眠れぬ夜の果てに迎えた朝は、いつもより重たかった。化粧ののりも悪く鏡に映る自分の顔色が冴えないことを悟りながら、それでも足を止めるわけにはいかず私はいつも通りの時間に事務所の扉を開けた。書類の山、鳴り続ける電話、パソコンのモニター。すべては同じ光景のはずなのに、胸の奥では、昨夜の言葉が生き物のように蠢いている。それをどう受け止めていいのかまだ答えを出せないまま——。

「おはようございまーす」

 羽音とともに軽やかな声が届いた。ホークスが入ってくる。彼はいつも通りの笑顔を浮かべて、羽根を揺らしながら席に腰を下ろした。私は胸のざわめきを押し殺すように、ただ視線を落として書類を並べる。

「今日も忙しいですよー。午前は取材、午後イチにはチームアップ。スケジュール管理お願いしまーす」

 昨日の言葉などなかったかのように軽快な口調で本日の予定を告げる。私の心臓だけが場違いな速さで鳴り続け、指先の動きはぎこちなかった。理性は私もそうするべきと告げるのに感情は置き去りにされたまま宙吊りで揺れていた。
 整理できない気持ちを抱えたまま私は再びキーボードに手を伸ばした。今日もまた仕事を理由に心を封じ込めるしかなかった。

 午前の仕事が一段落し、コピー機の前で書類を整えていると、サイドキックのひとりがひょいと顔をのぞかせてきた。

「名前ちゃん、最近なんか元気なかねぇ。大丈夫?」

 その言葉に心臓が締め付けられた。しかし私は慌てて笑みを作って、首を振った。

「いえ、そんなことは……ただ少し寝不足なだけです」
「ふーん……」

 サイドキックは意味ありげに笑みを浮かべて、背後のホークスの机に、ちらりと視線を送った。彼は資料とタブレットを手にして何事もなかったように淡々と仕事をしている。

「……ねえねえ、ずっと気になっとっちゃけど」

 囁くように声を落とし、サイドキックは問いを重ねた。

「ホークスって女性と二人きりで食事に行ったりすんのかねぇ?」

 唐突な質問に私は手にしていた書類を取り落とした。しかし、必死に取り繕いながら拾い上げ、答えを探す。

「ど、どうなんでしょう。私は……知りません」

 自分でも不自然だと分かるほど声が揺れていた。サイドキックはじっと私を見つめ、からかうように笑みを浮かべる。

「正直、気になるよねぇ?だって、あんなにモテそうなんに、浮いた話聞いたことなかけん」

 胸の奥でざわめくものを必死に押し殺す。どうしてこんなに動揺してるんだろう、私。すると、背後から羽根の衣擦れが聞こえ振り返ればホークスがこちらを一瞥していた。視線はすぐに資料に戻ったがその刹那の光は、まるで探るように私の心の奥を覗いていた。
 サイドキックが笑みを残して去っていったあと事務所には静けさが戻った。コピー機の低い唸りだけが響き私は落ち着かない心を抱えたまま席へ戻る。ホークスは変わらず資料に目を通していたが、羽根がときおり小さく震え、紙をめくる音に混じって空気を揺らす。まるで何も聞いていなかったかのように。だが私が席に腰を下ろした瞬間彼がふいに口を開いた。

「ほんと皆さん好奇心旺盛ですよねー。ああいう話題、困りません?」

 何気ない調子。けれど胸の奥を一突きにされ、私は思わず顔を上げて振り返る。

「……え?」
「いや、上司のプライベートとかさぁ? 知らんですよ、って感じだろうし」
「……」
「仕事中に聞かれると気が散るでしょ?」

 さらりと笑いながら言う彼の声は軽やかで冗談めいていた。だがその瞳が一瞬だけこちらに流れた刹那、心臓が跳ねた。聞いてたんだ。きっと、すべて耳に届いていた。けれど彼はあえて触れず冗談めかした言葉で覆い隠している。それがかえって苦しく、胸のざわめきを強くした。

「そ……そうですね。ちょっと、困ります」

 やっとのことで返した声は、自分でも頼りなく響いた。彼は羽根を揺らして小さく笑った。

「じゃあ、あんまり相手にしなくていいですよ。本当に困ったら、俺がフォローしますんで」

 平然と告げるその背中に私はどうしようもなく目を奪われた。やっぱり、普通じゃない。聞いていないふりの奥に、本当の気持ちが隠れている。仕事と割り切ろうとする心と、揺れ動く胸の奥。その二つがまたしても噛み合わず、私はただ深く息を吐いた。私はそれ以上言葉を返さず目の前の書類に視線を落とした。ペンを握る指に力を込め仕事に没頭するふりをする。いや、没頭しなければならないのだ。心臓の高鳴りを聞かせてしまえば、彼にすべて悟られてしまう。
 カリカリと紙に走るペン先の音。時計の針の微かな刻み。それらに集中しようと耳を澄ませても背後から聞こえる羽根の揺れる気配が意識を引き裂いていく。そんなとき何気ない調子で声が落ちてきた。

「でも……二人きりだと、誰も茶化してきませんし。そういうのは楽ですよね」

 さらりと紡がれた言葉にペンの先が止まった。振り返れば彼はソファに身を預け資料を手にしたまま何事もないように微笑んでいた。羽根がゆるやかに揺れ、その影が床に伸びている。

「……二人きり、ですか」

 思わず口をついて出た声は、息と同じほどに、か細かった。彼は頷き、軽い笑みを浮かべた。

「ええ。俺としては、そっちの方が都合がいい」

 冗談にも取れる響き。けれどその瞳の奥に潜んでいた色は笑いだけではなかった。私は返す言葉を失い、ただペンを握り直しながら視線を落とした。胸の奥では、答えを出せないまま膨れ上がるざわめきがまた静かに形を変え始めていた。私が視線を落としたまま沈黙していると羽根の気配がふわりと近づいてきた。顔を上げるよりも先に、机の端に影が差し込む。気づけばホークスが目の前に立ち、覗き込むように笑っていた。

「ねえ、名前さん。」
「……は、い」
「そんなに真剣に書類ばっか見てると、ちょっと意地悪したくなっちゃう」

 低い声。からかうような調子なのに距離が近すぎる。肩先にかかる羽根がかすかに揺れ、まるで檻のように逃げ場を塞ぐ。

「顔、赤いですよ? そんなに俺のこと意識してくれてるんですか?」

 挑発めいた言葉に頭の上まで血が上り胸の奥で何かがついに決壊する音がした。

「うぅ……もう、やめてくださいぃ……」

 絞り出す声は弱々しく震え、押し殺そうとした涙が視界を一気に滲ませる。

「え、ちょ……」

 頬を伝う雫を見た瞬間、ホークスは露骨に慌てた。私自身も自分で自分に驚いたけれども……。
 瞬間、羽根が大きく揺れ、彼は狼狽えたように両手を宙に上げる。

「わ、わっ!? ちょ、えっ……泣かせるつもりじゃなかったんですよ!?」

 普段の余裕などどこへやら、目を丸くしてうろたえるその姿に、私はますます、涙が止まらなくなる始末。

「ご、ごめんなさいっ!ほんとに……俺、そんなつもりじゃ……!」

 机に身を屈め、必死に覗き込む声は、今度こそ本気の焦りと真剣さを帯びていた。私は震える手で目元を覆い、ただ首を横に振るしかなかった。揺れる羽根の影が私を包み慌てふためく彼の声が胸の奥に妙な温かさを残していった。涙が止まらない私を前に、ホークスは完全に狼狽していた。羽根が所在なげに揺れ、彼は机の端に腰をぶつけそうになりながら、どうしていいか分からないというように右往左往する。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 俺が悪かったです! ちょっとからかうつもりが……まさか、泣かせちゃうなんて……!」

 慌てて差し出されたハンカチが震えていて私はそれを受け取るだけで、また嗚咽をこぼした。

「ほんとに……悪気はなかったんですよ。ただ、いつも真面目な顔して仕事してるから、ちょっと揶揄ってみたくなって。でも、俺がバカでした」

 彼の声は必死だった。普段の軽快さは影を潜めただ真剣に私を落ち着かせようとする一心がにじんでいた。私は受け取ったハンカチで目元を拭いながら、震える声で言葉を探した。

「い、いえ……すみません。取り乱して……」
「いえいえいえっ! 謝らなくていいですって!俺のほうが完全に悪いんですからっ」

 彼は力強く首を横に振り椅子を引き寄せて腰を下ろした。その眼差しはどこまでも真っすぐで、軽口を一切挟まない。

「あの、泣かせるつもりなんてなかった。本当はただ、もう少し、近づきたかっただけなんです」

 その言葉が胸に落ちた瞬間、私はまた涙が零れそうになるのを堪えきれなかった。けれど、その涙は先ほどのように苦しいものではなく胸の奥で形を変えていく温かさを帯びていた。
 どれほどの時間が経っただろう。涙の波がようやく収まり私は深く息を吐いた。目元に残る熱をハンカチで押さえながら、かすれた声で呟く。

「あの……すみません。本当に、私の方こそ……仕事中に、こんな……」

 隣に座る彼は、まだ落ち着かない様子で羽根を小さく揺らしながら首を振った。

「いやいや謝るのは俺ですって。俺が変に煽ったから……」

 その言葉は真剣で普段の軽さをすっかり失っていた。心なしか羽根も項垂れているように見える。けれど、互いに謝り合うことで場が軽くなるどころか、逆に沈黙が深まっていく。机の上には未整理の書類が散らばったまま。窓から差し込む光だけがふたりの間に取り残された空気を優しく照らしていた。

「……落ち着き、ました?」

 ようやくそう問いかけた彼の声は、どこか探るようでもあり、不器用な優しさに満ちていた。

「はい……大丈夫です」

 答えながらも、胸の奥に残る気まずさは消えなかった。彼は小さく息を吐き、椅子を引いて立ち上がる。

「じゃあ……仕事、戻りますか」

 それ以上、何も触れようとしなかった。謝罪の言葉と沈黙だけが残り、事務所には以前とは違う重たさが漂い続けていた。

 その日の夜。アパートの部屋は静まり返り机の上のランプが紙の束を淡く照らしていた。けれど目を通す気力はなく私はただソファに身を沈めていた。今日の出来事を頭から追い払おうとしても無理だった。涙を流してしまった自分の弱さも、彼の慌てふためいた姿も謝罪を重ねたあとのあの気まずい沈黙も。そんなとき机に無造作に置いていたスマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見た瞬間、一気に心拍が跳ね上がる。


ホークス

今日はごめんなさい






 その短い一文に続いて、すぐにまた、手の中のスマートフォンが震える。


ホークス

今日はごめんなさい


ホークス

ほんと泣かせるつもりは
一切なかったので
本気で反省してます






 その言葉に胸が詰まった。彼らしい軽口の調子はなく、滲むような真剣さが文字の隙間から伝わってくる。そして、さらに間を置かず、三度目の通知が……。


ホークス

ほんと泣かせるつもりは
一切なかったので
本気で反省してます


ホークス

でも泣いてる顔を見たら
守りたくなるなーって
思いました
なんか変な言い方ですけど
だから無理しないでくださいね






 指先が震える。返事をどうしたらいいのか分からず、ただ画面を見つめるばかりだった。しかし最後に届いた一文が、胸の奥深くに残った。


ホークス

明日も普通に仕事しましょう
俺はあなたがいてくれるだけで
ほんと十分ですから






 明るいスタンプが添えられていたけれど、その下に隠れた思いはきっと私の心の揺れと同じものだったと思う。


 *


 結局私は彼のメッセージに返事をしなかった。けれど翌日もその次の日も彼は何も言わずに普段通り接してくれて、そのことが逆に私の心を押し出したのだと思う。
 木曜日の午後。サイドキックたちは任務に出ていて事務所には私とホークスの二人しかいなかった。書類を束ねる音や、彼がタブレットを叩く音だけが重なり合い、それがやけに耳に残る。
 胸の奥で、言葉が膨らんでいく。スマホに打ち込んでは消した食事の誘いへの返事。あれを画面ではなく、自分の声で伝えなければいけない——そんな思いが理性を上回っていた。

「あ……あの。」

 勇気を振り絞って声をかけると、彼は手を止め指先を宙に浮かせたまま、こちらを見上げた。

「はい? どうしました?」

 視線を正面から受け止められず私は書類を胸に抱えたまま俯いた。

「この前……その、食事に誘ってくださったことなんですけど……」

 言葉は途中で途切れ喉が渇く。羽根がかすかに揺れ、彼が身を乗り出す気配がした。

「ああ……ええ。」

 ちらりと視線を向けると彼は手にしていたタブレットを机の上に静かに置き、ゆったりと足を組んだ。その仕草にすら胸が高鳴り、私は深く息を吸い込む。そして、ようやく声を紡いだ。

「……ぜひ、その……お願いします。」

 言ってから顔を上げると彼の瞳が一瞬見開かれ次いで、満面の笑みが広がった。

「本当に?いやぁ〜、めちゃくちゃ嬉しいです」

 軽口めいているのに、その笑顔の奥には素直な喜びがにじんでいた。胸の鼓動が早まり私は書類を抱く腕に力を込めて誤魔化した。

「じゃあ、明日の夜。仕事終わりに行きましょ。楽しみにしてますねっ」

 彼がそう告げた声は、いつもの飄々さを帯びながらも確かに熱を含んでいた。その響きが仕事を終えても耳から離れず私は静かに震え続けることしかできなかったのであった。

 翌日。彼は朝からチームアップで、事務所には私が帰る時間になっても顔を出さなかった。私はこの日、彼と会えないというだけでとても悲しい気持ちになることを改めて知った。
 待ち合わせは夕暮れの駅前。人波に紛れながら彼の姿を探すと薄手のジャケットを羽織り羽根を隠すように器用にボディバックを身につけ帽子を目深にかぶった、ホークスが立っていた。普段のきらびやかなヒーローの姿はそこになく、ただの若い成人男性として溶け込もうとしている。

「あの……お待たせしました」

 声をかけると、彼は振り返り、いつもの笑みを浮かべた。

「いやいや、俺も今来たとこです」

 どこかで聞いたような常套句が、不思議と胸を温める。並んで歩き出すと街の喧騒が遠くに霞んでいくように思えた。
 行き先は彼が選んだ小さなレストランだった。路地裏に佇む古びた店で窓からは柔らかなランプの明かりが漏れている。扉を開けば温かな香りと控えめな音楽が迎えてくれた。

「派手なとこは落ち着かないでしょう?ここなら人目も少ないし、ゆっくりできますよ」

 彼はそう言って椅子を引き私を座らせる。その気取らない仕草に、胸がざわめいた。メニューを手に取っても文字が頭に入らず、ただ対面にいる彼の姿が、視界を支配していく。ワイングラスを揺らしながら、彼はふと視線を上げて言った。

「こうして二人きりで食事、ずっとしたかったんですよねー」

 軽く放たれた言葉に心臓が大きく跳ねた。冗談めいて笑う口元と裏腹に瞳だけが真剣で私は思わず視線を逸らした。やっぱり普通の食事じゃ終わらないのかも。胸の奥にそう確信しながら、私は深く息を吸った。
 テーブルに並んだ料理は、思った以上に素朴で温かかった。香草の香りが漂うスープにこんがりと焼かれた魚。どれも気取った盛り付けではなく家庭的な雰囲気があった。

「こういうの、いいですよね。なんか落ち着く」

 彼はグラスを片手に、目を細めて笑った。その横顔にヒーローの看板を背負う日常から少し解き放たれた影が見える。

「なんか、意外です。ホークスならもっと派手なお店を選ばれるのかと……」

 思わず私がそう言うと彼は情けなさそうに肩をすくめる。

「派手なのは仕事で散々ですからねー。俺自身は静かな方が性に合ってるんですよ……とか言ってみたりして」

 冗談交じりの軽口。それでもその言葉がどこか本音に触れているようで、胸の奥がざわめいた。ふと、前菜の皿を取り分けようとしたとき、彼の手と私の手が重なった。瞬間、グラスの中で氷が小さく鳴り、時間が止まったように感じた。

「あっ……すみません。」

 慌てて手を引くと、彼は少しだけ笑って、首を振った。

「いや、俺の方こそ。でも……あれです」
「……あれ?」
「んー、ドキッとしました」

 軽口のはずの言葉が妙に熱を帯びて耳に残る。視線を逸らしたのに、頬にじわりと熱が広がっていく。その後も話題は途切れず、好きな食べ物の話やヒーローになりたての頃の思い出まで自然に流れていった。笑い合いながらもふとした沈黙のたびにテーブルを挟んだ距離が縮まっていることに気づく。食事の場で交わされる何気ない言葉が仕事場でのやり取りよりもずっと深く胸に残っていくのを私はどうしようもなく感じていた。
 食事が半ばを過ぎ、ワインの赤がグラスの底にゆらめく。店内のランプは柔らかく隣の席のざわめきすら遠くに感じられた。私は、前菜の残りをフォークで押しやりながら、心を落ち着けようと必死だった。けれど正面に座る彼の存在感は静かに、しかし確実に胸の奥を占めていく。

「……こうして普通にご飯食べてると、ちょっと忘れますよね」

 不意に、彼がそんなことをぽつりと呟いた。

「何を、ですか?」

 私が問い返すと、彼は笑って首を傾げる。

「ヒーローだってことです。あと、あなたが俺の事務所で働いてることも」

 冗談めいた声色の奥に、微かな真剣さが滲んでいた。私はフォークを止め、息を詰める。

「仕事中はどうしても線を引かれるじゃないですか。でも、今はただの——男と女ですよね」

 その言葉に胸の奥で音が鳴った。ワインの香りが妙に強く鼻を刺し、視線を逸らそうとしても、彼の瞳に捕らえられる。

「……なんか、言い方が……」

 声は小さく震えた。彼はすぐに苦笑を浮かべ、肩をすくめる。

「ごめんなさい、真面目に口説きすぎましたかね」
「……」
「でも、知りたかったんです。見定めたかった。あなたが俺を、どう見てるのか」

 フォークを持つ手が強張り皿の縁に小さな音を立てる。私は、どう見てるんだろう。ヒーローとして?上司として?それとも……胸の奥で言葉にならない答えが膨らみ、苦しくなる。その沈黙を見つめながら、彼はグラスを軽く揺らした。

「……俺は、あなたのことを、ただの部下として見られなくなってきてます」

 淡々と、けれど揺るぎない声で告げられた言葉がテーブルの上に重く落ちた。グラスの中の赤が揺れ、微かな灯りを映しながら、沈黙の中でただ時間を延ばしていく。
 私はフォークを握る指に力を込めすぎていた。返事をしなければと思うのに喉が固く閉じて声が出ない。彼はその沈黙を見つめ、柔らかく笑う。けれどその笑みは軽口ではなく、どこまでも真剣だった。

「驚かせました? でも、本当のことなんです」

 さらりとした言い方なのに瞳の奥は熱を帯び、逃げ場を与えない。胸の鼓動が痛いほど鳴り響き視線を逸らそうとしても絡みつくように戻されてしまう。何も言葉にできないまま私はただ小さく息を吸い込み、唇を震わせた。

「そんなふうに、言われたら……わたし……」

 かろうじて零れた声は頼りなく夜気に溶けた。彼は短く頷きグラスを置くとあえてそれ以上追及せず「出ましょうか」と言い置き、席を立った。そのさりげなさがかえって胸を揺さぶり私は落ち着かないまま立ち上がるしかなかった。

 食事を終えて店を出ると、夜風が頬を撫でた。昼間の喧騒が落ち着きを見せ始めた街はネオンの灯りがやわらかく揺れ、行き交う人々の足取りもどこか緩やかだった。
 並んで歩く。肩が触れるほど近いわけではないのに時折吹く風に彼の羽根の気配がかすめ、胸の奥がざわめく。

「……今日は、ありがとうございました」

 そう口にすると、彼は笑って片手をポケットに突っ込んだまま視線を上げる。

「こちらこそ。こうして二人きりでゆっくりご飯食べられて、すごく良かったです」

 歩調を合わせるようにして、彼はふと、口元を緩めた。

「今度は、俺の行きつけのお店にも一緒に行ってみたいです」
「行きつけ……ですか?」

 思わず問い返すと、彼はわざと、肩をすくめてみせる。

「さっきはちょっと背伸びしました」
「え?」
「俺自身は、静かな方が性に合ってるってやつ」
「あ、ああ……。じゃあホークスの行きつけってどんな……」
「え? 普通の焼き鳥屋とかですよ?」

 予想外の答えに、私は思わず笑ってしまった。

「焼き鳥屋、ですか」
「そうそう。飾りっ気ゼロの常連しか来ないようなとこ。でもなんか、落ち着くんですよねー」

 彼の声はいつもの軽さを保っているのに、そこには仮面ではない素の温度が感じられた。歩道に並ぶ灯りの下で、その言葉の自然さが胸に沁みていく。ヒーローじゃなくて、ひとりの人間として過ごす時間を私に見せようとしてる……?そんな思いが心をよぎり頬にほんのり熱が差した。アスファルトに街灯の影が伸びふたりの靴音が一定のリズムで響く。夜風は昼間の熱をすっかり奪い、頬を撫でるたびに、少し心を冷やしてくれるようだった。けれど胸の奥は落ち着くどころか、ますます熱を帯びていた。
 言わなければならない、けれど、言ってはいけない。そのせめぎ合いが喉元で渦を巻き足取りを重くする。

「……あの、」

 立ち止まったわけでもないのに声が震えてしまった。彼が首を傾けてこちらを覗き込む。

「ホークスのことは……尊敬していて。ずっと、信頼できる上司だと思ってます」

 そこまで一気に吐き出して、私は思わず視線を落とした。言いたいことの半分も言えていないのに鼓動がうるさくてもう歩き続けられないように思えた。

「でも……」

 夜の雑踏が遠のき、喉から零れる声が自分でも頼りなく聞こえる。

「でも、こうして……また、その……二人きりで食事に行ければ……って」
「……」
「ぜ、ぜひ次は、ホークスが行きつけの、その、焼き鳥屋さん、とか……」

 しどろもどろな言葉は、冷たい夜気の中に震えながら消えていく。顔を上げることができない。それでも、伝えてしまった。沈黙。ほんの数秒が永遠のように伸びる。やがて隣で小さな笑い声がした。

「ありがとうございます」
「……」
「……十分すぎるくらいの本音、聞けましたよ」

 軽やかに聞こえたその声に振り向くと彼は街灯の下で羽根を揺らしながら、いつもの笑みを浮かべていた。けれど瞳の奥は、冗談ではなく確かな熱を帯びていて、私の胸を深く貫いた。けれど、すぐに喉の奥に不安がせり上がってくる。
 彼は誰にでも優しく、誰とでも軽口を交わせる人だ。そんな彼が自分だけを特別扱いするなんて本当にあるのだろうか。

「あの、でも……」

 気づけば無意識のうちに、言葉が続いていた。

「もし、他の人とも……こういうふうに、してるなら、」
「……」
「私はもう……その。いい、というか……」

 自分でも、曖昧すぎると分かる言い方だった。強がりのようでもあり弱音のようでもあり揺れる心がそのまま滲み出てしまっている。彼は一瞬、歩みを止めた。街灯の下で羽根がかすかに震え、その視線がまっすぐにこちらを射抜く。

「……そう言われると思ってました」

 低く落ちる声はいつもの軽快さを欠いていた。

「でもね、名前さん」
「……はい」
「俺がこうして二人きりで出かけたいって思ったのは、あなたが初めてなんです」

 その言葉に胸の奥が静かに震えた。信じたい、けれど信じきるには怖い。そんな逡巡がまだ拭えないまま、私は歩みを止めかける。けれど、彼は立ち止まった私の横に並び、いつになく、真剣な声音で続けた。

「……焦らなくていいです。ゆっくり関係を構築していきましょう」
「……」
「焦って一人で暴走してまた、泣かせたくない」

 軽口でも冗談でもない。彼の口からそんな言葉が出ること自体が、信じられないくらい珍しい。だからこそ、その真剣さが胸に深く沁みた。私は不意に頬を緩めほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 夜風が髪を揺らし、街灯の下で影が寄り添う。私の笑顔を見て彼もまた、肩の力を抜いたように小さく笑った。
 ふたりの関係は、まだ始まったばかり。けれどその歩みは、確かに前へ進んでいる。そう思えるだけで胸の奥が静かに温かく満たされていった。





 

恋と自由の暗喩


(じゃあ早速、次のデートの約束しても?)
(次の、デート……?)
(ええ。焼き鳥、食べに行きましょう。二人で)
(……はい、ぜひ。)

※image song『 ハレの日に/汐れいら 』


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