恋時雨(6/7)
彼女が出て行ってから、俺の毎日は荒れ放題だった。幸いだったのはシーズン前だったってことくらいだ。すぐに元恋人がマンションにやって来て一緒に住む流れにもっていかれる。あれこれと俺が世話を焼く日々。
雑誌に婚約を取り上げられ相手の知り合いからリークされたと知ったとき、もはや俺は怒りすら湧かなかった。無感情だ。なんかもう、どうでもいいわっつー感じで。
高校時代、膝を怪我して自暴自棄になったときと全く同じで自分で自分を嘲笑う。やっぱり一度人生の歯車が狂ってしまうと修正するのは難しいらしいことを改めて思い知らされる。それでも、雑誌に出た内容は、最終的にチーム側が否定してくれたことだけが救いだった。だって、結果的に元恋人と婚約するっつったって俺の気持ちはそこにねぇから。
もうすぐ自分の遺伝子がこの世に産み落とされるってのに俺は夜中に抜け出しては好きでもねぇ女を抱きまくってやった。この行為、異性間交流——セックスで、すべてが狂ったって言うのに。ほんとに俺は救えない野郎だ。
それでもこれ以上、俺みたいな人間の遺伝子を世に生み出すわけにもいかず避妊だけはしっかりとやった。足の付かない相手を選んで。
酒の量も増え、ああ、何やってんだ俺、って。最低な男だなって一人、悔し涙を流したりして。めちゃくちゃ虚しくなって、彼女の……名前のいない寂しさの隙間を埋めるはずが余計に思い出して苦しくなる始末。
ああ、もうこの際どっかに消えちまいてえわ。
彼女が出て行って三ヵ月が経った頃、元恋人の妊娠が、偽妊娠であったことがわかった。それに付け加えて俺とはあの日、なにもなかったことも判明する。酔っぱらっていて記憶のない俺には、否定も肯定もする権利はなかったけど。それでも元恋人とはすぐにきっぱり別れた。それがせめて俺にできる、名前への……つぐないだと思ったから——。
そして元恋人のことを家から追い出したあと、こちらから接近禁止命令を出した。なのでその後あいつとは一切関わっていない。今ではしっかりバスケットだけに励む日々を送っている。女も、酒も一切やめてから月日が経って気付いたこと。一人になって出来ないことの多さ。溜まっていく洗濯や毎日の外食。予定のない休日は、決まって孤独を持て余してしまうことなんかも。
いっぱいもらっていたアイツからの小さな優しさ。アイツが引き出してくれた俺らしさ。改めて何気ない事の方が大切なのだと気付いた。だけど今は、思い出の浜辺にもやっと来る事ができた。あれはたしか、雨の中での夏祭りの日。浴衣姿の彼女の後ろ姿が今でも脳裏に蘇って来る。痛みはやがて強さに変わると心のどこかでは分かっていても夏の海を見ると必ず、お前を思い出すよ。
愛の言葉を鍵に書いた湘南平で「ずっとラブラブね」って言ってくれた笑顔を忘れるために——夏の海のオレンジ色の空を見ながらそろそろ俺も前を向かないといけないよなと溜め息を吐く。
ただ、どんなことを思ったって彼女を裏切ったことには変わりない。彼女が今さら許してくれるはずがない。
高校一年の春、自身の誕生日を迎えるカウントダウンが迫っていた五月——俺が膝を壊したあのときから、やっぱり全てが変わってしまった気がしてる。ずっと孤独に怯えながら、けど、絶対に負けたくねぇとガムシャラに前だけを見てきた。��大切な何か�≠�忘れてないかなんて問いかけた空はいつだって晴れ渡っていて。お前は今の俺をどう思うだろう。俺は俺らしく生きてるか——?
最後に届いた彼女からのメッセージ。
��ありがとう。お幸せに�≠ニ、画面に映った彼女からのその白黒の文字をなぞってみる。俺も最後に、今だから言えるかも知れない。世界で一番、お前を──名前だけをただただ、愛してたってことを。
紅の夕暮れを眺めては柄にも無く純情に憧れてた若かったあの頃。それでも群青色の夜明けには自分を戒めたりもした。きっと俺も、億千の星の中いつか一途になれる
綺麗になれよ、カッコ良くなるぜ、幸せになれよ、俺は——BIGになるぜ。
本当にこれが最後だ。遠く届かないお前へ伝えたい。大丈夫だ。一歩一歩、俺は、俺で頑張って歩いて行くからな、って。
*
それから、約一年が経とうとしていたある日。彩子と会う機会があった。というか、二人きりで会う機会を宮城に設けてもらった、と言った方が正しい。
というのも彩子ががっつり俺を避け続けていたから話そうにも宮城のガードも固くてどうしようもなかったってだけだけどな。
彩子に聞きたかったのはもちろん、彼女のことだ。それがけが知りたかった。傷ついてるだろうな、すこしは、元気になっただろうか?
「——あの子、元気ですよ。」
彩子の言葉に俺は安心する。そんな俺を見て彩子はあからさまに大きく溜め息をついてみせる。
「がんばってんだろ?」
「ええ、がんばってますよ」
強い口調で話していた彩子が突然しゅんとして俯いた。俺は「あ?」なんて間抜けヅラを晒す。
「あぁー!もう限界よっ!!」
いきなり叫び出す彩子に俺はぎょっとしてその顔をまじまじと見た。落ち込んで叫んだと思ったら、今度は今にも泣きそうな顔で「うーうー」と唸っている。……大丈夫かコイツ。若年性更年期とかじゃねーだろうな。
「三井先輩と別れてっ、元恋人との婚約の記事が出たじゃないですか!?」
「お、おぅ……」
「あの時ちょうど転勤の話が出て……行くことになったんですよ」
「ああ、そうだったのか……」
「キャリアアップになるし、大出世ですもん。 行くべきだって言いました私だって」
「……そりゃあな、誰だって言うだろうよ」
「でも……見送りに行ったら彼女、空港で体調悪くなって……吐いて……病院連れてったんです」
優雅にコーヒーを啜っていた俺の手がぴたりと止まる。カチャンとコーヒーカップを置き、真っ直ぐに彩子を見て問う。
「どっか……悪かったのか?」
そんな俺の視線を避けるように目を逸らして、また俯いた彩子がぽつりと言った。
「……妊娠、してたんです。」
身体が凍ったみたいに動けなくなった。時間が止まる。油断したら息も止まりかけるところだった。俺の脳裏に彼女の顔が浮かぶ。
「あの子は、産みたそうだった。でも——三井先輩は他の人と結婚して家庭を持つのに、生んだらみんなを不幸にしかねないって言って……説得したんです、私……」
「………堕ろした、のかよ?」
こころなしか俺の声が震えている。彩子は頷いたままだ。そして、すっと顔をあげて今度は彼女が俺を真っ直ぐに見て言った。
「——三井先輩、子供のことはショックかも知れないけど、一番傷ついたのは誰だと思う?」
「……」
「名前ですよ。女の人は身体も心も傷つくんです」
「いま、名前は……?」
「それからすぐに転勤しました。今は海外にいますよ」
「どこだ! どこに行った?!」
俺は思わず立ち上がり両手でダンとテーブルに手を付くと彩子の方に身を乗り出しながら問う。
「あの子が、誰から聞かれても教えるなって言ったから……だからこれは約束だから言えません」
「……」
「例えリョータの信頼してる、先輩でも——。」
意志の強そうな彩子の瞳と言葉に俺は押し黙るしかなかった。そのまま彼女と別れて俺は部屋に帰り、電気も付けずソファに座っていた。
一人で、どんな気持ちで、手術うけたんだよ。なぁ名前……教えてくれ。俺はどうしたら許してもらえるんだ?命を奪ったことと、おまえを傷つけたこと。あと、他は何だよ?……きっかけはすべて俺だ。それは認める。
——なあ、名前……教えてくれ。
*
三井先輩と久しぶりに会ってから数週間後——私は休暇を取ってあの子のいる地、台北に遊びにやって来た。当たり前に彼女の自宅に泊めさせてもらった夜、お風呂に向かった彼女を見送り海外の部屋が珍しくて私は部屋の中を歩き回る。
一通り見物させてもらいソファに戻ろうとしたとき机の上にあがっていたらしい彼女のシステム手帳を落としてしまった。そのとき、中から飛び出した一枚の写真——そこには三井先輩と彼女の笑顔があった。……あの子、まだ持ってたのね。私はいけないとは思いつつも、手帳の中をそっと開いてみる。もう一つパウチされた白黒の病院で撮った、あのときの超音波の写真。名前……アンタ何やってんのよ。
ちゃんと大事に持ってたんだわ、あの子。でも誰にもこの子の気持ちを軽くするなんてことできないだろう。彼女はまだ傷ついたままなのだ。
私は手帳を元あった場所に戻しておこうとソファから立ち上がった。机の上に手帳を置いたときなぜか引き出しに目が止まる。もうここまで来たらと無遠慮にもその引き出しを開けてみた。奥にあったのは——三井先輩宛の手紙。しかも何通も何通も。……ばかね、あの子。出したらきっと、あの人なら迎えに来てくれるのに。すぐに飛行機に飛び乗っちゃうわよ。でもアンタは……それを望まないのよね。今でも自分を責めている、この写真が証拠だわ。
彼女がそろそろ戻ってくる。でも私は手紙だけ引き出しから取り出して自分のキャリーケースの中へとこっそり入れた。やるだけやってみようと思ったのだ。彼女のために。ずっと十八歳のあのときから、自分を戒めて生きてきた、高校時代の大切な……先輩のために——。