カーテンの隙間から差し込む光は冬の終わりに似た白金色で壁を静かになぞるように滑りベッドの上にふわりと影を落としていた。光が彼の頬に触れ、わたしの睫毛の先で跳ね、そうして時間はまるで誰かの深呼吸に合わせているかのように、静かに進んでいるようだった。

 その朝、私はなぜだか��もう失いたくない�≠ニいう感情を先に思い出した。胸のうちにかすかにざらつくその感情を押し込むようにまだ温もりの残る掛け布団の奥で、彼の寝息のリズムを、ただ感じている。眠りの底からゆっくりと浮かび上がってきた意識が最初に認識したのは、隣にある、確かな体温だった。その体温の主、緋色の羽根を持ち、いつも空に名を呼ばれているその人が今は静かに、私の隣で眠っている。やわらかく乱れた陽光を編んだ髪色と頬に落ちた影、無防備にゆるんだ唇。夢の中で何度も求めたその姿が今はまるで嘘みたいに現実で、こんなにも近くにあることがまだ信じられず、私はただじっと、彼の寝顔を見つめていた。
 昨日、わたしの名前を何度も呼んで「好き」と祈るように繰り返してくれたその口が今は静かに閉ざされている。この時間が、永遠であってくれたら。そんな淡い願いが胸の奥でそっと水を打ったように広がっていく。

「……夢じゃ、ないんだね」

 わたしの小さな呟きが空気を揺らした瞬間——彼の長いまつげが、かすかに震え、まぶたの奥にあった朝の気配が、ゆっくりと、この部屋に射し込んできた。

「あ……起こし、ちゃった?」

 その問いに、彼はまだ夢の余白を纏いながら、わずかに目を細めて、柔らかな声で返した。

「んー……、もともと起きかけてましたよ?気にしないで」

 その声が、胸の奥に、やわらかく降りてくる。眠たげな瞳には、わたしの顔だけを映していて、光の粒が彼の瞳に反射して揺れ、まるで、心の奥まで透かされるような感覚に、私は少しだけ息を呑んだ。

「おはょ、名前ちゃん」

 少し照れくさそうに、けれど確かな温度で告げられるその挨拶に、わたしは同じ温度で返した。

「おはよう……啓悟さん」

 その名前を呼ぶと彼はふわりと布団の中で羽根をたたむようにわたしの胸に顔をうずめて、腕の中に、わたしを迎え入れた。

「……ねぇ、あと少しだけ、こうしてていい?」
「え……?」
「あと……10分。いや、11時まで。」
「……」
「いや——君が隣にいてくれるなら、今日はもうそれだけでいいかもね」

 くすっと笑いながら、でもその声は、どこか、心細い子どもが言うみたいに震えていて、私は、小さく頷くしかなかった。

「わがままですね」
「……だって名前ちゃんが隣にいると、わがまま言いたくなっちゃう」
「……」
「いいでしょ? 恋人の特権ってことで」

 そう言って彼は私の髪に顔を埋めた。彼の頬が触れた場所からすうっと安らぎが溶けていくような感覚が広がって私は言葉もなく彼の存在を受け入れるしかなかった。

「君の匂い、落ち着くんだよねぇ。ずっと探してた、帰る場所って感じで」
「……ちょっと、大袈裟ですよ」

 私がそう言えば彼はふふっと喉の奥で笑って、でも、その笑みは、ほんの少し寂しげだった。

「あのさ……」
「ん?」
「こういう朝を、これからもちゃんと迎えたい」
「……」
「隣に君がいてくれるだけで、ほんと、充分なんだけど。それでも、ずっとって願うのは、欲張り
……っぽいです?」

 彼が口にした��欲張り�≠ニいう言葉は私の胸の奥に深く沈んで、やがてひらりと溶けていく。

「……欲張ってください。だってわたしも、そう思ってたから」

 彼は何かを飲み込むように小さく息を吸って、それからゆっくりと唇を重ねてきた。そのキスは昨夜とは違って確かめるように静かでぬくもりを伝えることに全てを費やしているようだった。

「……じゃあ今日、予定なかったらさ、このまま昼まで一緒に寝よっか」
「私、朝ごはん作ろうかと思ってたんですけど」
「え、それ……ほんとに惚れ直すやつですよ?」

 ふっと照れたように笑いながら彼はまた、私の胸元に顔を埋めた。まるで大人のふりをした少年が一番あたたかな場所を見つけてしまったように静かに甘えるような呼吸で。

「――ん、でも、その前にさぁ……」
「ん?」
「もっかい、キスしたい」

 その遠慮がちなわがままに、私は頷くしかなかった。柔らかな唇が触れるたび二人の間に流れる時間は、音を立てずに止まってしまったようで。
 けっきょく私たちはベッドから抜け出すまでに何度も目を閉じては確かめるように時を重ねた。けれどそれは、何にも代えがたいほど贅沢で――まるで、世界がふたりだけに許してくれた猶予のようだった。

 明日が来ることも未来がいつかこのぬくもりを連れて行ってしまうこともわかっている。だからこそ、この朝を、心に刻んでおきたかった。
 今だけは、二人がここにいるというそれだけで世界の全部が満ちていたから。


 *


 キッチンに立つと、背中にまだ、彼の温もりが残っていた。
 焼き網の上で音を立てる鮭の切り身、味噌汁の湯気がそっと立ち昇るたびに、部屋の空気にゆるやかな輪郭が生まれていく。手元を動かしながらも、耳はずっと彼の寝息を探していて、気づけばその静けさが名残のように部屋を包んでいた。

「……ん、いい匂い〜……」

 その声が聞こえたとき、わたしは振り返るより早く、彼の存在を気配で感じていた。
 くしゃくしゃの髪、少し眠たげな目。シャツの襟元を指で直しながら、それでもどこか、子どもみたいに幸せそうに笑っていた。

「おはようございます。起こしちゃいました?」

 問いかけると彼は小さく首を傾け、ふにゃっとした声で答えた。

「ううん……いやぁ、名前ちゃんの匂いと、出汁の香りにノックアウトでした。これはもう、目覚まし時計より効きますね」

 言葉の端に滲む眠気と甘さに、思わず笑ってしまいそうになる。でも、笑わなかった。まだ夢と現実の狭間にいるような不確かなこの朝が、壊れないようにそっと呼吸を揃えていたかったから。彼が背中からそっと腕を回してくる。重くはないけれど、確かにここに在る体温。そのまま頬を、私の肩に預け、言葉ではなく、呼吸で朝を伝えてくる。

「……ねぇ、その卵焼き……甘め?」
「え?」
「俺、甘いの好きなんです。お弁当に入ってるとテンション上がるやつ。ふんわり甘くて、ほっとするようなやつ」
「ふうん……」
「あ、でも関西風のも好きですよ? 普通に」
「そうなんだ……じゃあ、次は甘めのやつを練習しとく」

 そんな何気ない会話の中でなぜだか心がふっとほどけていく。当たりまえのようなやりとりが、こんなにも愛おしいだなんて、きっと昨日までのわたしは知らなかった。

「え……やばぁ、それ、」
「え?」
「また、惚れ直すやつじゃん……俺、もう……」

 そう呟いて彼はまた肩に顔を埋めてくる。胸の奥がじんわりとあたたかくなる。まるで朝という名の羽根布団の中でふたりだけが呼吸をしているようだった。

「……っ、俺、結婚したいです」
「えっ、気がはやくない?それ」
「いやマジで。もう好きが限界突破してまーす」

 言葉の温度が、冗談と本音の境界をやわらかく越えてきた。
 限界突破なんて笑って言うからつられて笑ってしまいそうになるけれど、その目はまっすぐで、少しだけ不安そうで、けれど何より——まっすぐだった。私のなかに、ゆっくりと、熱が広がっていく。まるで彼のその言葉が静かに心のどこかに灯をともしてしまったみたいに。
 ほんとうに結婚なんて、まだ現実味がないのに彼の声でその言葉を聞いた瞬間――��もしも�≠ェこんなにも優しく響くんだって、初めて知った。

「……あのさ、名前ちゃん」
「ん?」
「こうやって朝ごはん作ってくれて、俺がそれを美味しいって思える日常がほんとに……ほんとにしあわせだなぁって」
「うん……」
「今まで、ちゃんとした朝ってあんまりなかったからさ……ヒーローってね、朝にちゃんと誰かが一緒にいるって感覚、薄いんスよ」

 彼はそう言って、やわらかく笑った。でもその笑顔の奥に、ほんのすこしだけ、寂しさが透けて見えた気がした。

「……今日は、もう11時まで、何もしないって決めた」
「えー?それ、本気だったんですか?」
「うん。味噌汁が熱かろうが、卵焼きが甘かろうが、君の作ったものなら全部、俺の一部になる」
「そんな言い方されると……また、甘やかしたくなっちゃうじゃないですかぁ」
「えっ? 甘えても、いいんですか?」
「ははっ。ええ、どーぞ?」

 そんなやり取りを交わしながら、ふたりでテーブルにつき並んで朝食を囲む。そして彼は、箸を手に取り「いただきます」と小さく囁いてから、ひとくち味噌汁を口に含んだ。すると彼がほっと息を吐くように「ん〜、うまぁ……」と呟いた。

「よかった。寝ぼけて包丁持ってたからちょっと心配だったんだけど」
「え、なにそれこわっ。俺が寝てる間に、そんなデンジャー起きてたの?」

 私が笑うと彼も笑った。その笑顔のすぐあと。

「……あっっつ!!」
「え、どうしました!?」
「……味噌汁、勢いよく啜ったら、熱っ…うわ、油断してた……」
「ああ〜、それ自業自得ですね。味噌汁は熱いんです、昔からそう決まって――」
「キスで冷やしてくれる特典、ついてません?」
「ついてませーん!」
「え〜〜〜」

 そうやって、自然に笑い合える朝。その瞬間、時間がほんのすこしだけ止まったように感じた。ヒーローじゃない彼が、ただの男の子でいられる朝だ。ただ、隣に好きな人がいる。そんな当たり前が、どれほど贅沢な奇跡かを、この朝は静かに教えてくれていた。
 すると彼はふいに箸を置き私の手の上に自分の手をそっと重ねて言った。

「……ね、名前ちゃん」
「はい?」
「こんな朝を、これからも、たくさん、過ごしていい?」
「……もちろん。毎朝、こうしていたいですね」

 その瞬間、彼はまるで空を飛んでいる時よりも嬉しそうな顔をして「じゃあ明日も来ますね」と宣言したあと、テーブルの上に並ぶ焼き鮭をひとくち、さらりと箸で奪って口に運んだ。

「ちょっ……それ、わたしの分!」
「えぇ〜、いいじゃん。恋人なんだしさ、仲良く分け合おー? ね?」
「ずるい」
「そう、俺は君にはずるい男なんです」

 彼が笑った。それだけで、世界がほんの少し、優しくなったような気がした。朝の光がふたりの指先を撫でていく。笑い声が静かに重なりながら今日という日が、ゆっくりと始まっていく。
 ただ隣にいるだけで、ただ朝を迎えるだけで、こんなにも心が満たされてしまうなんて……私は知らなかった。
 だれでもよかったわけじゃない。この人じゃ
なきゃ、意味がなかった。触れた手のひらのぬくもりも、ちいさく響いた笑い声も、すべてが私に��愛しい�≠ニいう言葉の、本当のカタチを教えてくれた。

 だから今は何も願わなくていい。ただあなたが笑ってくれている、それだけで生きていける気がした。





 

その命が誰かの光になる


(ねえ、啓悟さん)
(ん? なぁに)
(生きていてくれて、ありがとう)
(君がいるから、生きてますよ俺は)
(……)
(……生きようって、思えるんですよ)

※image song『 君のとなり/當山みれい 』


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