女は、だいたいモテる男を好きになる。そしてそのモテる男と結ばれて、なぜか苦労して不幸になる。たぶんこれは性別が逆でも同じで世の中は驚くほどありきたりな法則で回っている。
 最初からモテない者同士でくっついていれば、余計な心配も嫉妬もなく、平和に暮らせるのかもしれない。理屈としては、たぶん正しい。
 それでも——あの人と一緒にいる時間は、どうしようもなく、楽しくて、愛おしくて、ドキドキして、きゅんきゅんして、そしてたまに、切なくなる。忙しい背中を見送るたびに、ため息をつきながら、それでも、次に会える日を指折り数えてしまう。
 そういう自分を少しだけ呆れながらも思い出すだけであっさりと一瞬にして��あの頃�≠ノ戻ってしまう。時間も理性も驚くほど、役に立たない。そう願ってしまう自分を責める理由は、もう見つからない。

 ——また、すぐ会いたい。

 そんなことを考えている時点で、もう、答えは出ている気がした。


 *


 春の光がやわらかく街に滲むような日。休日の彼女は久しぶりに、ベランダへ洗濯物を干した。風に揺れる白いシャツを眺めているうちに、家に籠っているのが少し惜しくなり、そのまま散歩に出掛けることにした。特別な目的はない。ただ、天気がよくて歩きたい気分だっただけだ。
 商店街を抜け人通りの少ない道に差しかかったときだった。不意に背後から、声が落ちてきた。

「おねーさんっ」

 反射的に振り向く。そこにいたのは見間違えるはずのない存在だった。テレビや広告の中で嫌というほど目にしてきた顔。誰もが知る、わが国のナンバースリーヒーロー・ホークス。
 理解が追いつく前に彼は迷いなく距離を詰めてきた。近い。思考より先に、その事実だけが胸に落ちる。視界を占める笑顔と羽の気配と、体温の存在感。初対面の印象は、それだけだった。

「おねーさん、可愛いね。これからどこ行くと?もしかして散歩? なら俺も付き合おうかな〜。このへん、あんまり詳しくなくてさぁ」

 軽い。驚くほど軽い。へらへら、という言葉が服を着て歩いているみたいな人だと思った。愛嬌という武器を自覚的に振り回している。その笑顔を正面から向けられて、彼女は瞬きも忘れたまま立ち尽くす。時間が止まるという表現は誇張だと思っていた。でも、少なくとも彼女の内側では、秒針がどこかへ落ちてしまったようだった。

「あ、そうだ。名前、まだ聞いとらんねぇ。お姉さんの名前、なんて言うの?」

 返事を待つ間も与えず次の言葉が重なる。逃がさない、というより、逃げるという選択肢が最初から想定されていない話し方だった。頭の中で、『チャラい』という単語が何度も反響する。数秒遅れて、ようやく彼女は、自分の身体が動くのを感じた。

「……あ、えっと。……名字、名前、です、」

 声が思ったより小さく、喉が、ひくりと鳴る。内心では冷や汗がダラダラと止まらず、視線は、落ち着きどころを失っていた。

「まぁ〜! いい名前だね。似合ってる。それ、ひらがな?漢字?どっち?」

 間を置かず、食い気味に聞きながら、ぐいっとさらに距離が縮まる。顔が近い。テレビで見慣れていた黄色いゴーグルが持ち上げられ、その奥の視線が彼女をじっと捉える。観察するようでいて品定めとは、少し違う。けれど、どう受け取ればいいのかはわからない。
 やがて彼は、ふっと身を引き、片手で翼を畳みながら、もう一方の手を軽く振った。何事もなかったかのような仕草に、彼女の心拍だけが、取り残されている。この人は、たぶん、最初からこの距離で生きている。そう思った瞬間、胸の奥に、理由のわからないざわめきが残った。

「俺——まあ、本名は置いといて。ホークスって言った方が早いかな。よろしくね?」

 ニッ、と屈託のない笑顔と一緒に、また一歩、距離が詰まる。冗談ではなく、鼻先が触れそうなほど近い。彼女は思わず、息を止めた。距離感の概念が、この人には最初から存在しないのだろうか。視界いっぱいに広がる顔と、かすかに感じる体温に、頭が追いつかない。

「いやぁ、それにしてもさ。正直に言うとマジで俺の好み、ど真ん中だったもんで。困るよね〜。初対面でこんなこと言うのもアレだけど」

 軽口のように投げられた言葉なのに笑って受け流す余裕はなかった。ここが街中でなければもう少し、違う反応ができたのかもしれない。でも、現実は春の午後の雑踏の真ん中だ。街路樹の下で向かい合う二人。足を止める通行人が増えていく気配を、彼女は肌で感じていた。横目で窺うと、すでにスマホを構える人がいる。「うそ!?あれホークスじゃない?」「本物?」という囁きが、波紋のように、広がっていく。
 黄土色の髪に背中から伸びる、大きな赤い翼。疑いようもなく、ホークスだと理解した者も多いはずなのに当の本人はまるで気に留めていない。その視線を受け止めることすらせずに、ただ彼女だけを見ている。琥珀色の瞳でまっすぐに。春の木漏れ日が翼の紅い羽根を透かして、きらきらと淡く光らせていた。その光景だけが妙に現実味を帯びて胸に残る。

「ホークス、なのは、存じ上げていますが……」
「存じ上げてる、って。なんか堅いなぁ」

 数秒後、絞り出されたその言葉に、彼は小さく笑った。くすっと零して、ようやく半歩分距離が離れる。そのわずかな後退に、彼女は遅れて息を吐いた。

「そんな畏まらなくていいよ、今日はオフだし。俺も、ただの男の子ってことで」

 人差し指で自分の頬を軽く叩いて、悪戯っぽく「ね?」と、首を傾げる。ただの、男の子。その言葉とは裏腹に、彼は背中の翼をばさりと広げてみせる。『説得力』というものが音を立てて崩れ落ちた。周囲はもう完全に撮影会の様相を呈していた。シャッター音が断続的に響く中、「あの子誰?」「彼女ぉ?」という声が混じり、その中で誰かが言った「いや、絶対一般人でしょ」という返答に、彼女は胸の奥が小さくざわついた。
 ホークスは、ちらりと群衆に視線をやり、それから、何事もなかったように彼女へ戻す。

「……ちょっと、場所変えよっか」

 背中にそっと、手が添えられる。触れ方は強引ではないのに、拒む隙も与えない。翼がふわりと風を起こし、人混みを避ける方向へと自然に導かれる。彼女は抵抗する理由を見失ったまま、その流れに身を預けてしまった。

「ねぇ、さっき何してたの?散歩?もったいなくない? それならさ、カフェでも行こうよ。俺が奢るからさ?」

 返事を待つという発想が、やはり、この人にはないらしい。彼女を隣に置いたまま、ホークスは軽やかな足取りで、すたすたと歩き出す。置いていかれないように、歩調を合わせながら、彼女は思った。この人の隣に立つというだけで、世界の速度が変わってしまうのだ、と。

「——す、すみませんっ! あ、あの、その……私、急ぎますのでっ!」

 言葉が先に飛び出した。考えるより早く、体が反応していた。彼女は身を翻し小走りでその場を離れようとする。理由は、はっきりしている。
 怖い。正確には、怖さと、どう対処していいかわからない戸惑いが、限界まで、膨らんでいた。
 けれど、その背後で、ばさりと空気が裂けた。翼が広がり、軽く風が起きる。街路樹の下に積もっていた落ち葉が舞い上がり、視界を横切った。気づいたときには、彼女の進行方向に、ふわりと影が落ちている。逃げ道を塞ぐように立っていたのは、ホークスだった。あまりにも現実離れした光景に、彼女は、ぴたりと足を止める。息をのむ音だけが、自分の内側でやけに大きく響いた。

「あはは、ごめんごめん。でも俺、そんな怖い?全然、怪しい者じゃないよ?」

 軽い声色。悪びれた様子もない。彼はそう言いながらヒーロースーツのジャケットの内側から、ちらっと何かを覗かせた。「ほら、これ」と一瞬見えたのは、ヒーロー認定の許可証だった。

「ね? ちゃんとした人間。だから、安心して」

 柔らかく放たれた言葉は、風に混じって流れていく。背後では、「やっぱ、ホークスだった!」「なんでこんなとこにいるの!?」という声が、ざわざわと広がり始めている。

「……ていうかさぁ。逃げようとしたってことは別に、嫌だったわけじゃないでしょー?」

 それでも彼は、一切動じない。むしろ、今この瞬間を、絶対に逃すまいとするみたいに、視線は彼女から外れない。距離が、また詰まる。

「恥ずかしかっただけだよね?」

 彼は「わかるわかる」と、にこりと笑う。その近さに、彼女は思わず一歩引きかけて、けれど、引けなかった。

「俺、けっこう欲張りなんで。覚えといて?」
「——怖い、怖いっ! 怖いですからっ……!」

 半ば悲鳴に近い声が漏れる。彼は「え〜?」とわざとらしく胸に手を当て、ため息を吐く。その仕草とは裏腹に、目は楽しそうに笑っていた。

「怖いって……俺、こんなに優しいのにィ」

 周囲の野次馬は、さらに増え、スマホを向ける数も目に見えて多くなっていく。プロヒーローが見知らぬ一般女性を口説いている。その光景は、明日には切り取られて、拡散されかねない。それでもホークスは、まるで、気にしていなかった。
 むしろ、「ホークス〜♡」という黄色い声に、「はいはーい」と声だけで応じ軽く手を振る余裕まである。世界が自分の知らないところで勝手に盛り上がっている。彼女だけがその中心で、立ち尽くしていた。

「じゃあさ。怖くないって分かってもらうために連絡先だけ交換しない?」

 そう言いながら彼はまるで前から決まっていた手順をなぞるかのように、ポケットからスマートフォンを取り出した。その指先の運びには滞りがなく、また、逡巡の影も見当たらない。

「それだけでいいから。ね? それくらいなら、いいでしょ?」

 断っても、この人は追ってくる——理由のない確信が、彼女の胸の奥で、静かに形を取った。

「いや、でも……でも、周りの目が……」
「周り?」

 ホークスが、くるりと振り返る。群がる視線とレンズ。その光景を見て彼は、ようやく一瞬だけ「あ」という顔をしてからすぐにいつもの笑顔に戻った。次の瞬間だった。翼が、大きく広がる。紅い羽根が陽光を弾き、群衆の視線が、そちらに吸い寄せられた。その、一瞬の隙を逃さず、彼は彼女の手首をすっと掴む。強くはない。けれど、迷いのない動き。気づけば、路地裏の影の中へ、するりと滑り込んでいた。彼女の心臓だけが置き去りにされたみたいに、遅れて走り出していた。

「はい。これで、二人きり」

 壁に片手をつき、逃げ道を塞ぐような体勢で、彼は、彼女を見下ろす。いわゆる壁ドン、というやつだと理解したのは、ほんの一瞬あとだった。

「ね。もう、誰も見てないよ?これで言い訳なくなったね」

 まだ昼間だというのに路地裏はひどく薄暗い。二人分の影が壁に重なって落ちる。表通りからは「あれ、消えた?」や「飛んだ?」といった困惑した声が聞こえてきたが、ホークスはそれに振り向きもしなかった。

「……改めて聞くけど、嫌? 俺のこと」

 声の調子がわずかに変わる。さっきまでの冗談めいた軽さが、ほんの少しだけ引いた。琥珀色の瞳が、逃がさない距離で彼女を捉える。試すようでもあり、確かめるようでもある視線だった。

「……さっきも、言いましたけど……」

 喉がひくりと鳴る。言葉を選ぶ時間が、やけに長く感じられた。

「ホークスのことは、知ってて……もちろん」
「うん」
「でも、その……」
「うんうん?」
「昔から……チャラチャラした人が、どうしても苦手で……」

 言い切った瞬間、空気が、わずかに揺れた気がした。ホークスは一瞬だけ目を丸くし、それから堪えきれなかったように小さく吹き出す。

「あー......そっち?チャラいかぁ。うん、まあ、自覚はあるよ」

 ホークスは壁についていた手を下ろして、彼女から半歩だけ後ろへ下がる。翼も畳まれ、さっきまで漂っていた圧が、少しだけ和らぐ。

「でもさ、俺のこと知ってはくれてるんだよね?嬉しいなぁ」

 本当に、嬉しさがそのまま形になったみたいな声だった。口元の緩みを隠そうともしない。その様子を見て彼女は思う。ああ、この人は本当に、自分の感情を軸に生きているヒーローなのだと。

「チャラく、しない方がいい?」

 そう言いながらもすでにポケットに突っ込んでいた手が再びスマートフォンへ伸びかけている。抑える気があるのかないのか、判断がつかない。

「え」
「だから、チャラくしないように頑張るからさ」

 背筋を伸ばし、急に真面目な顔を作る——が、それも長くは続かない。数秒も経たないうちに、すぐに口角が裏切るように上がった。

「うん、ごめん。無理だわ。これが地だから」

 自分で言って、自分で諦めたらしい。潔いのかただの開き直りなのか、彼女にはまだ測れない。

「でもまあ。苦手って言われて、無理に押すのもダサいしね」

 そう言って、今度はきちんと一歩引く。距離が整えられ、彼女の呼吸がようやく元に戻った。

「今日は大人しく、引いとくよ。……連絡先も、聞かないであげる」

 意外なほど、あっさりとした、引き際だった。少なくとも、その場では、そう見えた、が——。くるりと彼女に背を向けて「その代わりさ」と、ひらりと手を振りながら、路地の出口へ向かって歩き出す。

「また会ったら、そんときはよろしくね〜。君、運命って、信じるタイプ?」

 独り言みたいに「俺はめちゃくちゃ信じてるんだけど、運命」と、言葉を落とし、肩越しに振り返る。

「あ——ちなみに。俺、この街、あと三日はいるから」

 それは偶然の滞在情報ではなく「逃げても無駄だよ」という、やけに明確な��宣告�≠セった。
 逃げ道は最初から用意されていないのだ、と。

「……風、みたいな人だったな……」

 路地裏に一人残された彼女は、しばらくその場から動けなかった。胸に残ったざわめきを、整理しきれないまま、思わず零れた声は、風に溶けて消える。表通りに出ると、さっきまでの野次馬はもう散っていた。まるで何事もなかったかようにいつもの日常が戻っている。その落差がかえって現実味を奪った。

 けれど、それから二日間——彼女の生活圏内でやけに紅い羽根を見かけることが増えた。例えばコンビニのレシートに、挟まっていたり。公園のベンチに腰を下ろそうとしたとき、足元に落ちていたり。どれもこれも直接的な接触はない。ただ「近くにいる」と、示す痕跡だけが、さりげなく残されているだけ。気づかないふりをするには、少しだけ多すぎた。そして、三日目の夕方……。

「どーもっ」

 その軽い声は真横から降ってきた。正確には、見上げた先——電柱の上から。ひょこっ、と顔を出したのは、やはりホークスだった。背中の翼で器用に体を支え、まるでそこが定位置であるかのように安定した様子でこちらを見下ろしている。

「元気してた?」

 夕焼けを背に、逆さまの状態でにこにこと笑うその姿はどう見ても��偶然�≠ナはない。それでも彼は偶然を装う努力だけは怠らないらしかった。
 三日はいる。そう言っていた期限の、ちょうど最後の日。ピンポイントで現れた時点で、確信犯なのは明らかだった。

「ぎゃっ……!」
「あはは。いいリアクション」

 少し遅れてから驚きの声が上がった次の瞬間、彼は、くるりと宙返りし、彼女の正面に軽やかに着地した。翼が起こした風で、彼女の髪の毛先がふわりと揺れる。
 夕暮れの住宅街。人通りは少ないが、まったくいないわけではない。買い物帰りらしい主婦が、一瞬こちらを見たものの、まさかトップヒーロー本人だとは思わなかったのか、そのまま、何事もなく通り過ぎていった。

「ごめんねぇ〜、驚かせちゃって。……でもさ、三日間ずっと、我慢してたんだよー?」

 彼はやや上目遣いをして、両手の指を合わせて拝むような仕草をする。

「偉くない? 毎日、君のこと見かけてたのに、声かけなかったんだから」

 さらりと混ざった『毎日見かけていた』という言葉に、彼女の背筋がわずかに冷える。けれど、当の本人は、悪びれる様子を一切見せない。彼は首を傾げながら言う。

「……で、そろそろ俺のこと、すこ〜しは慣れてくれた? 風みたいな人、だっけ」
「あ……」
「聞こえてたよ、あのとき」
「え……!あ、すみません。つい、口から……」
「つい口から、って」

 ホークスが喉の奥で、くくっと笑う。

「それ、俺のこと��風�≠チて思ってくれてたってことでしょ? 悪くないじゃん」
「い、いや……」
「基本さ、��鳥�≠ニしか、言われんけん」

 どうやら、自分に都合のいい解釈をするのも、このヒーローの得意分野らしい。実際には電柱の影でこっそり聞いていたのだろうが、そのあたりは、なぜか、なかったことにされている。

「ねえ」

 言葉を失っている彼女に向かって、ホークスは人差し指をぴっと立てる。そうして慣れた仕草でウインクをひとつ。

「今日はちゃんと、お願いがあるんだけど」
「……お、願い?」
「一回だけ。一緒にご飯、食べてくれない?」
「……え。」
「ナンパとかじゃなくて、純粋にお腹空いてて」

 この辺なら美味いお店、ちょっとは知ってるんだよね、と言いながら彼はもう歩き出していた。
 ——ナンパとかじゃない。そう前置きするには三日間の張り込みは、少々熱心すぎる気もする。それでも彼女は、その背中を見送ることができなかった。どう断ればいいのか、言葉を探しているうちに距離が開いてしまい、慌てて小走りで追いかける。
 夕暮れの道を並んで歩きながら、彼女は思う。この人は、現れては去っていく風みたいに見えて実際は、意外と粘り強いのかもしれない、と。

「……あ」

 と、ホークスは歩きながら、ふと、彼女の腕に下がった買い物袋に、視線を落とした。夕暮れの光に透けるビニールの中身を、特別詮索するでもなく眺めてから、思い出したように声を上げる。

「もしかして、自炊派?」

 問いかけは軽い。けれど、彼女は一瞬、言葉に詰まった。トップヒーローに生活習慣を覗かれるという状況そのものがまだ現実味を欠いている。

「い、いえいえ……!外食も、普通に好きです」
「マジ? じゃあ、決まりだ」

 途端に、彼の表情がぱっと明るくなる。笑顔に引きずられるように、背中の翼までが嬉しそうに大きく開いた。どうやらこの人は感情が隠せないタイプらしい。剛翼は伊達ではないが感情表現もずいぶんと正直だ。

「いやー、良かったぁ。断られたら、どうしようかと」

 三日間、彼女の生活圏に、きっちり顔を出しておいて何を言うのか、という話だが、彼の中ではどうやら今日が正式な、初デートの打診らしい。都合のいい認識力には、もはや感心すら覚える。
 彼女が何と返すべきか迷っているうちに、彼はもう、次の行動に移っていた。

「あ、荷物重いでしょ。持つよ」

 そう言って、迷いなく、彼女の買い物袋に手を伸ばす。その動きがあまりにも自然で、断るタイミングを完全に失ってしまった。

「個性で飛んでっちゃえば一瞬だけど、さすがに街中で飛ぶと目立つし、いろいろ面倒だしね」

 十分すぎるほど目立っているのだがその自覚はないらしい。少し前からすれ違うサラリーマンが明らかに二度見していたが、ホークスは気にする様子もなく、歩調を合わせてくる。

「何が好き?和食?イタリアン? なんでもあるよ〜。俺、このへん、調べ尽くしたから」
「……」
「あ……今の「調べ尽くした」は、聞かなかった方向で」

 慌てて付け足すあたり、自分でもまずい自覚はあるらしい。彼女は苦笑するしかなかった。歩く位置もいつの間にか、彼女を車道側から守る形になっている。意識しているのか、無意識なのかは分からない。ただその距離感だけが妙にスマートだった。

「な、なんでも……。トップヒーローと、ご飯だなんてたぶん、人生で一度あるかないかなので」

 そう言うと、ホークスは少し照れたように頬をぽりぽりと掻いた。

「二度とないって、そんな大げさな」
「……」
「俺はさ、これからも、普通に行きたいけどね。一回きりとかじゃなくて」

 さらっと、未来の話を差し込んでくる。重くはないのに逃げ道を塞ぐのが上手い。彼女は返事を探しながら、彼の横顔を盗み見た。
 夕暮れの住宅街を翼を畳んだトップヒーローと並んで歩いている。この状況自体がすでに十分におかしい。それなのに不思議と足取りは軽かった。気づけば彼のペースに自然と、巻き込まれている。

「さぁさぁ、こっち」

 そう言ってホークスは、迷いのない足取りで、路地をひとつ曲がった。裏道に入った途端、街の喧騒がすっと遠のく。角を抜けた先にあったのは小ぢんまりとした、イタリアンの店だった。
 派手さはなく看板も控えめで知らなければ通り過ぎてしまいそうな佇まい。彼女は一瞬こういう店をどうやって見つけるのだろう、と、不思議に思う。扉を押すと、カランと、乾いたベルの音が鳴った。店内にはハーブとオリーブオイルが混ざった香りがふわりと広がり肩の力が少し抜ける。
 平日の夕方という時間帯もあって、客はまだ、まばらだった。

「ここのカルボナーラがさぁ、ほんと絶品でね。あ、あと鶏のグリルも——」

 そこまで言ってから、彼は、はっとしたように口元を押さえる。

「……ごめん。俺の好みばっか喋ってた」
「いえ」

 彼女がそう返すころには、二人はすでに、席に着いていた。ホークスはメニューを広げたまま、楽しそうに、ページを行き来させている。ほんの数秒前に言った「ごめん」の意味は早くも形骸化していた。流れるように続く彼の話に彼女が口を挟む余地はほとんどない。それでも不思議と居心地は悪くなかった。押しが強いのに、圧がない。その微妙なバランスを彼は無意識に保っている。

「……鶏、好きですよ」

 ぽつりと落とされた一言に、ホークスの視線がメニューから外れて、彼女に向く。ほんの一瞬、動きが止まった。次の瞬間、身を乗り出す勢いで目を輝かせる。

「え、ほんと?」
「……お肉の中なら、いちばん好きかも」
「俺も。いや待って、それもう運命じゃない?」

 鶏が好き、ただそれだけで運命を語れるあたり彼の世界はずいぶん平和だ。プロヒーローに連れられて席に着いている彼女も大概だが、どちらがチョロいのかは、判断に困るところだ。

「じゃあさ、鶏づくしにしよっか。ここの店主に頼むと、唐揚げ追加してくれるんだよ」
「それは……あなたが、トップヒーローだから、じゃ、ないかと……」
「関係ない、関係なーい!俺の人徳。あと笑顔」

 根拠のない自信を、さらっと添えながら、彼は勝手に二人分のオーダーを組み立てていく。その様子を見ていると、流れに逆らう気力が自然と、削がれていった。そこでふと、彼は顔を上げる。

「あ、飲み物は?どうする?お酒、いける口?」
「……あ、えっと。人並みには……飲みますよ」
「じゃ、せっかくだしアルコールありで」

 ちょうどそのタイミングで、店員が水を運んできて、ホークスは淀みなく注文を済ませた。
 慣れている……。こういう場面を、何度も経験してきたのか、それとも、事前に全部頭に入っているのか。どちらにせよ、隙がない。

「……ねえ」

 ホークスは、水の入ったグラスを、指先で軽く転がしながら、少しだけ声の調子を落とす。

「敬語、やめてくんない?なんか壁ある感じして寂しいんだけど」
「い、いや……。緊張、してますし……」
「緊張ねぇ」

 彼はグラスの中の水を揺らしながら、どこか、納得したように笑った。

「そりゃそうか。いきなり知らない男に飯連れてこられたら、普通そうなるよね」

 自覚があるなら行動を改めるべきだが、彼の中ではすでに『知らない男』は卒業して少なくとも『ちょっと知っている男』くらいには、昇格したつもりでいるだろうと思う。その認識のズレを、指摘する前に、料理が届いてしまいそうだった。彼女は小さく息をつきながらテーブルの向こうで無邪気に笑う彼を見た。この食事が、ただの一回きりで、終わる気がしない。そんな予感だけが、静かに、胸に残っていた。

「いいよ。まあ、ゆっくりで。そのうち自然に、外れるでしょ」

 どうやらこの話はまだ続いていたらしい。彼はそう言ってから自分の言葉を反芻するみたいに、ふっと、力の抜けた笑い方をした。押しつけがましくないのに退く気もない。その曖昧さが、逆に彼らしいのかもしれないと思う。
 ちょうど、そのタイミングで、前菜のサラダとパンが運ばれてくる。皿が、テーブルに置かれた瞬間に、焼きたてのパンから立ちのぼるバターの香りが場の空気をやわらかく包んだ。張りつめていた彼女の肩も、わずかに下がる。

「お、きたきたー」

 ホークスは嬉しそうにパンをちぎり「いただきま〜す」と、軽い調子で一口、放り込んだ。その様子は、さっきまでの、トップヒーロー然とした雰囲気とはどこか噛み合わず妙に生活感がある。

「ところでさ、名前ちゃん」

 唐突に名前を呼ばれて彼女の手が止まる。パンをちぎりかけたまま、動けなくなる。心臓が一拍ほど遅れて、主張を始めた。

「お仕事は、何してるの?」

 彼女は内心で「落ち着け、落ち着け」と何度も言い聞かせながら、なんとか口を開こうとした、そのときだった。

「あっ!!」
「わ。なに、びっくりしたぁ」
「仕事って言われて、思い出しました」
「ん?」
「すみません......一件だけ、メール返してもいいですか?」

 一瞬の間のあと、彼は目を細めて「もちろん。どうぞどうぞ。」と、笑った。ひらりと手を振る仕草が、やけに、手慣れている。彼女がスマホを取り出し画面に視線を落とすと、店内の音が少し遠のいた気がした。
 その間ホークスは何も言わず、ただ彼女を見ていた。覗き込むほど露骨ではない。けれど視線の先は、はっきりしている。画面ではなくスマホを操作する彼女の指先を見ていたのだ。

「……指、きれいだね」

 独り言のように落とされたその声は聞こえたかどうか、曖昧な温度で空気に混じる。狙っているのか、無自覚なのか。判断に迷うところが余計に質が悪い。

「え? あ、ありがとう、ございます……?」

 どうやら、届いていたらしい。ホークスは少しだけ、困ったように眉を下げて、それ以上は何も言わなかった。
 その視線がふと逸れて、彼女のスマホケースの裏側に留まる。控えめに貼られた小さなシール。それは仲間であるプロヒーロー・ファットガムのものだった。

「……すみませんでした。メール終わりました」

 彼女はぺこりと頭を下げ、慌ててスマホを鞄にしまう。その仕草をホークスはどこか面白そうに眺めてから、にやりと口角を上げた。

「おつかれー」
「最近、営業さんが変わって、ちょっとパタパタしてて……」
「ふーん。事務員さん?」
「まあ……そんなところです」

 彼女の答えは相変わらず、輪郭をぼかしたものだった。深く踏み込ませないその距離感。それをどう受け取ったのかホークスはサラダにフォークを入れながら息とも、ため息ともつかないものをひとつ、零す。残念がっているようで、どこか、楽しんでいる。簡単に情報が出てこない相手ほど興味をそそられる性分だった。
 そこでホークスは「でもさ」と、軽い調子で、話題を、すっと切り替える。

「意外なとこ突くね」
「……?」
「ファットガム、好きなんだ?」

 唐突なヒーロー名に、彼女は、きょとんと目を瞬かせる。一方で彼は、当然のことのように首を傾げていた。

「スマホ。ケースに貼ってたから」

 そう言われて、ようやく思い当たったらしい。「あ、」と、小さく声を漏らす彼女とは対照的にホークスは楽しそうだ。付け加えるように「あれ最近出たグッズだよね」と、一瞬しか見えていなかったはずなのに、デザインまで把握している。さすが情報収集が仕事の男——と、いうべきか。相変わらず、目ざとい。

「もしかして名前ちゃん、関西の人?」
「え?」
「だってさ、あのシール貼ってるってことは結構ファンだったりする?」

 フォークをいったん置き、興味深そうに肩肘をついて頬杖をつく。その視線は探るというより、純粋な好奇心に近い。

「生まれは、こっちです」
「へえ。この辺に住んでるのに関西のヒーローのグッズ持ってるの、なんか、いいよね。ギャップって感じで」
「単純に……彼のファンなだけで」
「へー。てか、俺とも地元近いかもね。俺、福岡だし」

 有名すぎて今さら語るまでもない話題をなぜか初出しの豆知識みたいな顔で語るその声はやけに誇らしげだった。共通点を見つけた瞬間、尻尾が見えるほど、分かりやすくはしゃぐ犬のようで、彼女は思わず、言葉を探しあぐねてしまう。

「ファットガムいいよねー。面白いし、面倒見もいいし。前に一緒に仕事したことあるけど——」

 そこまで言いかけたところで、店員が、料理を運んできた。湯気を立てるカルボナーラと、皮がこんがり焼き上がった鶏のロースト。香りが一気に卓を支配する。ホークスの目が、分かりやすく輝いた。

「……わお。タイミング、完璧すわ」

 自分から振っておいて、さっきまで語っていた同業者の話は、あっさり後回し。彼は、迷いなくフォークを手に取り料理に意識を奪われている。その切り替えの早さもまた、この男らしい。
 彼女はそんな横顔を見ながら少しだけ肩の力を抜いた。会話は軽く、距離はまだ遠い。それでもこの場の空気だけは、不思議と、居心地が悪くなかった。

「名前ちゃん、先に食べてみて。感想聞きたいから」

 促されるままフォークを取る。湯気の向こうで彼が、妙に真剣な顔をしているのが、視界の端に入った。その熱量が少しだけ可笑しくて、同時に逃げ場を塞がれているような気もする。

「あ、はい……いただきます」

 一口。舌に触れた瞬間、卵とチーズの濃厚さが一気に広がった。重たいはずなのに、どこか軽やかでベーコンの塩気と黒胡椒が後から追いかけてくる。計算され尽くした味だと素直に思う。言葉を探している間にも視線は否応なく彼の方へ引き寄せられる。

「どう? どう?」

 彼は、自分の皿にはまだ手をつけず、身を乗り出して、彼女の顔を覗き込んでいる。ヒーローというより、ただの感想待ちの子どもみたいだ。

「……美味しい」
「でしょー!その顔が見たかったんだよね〜」

 その瞬間、彼の顔が、ぱっと緩んだ。満足したように笑って、ようやく自分のフォークを動かし始める。その様子を見て彼女の胸の奥に溜まっていた緊張が、ほんの少しだけほどけた気がした。

「……ファットガムの、どんなとこが好きなの」

 何気ない調子で投げられた質問。彼女は、一瞬だけ言葉に詰まってから、正直に答える。

「えっと……頼りになる感じが、ですかね」
「わかる。あのヒーロー、包容力の塊だもんね」

 即座に頷いて、さらっと同業者を褒めながら、ちらりと彼女の反応を窺う。その視線が少しだけ意味を含んでいるように感じられて彼女は無意識に、皿へと目を落とした。彼は「じゃあさ」と、何か言いたげに間を置いてから。

「俺も、もうちょい落ち着いた方がいいのかな」
「……」
「包容力、ってやつ?あれを、身につける方向でいく感じで」

 冗談とも本音とも取れる声音。どう返せばいいのか分からず、彼女は黙ったままパンをちぎる。その沈黙を見逃さず彼は喉の奥で小さく笑った。

「……まあ、無理だけど」

 即座に撤回するあたり、この男はやはり自分をよく、分かっているらしい。彼女もその潔さに、思わず肩の力が抜ける。ホークスが、フォークを止めて「でもさ」と、軽く首を傾げる。

「こうやって一緒にご飯を食べてる時点で、嫌われてはない、って思っていいよね?」

 押しつけがましくない、ただの確認。彼女は、小さく頷きパンを口に運んだ。返事の代わりに。
 気づけば張り詰めていた空気は、料理の湯気に混ざって少しずつ薄まっていた。そこからは特別な言葉がなくても、間がもった。「そのソース、パンにつけると美味いよ」とか、「こっちの鶏も一口食べてみて」とか生活音みたいなやり取りが途切れ途切れに続く。
 沈黙はあるのに、気まずくはならない。それが彼の経験値によるものなのか、それとも、生まれつきの気質なのか、彼女にはまだ分からない。
 ただ、ひとつ言えるのは。この時間が、思っていたよりもずっと、穏やかだったということだけだった。

「……ふぅ、食べたぁ〜」

 彼は律儀にナプキンで口元を拭き、椅子の背に身を預けた。その動作ひとつひとつに場慣れした余裕が滲んでいる。

「美味しかったですね……」
「ね。やっぱさ、誰かと食べる飯はうまいよね」

 その言葉に彼女は小さく頷く。ふと、同じタイミングで、窓の外へ視線を向けた。ガラス越しの街はすっかり夜の色をまとい、街灯が、ぽつり、ぽつりと点り始めている。さっきまでの夕焼けは跡形もなく、時刻はもう午後七時を回っていた。

「……もう、こんな時間かー」

 彼は、少しだけ口元を緩めた。名残惜しさが、ほんの一瞬、表情に浮かんだ気がする。

「名前ちゃん、明日も仕事?」
「あ、はい」
「そっか」

 何か続くかと思いきや、それきり何も言わず、彼は、伝票を取って立ち上がった。その間の切り替えの早さに、彼女は一瞬だけ拍子抜けする。

「送ってくよ、家の近くまで」

 夜道は危ないからね、ヒーローとして——と、最後の一言だけは、妙に真面目な声音だったが、「家の近くまで」という限定の仕方が、どこか、抜け目ない。

「なんか……すみません。ご馳走になった上に、そんな……」
「いいの、いいの。誘ったの俺だし」

 ホークスが会計を済ませて、扉を押し開ける。外に出た瞬間ひんやりとした夜風が頬を撫でた。昼間の柔らかな暖かさは、すっかり引いていて、季節の変わり目だけが、確かに、そこにある。

「うわ、さむっ」

 もう夏なのにね、と、ホークスはわざとらしく肩を震わせて、ばさりと翼を広げた。紅い羽根が街灯の光を受けて、夜のなかで、艶やかに浮かび上がる。

「歩くと、どのくらい?」
「ここからだと……、二十分くらい、ですかね」
「おっけ。じゃ、歩こ」

 そう言って翼をすっと畳む。飛べば一瞬の距離なのに、彼はあえて歩く方を選んだ。その意図に気づいて、彼女は胸の奥が、少しだけざわつく。
 二人は並んで、住宅街の細い道を進む。人影はまばらで、どこかで虫の鳴く声だけが夜に溶けていた。街灯の間隔が広くなるにつれ足元に落ちる影も、淡く揺れるだけになる。彼は歩きながら、ちらりと横目で彼女を見下ろした。

「……ちっちゃくて、可愛いなぁ」

 考えるより先に口から零れたような声だった。身長差のせいで視線は自然と彼女の頭のあたりに落ちる。

「え?」
「あ、今のは無し」

 そう言いながらもまったく反省している様子はない。彼女は、返す言葉を見つけられないまま、歩調を崩さず隣を歩いた。夜の空気がさっきより少しだけ重く感じられる。それは寒さのせいだけではなく隣にいる存在が、思った以上に近いからかもしれなかった。

「……ねえ、名前ちゃん」

 呼び止める声がほんの少しだけ低くなった気がした。夜の歩道に落ちる街灯の光が二人の影を、曖昧に重ねる。

「散歩、よくするの?」

 問いは軽い調子だったがそこには微妙な含みがあった。あの日も、彼女は歩いていた。
 偶然を装ったあの出会いが、本当に偶然だったのかどうか——。確かめるほど露骨ではないが、無関心を装うにはほんの少しだけ踏み込みすぎた聞き方だった。

「たまに、しますね。空を、見るのが好きで」

 その答えに含まれた単語に、彼の足が止まる。——空。呼吸がわずかに遅れた。軽薄さを纏った表情からいつもの余裕が一瞬抜け落ちる。背中の翼が、意思を持つ生き物のように微かに揺れた。

「俺も……空は好きだよ。ずっと見てきたから」

 独り言のように零してから彼は再び歩き出す。街灯を背にした横顔は影に沈み、表情は読み取れない。ただ『ずっと』という言葉だけが、夜気の中に静かに残り、彼女の胸に引っかかった。しばらくして、彼女が口を開く。

「……ホークスって、イメージ通りですよね」
「イメージぃ? えー、どんな?」

 彼はぐるんと首を大きく回して、さっきまでの沈黙が嘘のように、彼女を見る。空気が元に戻るのが早すぎて、むしろ、ぎこちない。

「チャラいとか、速すぎるとか……?まあ、大体そんな感じだろうけど」

 自分で言ってから自嘲するように彼は苦笑して肩をすくめる。

「んー。まあ、それも否定はできないけど」
「うわ、否定してほしかったなあ」
「でも――」

 彼女は、少し考えてから、自分の中で確認するように、言葉を選びながら続けた。

「……単純に、優しいな、って」

 その瞬間、息を止めたように彼の口が止まる。歩調は変えないまま、数秒、言葉を失ったように黙り込んだ。ふと彼女が横を見ると彼の耳の先がわずかに赤いことに気づく。

「……なん、それ。」

 ただ、ぼそりと落とされた、一言だけ。いつもなら何かしら付け足すはずの男が、それ以上続けられなかった。

「え?」
「……いや、なんでもない」

 ぐっ、と拳を口元に当てて視線を逸らす。その仕草が、照れ隠しであることは明らかだった。
 数歩分の沈黙ののち、角を曲がると、見覚えのある通りが現れる。彼女の住むアパートが近いのだろう。二人の歩幅が自然と揃い、少しだけ緩やかになる。

「……あのさ。」

 ホークスが軽く、咳払いをひとつ。それから、ようやくいつもの軽い調子を取り戻して。

「次、いつ暇?」
「はい?」
「いやだから。次。いつ、会えるかなって」

 ポケットに、両手を突っ込み、何でもない風を装っているが、視線が定まらない。直球で「また会おう」と言うには、さっきの一言が効きすぎたのかもしれない。相手の都合を優先する形をとりつつも、距離を繋ぎ止めたい——そんな迷いが、言葉の端々に滲んでいた。
 夜の空気は静かで先ほどまでの食事の温もりと歩くリズムだけが二人を包んでいる。
 答えを待つあいだ、彼は、何度も視線を逸らしながら、けれど歩調だけは、彼女に合わせたままだった。

「えっと……これって、その……あれですよね」

 彼女は言葉を探すように声の調子を落として、その視線を少しだけ彷徨わせた。

「テレビの……モニタリング、みたいな……」
「……はぁ? モニタリングぅ?」

 抑揚つけた声を発した後、ホークスの琥珀色の瞳が、はっきりと丸くなる。

「一般人をびっくりさせるやつ、ありますよね。ドッキリ、的な……」

 その瞬間、ホークスの肩が目に見えてがくっと落ちた。力が抜けた、というより、精神的に膝を折られた、と言った方が近い。

「いや、違うから! 違う違う、ガチだから!」

 思わず声が大きくなり、慌てて自分の口を押さえる。静かな住宅街だ。どこかの家の窓にぱっと明かりが灯った気がして、彼は背中をすくめた。

「……俺さぁ、そんな信用ない?」
「い、いや……。そういう、わけじゃ……」
「三日間さ、ずっと遠くから見てただけで、直接声かけなかったのも、我慢したからだし。今日の店だって下見、三回も——」

 言い終わる前に彼は、はっとする。言えば言うほど、状況が悪化している。丁寧に説明しているつもりが気づけば熱心すぎる観察者の自己申告になっていた。その構造に、本人だけが遅れて気づいていく。

「ほら……言わなくていいことまで言っちゃったじゃん」
「……いやぁ、でも。ホークスくらいになると、周りに芸能人とか、モデルさんとか……」
「いないいない」

 ホークスは彼女の言葉が終わりきる前に、うんざりした本音を隠す気もなく、首を大きく、横に振った。

「そもそも俺、そういうの別に興味ないし」

 嘘ではなかった。交友関係は広いが誰か一人に深く向き合うことは、これまでなかった。だからこそ、今の自分の必死さに、本人が一番戸惑っているのだ。

「……て、いうかさぁ」

 ホークスが完全に足を止めた。つられて彼女も立ち止まる。街灯の下で彼は彼女に向き直った。

「ドッキリ仕掛ける相手のためにさ、三回も同じ店の下見しないでしょ。普通」
「でも……。初見のマシンガントークは、かなり手慣れてましたよ?」

 ぐっ、と、言葉が詰まる。否定できない。あのときの彼は、距離の詰め方も、声の落とし方も、冗談と本音の混ぜ方もあまりに洗練されていた。確実に、場数を踏んだ人間の振る舞いだった。

「あー、あれはぁ……」

 そこまで言って一度、言葉を噤み、ホークスは頭を掻きながら、少しだけ間を置く。

「いや、まあ、確かにチャラかったよ?認める。でもさ——」

 彼はもう一度だけ息を整えてから、まっすぐに彼女を見る。

「慣れてるから本気じゃない——は違うからね。初対面であんな必死になったの俺ほんとに初めてなんだって」

 言葉は早かったが、そこに、軽さはなかった。いつもの余裕も、茶化す逃げ道もない。

「……疲れてた、とかでは……?」
「はぁ? あのとき?疲れて……?」

 彼は、少し遅れて状況を飲み込み、きょとんと瞬きをしたかと思うと次の瞬間には感情の重さに耐えきれないように、はっきりと肩を落として、項垂れた。

「いや、もうさ。何言ってもダメじゃん、俺」

 トップヒーローが、真顔で、落ち込んでいる。しかも理由は『疲れていたから血迷って口説いた説』。なかなか、見られない光景だった。
 ホークスは翼をしおしおと垂らし夜空を仰ぐ。街灯の光が羽根の端を照らし、その影が、足元に揺れた。必死さだけが空回りして、うまく伝わらない。そのもどかしさが夜の静けさに溶け込んでいった。

「……はぁ。じゃあ、逆に聞くけどさ」

 ホークスは一度、深く息を吐き切ってから顔を上げる。

「俺がさ。ヒーローでも有名人でもない、どこの誰とも知らない一般男性だったら。ご飯くらいはすぐに、OKしてくれた?」

 探るような問いだった。軽口を装っているが、内心は、かなり真剣だ。

「してないですね」

 間髪入れずに返ってきた答えに、彼は胸を押さえて、大げさによろめく。

「……きっつ……」

 彼はまるで致命傷でも負ったかのような身振りだったが、彼女はそこで言葉を切らなかった。

「でも、してました。今こうして、してます」

 その瞬間、ホークスの動きが、止まった。翼の羽根一枚すら揺れない。まるで時間だけが、彼の周囲を避けて流れていったかのようだった。夜風だけが、二人の間を静かに通り抜ける。
 「……え?」と、間の抜けた声が、ようやく、漏れる。

「と、言いますと……?」
「……ホークスだから、っていうミーハーな理由じゃなくて」

 彼女は、少し視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。

「普通に……嬉しかったです。食事に、誘われたのが」

 ホークスは何も言わなかった。茶化すことも、笑って受け流すこともできなかった。

「……うん」

 しばらくして、短く頷く。それだけ。たった、二音の肯定だったが、その声は、わずかに掠れていた。夜空を見上げた横顔に、街灯の光が、滲むように落ちる。

「最初に声をかけられたときは……帰ってから、夢だったのかな、って思ってました」
「夢?」
「はい。相手を間違えたんだろうな、とか……」
「相手を間違えたぁ? ないでしょ」

 ホークスは、即座に否定した。声音には冗談の余地がなく、はっきりとした芯があった。おちゃらけた否定ではなく、心外だと言わんばかりの、真剣さが滲んでいる。

「俺の目は、節穴じゃないよ」

 そこに、揶揄うような調子ではない。むしろ、真っ向からの否定だった。

「……夢じゃないからね。あれ。ちゃんと現実」

 落ち着いた声でそう言って、彼は一歩ぶんだけ彼女に距離を詰めた。

「ファットガムじゃなくて、ごめ——」
「わ、近い!!」

 彼女の反応に、ホークスは「あ」と小さく声を漏らし、すぐに半歩引いて両手を上げる。

「ごめんごめん、つい」

 無意識に距離を縮めてしまう癖。自覚しているだけまだマシだがこれが計算なら余計に厄介だ。ホークスは「……でさ」と、下がった位置から、改めて彼女を、まっすぐ見下ろす。

「ドッキリじゃないってのは信じてもらえた?」
「……まあ……はい。そこは、なんとか」

 その答えを聞いた瞬間に、ホークスは小さく、「よし」と呟いて、控えめに拳を握った。
 トップヒーローが、一般人ひとりの信頼を勝ち取っただけでこんなにも分かりやすく喜ぶ。もしこの光景を世間が見たら、きっと、驚くだろう。だが今は夜の住宅街にいるのはただ少し浮かれた男と戸惑いながらも歩調を合わせ始めた彼女だけだった。

「——じゃあ、改めまして」

 ホークスはわざとらしく、ゴホン、と咳払いをひとつして背筋を伸ばした。夜の住宅街、街灯の下でそんなふうに姿勢を正す必要なんてどこにもないのに、彼は妙に、かしこまった顔を作る。

「職業、プロヒーロー。二十二歳。彼女はいません。好きな子はいます」

 一語一語、確かめるように言葉を置いてから、ほんの一瞬だけ、間を空けた。

「……今度、また会ってください」

 その言い方は、いつもの軽快な調子とは、少し違っていた。格好つけきれず照れも隠しきれず、それでも逃げない。そんな不器用さが、声の端に滲んでいる。
 彼女は息を呑んだ。心臓が跳ねる音が、自分にだけ聞こえている気がする。夜風が頬を撫でても熱は引かなかった。ヒーローから向けられる言葉なのに、どこか等身大でまっすぐで、思っていたよりずっと、近い距離に感じられてしまう。

「……っ、は、い。」

 少し遅れて返ってきたその答えに、ホークスは取り繕うことすら諦めたように胸の内をそのまま顔に滲ませた。

「やった」

 声に出して言い切り、満面の笑みを浮かべる。喜びが抑えきれずに溢れている顔だった。世界を救う男が、たった一言でここまで嬉しそうになるのは、なかなか見られない光景だろう。
 ちょうどそのとき見覚えのある建物が目の前に現れた。彼女の足取りが自然と緩んだのを見るとどうやらこの辺りが、帰り道の終着点らしい。

「……ここ?」
「はい、そうです」
「へえ。新築? おしゃれな造りだねぇ」

 ホークスは何気ない感想を口にしながら建物を見上げる。

「……ホークスは、このあと、お仕事ですか?」
「いや、今日はもう終わり」

 明日の朝イチで福岡戻るだけ。そう付け足して翼を軽く伸ばすと、小さく骨の鳴る音がした。
 つまり彼女を送ったあとは、寄り道もなく帰るつもりなのだ。

「あの……」

 少し、迷うように視線を泳がせてから、彼女は続けた。

「コーヒーくらいなら……出せますけど」

 その瞬間、ホークスの剛翼が、ぶわっと大きく開いた。風は吹いていない。完全に感情が制御を追い越している。あきらかに個性の制御が乱れていた。

「え……いいの?」
「ご飯、ご馳走して、もらったので……」
「そんな、全然いいのにぃー」

 そう言いながらも、彼の足はもう彼女の後ろについている。迷いは一切なかった。そうして彼は楽しそうに口角を上げて言った。

「でも、せっかくだし。お言葉に甘えようかな」

 そう言ってから、彼は、ほんの一瞬だけ彼女の顔を見た。確かめるように、けれど逃げ道を探すほど慎重でもない視線だった。断るという選択肢は、たぶん最初から用意されていなかったのだと思う。彼女がそう口にした時点で、夜の行き先はもう決まっていた。
 昼の延長だったはずの時間は気づかないうちに少しだけ輪郭を変えていて、これから先は『帰り道』ではなく『続きを含んだ時間』になる予感がした。
 夜は、まだ終わらない。むしろ——ここからが少しだけ違う温度で、始まろうとしていた。


prev | next
back
VERTEX