

「そっちは? 変わった?」
「どうだろうな」

 彼は、カウンター越しに、グラスを磨きながら言う。その横顔は落ち着いているのに指先だけがわずかに速い。昔から内心をあまり表に出さない人だった。私はもう一口だけビールを飲み、少しだけ勇気を出す。

「……今、付き合ってる人とか、いるの?」

 問いかけた瞬間、自分でも意外でわずかに息を呑んだ。どうしてそんなことを聞いたのかうまく説明できない。好奇心かもしれないし過去の確認かもしれない。ただ、彼の��いま�≠�知りたいという衝動が、理性よりも先に舌を動かしていた。
 カウンター越しにグラスを拭いていた彼の手がほんのわずかに止まる。止まったことに気づいたのは、私だけかもしれない。

「いや。いねーよ」

 短い答え。抑揚のない声音なのに、どこかこちらの反応を待つような間がある。淡々としているのに、奥に何かを隠しているような気配。問いの矢印が、静かに私へ返ってくる。

「そっちは?」

 視線が絡む。逃げ場がない、と一瞬思う。私は枝豆を口に運び、噛む。塩気がじわりと舌に広がる。時間を稼ぐための仕草だと自分でもわかっている。

「……いるよ?」

 気づけばそんな言葉がこぼれていた。自分でも驚くほど自然な声音だった。けれど胸の奥では、心臓が小さく跳ねた。どうして嘘をついたのだろう。守りか、意地か、それとも、まだ揺れている自分を悟られたくなかっただけか。彼の視線が、わずかに細まる。

「へえ」

 それだけ。感情を読み取らせない、短い相槌。

「……ちゃんと、した人」

 重ねる必要のない説明まで、口にしてしまう。まるで、自分自身に言い聞かせるみたいに。彼はふっと息を吐きカウンターに視線を落とす。その横顔は穏やかで何も変わらないように見えるのに空気の温度がほんの一段階、下がった気がした。

「そっか」

 それだけ言ってまたグラスを拭き始める。その動作は滑らかで、さっきと変わらないはずなのにどこか、距離を取られたような感覚が胸に残る。
 その沈黙に耐えきれなくなったのは、私のほうだった。

「……うそ」

 小さく呟く。彼の手が、ぴたりと止まる。

「いない。ほんとは」

 言葉を取り消すみたいに私は目を伏せた。どうして試すような真似をしたのか自分でもわからない。ただ彼がどんな顔をするのか見てみたかったのかもしれない。今の私にどれほどの重さがあるのか確かめたかったのかもしれない。静かな空気が落ちる。壁の時計の針が、やけに大きく響く。
 七連休の初日。偶然立ち寄った店で、元恋人にくだらない嘘をつく自分がいる。過去は終わったはずなのに、こうして同じ空間にいると終わりという言葉がひどく曖昧になる。完全に切れていたはずの糸が、どこかでまだ、繋がっているような気がしてしまう。
 やがて彼は、カウンターの内側から出てきた。こちらへ歩いてくる足音が、板張りの床をやわらかく鳴らす。そのまま私の前で立ち止まるのかと思いきや、ほんのわずかに視線を落とし、空いている向かいの椅子を引いた。木製の脚が床を擦る低い音。彼は自然な動作で私の向かいに腰を下ろす。店員としてではなく客でもなく、ただ一人の男としてそこに座る距離。
 テーブルを挟んで、向き合う形になった途端、空気の密度が変わった。さっきまで、カウンター越しにあった緩衝材のような距離が消え彼の体温や呼吸のリズムがじかに伝わってくる気がした。白いシャツの袖からのぞく腕、組まれた指、わずかに前傾する上体。そのどれもが、私の逃げ場を静かに塞いでいく。

「どっちだよ」

 低い声。責めるでもなく、からかうでもなく、ただ確かめるように。
 私はグラスに触れたまま、視線を持ち上げる。真正面からぶつかる彼の目は、思っていたよりも近くて、思っていたよりも、真剣だった。向かい合って座るだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。高校生だったあの頃よりもずっと距離は近いのに、ずっと遠い。それでも、私は逃げなかった。

「いないよ」

 本当だ。けれどそれを告げる自分の声がやはりどこか、言い訳めいて聞こえた。嘘をついたのは私だ。それでもその嘘が、いまの私の本音よりも正直だったような気もしている。

「ねえ」
「ん?」
「今日さ、閉店までいる?」

 その問いはあまりにも唐突だった。私は思わず壁の時計へと視線を向ける。まだ七時にもなっていない。開店とほとんど同時に入ってきた客に、閉店までいるかどうかを尋ねるなんて、普通なら冗談にしか聞こえないはずなのにその彼の声にはどこか探るような響きが混じっていて、胸の奥が小さく揺れた。
 誘いのようで、ただの確認のようで、けれど、確実に何かを含んでいる。私はグラスの中の泡を見つめる。消えかけた白がゆっくりと縁に沿って崩れていく。その頼りない形が今の私の気持ちと重なる。

「……どう、しようかな」

 軽く濁した返事の裏で私は自分の戸惑いを持て余していた。まだ夜は始まったばかりで、時間はたっぷりある。それなのに、「閉店まで」という言葉がやけに近い未来の約束のように感じられるのはなぜだろう。そこまで一緒にいる前提で話されていることにほんの少しだけ身構えてしまう。彼はそんな私の視線の揺れを見逃さなかったらしい。口元をわずかに上げて、肩を竦める。

「なんかさ」
「なに?」
「突然、帰っちゃいそうだからさ?」

 飄々とした調子。昔から、核心を冗談みたいに包む人だった。軽く聞こえるのに切れ長の漆黒の瞳の奥だけが、こちらをじっと見ている。

「……帰らないよ、まだ」

 そう言いながらも、自分の声がどこか、曖昧に響く。帰るも帰らないも私の自由だ。けれど彼はその自由さえも手放さないまま、そっと、距離を測ってくる。少しの沈黙のあと、彼は、何気ない顔で続けた。

「今の番号、教えて」

 あまりにも自然でまるで追加の注文を聞くかのような口調だった。

「……え?」
「連絡先。さすがに、また偶然は期待できねーだろ」

 軽く笑っているのにその言葉がどこまで本気でどこからが照れ隠しなのか、判別がつかないまま彼の視線だけがまっすぐにこちらを捉えていて、私はその曖昧さごと見透かされているような心許なさを覚える。試されているのは、感情そのものというより、いまの私がどこに立っているのか、過去をどう扱おうとしているのか、その姿勢なのかもしれないと思うと、胸の内側がじわりと熱を帯びた。
 スマートフォンに触れた指先がわずかに湿っていることに気づく。薄く平たいその機械は昔みたいに折りたたむこともできず指先ひとつで画面が光り、すべてを記録してしまう。高校生のころは二つ折りの携帯電話をぱちんと開いて、親指で、ボタンを押しながら番号を打ち込んでいた。あの小さな液晶の向こうで点滅するカーソルをやけに緊張しながら見つめていた記憶が、ふいに蘇る。
 あの頃、連絡先を交換するという行為はもっと単純でただ好奇心だけで完結していたはずなのに今は違う。指先で画面をなぞるだけの動作の裏にこれまで歩いてきた年月や、すれ違った時間や、もう戻らない季節の匂いまでもが絡みついてくる。数字を教えるだけ。それだけのはずなのに。この小さな機械の中にまた彼の名前が登録されるという事実が過去を現在に引き戻す合図のように思えてしまう。便利になったはずの道具がかえって記憶を、鮮明にしてしまうのは皮肉だ。たったそれだけのことが、どうしてこんなにも重たく、意味を帯びてしまうのだろう。

「……変わってないよ、たぶん」

 そう言って、私は画面を差し出した。彼の指が私のスマホに触れることはない。ただ私が口頭で告げる数字を彼が自分の端末に打ち込んでいく。その様子を見つめながら、私は奇妙な感覚に包まれていた。過去の続きのようでいて、確実に違う地点に立っている。発信音が小さく鳴る。すぐに私のスマホも震えた。


 『 水戸洋平 』


 小さな振動とともに表示されたその名前を私はしばらく見つめていた。白い画面に、黒い文字で並ぶ四文字は、ただの名前のはずなのに不思議な温度を帯びている。
 どうやら彼も、番号は変わっていないらしい。あの頃、二つ折りの携帯に登録したままの数字がそのまま時を越えて、ここに繋がっているのだと思うと途切れたはずの時間がどこかで細く続いていたような気がして胸の奥がわずかにざわめく。同時に別のざわめきも生まれた。消していなかった。機種を変えるたびにデータは移し替えられ、その過程で整理しようと思えばできたはずなのに結局そのまま、残してきた番号。いま表示されているその名前の下には、ずっと同じ数字が眠っていたのだと、彼は気づくだろうか。消していなかったことが見透かされた気がして指先がわずかに震えた。未練と呼ぶには大袈裟で、ただの癖だと言い訳もできる。けれど消さなかったという事実だけが、静かに私の本音を照らしているようで、画面を閉じることができずにいた。
 かつてはもっと近くにあった名前。受信履歴のいちばん上に何度も表示され何気ないやりとりで画面を埋め尽くしていた日常そのものだった文字列。いまは違う。手のひらの中で静かに光るその名前はすぐ触れられる距離にありながらどこか、一段下がった場所に置かれているように見える。簡単に消すこともできるし簡単に呼び出すこともできる。その曖昧な位置にあることがいまの私たちの関係をそのまま映しているようで私はここでようやくそっと画面を伏せた。

「これで、急にいなくなっても探せる」

 そう言って彼、水戸洋平は軽く笑う。その声音は変わらないのに、どこか大人びた余裕がある。

「逃げないよ」
「どうだか」

 短い応酬。けれどその裏で私たちは同じことを考えている気がした。
 偶然の再会はここで終わらせることもできる。けれど、終わらせない選択もある。夜はすっかり深まり店の灯りが外の闇をやわらかく押し返している。
 七連休の初日——散歩の延長で足を踏み入れたこの店で、私は思いがけず過去と未来の境界線に立っている。閉店までいるかどうかはまだ決めていない。ただ、ポケットの中で静かに温もるスマートフォンの存在だけが、今夜が偶然では終わらないかもしれないことをひそやかに告げていた。










 完成された 嘘 の美しさよ



(——はい、これ。)
(え? 頼んでないよ、デザートなんて)
(まあ、俺からのお詫び?)
(お詫び?)
(うん。今までの、いろんなことへのね)
(はは……じゃあ、遠慮なくいただきます)


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