恋時雨(5/7)


 それからしばらくして寿くんと私は一緒に住み始めることにした。寿くんのマンションのほうが明らかにセキュリティ万全だし利便性も高かったので私のマンションを引き払いフランソワを連れて彼の家へと転がり込むようなかたちにはなってしまったけれど。
 彩子が引っ越しの手伝いに来てくれたとき言っていた。「生真面目な名前の大冒険ね!」って。
 たしかに前の私からは到底考えられない事だ。それでも幸せで楽しい毎日。お互い忙しくても、おなじ空間を共用していることの安心感があったから。

 彼と付き合い始めて、約二年半が経とうとしていた頃、雨が降っていた日。その日の夜中、寿くんはずぶ濡れて帰ってきた。先に帰って来ていた私は慌てて脱衣所からタオルを出してくる。

「濡れちまったわ……」

 ガシガシと彼の頭を拭く私。ずっと無反応で突っ立っていた彼がそう言って自嘲する。彼の様子はあきらかにおかしかったけど、そのとき私は、深く追及しなかった。人間だれしも、嫌になってしまうときくらいあるだろうなって。
 ある程度拭き終わると私は急いで彼の着替えを取りに寝室へ向かう。クローゼットを漁っている私を寿くんが後ろから、突然抱きしめてきた。

「……ど、どうしたの?」
「……なんでもねぇ」

 そのままベッドへと、寿くんは私を押し倒す。こんなこと初めてでどうしたらいいのかわからなかった。しかも、いつもならきちんと避妊をする彼が、その日に限ってそうじゃなかった——。
 ねえ、寿くん……何があったの?でも、聞けなかった。
 それから彼は、あきらかにお酒の量が増えた。シーズン前とは言え絶対におかしい。一緒にいても、溜め息をつくことが多くなって夜中に一人で出て行くこともあった。
 そんな生活を送っている中、帰宅した彼から、香水のにおいがして——。どうなっているのか、なにがあったのか。でもやっぱり聞けないのだ。こういうときの私は臆病で、こんな自分をどうも好きになれない。
 あの雨の日から、約三ヶ月後。寿くんが不在の午後3時過ぎ、マンションに来客があった。相手はまさかの彼の、元、恋人だった……。

「こんにちは」
「……こ、こんにちは」

 相変わらずきれいな人。コーヒーを入れようとしたら彼女は微笑みながら「今、ダメなの」なんて言う。

「え……」

 固まる私に彼女が私の目を真っ直ぐに見て勝気な笑みを浮かべたあと、言った。

「みっちゃんと別れて」
「え?」

 そのあと私は彼女からの話をただ呆然と聞いていた……と思う。彼女の話では、寿くんと関係をもって、たぶん妊娠してるから産むから別れて。そんな内容の話だった。彼女がマンションを去ったあとも、ずっと立ち尽くしたまま私はどういうこと?と考えあぐねる。寿くんとはもう終わっていたはずじゃ……なんてことを、延々と頭の中で自問自答する。
 ——雨の、あの日……酔っぱらって帰って来た寿くんと寝たって。じゃあ彼はその後に……私を抱いたってこと?ダメだ、混乱して来た。次第に私はパニックに陥ってくる。


 『私を未婚の母親にする気?』


 そう言った彼女に、何も言えなかった。だって感情抜きに考えたら子供には決して罪はなくて。
 寿くん……どうしたらいい?ねえ、寿くん……教えて——?


 *


 その日の夜、寿くんが帰ってきた。私の様子がおかしいからか、心配そうな顔でずっと側に寄り添ってくれていたフランソワが物音を聞き付け、玄関に駆けて行く。それで私も彼が帰宅したのだと知った。気付けば部屋は真っ暗で、私は急いで電気を付ける。
 私は元恋人がここに来たことを伝えてから彼に事実を確かめてみた。彼女から妊娠していると言われたこと、そしてその父親が寿くんであることの真相を——。
 寿くんはソファに座って、ずっと顔を俯かせている。私は彼の隣に座る気にはなれず少し離れた位置に立っていた。しばらく沈黙が続いたあと、寿くんが溜め息混じりにぽつぽつと話し出す。
 あの日、コンビと称されていたチームメイトがほかのチームに移籍すると告白して来たらしい。突然のことだったらしく相談もしてくれなかったことへの不信感とか素直に背中を後押し出来ない自分に苛立ち、感情をうまくコントロール出来ず自暴自棄みたいになって酒が過ぎてしまった事。目を覚ましたらホテルにいて隣に元恋人が眠っていたこと。

「うまくいかねぇ……」

 口元を押さえてうつむいたまま泣きそうな声で言う彼に私はここで何が言えただろうか。なんだかただ悲しくて。でも、泣けなかった。こんな、あっけなく終わってしまうんだろうか、私たち。
 出会った頃は——。一緒に住み始めるまでは、あんなに楽しくて幸せだったのに。

「名前……悪ィ。」

 ——��名前……悪い��
 その寿くんが言った言葉が、すべてを物語っていた。もう私たちは終わった——ということを。
 私は何も言葉は返さずにフランソワを抱き上げる。バタン、とリビングの扉を閉めたとき、背後から私の名を呟いて呼んだ彼の声が聞こえた気がした。でもそれを追い越して振り向かずフランソワだけを連れて私は一緒に住んでいたマンションをあとにした。

 ——叫べばよかった?最低!と、涙をこぼしていたら……。怒ればよかった?ひどいよ、と肩を落としたら寿くんは、どうしてたのかな。本当はあの場で言ってやりたかったのだ。バカ!ふざけんな!って。今みたいに繕って、真面目なフリをしてなかったら。浴びせてやりたかった……もう顔も見たくない、って——。
 昔の自分が不意に姿を見せて、汚い言葉が喉の奥まで出かかっていたけれど、やっぱり出来ないよ、そんなこと。だって、好きだったもん。大切だったもん。優しかった寿くんを嘘だと思いたくなかったから。

 私はフランソワを抱えたまま気付いたら彩子のマンションの前まで来ていた。しばらく外で悩んで結局、彼女の部屋のインターフォンを押した。びっくりしたように私を見る彩子。

「どうしたのよっ?」

 私は今日起こったことすべてを彼女に話した。

「……ねぇ、アンタは大丈夫なんでしょうね?」
「え……?」
「アンタまで!出来て(・・・)ないでしょうねって聞いてんの!その顔色の悪さったらないわよ!?」
「……」
「——腹立つ!今から三井先輩のとこ行って、」
「やめて!!」

 私はソファから立ち上がり、立ったまま話していた彩子の腕を、思い切りつかむ。驚いたように私を見る彩子に私はぽつりぽつりと言った。

「疲れてたから……これぐらいの遅れはしょっちゅうで」
「……なにアンタ、生理遅れてんの?」
「だってもともと不順だったし、大丈夫、きっと……」
「なら……いいけど……」

 結局それからしばらくのあいだ私は彩子の部屋に同居させてもらうことにした。
 マンションを出て来てから翌週の週刊誌には、寿くんの婚約の話が書かれていた。私は朝のニュース番組でそのことを知る。チーム側は否定、と言っていたけど……私は本人から聞いてしまったのだ。だから世間が何と言っていようと、事実を認めるしかなかった。それでも会社で仕事を続けた。仕事をしている間は忘れられたから。
 一ヵ月後。このまま彩子のマンションにずっといるわけにはいかないよなと思い、次の休みには不動産屋に出向こうと予定を立てていたある日、私は部長に呼ばれた。

「至急で悪いけど台北支店へ行ってくれないか?」
「え、台北……ですか?」
「現地法人との交渉で言葉ができる人材がほしいんだ」

 私の語学力が欲しいと言うことだった。私は、一旦それを持ち帰り彩子に相談する。出来ることなら、すぐにでも行きたかった。でも——フランソワのことが気掛かりで、すぐに返事は出せなかったのだ。
 彩子は転勤の話を手放しで「すっごいじゃない!」と言って自分のことのように喜んでくれた。

「フランソワのことが気掛かりで持ち帰って来たんでしょー?」
「う……うん」
「優しいわね、アンタ。さすが道端の小さな命を救っただけあるわ」
「義務だからね。命を救うってそういうことだと思うし……」
「安心しなさい?私とリョータでちゃんと大切に育てていくから」
「え……」

 彩子は「大出世よ?このくらい良い事がないとやってられないわよね?」とウインクをして私の肩をポンと叩く。私も久しぶりに自然と頬が緩み彼女に笑顔を返して肯いた。
 それから私は急いで手続きをした。ばたばたと忙しい毎日の中でも、出発の日は刻一刻と迫って来る。台北へ発つ日、空港で私は寿くんに最後のメッセージを送る。


 ��ありがとう。お幸せに��


 ちゃんと送られたのを確認してから彼の連絡先も写真も履歴もメッセージもすべてのメモリーを削除した。
 ふと時計を見ると、まだ出発まで時間がある。ラウンジでコーヒーでも飲もうと思い、買って、一口飲んだ瞬間——まずい。胸を突き上げるような嘔吐感。そして私はそのままトイレに駆け込んだ。

「……、」

 え——。まさか……。
 鏡のむこうでは不安げな顔をした私が私を見ている。一先ずトイレから出て、ゲートへ向おうとしたとき、彩子が手を振ってやってきた。さっき心に生まれた不安が途端に涙になって溢れ出す。それを見て当たり前に彩子が慌てた。

「ちょっと!どうしたのよ?そんなに嬉しかった?サプライズで見送りに来たの」
「あ、あや……」
「……名前? なんか落としたの?それとも忘れ物でもした?」

 私の背中を擦ってくれていた彩子に、私は泣きながら全てを話した。聞き終えたとき彼女はしばらく無言になっていた。そうしてようやく彩子が口を開く。

「——出発、伸ばしましょ?会社には体調不良で五日ほど伸ばすって言えばいいじゃない」
「で、でも……」
「だってアンタ、堕ろすにしても二、三日くらいは身体やすめないと……」
「——、」

 ——堕ろす?
 その言葉に反応した私を見ていた彩子は意志の強い眼差しと口調で言った。

「だってどうするのよ!現実を見てごらんなさい?あのバカ男は別の人と結婚して、子供が生まれるのよ?」
「……」
「違う?アンタとアンタの子供はその中に存在しないのよ?悲しいけど、現実はそうなのよ名前」
「……」
「それに、あの人が知ったところでどうなるのよ?みんな不幸になるだけよ」
「……うん」
「生真面目で、冷静に判断できる。それが、いま(・・)の名前でしょ?」
「……」

 それから彩子はその足で私を病院へ連れて行ってくれた。検査した結果やっぱり妊娠していた。書類を手渡されて、明日また病院へ来るようにと説明を受けた私は無言のまま診察室を出る。

「今日は一人にして」

 ここまで力になってくれた彩子に伝えるのは酷だった。それでも今はどうしても一人になりたくて私は彩子に頭をさげる。

「わかった。でも——馬鹿なことはしないわよね?」

 心配そうに彩子が問う。それに私がはっきりとした口調で「大丈夫」と言い切ったら彩子は安心したように笑ってくれた。
 どうしても、一人で……いや、最後にふたり(・・・・・・)で、行きたいところがあったのだ。寿くんと出会った場所、すべてに——。
 告白された場所、いつも話したコンビニ。あと——夏に行った湘南平。恋人たちが、永遠の愛を誓って南京錠をかける「愛の南京錠」発祥の地。二人の愛が成就することを願い、湘南平の展望スペースに南京錠を掛けた思い出。
 私は心の中で話しかける。——あなたのパパがどんなに素敵な人か。どんなに優しい人か。そして、勇気のないママを責めていいんだよって……そう、お腹に手を添えて伝えた。

 翌日——私は病院へ行って手術を受けた。目が覚めたら全部終わっていて、私の頬には涙の痕がくっきりと残っていた。診察室から出てきたとき目の前に彩子がいて私は目を見開く。

「大丈夫?」

 彩子が泣いている。「ごめん、私が泣く立場じゃないのに」って言いながら。彼女のすすり泣く声が病院の廊下に響く。

「大丈夫だよ」

 私は、そう言って小さく笑った。


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