「おっ、いたいた、名前。」

夜、居間でビールを飲んでいると三井くんが下りてきた。寝起きなのか、いつも以上に気だるげに見えるけど、彼は私を見てニヤニヤしている。

家に私ひとりだと思ったから、三井くんが突然現れてびっくりした。今日からお盆休みに入って、両親は故郷に帰省しているし、ほかの下宿生たちも皆里帰りしている。

うちは民宿と下宿屋を営んでいて、三井くんは大学のスポーツ特待生としてうちで下宿している。盆休みだから民宿は休業。下宿生は全員里帰りしているものだと思い込んでいた。

「いーもん飲んでるな。」
「まーね。三井くん、実家に帰らなかったの?」
「帰ったぜ。家近ェから、日帰りで。」
「みんな帰ったと思って食事とか用意してないや。ごめんね、お腹すいてない?」
「大丈夫だ、実家で死ぬほど食ってきたから」

麦茶を注いだコップを持って、彼は隣に当たり前のように座ってくる。柔らかいソファが軋んで、三井くんのほうに重心が傾いて脚と脚が触れそうになったから、そっと姿勢を正した。

「名前はお袋さんたちと出かけなかったんだな」
「うん、てか……呼び捨てやめない?」
「あ?なんでだよ」
「あのぉー、一応わたし、年上なんですけど…」
「別にいいじゃねーか、減るもンでもねーし」
「まぁ……いいけどさ。あ。下宿生たち、明後日からぼちぼち帰ってくるからね」
「じゃあきょう残ってんの、オレだけか?」
「そうだよ」
「ふーん……」

三井くんは、楽しそうに麦茶を飲んでいる。私もビールを飲んで沈黙をごまかした。

もしかしてこの状況はやばいんじゃないかとちょっとだけ思った。こんな夜更けに大学生とふたりきりなんて。下宿屋開業以来初じゃなかろうか。

まさか三井くんが私に下心など抱くはずがないと思うけど……三井くんは大学の宝でスーパースターで元MVPと言われていて見た目もすごくいいしぜったいモテるタイプだ。そんな子が、わざわざ年上の酔っ払いに妙な気を起こすはずがない。

……たぶん。とりあえず、意識せず冷静に努めよう。私は大人なんだから。

「三井くん、先にシャワー浴びてきたら?」
「はっ?」
「え? もう遅いから、どうかなって」
「ああ。もう浴びた、お先。」
「あ、そうなんだ」
「……つか、驚いたぜ」
「えっ?な……なんで」
「なんでって……」

なんでだろーな、と三井くんは軽く笑っている。なんでびっくりしたんだろう、と考えて、なんだか背中に汗がじわりと滲んでくる。まるでラブホでの発言みたいだったのかな、もしかしてという気がしてきたからだ。

いや、でも。普通そんなこと思うだろうか?他に心当たりが見当たらないけれど。

こういうとき、完全におばちゃんのノリで「やだもー、やらしい言い方だったー?」なんて言いながら三井くんの肩を叩いたらいいんだろうけど、いまの私にはそれができない。その余裕が、いまひとつない。

ただ、黙っているのはもっとまずい。なんとなく空気が変わったような気がする。三井くんはこっちをじっと見てるし、これはまずい。とにかく、なんらかのリアクションをしなければ……

「いやいや、深読みしすぎ!」

「……よ?」と、三井くんの腕を軽く小突くと、その腕がすごく筋肉質で私の肘が弾き返された。三井くんは白い歯を覗かせながら、悪ガキみたいな顔をして、まだ笑っている。

「ふはっ、ワリーな」
「びっくりするじゃん、もー。」
「勘違いしちまってよ。名前って、やらしーんだなって」
「は〜?やらしくないじゃん、清純派じゃん」
「あー、じゃあやらしいのはオレのほうだな」

屈託なく朗らかに笑いながら、そんなこと言えるのはどうしてだろう。私はきっと、そんなふうには言えない。そうだ、と、はっとした。

三井くんは、色気があるのだ。ただ顔がきれいとか、見た目がいいだけじゃなくて、独特の雰囲気を持っている。近くに座っているだけで、意識を奪われてしまうような、目力がある。その色気に気おされて彼のペースにハマってしまう。だから三井くんは余裕があるのだ。

そんなふうに、睫毛が長くて、つやつやしていて切れ長の彫りの深い瞳は黒くて、どこか物憂げでそれで……

「……なに?なんで、じっと見てくるの?」
「あン? 名前が、じっと見てくるから」
「いや、三井くんが先だったよ」
「いんや、名前が先だった」

見つめあっていたという事実にはたと気づいて、なんだか顔が熱くなってくる。ビールのせいかな。三井くんはいつもどおり、かけらも照れた様子がないし、主導権は依然彼の手にある。

大学生のくせに……、だけど三井くんは、ただの学生じゃない。あの三井寿なのだ、という気にさせるものが彼にはある。風格?オーラ? ああ、そうか、色気もだったっけ。そうだった。

「名前ってよ、」
「……ん?」
「表情豊かだよな」
「え……、そ、そうかな」
「ああ、見てて飽きねぇもん」
「三井くんは、いつもあんまり変わらないよね」
「そうか?」
「うん。生意気か、生意気じゃないかの違いしかわかんない」
「なんだ、それ」

ガハハッと笑った目じりに、睫毛の影が落ちる。眉と瞳の間隔が近くて、よく片方の眉の端がついっと、持ち上がる。高い鼻筋と、いたずらっぽいくちびる。見てて飽きないのは三井くんの方だ。その端正な顔立ちに三井くんという人柄が加わるとそんなにも鮮やかな存在になってしまうのか。

なんだか、さっきよりもずっと変な空気になっている気がする。三井くんは、私の席の背もたれに腕をかけていて、肩を抱かれているような体温を感じて、落ち着かない。


「ふたりきりだな」

ビールを噴きそうになって、急いでごくんと飲みこんだ。三井くんは、なにも映していないテレビ画面を眺めている。爆弾発言をしたと思えないほど穏やかな横顔。ふたえ目蓋がぱちりとまばたきしたあと、黒い双眸そうぼうが私を捉えた。

「うん、まあ、そうだね」
「……警戒してんのか?」
「え。」
「なんかいつもと違ぇ。」
「そうかなぁ。三井くんがいつもより、なんか、近いからじゃない?」
「近い?」
「うん、ちょっとだけね」
「イヤか?」
「イヤ、じゃないけど……」

ぎし、とソファが軋んで、私はびく、となった。三井くんが動いて、何かが起きるのかと思ったのだ。ただ身じろぎしただけだったのに。

きれいな横顔が、ふ、と短い吐息を洩らして、鳥肌が立つ。切れ長の瞳が、星空みたいにキラキラして見える。実際にキラキラしているのか、心理的にそのような効果をもたらしているのか判別がつかない。だけど……流し見るようなその視線と視線が重なったとき、あ、と思った。まずいな、って。

自分の気持ちが、ぎゅっと三井くんのいるほうに引き寄せられた感覚があった。

「……オレはもっと近づきてぇけどな」
「……」
「これでもかなり遠慮してんだけど」
「えぇ……」
「名前、軽く酔ってるだろ?」
「あ……うん」
「ちょっと赤くて、いい匂いがして」
「……」
「すげー、きれいだ。」

ぎしり、またソファが軋んで、背もたれの腕が、そっと私の肩に回された。

ワー!とか、ヒー!とか、そんなふうにバタバタ慌てている自分と冷静に三井くんの様子、そして自身を眺めている自分がいる。

三井くんの腕、すごくがっしりしている。硬くてあたたかいその腕、優しく支えている手。視線を重ねると、眉をぎゅっと寄せる。そして照れくさそうにくしゃりと笑った。

「名前」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
「あっ?……そりゃむずかしい注文だな」
「いやちょっと待って、タンマタンマまずいよ」
「……待たねーよ、こんなチャンスもうねーし」
「……」
「名前」
「……」

「好きだ」


ぐうん、とめまいがした。肉体と理性が乖離する音だった。

受け入れられないのに、流されてしまいそうになる。からだの中で、細胞が活性化している。脈は早いし、たぶんずっと緊張している。

私は、三井くんに恋することを恐れていたのだ。きっとずっと前から、固くフィールドを張って、自分の感情を守っていた。三井くんの気持ちを考えたことなんて多分一度もなかった。恐いから、臆病だから、自分のことしか考えられなかった。

「……」
「……つか、聞いてんのかよ?」
「え。あ、うん」
「ダメか?」
「なにが?」
「キスしてぇ」
「!?、ダメ!絶対ダメ!!!」

もはや、冷静に客観視している私は消え、慌てている自分だけが取り残された。

いい匂いがするな、と思ったら、いつのまにか、三井くんに抱き寄せられているし。さっきは遠慮がちに肩を抱いていただけだったのに。

私の反応は彼の予想どおりだったらしく、断られたというのに勝ち誇ったように口の端を吊り上げて微笑を浮かべている。

「あのね、三井くん、あなた未成年でしょ?」
「は?」
「その余裕はなんなの?わたし、もう頭がパンクしそうなんだけど……」
「は、……余裕なんか」
「ある!絶対ある、少なくとも私よりある!」
「ハハ、いま、ねーの?」
「ないよ、困ったよ……」

いまどきの大学生こわい……。みんなこんな感じなのだろうか。私には分かりかねる。こんなこと色んな子にしてるのかな……あ、あれ?私、何か落ち込んでる……?

「オレもねーよ」
「またまた、」
「さっき言ったとおり、オレは未成年、名前は大人だ」
「……」
「余裕なんかねぇよ」

湿った低い声が、こめかみのあたりから聞こえてくる。穏やかであることと淡々としているということは一見して似ている。三井くんが今どちらの状況であるのか私にはわからなかった。

けれども彼が、静けさを装っていることは伝わってきた。私を抱き寄せる腕が手が、指先が、その熱を訴えていた。

もし三井くんがうちの下宿生じゃなくてせめて成人してたら。きっと他の女の子たちと同じく半分本気、半分ファン、みたいになっていたと思う。

だけど三井くんはうちの下宿生で、つい最近まで高校生で、未成年で。だから流されるわけにはいかない。きっとその手を取ったら、すごくすごく幸せで、満たされるのだろうけれど。


「だめだよ……」

ゆっくりと胸板を押すと、びくともしなかった。筋肉の分厚い感触に驚いて、それでも意を決してもっと強く押す。私の抵抗に三井くんはゆっくり腕の力をゆるめて体を離してくれた。

三井くんの顔を見るのがこわかった。きっと三井くんはもう笑っていない。いつもの生意気さや人懐こさが消えた顔をしている。それを見た瞬間、自分が傷ついてしまう気がした。

「他に……好きなやつ、いんのか?」

そっと響いた声。ぎゅっと体の中枢を握られたような、苦しさを感じる。ソファにふたりで向かい合って至近距離で座っている。逃げ場がないってこういうことだ。

「……」
「名前」
「……」
「こっち見ろ」

三井くんの顔を見るのがこわくて俯いていたけれど、甘い言葉に誘われるように見上げてしまう。

三井くんは予感したとおりもう笑っていなかった。真面目な顔をして私をじっと見つめていた。長い睫毛の下で黒い瞳が思わしげな表情を見せていた。

「いないよ、好きな人なんて」
「……なら、」
「だけど、だからって三井くんとそういう関係にはなれないよ……」
「……」
「淫行になっちゃうじゃん……」

三井くんは眉間に皺を寄せながらも、真剣に私の言い分に耳を傾けてくれていた。けれども、ある瞬間から微かにまなじりが和らいだ。

「淫行?」
「そうだよ、三井くん未成年だし。」
「もう19歳なったぜ」
「いや、そーいうことじゃなくてさ……」
「ふーん……っぷ。」
「え、なに笑ってんの?」

可笑しそうに口元を緩めている三井くんに、私はびっくりした。さっきまで真剣に聞いてくれていたのに、なにが可笑しいのだろうか。しかし彼は見れば見るほどもう我慢できないと言った具合にますます破顔してしまう。

「ワリぃ……つい……」
「笑うところじゃないでしょ、もー。」
「今日、そこまで望んでたわけじゃなかったからよ。好きだって言えりゃいいなって」
「え?」
「なのに名前がエロい心配までしてくっから」
「……」

私が呆然としているのを見て、三井くんは、まだ可笑しそうに朗らかにニコニコしているえ?……だって、え?……夜にふたりきりで告白されたらそうなのかなって心配しちゃうじゃん!?やばい自分の顔が熱くなっていく。

「名前」
「なに。……やらしーって言いたいんでしょ」
「いや?真面目だなーって」
「……」
「さすが、自称清純派なだけあるな」

肩のあたりをチョップしても、三井くんはまだ笑っている。なんだかつられて私まで笑えてきた。ひとしきり笑って、ようやく治まった頃、彼は、短くため息を漏らした。

「淫行はしねーよ、我慢する。」
「……。できるの?」
「20の誕生日だろ?1年もねーし大丈夫だろ、多分。」
「……」
「よし、解決だな」

そもそも誕生日いつなんだろう、と考えているとふわっと体が動いて、あたたかい腕に抱き寄せられていた。

「……これはセーフなの?」
「おぅ、セーフセーフ♪」
「……」

三井くんはいつもの悪ガキ顔で笑いながら、片手で麦茶を飲んでいる。長い睫毛、高い鼻筋、きれいな横顔、顎下の傷、余裕のある表情。完全にいつもの三井くんなのに、突然距離がなくなって圧倒される。

私、もしかして流されたのだろうか。まだなにも返事してないのになんだかもうお付き合いしているみたいな雰囲気なのはどうしたことだろう。

流されたんじゃなくて、流れていったのかな自分から。それから、しみじみと三井くんのことが好きなんだなぁ……と思って、なんだか幸せに感じた。

きっとこんなことがなければ一生封印して、押し殺して苦しくなっていただろう。だけどこうして三井くんを好きだと認められて、ただただ、嬉しかった。三井くんも喜んでいる。好きな人が自分を好きでいてくれるって、奇跡みたいだ。

もしかしたら、我慢できないのは、私のほうかもしれない。絶対に言わないけど。










 我ながら 完璧 な舞台設定。



(これ、明日からどんな顔したらいいのかな。)

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