春は、二度目の形をとる new


 春先になると、決まって思い出すことがある。風の匂いが少しだけ甘くなり制服姿の学生たちが駅前を通り過ぎていくのを見かけるたびに、胸の奥のどこかが、静かに軋む。忘れたつもりでいた景色が、まるで、季節に呼び戻されるみたいに、ふいに輪郭を持つのだ。
 高校時代の彼のこと。私はあの頃の水戸洋平をどれくらいの距離から見ていたのだろう。廊下の向こう、グラウンドの端、教室の窓越し。いつも少し離れた場所から笑っている横顔を眺めていた記憶ばかりが鮮明でどうして距離が近づいたのかその経緯がどうにも曖昧だ。
 どっちから、告白したんだっけ。思い返そうとすると、記憶はやわらかく霞んでいく。私だった気もするし彼だったような気もする。ただ放課後の校舎裏の空気がやけに澄んでいたことと、彼がいつもより少しだけ、真面目な顔をしていたことだけは覚えている。あのときの鼓動の速さはいま思い出しても指先にまで伝わるのに、肝心の言葉だけが、すり抜けてしまう。
 たぶんどちらでもよかったのだろう。好きだと認めるまでの時間よりも、その後、一緒に歩いた帰り道のほうが、私の中ではずっと大きい。

 あの頃、彼の隣にはいつも赤い頭の大男がいて私はその少し外側にいた。それでもふとした瞬間に目が合うと彼は私だけに向ける表情をしてくれた。あの視線に、救われていたのかもしれない。自分が��選ばれている�≠ニ、信じられる時間が、確かにあった。けれど季節は巡り、関係は静かに終わった。
 そして——つい先日。偶然立ち寄った居酒屋で再会し番号を交換した。それだけの出来事なのに私はいま、こんなにも落ち着かない。
 テーブルの上に置いたスマートフォンを意味もなく裏返したり、また戻したりする。通知が来ていないか確認するたびに胸の奥がひそやかにざわつく。画面は静かなままだ。白い背景に無機質なアイコンが並んでいるだけ。まだ来ない。連絡が来ると決まったわけではないのにどうしてこんなにも待ってしまうのだろう。彼から『またね』と言われたわけでも『連絡する』と約束されたわけでもない。それなのにあの夜、向かい合って座った距離の近さが、何かの続きを予感させた。自分から送ればいい。そう頭ではわかっている。けれど指は動かない。送ってしまえば何かが決定的になってしまう気がする。今はまだ可能性のままでいられる。繋がらないままの関係は傷つくこともない。
 窓を開けると春の風がカーテンを揺らす。どこかで子どもの笑い声がする。新しい季節は何事もなかったように進んでいくのに私はあの日の店の灯りの中に、まだ少しだけ、取り残されている。そんな中、スマートフォンが、わずかに震えた。心臓が強く鳴る。画面を見るまでの数秒がやけに長い。けれど表示されたのは、宅配アプリの通知だった。

「……なんだ」

 思わず声が漏れる。誰に聞かせるわけでもないのに。
 自分がこんなにも、単純だとは思わなかった。連絡を待つという行為は相手に主導権を渡すことだ。私はいま、彼の一言に、振り回される立場にいる。それでも。もし、彼から『元気?』と一言でも届いたら私はどう返すのだろう。平静を装って「うん」と返せるだろうか。それともあの日の延長線上で、また少しだけ踏み込んでしまうのだろうか。
 春になると思い出す。校庭の風、放課後の影、並んで歩いた帰り道。そしていまもなお、連絡を待っている自分のことを——。

 夜、ベッドに横になっても枕元のスマートフォンが気になる。手を伸ばせば届く距離に置いているのは、偶然ではない。画面を伏せたままでも、そこにあるとわかるだけで、胸が落ち着かない。
 ——来なくてもいい。そう言い聞かせるたびに心の奥では、ほんの少しだけ期待している。あの店で向かい合ったときの彼の視線。あれがただの懐かしさだったのか、それともまだ何かが残っているのか。
 答えは、まだ届かない。春の夜は静かで、私の鼓動だけが、やけに鮮明だった。
 今の私は、どうかしているのだ。画面が震えるたびに胸を締めつけられ、意味のない通知に肩を落とし、それでも次こそはと、どこかで期待している。あの日、静かに幕を下ろしたはずの恋を、まるで未完の物語のように手繰り寄せようとしている自分がいる。終わらせた、と、言い聞かせてきたのに。あの別れには、理由があって、時間も流れて、それぞれの道を歩いてきたはずなのに。それでもたった一度の再会と、スマートフォンの中に再び表示された彼の名前だけで、私は簡単に揺らいでしまう。連絡が来るかもしれないという可能性に、胸を預けている。

 どうかしている。そう思うのにやめられない。春の夜はやわらかく窓の外の風がカーテンを揺らす。私は枕元の光らない画面を見つめながらまだ鳴っていない通知音を、待っている。終わらせたはずの恋の続きを、自分でも気づかないふりをしながら、そっと、始めようとしているのだから。


 *


 本当に、どうかしていたらしい。
 あの日から一ヶ月。春はすっかり進み桜は散り街路樹の若葉が濃くなっているというのに、私の時間だけがどこかで立ち止まったままだ。最初の一週間は、まだ余裕があった。きっと忙しいのだろうとか、店のことで手が離せないのだろうとかいくらでも理由をつけられた。しかし二週間目に突入すると理由は、言い訳に変わった。三週間目には、通知音に身体が反応することに、さすがに嫌気がさしてきた。
 そして一ヶ月。スマートフォンを手に取るたび期待と落胆を往復するのにも、少し疲れてしまった。待つという行為はこんなにも体力を奪うものだっただろうか。画面は静かで彼の名前は一度も浮かばない。その事実が、じわじわと、現実味を帯びてくる。

「連絡、来ないじゃん……」

 口に出してみると、思ったよりも軽い響きだった。軽いのに、胸の内側には小さな棘が残る。
 あれは、私だけが特別な夜だと思っていたのだろうか。彼にとってはただの懐かしい再会だったのかもしれない。番号を交換したのも社交辞令の延長だったのかもしれない。そう考えるとひどく滑稽だ。終わった恋を自分の都合で再生しようとしていたのは、私だけだったのだろうか。
 気分を変えようと、週末に街へ出た。人の多い場所に身を置けば、余計なことを考えずに済むと思ったのに視界の端にカップルの姿が映るたび、勝手に胸が痛む。自分がこんなにも狭量だったとは、思いもしなかった。

「お、名字か?」

 背後から呼ばれて私はゆっくりと振り返った。ずいぶんと癖のある忘れもしない声のはずなのに一瞬だけ現在と過去の境界が曖昧になる。

「……三井?」

 目の前に立っていたのは、高校時代の同級生、三井寿だった。少し伸びた髪を無造作にかき上げる仕草は昔と変わらないのに、肩幅や立ち姿には年月の分だけ、落ち着きが滲んでいる。あの頃は尖って見えた輪郭も、いまはどこか柔らかい。

「マジか。久しぶりだな、元気にしてたか?」
「まあね。そっちは?」
「ん、まあ〜……ぼちぼち。休み?」
「うん、買い物ついでに出てきた」

 短い言葉が思いのほか自然に重なる。久しぶりだという緊張は数秒で溶けた。懐かしさと気安さが、言葉の隙間を埋めていく。高校時代の話題に移ると時間は一気に巻き戻される。部活のこと、試合のこと、放課後のくだらない出来事。あの頃は若かったなと笑い合いながら私はどこか他人の記憶を語っているような気持ちでいた。そのとき三井の視線がふっと前方へ流れる。

「あン? あれ、水戸じゃね?」

 反射的に私もその先を見る。人混みの向こう、見覚えのある背中。歩幅の取り方、わずかに傾いた肩、横顔の線。間違いなく水戸洋平だ。なんて皮肉なのだろう。今まで街のどこを歩いても見かけなかったのに、こうして不意に、しかもこんな形で目に入るなんて。
 そして、その隣。長い髪の女性が、彼と並んで歩いている。距離は自然で互いの歩調がぴたりと合っている。肩が触れそうで触れないその絶妙な間合いが親しさを物語っていた。胸の奥がひどく静かになる。驚きも怒りも、すぐには湧いてこない。ただ、音が遠のくみたいに世界の輪郭が一瞬だけ薄くなる。

「……ほんとだ」

 自分でも驚くほど平坦な声が出た。感情を削ぎ落としたみたいな響き。三井は、私の横顔をちらりと見る。その視線には無遠慮な好奇心はない。ただ何かを測るようなさりげない確認があった。気づいているのか、それとも単に昔を思い出しているだけなのか、その表情からは読み取れない。そして、あくまで何気ない口調で三井は言う。

「そういや、お前ら付き合ってたよな?」

 その言葉が春のやわらかい空気を見事なくらい一直線に切り裂いた。前言撤回だ。やっぱり無遠慮だった。春の陽気に浮かれているのはどうやら私だけではなかったらしい。いやむしろ炎の男のほうが平常運転なのかもしれない。
 胸の奥でせっかく静まりかけていた波が、再びざわりと立つ。私は一度だけ、瞬きをしてから、何事もなかった顔を作る。

「……昔ね」

 さらっと言えたつもりだったのに、自分の声がほんのわずかに、上ずっている気がして、内心で小さく舌打ちする。昔——。その言葉が、思ったよりも重い。春の空気はやっぱり少し意地悪だ。
 声をかける距離ではある。手を振れば、届く。けれど足は動かない。向こうもこちらに気づいていないらしい。彼は隣の女性に何かを話し、軽く笑う。その横顔は、あの居酒屋で再会したときと同じ柔らかな目をしていた。ああ、と思う。私は勝手に期待して勝手に拗らせていたのだ。連絡が来ない理由を、忙しさや、遠慮に置き換えていたけれど、ただ、それだけだったのかもしれない。彼の時間は、私のいない場所で、ちゃんと進んでいた。

「声、かけねーの?」

 どうして男の人って、こういうタイミングを、外さないのだろう。いや、外さないのではなく、気にしていないのか。私は三井の問いに首を横に振った。

「……いい」

 いい、と言いながら、指先が、冷えているのを感じる。どうせなら偶然のままでいい。再会も、表示されないままの履歴も、全部、私の中だけで完結させればいい。
 水戸洋平は、人混みの向こうへと消えていく。隣の女性と並んだまま。春の風が、頬を撫でた。どうかしていたのはきっと私だけだ。待ち続けた一ヶ月が、急に可笑しくなって少しだけ泣きたくなった。


 *


 その夜は、どうにも寝つけなかった。
 部屋の明かりを落としても瞼の裏に浮かぶのは昼間の光景ばかりで駅前の雑踏の中、並んで歩いていた彼の背中と隣の女性の髪の揺れが、何度も何度も繰り返し再生される。見なければよかったとも思うし、見てしまってよかった、とも思う。どちらが本音なのか、自分でもよくわからない。
 ベッドに横になり天井を見つめる。春の夜は、思いのほか冷える。窓の隙間から入り込む風が、カーテンをかすかに揺らし、そのたびに、部屋の空気がわずかに動く。私の心もそれと同じくらい不安定に揺れている。
 どうかしていたのは、やっぱり私だ。一ヶ月、連絡を待ち続けて勝手に期待して、勝手に疲れてそれでもまだどこかで可能性を捨てきれずにいる。あの居酒屋で向かい合った時間を、私は必要以上に特別なものにしてしまっていたのかもしれない。
 うとうとしかけた、そのときだった。枕元で、低い振動が伝わる。夢かと思った。けれど、規則正しく続く震えが現実を主張する。手探りでスマートフォンを掴み、画面を見ると『水戸洋平』の白い画面に浮かぶ四文字が暗い部屋の中でやけに鮮明に光る。喉がひりつく。メッセージではなく電話。どうしてと思う。文字で済ませられるはずの用件を、あえて、声にする理由がわからない。わからないのに、そのわからなさが胸を強く締めつける。
 着信は続いている。出るか、やめるか。ほんの数秒の迷いが、ひどく長い。指が、通話ボタンに触れる。

「……もしもし」

 自分の声が、思っていたよりもかすれている。

『あら、出た。ごめん、起きてた?』
「ん、うん……」
『あー、寝てたなら切るけど』

 受話口の向こうから聞こえる声は低く少しだけ疲れているようにも感じられた。あの店で聞いたときよりも距離が近い。言葉と一緒に彼の呼吸が混じる。

「うん……まあ、大丈夫」

 短い返事のあと、沈黙が落ちる。互いの部屋の空気が電話線の上でぶつかり合っているみたいに重たい。

『悪いね、こんな時間に』
「別に……どうしたの?」

 問いかけながら胸の奥がじわじわと熱を持つ。待ち続けた一ヶ月が急に報われたような裏切られたような、複雑な感覚。彼は少し間を置いてから『今日さ』と口を開く。その声の調子がわずかに変わる。

『駅前で、見かけた気がしてさ?』

 思いがけない問いに指先が、ぎゅっとスマートフォンを握る。

「……駅前?」
『うん。知った顔といたっぽかったから』

 知った顔——。その言い方が妙に引っかかる。あのとき、彼も、こちらを見ていたのだろうか。私は彼のそんな様子に気づかなかった。気づいていれば、何か違ったのかもしれないのに。

「いたよ。それ、私」

 声が少し早くなって、言った瞬間に、胸の奥がすんと冷える。電話の向こうで、彼が息を呑んだように黙った。何かを考えている気配が、静かに伝わる。

『……やっぱそうか』

 低い声。それだけであの女性の事を問う勇気が喉元で消える。代わりに言葉がこぼれそうになり「そっちも……」という続きは、飲み込む。

『ん?』
「ううん、なんでもない」

 嘘を重ねるみたいに言葉を曖昧にする。沈黙。互いに踏み込まないまま時間だけが流れる。私は思う。どうしていま、電話なのだろう。一ヶ月、何もなかったのに。

『そーだ。来週の水曜の夜、会える?』

 唐突だった。理由も説明もなく、ただその問いだけが、夜の静けさの中に落ちる。心臓が、ゆっくりと強く打つ。待ち続けた時間が、ここで急に意味を持ち始める。

「……どうして?」

 声が、わずかに震えるのを自覚する。

『ちゃんと話したいんで』

 短く、はっきりと。その言葉が、胸の奥に触れる。逃げ道を塞ぐようでもあり、救いのようでもある。
 ちゃんと話す、とは何を。駅前で見たことか、居酒屋の夜のことか、それとも、この、一ヶ月の沈黙か。私はベッドの上で身体を起こす。背中にシーツの冷たさが移る。

「……水曜、仕事終わりなら」

 自分でも驚くほど、素直な返事だった。

『わかった。時間、また連絡するよ』
「うん」

 それだけのやりとりだった。通話が切れる直前のわずかなノイズまで、やけに鮮明に耳に残っている。一ヶ月、何もなかった人の言う『また』がどれほどの重みを持つのか私はもう十分に知っているはずなのに、それでもどこかで信じてしまう自分がいる。その『また』は来週なのだろうか。それとも来年の春だろうか。あるいはもう二度と訪れない未来のことなのか。そんな、皮肉めいた想像だけは妙に早く浮かぶ。待ち続けることには慣れたくないのに、疑うことだけは上達している自分に苦笑がこぼれそうになる。自分の事ながら嫌な勘だけは働く。
 けれど、通話を切ったあとも、耳の奥には彼の声が残っていた。低くて、少しだけ、ためらいを含んだ響き。居酒屋で聞いた声とも、駅前で見た横顔とも違う、夜の中でだけ許される温度。

 部屋は変わらず静かだ。時計の針の音と遠くを走る車の気配。春の風がカーテンを揺らし、その影が壁に淡く映る。私は、スマートフォンを胸の上に置いたまま、ゆっくりと目を閉じる。体温でほんのり温まった機械の重みが現実を教えてくれる。どうかしているのは、やっぱり私だけなのだろう。一ヶ月待って拗ねて、諦めたふりまでしたくせに、たった数分の通話でこんなにも揺らぐ。期待しないと決めたはずなのに約束という言葉に簡単に救われてしまう。
 それでも。一ヶ月、待ち続けた末に届いたこの約束が、ただの思いつきではなく彼なりの決意であってほしいとどこかで願っている自分がいる。疑いながら祈るなんてずいぶん都合のいい心だ。

 春の夜は、まだ少し冷える。私は胸の上のスマートフォンをぎゅっと抱き寄せながら眠りに落ちる直前まで、来週の水曜のことを考えていた。


 *


 水曜日の夜。待ち合わせた公園内は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
 子どもたちの歓声も、犬の散歩をする人たちの足音もなく、街灯の光だけが、遊具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。滑り台の金属部分が白く光り、ブランコは誰も乗っていないのに風に押されて、わずかに揺れている。その小さな軋みが、静まり返った空間に規則正しい呼吸のように響いていた。
 私は約束の時間よりも少し早く着いてしまった。わざとではない。けれど職場を出る足取りが思っていたよりも速かったことに途中で気づいた。待つ側でいることに慣れたはずなのに今日はなぜか、先に来ておきたかった。
 ベンチに腰を下ろすと木の座面の冷たさが太もも越しに伝わる。春の夜は日中の柔らかさを残しながらも、まだどこか、芯が冷えている。両手を膝の上で組むと自分の指先がわずかに硬くなっているのがわかる。
 来てくれる。そう信じてここにいるのに、胸の奥では来なかった場合の光景も用意している自分がいる。期待と予防線を同時に抱えているのは、きっと私の悪い癖だ。
 砂利を踏む音がした。反射的に顔を上げると、街灯の光の輪の中に彼の姿があった。水色のジャケットに、黒いパンツ。居酒屋の灯りの下で見たときよりも輪郭がくっきりしている。外の空気の中では、彼は少しだけ背が高く見えた。

「待った?」

 近づきながらそう言う。その声を聞いた瞬間、胸の内側で何かが緩むのを感じた。

「ううん。いま来たとこ」

 ありきたりな台詞を口にしながら、自分の声がわずかに乾いていることに気づく。彼は私の隣、拳ひとつ分ほどの距離を空け腰を下ろした。そのわずかな空間が、かえって意識を敏感にさせる。
 夜風が彼の指先に挟まれた煙草の先をかすかに揺らし、白い煙が、ゆるやかにほどけて闇の中へ溶けていく。横顔の線は、高校生だった頃よりも引き締まり顎から首筋にかけての陰影が、街灯の光を受けて、静かに深くなる。それでも、視線を下げるときの癖や、息を整えるときの間は、あの頃のままだ。どちらからともなく口を開かない。沈黙は決して息苦しくはない。けれど、気楽でもない。夜の公園の空気がそのまま私たちのあいだに横たわっているようだ。何を話すためにここに来たのか言葉の入口を探しながら、互いの気配を測っている時間。
 煙草の火が、ひときわ赤く灯る。その、小さな明滅が、いまの私たちの距離のように見えた。

「……駅前」

 そう言って、彼は指先の煙草をゆっくりと携帯灰皿に押し付けた。小さな火が消える瞬間焦げた匂いが夜風に混じる。その一言だけで、あの日の光景が鮮明によみがえる。人混みのざわめきや、春の日差しの白さ、そして、彼の隣に並んでいたあの女性の横顔。目に焼き付いたまま消えてくれなかった場面が音もなく胸の内側に広がる。夜の公園にいるはずなのに私は一瞬、あの駅前の喧騒の中へ引き戻されたような感覚に包まれた。

「見かけたとき、声かけようか迷ったんだよな」
「そうなんだ」

 私は、わざと淡々と返す。胸の奥で小さな波が立つのを悟られないように。

「隣、男みたいでしたし?」

 視線を外しながら、そう付け加える。ああ、と心の中で思った。やはり、そこなのだ。

「三井だよ。ほら、同じ学年だった」
「知ってる。見りゃわかる」

 その言い方にほんのわずかに含まれる棘を感じ取る。嫉妬、とまでは言わない。けれど、無関心ではない響き。

「そっちは?」

 問いかけると、彼は息を吸い、ゆっくり吐く。

「……従姉妹。店、手伝ってもらってる」

 短い説明。胸の奥に溜まっていた重みが静かにほどける。安心した自分がいることを認めるのに少し時間がかかる。私は、何を期待していたのだろう。

「なんで、連絡くれなかったの」

 言葉が思っていたよりも素直に出た。責めたいわけではない。ただ、この一ヶ月の空白を、どうにか言葉にしておきたかった。
 彼は、すぐには答えない。視線を地面に落とし砂利を靴先で軽く蹴る。

「……今さら、って思ってた」
「今さら?」
「別れて、だいぶ経ってるだろ」

 その声音には、迷いがある。自分の立ち位置を測りかねているような、不器用な揺れ。

「でも——会ったとき、普通に嬉しかった」

 飾らない言葉だった。その率直さに、胸の奥が静かに熱を帯びていく。

「だから、ちゃんと話しとこうと思った」

 何をとは言わない。けれどその��ちゃんと�≠フ中にあのとき言えなかったことや、言わなかったことが含まれているのだと、なんとなくわかる。
 私は、自分の手のひらを見る。指先はまだ少し冷たい。

「私も……嬉しかったよ」

 小さく告げる。彼が正面を向いたまま、ほんの少しだけ目を細める。その表情を見た瞬間、あの頃の放課後の光が、ふいに胸に差し込む。沈黙が落ちた。けれどそれは気まずさではない。言葉にしなくても伝わるものが、ゆっくりと、形を持ち始めている時間。

「俺たちさ」

 彼が不意に口を開く。夜風に混じって届く声はさっきまでよりも低く、どこか腹を括ったような響きを帯びている。

「……ちゃんと、終わってたっけ」

 問いというより、独り言に近い言い方だった。私にぶつけるというより、自分に、確認しているみたいな。終わる、という言葉の輪郭を私は思い出せない。あの別れは泣き崩れたわけでも激しくぶつかったわけでもなかった。ただ彼の隣にあるべき場所がいつの間にか私のものではなくなっていて気づけば自然に距離ができていた。それだけだ。だからこそどこか曖昧なまま心の中に残っている。私は、遠くの街灯を見つめたまま答える。

「……どうだろ。終わった、って感じはあんまりなかったかも」
「言い逃げされたんで、俺」
「えっ? 言い逃げ?」
「卒業式のちょい前だったような」
「ああ……うん。逃げたかも」

 素直に言うと、胸の奥が少し軽くなった。彼は小さく息を吐く。

「だよな」

 短い同意。その声音に、安堵の色が混じる。

「なんかさ」

 彼はポケットに手を入れたまま少しだけ視線を斜め上に向ける。

「俺、あのときちゃんと話してねー気がしてさ」
「……話すって?」
「どう思ってたか、とか色々」

 それから、言葉を選ぶように間を置いた。

「逃げたわけじゃねーけど、完全になんて言うか優先順位、間違えてたよなって」

 赤い頭の大男の姿が一瞬だけよぎる。私は何も言わない。すると彼が不意に、こちらを見やる。

「今さら、って思ってたけどさ」
「……」
「会ったら、やっぱ無理だったわ。普通に嬉しかったし」

 二度目に告げられた「嬉しかった」という言葉は最初に聞いたときよりも深く胸に沈んだ。
 街灯の白い光に照らされた彼の目は、夜の色を映しながらも揺れていない。笑みは浮かべているのに、それは場を和ませるためのものではなく、自分の感情をまっすぐ差し出すときの少し照れたような表情だった。誤魔化そうと思えば、いくらでも軽くできるはずの台詞なのにそこには逃げる余地がなかった。その真っ直ぐさに、私は視線を逸らせなくなる。

「だからさ」

 そう呟いた彼の声の調子が、少しだけ変わる。

「もう一回、ちゃんと向き合わない?」

 提案というより確認だ。命令でも、強引さでもない。けれど逃げ道を作らない言い方。胸の奥で何かが静かに動く音がした。『向き合う』という言葉は重い。好きだとか、付き合うとかそういう直接的な言葉よりもずっと現実的で覚悟がいる。

「向き合うって……」

 私が問い返すと、彼はまた肩をすくめる。

「逃げないで話すってこと。都合よく、終わらせないってことさ」

 その言い方が水戸洋平らしいと思う。気取らずけれど逃げない。本気だとわかる。あの頃よりも少しだけ、大人の顔をしている。私は彼の横顔を見つめる。変わっていないところもある。けれど変わった部分のほうが、いまははっきり見える。

「じゃあ次は、逃げないで話し合おう」

 私が小さく息を吸ってそう言うと、彼がほんの少しだけ笑った。

「おう」

 短い返事。それだけなのに、春の夜の空気が、ほんの少し柔らかくなった気がした。
 ��始める�≠ニは言わなかった。それでも、その提案は、過去と現在を結び直すための言葉に聞こえた。すぐには答えられない。答えてしまえば、いまの曖昧な関係は終わる。どちらの方向に転ぶにしても、何かを選ぶことになる。だから私は、立ち上がった。

「少し、歩こ」

 彼も黙って立ち上がる。公園の出口へ向かって並んで歩く。肩は触れない。触れないまま歩幅が自然と揃う。その事実が、どこかくすぐったい。夜風が頬を撫でる。春の匂いがまだ残っている。
 過去は完全には消えない。けれど、同じ夜に、同じ場所を選んで立っているということは、偶然ではないのかもしれない。

「次会えるのも、水曜?」

 不意に私がそう言うと、彼は短く笑った。

「休みなんだよなー、毎週水曜だけ」
「あ、そうなんだ」
「その日しか全部の時間、渡せないもんで」

 さらりと言われたその一文が、胸の奥に静かに沈んでいく。全部の時間——大袈裟な言い方ではない。彼は店を切り盛りしている身だ。夜の仕事は不規則で、休日もそう多くはないはずだ。その中で、たった一日だけ空く時間を、私に向けると言った。
 渡す、という言葉の選び方が、じわりと効いてくる。与えるでもなく、空けるでもなく、渡す。私は歩きながら自分の足元を見る。アスファルトに伸びた私たちの影が、夜の光に引き延ばされ、ゆらりと揺れている。並んでいるのに、触れない距離。けれど影だけは自然に重なりそうで重ならない。
 彼は、軽い口調で言った。けれどその裏にある覚悟のようなものを私は感じ取ってしまう。水曜しか、ではなく。水曜だけはという言い方。その一日を、丸ごと私に差し出すと言われたようで、胸の奥が熱を持つ。
 この一ヶ月、私は勝手に期待して、勝手に傷ついて彼の気持ちを推し量ることばかりしていた。けれどいま隣を歩く彼の歩幅は落ち着いていて、迷いがない。言葉の端々に、逃げ腰の色は見えない。ちゃんと向き合おうとしている。そう思った瞬間、喉の奥が少しだけ詰まる感じがした。

「全部って……大袈裟じゃない?」

 半分は照れ隠しで、そう返す。彼はそんな私の本心を知ってか知らずか大袈裟に肩をすくめる。

「何も予定入れないってこと。俺さ、水曜は店も完全に休みにしてるし」
「うん」
「だからその日は、名前さんに全部使わせてください」

 久しく呼ばれた名前。淡々とした説明。けれどそれ以上の意味が、言葉の奥に宿っている。
 時間はその人の生活そのものだ。忙しさの中で切り取られた一日を、私に向けるということは、彼の生活の一部に私をもう一度組み込もうとしているということだ。過去の延長ではない。いまの彼の時間の中に、いまの私を置こうとしている。その事実がじわじわと身体の内側に広がる。冷えていた指先が、少しずつ温まっていく。

 公園の外灯が、背後で小さくなっていく。夜の空気は静かで、遠くで電車の音がかすかに響く。まだ何も決まっていない。言葉にした約束も形になった関係もない。それでも彼が「全部使わせてください」と言った時間の重みが、私の中でゆっくりと根を張り始めている。終わったはずの恋はただ懐かしさで息を吹き返したのではなく、今の彼の生活の中で新しく呼吸を始めようとしているのだと、ようやく実感する。
 春の夜は深い。並んで歩く私たちの影は長く、静かに地面に伸びていた。その影の先に次の約束がある。私はその日を今度は待つことを恐れずにいられる気がしていた。










 忘れきれない 季節 の現在地



(ちゃんと来てくれて、ちょっと安心した)
(俺から誘っといて?)
(前科あるからね)
(ははっ、悪かったって)
(……水曜、ほんとに空けとくから)
(うん。毎週空けといてもらうと助かる)
(何も予定入れない。仕事も)
(仕事はしよっか。次は、待たせねーよ)
(じゃあ、私も逃げない)


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