あ、わたし今、恋をしている

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  • 大学でもバスケ部に所属している、絶賛遠征中の三井くんから、自宅に電話があった。

    仕事を終えて、部屋で雑誌を眺めていたら、「電話ー!三井寿くんから!」とテンション高くフルネームで母が告げてきたけれど、一瞬なんのことだかわからなかった。

    三井くんは中学、高校時代も保護者会やPTAでもスーパースターだと有名で、そんな彼からの着信は母にとっても相当な驚きであったことだろう。

    高校三年の頃から急激に三井くんと話すことが増えたが、今では三井くんは大学生。私は大学へは行かずに就職の道を歩んだ。

    携帯電話の番号も交換していたし、たまにメッセージのやり取りもするけれど、電話は嫌いなのか互いの番号を交換したあとも、電話をすることは一度だってなかった。

    だからこそ、なぜ電話?しかも、なぜ家の電話宛に?と、不思議に思いながらも子機に切り替えてもらって部屋の扉を閉めてベッドに座ってエリーゼのためにを流している保留音から通話を再開した。

    「もしもし……お電話代わりました」
    『……名前?』

    電話の向こうから、三井くんの低い、それでいて余韻の残る声が、鼓膜に響いた。

    遠くで中年女性の笑い声が聞こえてくる。きっと旅館の女将か仲居さんだろう。その後、三井くんの周囲は静かになった。


    偶然、三日前に街ですれ違った時ご飯に行った。そして明日から遠征に行くとの話だったので帰ってきて、また時間があったらご飯でも行こうね、と社交辞令で言ったつもりだったが、その日の晩に『帰る日、会える?』と、メッセージが届いたのだ。

    だから、三日前も直接会って聞いたはずなのに、すごく久しぶりに感じる、その声。遠くに離れているからなのかな。それとも、電話ごしが初めてだからなのかな。

    三井くんの、長い睫毛と、黒いきれいな瞳を思い浮かべて、鎖骨の下がぎゅっとする。

    「三井くん。うん、わたしだよ」
    『よう……声、似てるんだな。お袋さんと』
    「え、そうかな」
    『一瞬、名前が出たかと思ったぜ』
    「えー、そんなに?……そっちは遠征どう?」
    『まあ……、ぼちぼちだな……』

    なんだか、もう電話が終わってしまう流れにしてしまって、すこしだけ口を噤んだ。

    ……それじゃあね、というのが、とてももったいなかった。三井くんも黙ってる。こっちは雨が降ってるよ、とか、仕事でこんなことがあったよ、とか、無難な話題はあるけれど……そんなことを話したいわけではなくて。


    ベッドから下りて、窓ごしに空を眺めた。雨がしとしとと降っている。月も星もない。暗闇から水滴の輪郭だけが、部屋の灯りに照らされては落ちていく。

    ……好きだなぁと思う。三井くんのことを好きだというこの感情が言葉のない繋がりの中で、はっきりと浮かび上がった。


    『 会いてえな。 』


    低い声が、転がすような吐息を交えて、ゆっくりと確かに耳元を舐めた。

    私は、まばたきをして、彼の言葉にうなずいた。会いたい。わたしもすごく——。

    「あ、ねえ?」
    『……あ?』
    「なんで……電話?しかも家電……」
    『実は……携帯忘れて来てよ、家に。』
    「あら……。で?」
    『家に掛けて名前の番号聞いたら、家電しかわかんねーって言うから』
    「え?誰が?」
    『母親しかいねーだろ』
    「あ、なるほど……」

    ……また、沈黙。今度こそ電話が終わってしまうと思ってそわそわしていたら、三井くんが「なにしてたんだよ」と会話を繋げてくれた。

    「あ、適当に……本読んだり、してたよ?」
    『ふうん』
    「帰るの明日の夕方だっけ。疲れてるだろうから明後日にする?」
    『大丈夫だ。明日にしようぜ』
    「うん……」
    『5時くらいに、いつものとこでいいか』
    「うん」
    『……うん、じゃ。』
    「うん、……遠征お疲れ様。帰り気を付けてね」
    『サンキュ。そーする』
    「あっ、……電話、ありがとうね」
    『どーいたしまして。あ、……あのよ……、』
    「ん?」
    『いや……。おやすみ。』

    「おやすみなさい」と返すと、わりとあっさりと通話は途絶えた。しばらく子機を握りしめて窓べから動けなかった。

    三井くんとは、たまに時間があればご飯に行ったりする程度の仲で、付き合ってるとはいえないし好きだといわれたこともなくて——だからさっきの電話で、はっきりと恋愛の形に変容したように思われて。

    明日、どんな顔していけばいいかな。結局、ドキドキして、明け方近くまで眠れなかった。








    三井くんの自宅と、私の家はごく近所で、歩いて15分とかからない。もし電車に乗って待ち合わせたりするんだったらおしゃれもできるけど、近所の海沿いで待ち合わせでは、歩きやすい恰好のほうが自然だろう。

    いつものデニムに、いつものサンダル。薄いピンクのペディキュアを施した足が、なにも塗っていないよりも子どもっぽい気がする。でもトップスだけは、買ったばかりのノースリーブのブラウスにした。

    5時きっかり、やわやわと青空を残す海岸に向かうと、座って待っている三井くんの姿が見えた。

    近づいていくと、大きな波が、三井くんの足元で砕けて、そのしぶきが私の傍まで散ってきた。


    「三井くん、おかえりなさい」
    「あ?……あぁ……ただいま。」

    その表情や髪や、声や雰囲気が、すごく新鮮で、すごく近い。実物は直視しがたい凄みがある。

    だけど三井くんはそうではないらしく、じろじろと私を眺めて「なんかよ、」といった。

    「いつもと、感じが違うな」
    「え。そう?あ、初めて着たの、このブラウス」
    「へえー?」
    「……」
    「ふーん」
    「……」
    「いいんじゃね?」

    私は照れくさくて恥ずかしくなって、口を噤んでじっとしていた。

    三井くんは、いつもさらっと言葉を口にするけど本人はさらっと言ったつもりで、少し頬を赤くして目を逸らす。それに振り回されているってこと彼は自覚ないんだろうな。

    「飲むか?」

    と、飲みさしの冷たそうなポカリを差し出されて私は首を横に振った。

    遠征がどうだったかとか、そういう話はしないらしい。三井くんはいつもどおりの彼だった。ゆうべの電話は夢だったのかなと疑ってしまいそうになるくらいに。

    「何時にこっちついたの?」
    「一時間くらいまえだな」
    「疲れてるでしょ?」
    「どってことねーよ」
    「そっか、タフだねぇ」
    「んなことより、早く顔が見たかった」

    普通の会話ができていると思ったのに、急にそんなことをいう。面食らってから、じわじわと顔が熱くなって、こめかみに汗が滲んできた。

    「わ……わたしも、毎日、三井くん元気かなぁと思ってたよ」
    「……」
    「……三井くんも?」
    「……ワリぃ。俺は毎日じゃねーけど」
    「え!」

    驚いて焦る私がおかしかったのか、三井くんは、少し肩を揺らしてクスクスと笑っていた。

    「試合とか、色々バタバタしてたからな」
    「あ、……そ、そーだよね」
    「ゆうべは、なんか……名前思い出してよ」

    ふっと、鼻にかかった息を洩らして、三井くんはもう一度笑う。

    こんなふうに、笑うとちょっと小動物みたいな目になるのが、たまらなく可愛くて、きれいだなぁと思ったのが、好きになったきっかけだった。

    「会いたくて、参ったわ」
    「三井くんさ、真顔で照れること言わないで……恥ずかしい」
    「あー、……俺も照れくせーと思ってるよ」
    「うそでしょ、なんにも変ってないもん」
    「んなことねーって」

    ぐっと右手を掴まれて、ぎゅっと胸板に押し付けられる。

    どく…どく…どく…と手のひらに鼓動が伝わってその上にある三井くんのくちびるが、そっと弧を描いた。

    「どうだ。……早ぇーだろ?」
    「えっ、うっ ……うん」

    たしかに、すこしだけ早い…のかな。
    本当にすこしだけな気がするけど。

    それよりも三井くんの手、大きくて硬くて、胸板も分厚くて、やっぱり硬くて。すこし乾燥したその手の感触は、明らかに私の手とは違っていた。

    爪が清潔に短く切られているけれど、もともとの形が細長くてきれいだ。節々がなめらかで、手の甲が筋張っていて。彼に掴まれていると、自分の手が女っぽく見えてくる。

    初めて触った手。ずっと触ってみたかった。憧れだった。


    見惚れていたら、三井くんはあっさりぱっと手を離した。それで、なんだか少しだけ眉間に皺を寄せて、つぎに弱ったように眉尻を下げて笑った。まるで本当に、照れくさそうな感じで。

    ほんとうに「参った」って顔で。


    「今日はサンキューな。」

    つやつやした睫毛がしばたいて、黒い瞳が、私を眺めた。

    海のかなたは、ゆっくりと橙色に沈みつつある。あと1時間もすれば、とっぷりと暗くなって、 三井くんのきれいな瞳を隠してしまうだろう。

    穏やかな海みたいな、深くて澄んだ、その瞳を。


    「ううん、こちらこそ、ありがとう」
    「家まで送ってく……」
    「うん」
    「立てるか?」
    「あ、うん、」

    大きな手が、また差し出される。そっと握ると、強く握り返して、助け起こしてくれた。

    立ち上がって、その手はやんわりと力が抜けて、私も握るのをやめた。お尻に付いた砂を払って、ふたりでゆっくりと歩きはじめる。

    三井くんの左手はポカリの缶を持っていて、右手が空いている。繋いでみたいけど、きっと心臓が長くは持たない。


    なめらかな小麦色の砂浜が広がっているのを眺めながら、堤防をまっすぐ歩いた。

    潮風が吹いて、三井くんのバスケ部専用のポロシャツの襟から、石けんの匂いがした。

    いままでは、一歩分は距離をあけて歩いていた。だけどいまは、一歩分近く、腕が時々触れる距離で歩いている。

    半袖から伸びる三井くんの腕は、筋肉でぎゅっと締まっていて、熱を帯びている。とん、とん、と、さっきから何度も当たっている。そのたびに当たったときの優しい振動が、胸に響いてくるかのようだ。

    胸がいっぱいで、なにも話したいことがない。きっと無難な話題は蛇足に感じる。でも、黙っていると自分の心臓の音に負けてしまいそうになる。


    好きだなぁという気持ちでいっぱいだった。どんどん好きになってしまう。こわいな、とも思う。

    こんなに好きになったら、きっと自分をコントロールできない。


    「少しぶらついてくか」
    「うん、いいね!」

    三井くんの右手が、手探りで空気を掻き分けて、私の左手をぎゅっと掴まえた。

    ずっと高いところにある、三井くんの顔。いつも見上げてた、いつも憧れてた、その瞳が、高い鼻筋が、端整な口元が、下顎の傷が、いつもよりも少しだけ近い。


    同じ気持ちだと期待してもいいのかな、——いまはまだ、はっきりと言葉にしていない。もう少しだけこのまま言葉にするのがもったいないから。


    不安も、焦りも、ふしぎなほどない。三井くんのしっかりと固く結んだ手が、これからの未来を、信じさせてくれている。










     あ、わたし今、をしている



    (なあ、名前で呼べよ)
    (へ?)
    (………)
    (あ、……ひさし、くん?)
    (ふはっ、……いいな、それ。ハマりそ。)

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