「ヒーローに余計な感情なんて必要なんいです」
そう言って笑った彼の声はどこまでも軽やかでそれは笑いとため息のあいだで揺れながらそっと夜に消えた。けれどその言葉の残響は、私の耳の奥でふと立ち止まり、消えないままそこに居座り続けている。
どうしてだろう。背中を向けた彼が翼をたたむ仕草を見せるたび、それはひどく——ひどく痛々しく思えた。
きっと本人も気づいていない。あれはきっと、無意識。でも、あのとき確かに私は彼の中に在る��触れてはいけない弱さ�≠�、見つけてしまったのだ。だからもう、戻れなかった。ホークス——ナンバー2と謳われた、その名の奥に潜む孤独に気づいてしまった瞬間から知らず知らずのうちに私の心はもう、彼という重力に引き寄せられて
いた。
私は臨時で派遣された、補助要員にすぎない。エンデヴァー事務所の補佐といえば聞こえはいいけれど実際には書類整理や現場データのまとめ、果ては食材の在庫確認まで請け負う裏方だ。だれより高く飛ぶことを宿命づけられた彼と私の世界は、本来重なることなどないはずだった。
それでも、あの夜。都会の屋上にふたりきりで立ったとき、たしかに、なにかが静かに始まった音がした。
「……あれ、まだ帰ってなかったんですねー」
振り向いた彼の声は風に乗ってやってくる鳥の羽ばたきのように軽やかで、それでもなぜか少しだけ、寂しさを纏っていた。
「ホークスさんこそ。羽、痛んでないですか?」
そんな問いかけに彼はふと声にならない笑みを浮かべた。まるで風に頬を撫でられたときのように、ごく自然で、けれどもどこか胸の奥を優しく締めつけるような表情だった。音もなく、目元の筋がほんの少しゆるみ、まるで。張りつめていた糸のひとつがそっとほどけていくように、静かに彼の顔から硬さが消えていった。
「ほんと君って、おもしろい子だよね」
拒絶ではなかった。でも、あたたかく迎えられたわけでもない。それは心の扉がほんのわずかに軋む音。油の切れた蝶番のように、どこかぎこちない優しさ。
彼はコンクリートの床に腰を下ろし剛翼の翼を左右に大きくひらいた。無防備なその背中は夜の街よりも深く、静かに澄んでいた。星も見えない濁った空の下で、それでも私は思った。彼の背負っているものがどれほどの孤独かを。その背中に誰も寄り添えないまま彼はずっと飛び続けているのだと。
いくつもの夜を越えて私たちは少しずつ、すれ違いながらも近づいていった。でも触れてはいけない線がいつもそこにはあった。寄り添いたくて仕方なかったけれど彼の表情はいつもどこか先の��終わり�≠�見つめていた。
「……ホークスさん」
「はい?」
「……なんで、そんな目を……するんですか」
それは意図したわけでも準備していたわけでもなくほんのひと呼吸のあいだに口をすべり落ちた問いだった。抑えようとしても溢れてしまう感情の澱のように言葉はふいにこぼれ落ち夜気に混ざった。彼はその声にわずかに反応し、ほんの一瞬だけ瞳を見開いたかと思うと、すぐに何かを隠すように静かに視線を落とした。まるで、心の奥のどこかに触れてしまったことを認めたくないかのように――。
「ヒーローって……誰かに心配されちゃいけない職業なんで」
声がかすかに揺れていた。夜を待つ空のように何かを堪えるように、深く、静かに。
「……嘘、ですよね」
小さな声が私の唇から落ちた。それはあまりに細く、あまりに脆くて、言葉というよりも祈りのようなものだったのかもしれない。
そんな私の声は、掬い取られるようにして宙へさらわれていった。
「……嘘じゃないけど、ほんとの気持ちでもないかもですね」
そう言って、彼は笑った。けれどその笑みにはどこか遠くを見るような影が差していて、ほんの少し触れただけで崩れてしまいそうなほどに壊れやすく自分でもその輪郭を保てていないような、そんな危うさが滲んでいた。
「ほんとはさ俺だって誰かに甘えたいんですよ。名前で呼んで、ぎゅってして、隣にいて――」
ひとつひとつの言葉が夜の静けさの中に沈んでいく。彼が軽口の下に隠してきた感情たちが、今ようやく、息をしているのがわかる。
「でも……ダメなんですよねー、それじゃ。」
「……」
「俺、ずっと——誰かのために飛び続けるようにできてるんで」
そう告げる彼の瞳は、まっすぐ私を見ていた。けれどその奥には深い深い海のような静かな諦めがあった。
「たとえば君が、手を伸ばしてくれても……」
「……え?」
「俺はそれを、握り返しちゃいけないって思ってるんです」
言葉が、落ちていく。そのとき、ぽつりと雨が降り出した。アスファルトが濡れ、世界がゆっくりと色を変えていく。私は濡れた空を見上げて、深く息を吸いこんでから、そっと紡いだ。
「それでも……好きです。」
風が止まり時間がその場だけ凍りついたように静寂が降りた。彼がこちらを見た。驚きと戸惑いと、そして、ほんの少しの、希望にも似た何かを湛えた瞳で。それから彼は、まぶたをゆっくりと閉じた。言葉を探すよりも、沈黙のなかに確かな答えを沈めるようにひとつ息を吐いて。それからまっすぐな声音で今度は彼がそっと言葉を紡ぐ。
「……ありがとう。ほんと、それだけで十分なんです」
そして、ひとつの羽根を私の肩に落として、
夜空へと、舞い上がっていった。その背中が風に消えていく直前に残したものは確かな『ごめん』と『ありがとう』だった。
言葉にされなかったぶんだけ胸の奥に深く染み込んで、痛いほど静かだった。
私は掴んだその羽根を両手で包み込んだ。まだ微かに温かさが残っていたそれはたった今、風に溶けていく儚さだった。
それでも、私は信じている。たとえ彼が、この手を、握り返さなかったとしても——。あの夜、ふたりで見上げた空の下に、たしかに同じ願いがあったことを。
笑顔も、ぬくもりも、もし守れることができるなら彼はきっと風にだってなろうとしただろう。声にできないやさしさで、崩れそうな私の心に、ずっと寄り添ってくれていた。��そばにいる�≠ニいうかたちで、彼なりに手を伸ばしてくれていたことを、あの夜、燃えるような紅の羽根が教えてくれた。
彼の背中の先に、見えない誰かを想う気持ちがあったのなら――私はこれからもその想いのすぐ隣に、そっと寄り添っていたい。
*
——あの夜から、私は彼に会っていない。
最後に交わした言葉もほんの刹那触れた指先の温度も、時間とともに淡く滲んでしまうものだと誰かが言っていた。けれど私の記憶の中の彼は、なぜかずっと、あの夜のままで止まっている。
むしろ季節をひとつ、またひとつ越えるごとにその姿は痛みを伴って、いっそう鮮やかになっていった。
彼が残していった、たった一本の羽根。それは今も、私の部屋の棚の奥、誰の手にも触れさせたことのない場所に静かに飾られている。一輪の花のように。あるいは祈りを封じた遺物のように。
私はあの夜を最後にエンデヴァー事務所を離れた。別の街、別の空の下で、少しずつヒーローとしての自分のかたちを探す日々が始まった。
変わりゆく日常の中で、彼の存在を意識の底に沈めていくはずだった。それなのに心のどこかに残った空白だけは誰にも、何にも、埋めることができなかった。
変わらないはずの日々にわずかな裂け目が生まれたのは、その日の午後だった。
都市部での、大規模なヴィラン掃討作戦の招集連絡。曇天が空を覆う昼下がりだった。指揮官は現、ナンバー1ヒーローの、エンデヴァーさん。そして、その隣には——風を裂いて降り立った、真っ赤な影があった。
風切り音が胸の奥を貫いた。翼が夕映えに照らされて燃えるように輝いていた。風に揺れた髪は金糸のように淡く、そして、その視線は——。
「……どーもっ、お久しぶりですねー」
その声は、何も変わっていなかった。あの日と同じ、軽やかさと、冗談めいた響きをまとって、けれどもその裏側に一瞬だけ、ためらいが滲んでいたのを見た。
喉が震えるのに言葉が出ない。私はただ、胸の奥に積もっていたものがほどけきれずに彼の笑みを見つめていただけだった。
「会えて、よかったですよ」
たったそれだけの言葉だったのに不思議なほど鮮明に、あの夜の空気や彼の背中、触れられなかったふと指先に残ったやさしさの名残までもが、一気に胸の奥へと押し寄せてきた。
止まっていたはずの時間が、わずかに軋みを
立てて動き出すように彼の声は静かに深く、私の心のいちばん柔らかい場所に染み込んでいったのだった。
作戦は粛々と、そして確実に成功した。夕焼けが地上を染め、人々が次々に持ち場を離れる中、私は装備を解いて帰ろうとしていた。そのとき、不意に吹いた風が、背中を押した気配。
「——ねぇ、ちょっとだけ……歩きません?」
振り返れば彼がいた。まるであたり前の日常の中に溶け込むような、ささやかな再会として。
私は頷いた。手足の震えがまだ、残るままに。そんな私を見て彼は鼻先で笑う。照れたような、でもたしかな、覚悟の滲む笑みで。
落ちた夕陽がアスファルトを染め私たちの影を静かに延ばしていく。言葉は、なかった。でも、その沈黙さえも、どこかやさしくて——。
「……君のこと、ずっと見てたんです」
耳に触れたその声に私の足がふと立ち止まり、時間がわずかに巻き戻るような感覚に襲われた。
「……え?」
「たぶん……言い訳になると思うんですけど。」
「……」
「俺、あのとき距離を置いたのは——君を、守りたかったからで……」
彼の言葉は壊れやすいものを包む手つきのように、ひとつひとつが慎重で、選び抜かれたように丁寧だった。それでもなお、言葉の端々にはためらいや迷いが滲んでいて、まっすぐ伝えたいはずの想いが、どこかですこしだけ逸れてしまう――そんな不器用さがかえって胸に痛いほど残った。
「君を巻き込みたくなくて、正しいと思い込んでた。」
「……」
「でも……あとになって気づいたんですよ。あれは正しさなんかじゃなくて、俺の、臆病さだったんだって」
私はそっと彼の横顔を見つめた。視線はまっすぐ遠くを捉えているようでいて、けれどその瞳の奥にある何かが、確かにこちらを――私の心の奥深くを、静かに見つめていた。言葉よりも早く、感情の揺れだけがそっと交わっていた気がした。
「君のこと、忘れられませんでした……ずっと
です」
抑揚のない声で紡がれたその告白は誰かに聞かせるためではなく自分自身に言い聞かせるような響きを帯びていた。けれど、だからこそその言葉が胸の奥に静かに鋭く刺さるようで、私は思わずひとつ息を飲んでいた。
「あの夜の言葉も、笑顔も、全部。」
「……」
「ほんとは俺、あのときからずっと……君が好きだったんです」
それは告白というよりも、祈りのようだった。手が、かすかに震えていた。それは後悔でも不安でもなく、いま——ようやく踏み出した勇気の証だった。
私は何も言わずに、その手を、そっと握った。指先から伝わる鼓動が、じんわりと胸に染みる。
「じゃあ今は、この手……」
「……」
「握り返してもいいって、思ってくれたってことですか……?」
細くて、頼りない声だった。でも彼は、確かに頷いた。目を細めて、まるでやっと言えるというような、安堵の表情で。
「……そういう、ことですね」
「……」
「飛び続けるだけじゃダメだなって、やっと思えたんですよ」
風がふたりのあいだの沈黙をそっとなぞるように吹き抜けていく。髪が揺れ、時間がほんの少しだけ止まったような気がした、その静けさの中で彼はためらうようにわずかに視線を落とし、それからようやく小さな声で、祈りをこぼした。
「君の隣に、降り立ちたいんです」
その言葉——祈りには、彼が背負ってきたものすべてが宿っていた。私はそれを心の奥で静かに受け止める。二度と、逃さないようにと。
夕陽の残光がビルの端に淡く滲んでいる。その夜と夜のあいだで、彼の剛翼の翼がそっと、私の背に触れた。それは、ぬくもり以上のもの――
『この手をもう離さない』という、彼のやさしい誓いだった。