アパートの廊下は夜の静けさに包まれていて、天井に取り付けられた玄関灯の白い光が、二人の足元をひんやりと縁取っていた。外階段を上ってきた風の名残が、夕暮れの匂いを、かすかに連れ去っていく。
 しばらく並んで歩いていた彼女は、部屋番号の前まで来ると、まるで時間を確かめるように一瞬だけ歩調を緩め、それから静かに足を止めた。

「さっき……」
「ん?」
「遠慮する気、あんまりなかったですよね」
「あっはは。バレた?」

 悪びれる様子もなく笑う。その声に緊張が一段ゆるむのを彼女自身が感じていた。
 鍵を回してドアを引くとふわりと生活の匂いが廊下に溢れ出す。洗剤とほのかな甘さが混じったごく私的な空気。靴を脱いで一歩上がるとこぢんまりとした、一人暮らしの部屋が現れた。余計なものは少なく、けれど無機質でもない。そこで、ホークスの鼻が、ひくりと動いた。

「……いい匂いする」
「あ、ルームフレグランスだと思います。最近、変えたばかりで」
「へえ。すごく、落ち着く匂い」

 独り言のようにそう言って、彼は少しだけ目を細めた。

「気に入ったなら小瓶に入れて差し上げますよ」
「マジで? それ、嬉しいんだけど」

 子どもみたいに目をきらきらと輝かせる。その表情に、彼女は一瞬、立場を見失いそうになる。プロヒーローに、香りを贈る一般人。釣り合っているのかどうか考えるだけ無駄な組み合わせだ。

「この間接照明いいね。俺の部屋、ほんと殺風景でさぁ。こういうのあるといいんだけどね」

 中に入るなり彼は遠慮という言葉を置き忘れたかのように、家具や小物に、目を走らせた。興味深そうに、けれど、踏み込みすぎない距離感で。
 一瞬だけ、間取りと窓の位置を確認するような視線が走ったが、それもすぐに彼女へ戻る。

「あ、コーヒー俺やるよ。豆、どこ?」
「あ、えっと。そこの、棚の上に……」
「ここね」

 言い終わる前に、もう棚を開けていた。他人の家だという意識があるのかないのか。それでも、必要なものを見つける速さだけはさすがだった。

「お、マンデリンだ。いい趣味してるね」

 カップも二つ、迷いなく取り出す。その動きがあまりに自然で、まるで、何度もここに来ているかのようだった。三日間の��遠巻きの観察�≠ナ、どこまで把握しているのか。考え始めると、少し怖いまである。
 彼女は小さく息を吐いた。ため息とも安堵ともつかない吐息。ケトルの湯が沸く音が狭く静かなキッチンに満ちる。このヒーローが他人の台所でコーヒーを淹れているという現実味のなさが逆に落ち着かせてくれた。

「ミルクと砂糖は?」

 彼女に振り返らずに聞いてくる。その口ぶりが妙に��日常�≠セ。

「ホークスは、甘党ですよね」
「……え?」

 そこで、彼の手が止まった。振り返った顔は、驚きと警戒が半々の何とも間抜けなものだった。

「なんで、知ってるの?」
「前に、テレビで言ってた気がして」
「あー......」

 少しだけ、肩の力が抜ける。それから、どこか拍子抜けしたような、ほんのり残念そうな顔。

「そっか。テレビか」
「え?」
「いや、なんでもない」

 すぐに笑って誤魔化し、ミルクを多めに注ぐ。テレビで知られていた情報。つまり彼女自身が、ホークスに興味を持っていたわけではなくただの一般教養の範囲。その事実に一瞬だけ目が泳いだが、彼はすぐに持ち直した。

「そうそう、甘党。よく覚えてたね、そんな流し見の情報」

 声がほんの少し低くなった。その変化に彼女が気づいたかどうかは分からない。代わりに今度は背中越しに、彼女の声が届いた。湯気の立つキッチンに、静かに染み込むような声が。

「……ホークスは、いつだって目につくから」
「……。目につく、ね」

 口角がゆるく持ち上がる。それだけで十分だとでも言いたげだった。嫌でも視界に入る、という意味かもしれない。
 好意かどうかはさておき認知されているという事実だけでこの男の胸は妙に満たされてしまう。

「はい、どうぞ」

 彼女の家で、彼女の選んで買ったマグカップを差し出す。彼女はブラック、自分のものにはミルクが多め。二人は自然な流れでソファに並んで、腰を下ろした。カップから湯気がゆっくりと立ち昇る中、リビングの掛け時計は午後九時を指している。
 出会ってから、まだ三日目。それなのに、この部屋に流れる時間だけは、ひどく穏やかだった。ホークスの紅い羽根が、そわそわと落ち着きなく揺れてさえいなければ。

「……緊張、します」
「俺もだよ」

 驚くほどにあっさりした返事だった。出会った初日から、あれだけ飛ばしていた男の口から出た言葉とは思えない。

「……ていうか、剛翼ずっと出しっぱなしだ」

 ごめん、邪魔だよね。と少しだけ照れたように笑って付け足しながら、翼を体の後ろへ回す。

「大丈夫ですよ。逆に、狭くてごめんなさい」
「は? なんで名前ちゃんが謝んの」

 ホークスは、思わず声を立てて笑った。

「十分広いよ、ここ。事務所の仮眠室より快適」

 さすがに言い過ぎだったと自分でも思いながらそれでも彼女の控えめな言い方が気に入ったのかホークスは、カップに口をつけて目を細める。

「いつでも、任務の休憩中に寄ってくださいね」

 一拍の間。一瞬、言葉が止まった。ホークスはそのまま、カップに顔を埋める。

「……なにそれ、プロポーズ?」
「えぇ!?」
「あはは、冗談冗談」

 カップの陰で、耳の先まで赤いのは見なかったことにしてほしいらしい。

「でも、マジでいいの? 休憩に使って」

 声だけは平静を装っていたが、背中の羽根が、一斉に逆立っている。感情のセンサーとしてこれほどわかりやすい器官もない。ずいぶんと感情が筒抜けだった。

「庶民は、ヒーローみんなに親切です」
「……ふーん。みんなに、ね」

 ホークスは、カップをことん、と目の前のローテーブルに置いた。たった一言で声色が変わるのだから、わかりやすい男だ。『みんな』という、単語に引っかかったのは、明白だった。

「じゃあ、俺だけ特別扱いしてほしいな」

 ソファの背に片腕を預け、体を少しだけ彼女の方へ向ける。距離を詰めすぎない絶妙な位置から上目遣い気味に、その表情を覗き込んだ。

「……え。」
「……なんてね」

 言い終わるより先に彼はするりと体勢を戻し、何事もなかったかように、カップへ手を伸ばす。そして、誤魔化すように一口含んだ。
 軽口の形を借りた言葉だったが、視線の奥には笑いきれない色が、残っている。「なんてね」に押し込められた本音がほんの少しだけ苦い後味を残していた。

「……そろそろ、帰んないとな」

 ふと、壁際の時計を横目で確認する。針はもういい時間を指していた。

「あ、ごめんなさい。足止めしちゃって」
「いえいえー。嬉しかったですよ、お邪魔させてもらえて」
「えっと……少し、待っててくださいね」

 そう言って、彼女は、ぱたぱたと小さな足音を立てて奥の部屋へ消える。残されたホークスは、ソファに腰掛けたままカップの中身をゆっくりと啜りながら待った。落ち着いているつもりでも、翼の先だけが正直で無意識に小さく揺れている。

「……なんだろ」

 自分でも理由の分からない胸騒ぎに、首を傾げる。ほどなくして戻ってきた彼女の手には小さな紙袋が握られていた。

「はい、これ」
「ん?」
「さっき言ってた、フレグランス。小瓶に詰めてきました」

 受け取った紙袋を覗き込んだ瞬間、思わず声が裏返る。

「え、もう詰めてくれたの? 今?わざわざ?」

 中には琥珀色の液体を湛えた小さなガラス瓶。簡単なものとはいえ、きちんと結ばれた、リボンまでついている。ほんの数分で用意したとは思えない丁寧さだった。

「……ほんと、律儀だなぁ」
「いえいえ」
「ありがと。大事にする」

 その言葉だけは冗談で流さなかった。瓶を取り出し照明にかざす。光を受けて揺れる色合いが、妙に目に焼き付いた。

「ふふ。それ、ホークスの色ですね」
「俺?」

 一度、彼女を見てから、瓶と自分を見比べる。髪やヒーロースーツの色のことだろうかと考えた矢先、頭上から、思いもよらない言葉が続いた。

「ホークスの、瞳の色だなって思って」

 数秒、思考が止まる。心臓が、どくんと鳴った気がした。次の瞬間、ホークスは空いた手で顔を覆った。

「……ほんと、そういうとこ」
「ん?」
「天然でやってんでしょ、それ」
「いや。詰め替えてるときに、綺麗だなって気づいて」

 ホークスの指の隙間から覗く耳が、はっきりと分かるほど赤い。

「……帰りたくなくなるから、やめて」

 声は、くぐもっていた。福岡行きのフライトは朝で、時間にはまだ余裕がある。それでも、このままここにいたら、本当に踏み切れなくなる——そう理解しているからこそ、彼は立ち上がった。
 ジャケットを羽織る動作が、ほんの少しだけ、名残惜しそうにゆっくりだった。夜はまだ続いている。けれど続きすぎると困るのもまた事実で。その曖昧な境界線に、二人とも気づいてしまっていることだけが、やけにくすぐったかった。

「今日は、どこに泊まる予定なんですか?」
「あー......近場のビジホ、取ってあるよ」

 言葉は軽く声色もいつも通りだったが、それは半分だけの真実だった。正確には、予約などしていない。彼女と別れたあとそのまま夜空を切って福岡へ戻るつもりでいる。けれど、それを正直に告げてしまえば、「そうですか」で、話が閉じてしまう気がして——この、名残のような距離感をほんの少しでも手放したくなかった。

「ごちそうさま。コーヒー、美味しかった」

 玄関で靴を履きながら、振り返ってそう言う。背中側では、羽根がさりげなく紙袋を包み込んでいた。中に入っている小さなフレグランスの瓶。その存在に彼女が気づいていないはずはないのにあえて視線を向けない。その優しさが、また一つ余計に胸をくすぐる。

「——また、連絡していい?」
「あ、はい。そうだ、連絡先……」
「はい」

 ようやくだね、と、間髪入れずに差し出されたスマートフォン。その画面にはすでにQRコードが表示されていた。準備が良すぎる。用意周到というより抜け目がなさすぎる。玄関に向かう前から――いや、たぶんもっと前から、表示していたに違いない。そこで彼女は、ふと眉を寄せた。

「……あれ?」

 彼のスマートフォンの画面の下。どう見ても、見覚えのあるアイコンが。これは自分のものだ。

「三日前から入れっぱなしだったのは内緒ね」
「……なんで、知ってるんですか。私の連絡先」

 ホークスは目を見開いたまま、言葉が止まる。数秒の沈黙。そのあいだ、彼の頭の中では猛烈な勢いで言い訳が組み立てられては崩れていったがどうやら、完成には至らなかったらしい。

「……企業秘密ってことで」
「えー。ヒーロー怖いなあ」
「ちょ、怖がらないでよ!悪いことには使わないから!」

 そう言って、慌てて両翼をばたばたと動かす。その必死さが、かえって、説得力を失わせていることに、本人だけが気づいていない。
 「悪いことには使わない」と、言った時点で、すでに何かしら調べたと白状しているようなものだった。

「……名前ちゃんのSNS見ただけだから。ほんとに。それだけ」
「あ、ああ……なるほど。それで」

 あっさり納得されて、ホークスは言葉を失う。いや、それで納得するところじゃないだろ。普通は。SNSを見ただけで連絡先まで辿り着くことはまず不可能だ。疑問を抱かない彼女の素直さに、可愛らしさと同時に、別種の不安が胸をよぎる。

「……普通、もうちょっと怒るとこだよ?」
「へ?」
「俺が言うなって感じですけどね」
「あ、なんだか。気を許しちゃって。ホークスが相手だと」

 今度こそ、完全にホークスの動きが止まった。ややあってから、ふ、と目を伏せる。

「……ずるいよねぇ、そういうとこ」

 ぽつりとこぼす。照れ隠しのようにゴーグルを取り出してかけるがその奥で細まった目元までは隠しきれていない。
 気を許す。プロフィールを洗われて、三日間も行動を把握されて、それでも、そう言われるとは思っていなかった。彼女の、危機管理能力を心配するべきなのか、それともホークスという人間が纏う、距離を溶かす、空気のせいなのか。答えは出ないまま、玄関灯の白い光だけが、二人の間に静かに落ちていた。

「ほら、早く早く。気が変わらないうちに」
「え、」

 君のね——と付け足して、軽くウインクする。この男のそういうところだ、と彼女は思う。気が変わるも何も、最初から選択肢など、用意されていなかった気がするのに。
 けれどホークスは強引に画面を差し出すことはしなかった。スマホを掲げたまま指を画面の上で止め、ちらちらと彼女の顔色を窺っている。その様子が妙に人間くさくて、強引さよりも、緊張のほうが勝って見えた。

「じゃあ……失礼します……」

 おずおずと、自分のスマホを彼のスマホの上に翳す。肩と肩が触れるほど、近い距離。電子音が小さく鳴って、二人の端末が、繋がった。彼女の画面に表示された新しい連絡先。ホークスのアイコンは、剛翼を大きく広げた後ろ姿の自撮りで、名前の横にはなぜか紅い羽のマークが添えられている。

「……これ、仕事用とかですか?」

 やや被せ気味で「いやいや」と、首を横に振るのがやけに早い。

「プライベート用。仕事用は別にある」

 つまり、今交換したのは完全な私用端末。人気プロヒーローが、こんなに無防備に、個人番号を差し出していいものなのか。その疑問はホークスの、どこか誇らしげで嬉しそうな表情の前では、口に出す前に溶けてしまった。

「あの。今さら、ですけど……」
「んー?」
「いいんですか?庶民に、こんな簡単に私用番号教えちゃって」
「庶民じゃないでしょ、もう」

 そう言って彼は、とん、と、彼女の肩に自分のスマホを軽く当てた。

「じゃ、ちゃんと追加しといて」

 最低十回くらいは確認してね、と笑いながらも念押しするように自身の暗くなったスマホの画面を指で叩く仕草には、どこか、本気の色が滲む。

「既読無視したら、福岡から飛んでくるから」
「こわーい」
「怖くないって」
「……じゃあ、明日の帰り、気をつけて」
「うん。おやすみ、名前ちゃん」
「おやすみなさい」

 ひらりと手を振って、彼は、夜の廊下へと踏み出した。ドアが閉まる音が、背後で小さく響いた瞬間、ホークスは天井を仰いで深く息を吐いた。胸の奥に溜まっていたものを、一気に、吐き出すように。

「......あー......」

 間に合っていないと思った。距離も気持ちも、すでに、だいぶ、踏み込みすぎている。それでも足元がふわりと浮き、背中の翼が大きく広がる。非常階段の手すりを軽く蹴り、夜気を裂いて滑り出す。アパートの灯りが遠ざかるにつれ胸の奥に残った温度だけがしつこく消えずに残っていた。
 誰にも届かない高度まで上昇してからようやく速度を落とし、スマホの画面を開く。夜気に晒された指先で、彼女の連絡先をそっとなぞる。その仕草が、あまりに慎重で、触れれば壊れてしまうものを扱っているようにも見える。
 画面に表示された名前を眺めるうち、無意識のまま目元が緩んでいく。その変化を、本人だけが知らない。

「……名前、ひらがなで登録してんのかわい」

 独り言は風に溶けて消えた。眼下には、彼女の住む街の灯りが、静かに広がっている。
 生活の明かり、帰路を急ぐ車の列、眠りにつく準備をする窓の気配。その全てを見下ろしながら福岡へと進路を取る速すぎる男。身体とは裏腹に口元だけが、今夜ずっと——どうしようもなく、ゆるんでいたのだった。

 その頃——彼女はといえば。ベッドに潜り込み枕元の灯りだけを残してスマホを手にしていた。画面を見つめては消し、また点けては、ため息をつく。

「……ホークス、疲れてる顔してたなぁ」

 誰に聞かせるでもない声が、部屋の静けさに、そっと落ちる。

「こういうとき、癒しって必要だよね。でも……男の人って何が嬉しいんだろ。お花?甘いもの」

 考えがまとまらないまま、言葉だけが、延びていく。人生でいちばん長い独り言かもしれないと本人は気づいていない。
 スマートフォンの画面には、ついさっき、追加されたばかりの名前。そこに指を伸ばしかけて、また引っ込める。その小さな逡巡が、夜の長さを引き延ばしていた。
 一方、その頃。上空を滑るように飛翔するホークスもまた、別の意味で落ち着きを失っていた。彼女と同じことを考えているわけでは、もちろんない。だが、気づけば、他のSNSの検索履歴に、彼女の名前を残す程度には、浮かれていた。

「……やば。」

 自覚は遅れてやってきた。それぞれの場所で、それぞれの速度で。二人の夜は、同じ名前を胸に抱えたまま静かに、しかし確実に更けていった。


 *


 翌朝——。彼女のスマートフォンが小さく震えたのは、午前七時を少し回った頃だった。
 目覚ましよりも控えめで、それでいて妙に存在感のある振動。まだ、完全に覚めきらない意識のまま、枕元に手を伸ばす。画面を開くと、通知が二つ並んでいた。



ホークス

おはよ〜
結局、福岡飛んできました 笑


ホークス

昨日のフレグランス枕元に
置いて寝たらぐっすりだった
ありがとう








 一通目の送信時刻は午前五時過ぎ。そこからの行程を想像して彼女は小さく息を吐いた。福岡に到着して、シャワーを浴びて、仮眠を取って——その合間に送られてきたのがこれ。多忙を極めるトップヒーローの朝一番の行動が、誰かへの報告だという事実が、少しだけ胸をくすぐった。

「……ほんと、元気だなぁ」

 思わず独り言を零しながら、布団の中で彼女は指を動かす。



名前

おはようございます
いい香り見つけたら
またシェアします🫡


ホークス

シェアじゃなくて
俺専用に選んでほしいな〜
なんて 笑








 既読がついたのは送ってから一秒後。返信は、三秒だった。
 語尾に添えられた『笑』があからさまな保険であることは一目でわかった。踏み込みたいけれど引く準備も怠らない。その器用さが、いかにも、あの人らしい。そして、さらにその三分後——。



ホークス

今日は仕事だよね?


ホークス

俺は午前中パトロール〜


ホークス

午後ひま😎


名前

福岡は昼から雨みたいなので
風邪引かないでくださいね🤧


ホークス

俺、雨でも飛べるんだけど 笑


ホークス

でも心配してくれるんだ?
優しいね


ホークス

てか天気予報チェック
してるってことは


ホークス

俺のこと
気にかけてくれてる?


名前

なんか自然と確認する癖
ついちゃいましたね 笑






 間髪入れずに飛んでくるメッセージに、彼女が返したのはたった一通。しかし彼女が送ってから画面には既読がついたまましばし返事が来ない。考えるより先に文字が飛んでくるかと思っていたため、その沈黙が、妙に長く感じられた——が。



ホークス

今のスクショした


名前

えぇ〜?笑


ホークス

待ち受けにしていい?


名前

ほんとにしそう 笑


ホークス

もうした






 少し間を置いて、彼女は画面を見つめたまま、指を止める。どう返すのが正解なのかわからなくなったのだ。



名前

ホークスって
女の子が喜ぶこと
よく知ってる😳








 ——送信。そして、今度こそ、返信が来ない。十秒。二十秒。一分。彼女はベッドの中で小さく身じろぎしスマートフォンを伏せては、やっぱり気になって持ち上げる。
 画面は静かなままなのにさっきまで続いていた軽快なやり取りの温度だけが取り残されたように指先に残っていた。やがてようやく通知が光る。



名前

ホークスって
女の子が喜ぶこと
よく知ってる😳


ホークス

狙ってやってたら
楽だけど


ホークス

たぶん俺、今わりと
本気で言ってる


ホークス

結構必死ですよ?








 スマホの画面を見つめたまま彼女の思考が一瞬だけ止まった。朝の光がカーテンの隙間から差し込み、昨夜とはまるで違う現実感を、部屋に連れ込んでくる。それでも胸の奥に残る温度は確かに昨夜の続きだった。返事を考えようと指を動かしかけた、その直前。



ホークス

変なこと言ってたら
ごめんね


ホークス

朝から重い?








 重い、というより——少し、甘すぎるだけだ。彼女は一度息を整え、言葉を選び直そうとした。だが、その間も与えられなかったらしい。彼女が送ろうと思ったのとほとんど同時に続けて届く。



ホークス

よし、切り替えましょう!笑


ホークス

さっきのさ、褒めてる?笑


ホークス

他の女の子にはやんないよ〜








 空気を戻そうとしているのが痛いほどわかる。彼なりの照れ隠しであり、これ以上、踏み込ませないための優しさでもあるのだろう。
 彼女はそこを深追いせず肩の力を抜いて文字を打った。



名前

メロい男がここにいまーす!笑


ホークス

メロい????


ホークス

俺?????笑笑笑








 明らかな動揺が、クエスチョンマークの数に、そのまま表れていた。



ホークス

初めて言われたんだけど 笑


ホークス

てかそんな言葉どこで
覚えてくるの?笑


名前

ネットでした 笑


ホークス

ネットかぁ 笑


ホークス

最近の流行りわからんです 笑


ホークス

勉強になります先生🙏






 十代で、トップクラスに名を連ね、全国を飛び回ってきた速すぎる男は、若者言葉にはめっぽう弱いらしい。情報源が、ファンの声とニュースに偏りすぎているせいだろう。彼女は画面を見つめながら、思わず小さく笑った。
 やっぱりこのヒーローは、忙しすぎるくせに、どこか、不器用だ。そう思った瞬間、胸の奥が、ほんのりと、あたたかくなった。



名前

飛びながら
打ってるんですか?🤔


ホークス

片手で打てるよ
剛翼でバランス感覚いいから


名前

ながら飛行で捕まるかも 笑


ホークス

そこはプロなんで 笑


ホークス

てか俺を捕まえられる人は
いないでしょ 笑


名前

そうですね 笑


ホークス

あ、ひとりいた!😏


名前

笑


ホークス

そこは流さんで〜😭






 画面越しの軽口はどこまでも他愛ない。けれどその裏側で、彼が今どんな速度で、どんな高さを飛んでいるのかを想像すると現実味のなさに少しだけ眩暈がした。
 福岡市上空。時速三百キロを超える空気を切り裂きながら、片手でスマートフォンを操作する、トップヒーロー。交通課が知れば、頭を抱えるどころか胃を押さえてしゃがみ込むだろう。理屈としては正論だが、常識の枠にはまる男ではない。



ホークス

あ、やば
緊急要請かかった


ホークス

行ってくる!また夕方ね!


名前

頑張ってください!








 送信してすぐ、スタンプがひとつ返ってきた。翼を大きく広げた、鳥のシルエット。可愛らしさよりも写実に寄せたデザインで、羽根の一枚一枚まで、妙に精巧だ。彼の趣味なのか、それとも、無意識の自己投影なのか——そんなことを考えているうちに、既読はついたまま、次の言葉は来なかった。こうして、二人の初めての画面越しでの会話は途切れた。彼は再び空へ、彼女は日常へ。それぞれの場所へ戻っていくはずなのにスマートフォンの向こう側に残った気配だけが、しばらく消えずに胸の内に留まっていた。

 次に画面が光るのは、夕方か、それとも——。そんな小さな予感を抱えたまま、彼女はスマホを伏せて、静かに一日の始まりへと身を起こしたのだった。


 *


 それからの数時間、彼女は、自分でも驚くほど何事もなく、いつもと変わらない日常をなぞっていた。
 洗濯物を室内に干し、通勤路を歩き、デスクに向かって業務をこなし昼休みには決まった時間に昼食を取る。特別な出来事はひとつもない、ありふれた平日の午後だった。ただ、机の端に伏せたスマートフォンの存在だけが、思い出したように視界の隅で主張してくる。そのたびに彼女は無意識のうちに視線を逸らし、仕事に意識を戻した。

 午後五時過ぎ。残業もなく退社し買い物に立ち寄った彼女の鞄の中で、スマートフォンが小さく震えた。けれどその振動は、スーパーの鮮魚コーナーで鯖の切り身を前に真剣な顔をしていた彼女の耳には届かない。



ホークス

終わった!!雨やばい!!


ホークス

濡れた!!風邪ひくかも!!


ホークス

看病しにきて!!福岡まで!!笑








 すでに、彼女のスマートフォンにはいくつかの未読通知が積み重なっていた。



ホークス

おーい 笑


ホークス

まさか俺との連絡より
大事な用事が……?笑


ホークス

既読つかんけど
大丈夫?帰宅してる?








 その頃、彼女は必要最低限の食料を買い終え、雑貨店の奥にあるアロマコーナーへ足を運ばせていた。棚には、色とりどりの小瓶が整然と並び、控えめな香りが空気に溶けている。
 ホークス限定の匂い——彼が好むもの、求めていたもの。曖昧な条件のまま彼女はひとつひとつ手に取っては香りを確かめ、静かに棚へと戻す。その表情は思いのほか真剣で、眉間に寄ったわずかな皺が、彼女の集中を物語っていた。
 ラベンダー、ベルガモット、ウッディ系……。鼻先をかすめる香りの違いに、彼女は何度も首を傾げる。正解はどれなのか、そもそも、正解などあるのか。そんな問いを胸の内で転がしながら。そして、一方、福岡では——。



ホークス

位置情報共有しよ?笑


ホークス

冗談です








 相手からの反応がないままメッセージは途切れなかった。送り主は、福岡県内の自宅ではなく、セーフハウスの一室にいた。
 雨に濡れたままの髪から雫を落とし、ベッドに転がったホークスはもはやパブロフの犬のようにスマートフォンを凝視していた。画面が光るたび視線が落ちる。その繰り返しはもう、条件反射に近いものがあった。



ホークス

雨すごーい


ホークス

福岡土砂降り


ホークス

そっち大丈夫?








 気づけば未読は、数十件に膨らんでいる。
 午後八時過ぎ。ようやく帰宅した彼女が玄関で靴を脱ぎ何気なくスマートフォンを開いた瞬間、通知欄を埋め尽くす表示に思わず目を見開いたに違いない。



ホークス

あ!!やっと既読ついた!!


ホークス

生きてた!!よかった😭


名前

すごい数😆
スマホ壊れたかと思った 笑


ホークス

ぜーんぶ俺でした 笑


名前

でしたね 笑


ホークス

ていうか買い物?
何買ったの?


名前

秘密です😏


ホークス

えー気になる
ヒントちょうだい


名前

ホークスが
求めてたものです👍






 その直後、画面には『既読』の表示だけが残り会話は途切れた。
 福岡のセーフハウス。薄暗い一室でホークスはスマートフォンを胸の上に置いたまま天井を見つめていた。雨粒が窓を叩き一定のリズムで室内に音を落とす。静けさは、思考を逃がさない。

「……それは、ずるか」

 思わず漏れた独り言は照れと期待がない交ぜになったような温度を帯びたまま、空気中に溶けていく。彼女のもとへ届くことはない。そこで彼はハッとして、慌てたような文字をなぞる。



ホークス

待って


ホークス

ほんとに待って


ホークス

え????


名前

外食のお礼に💐


名前

小さな小瓶だけじゃ
心許ないので💦







 慌てた調子の通知が画面を明るくしたのを見て彼女は思わず小さく笑った。返事を送ってから、指先が宙で止まる。画面は沈黙したまま、また、何も返ってこない。理由もなく胸の奥がそわついて落ち着かない。気づけば今度は、彼女のほうが耐えきれなくなり慌てて文字を打ち込んでいた。



名前

あ、やりすぎました?😥


ホークス

やりすぎてない


ホークス

ちょっと今顔やばい


名前

笑


ホークス

笑い事じゃない!笑


ホークス

今zoom会議中で


ホークス

サイドキックたちに
大丈夫かって心配された 笑






 続けて、少し間を置いから届いたそれに彼女は思わずスマホの画面を見つめて、口元を緩めた。



名前

仕事に集中してください?笑


ホークス

了解しましたっ🫡








 その軽い返事に少しだけ胸を撫で下ろしながら彼女は、このやり取りに区切りをつけるように、最後の挨拶を打ち込み、そのまま送信した。



名前

じゃあまた会えたときに
渡しますね👍


ホークス

いつ会える?









 え——。問いかけられた一言に彼女の指先が、一瞬止まる。言葉の奥に、別の意味が潜んでいるようで、けれど、そうではないようでもあって、決定的な何かがあるわけでもなくどう受け取ればいいのか判断がつかない。



ホークス

いや お返しの話


ホークス

うん それだけ









 ぽこん、と。間の抜けた音を立てて表示されたその文字列に、彼女は無意識のうちに息を吐いていた。胸に浮かびかけていた熱が、すっと引いていく。それでも、返事を待たずに続けて送られてきた彼の少し慌てていて、言い訳を重ねた気配が画面越しに、ありありと伝わってくる気がした。



名前

私はいつでも暇人なので😅


ホークス

暇人最高


ホークス

じゃあ来週の土曜


ホークス

そっち行く用事あるから


名前

了解です!


ホークス

楽しみにしてて
俺もする


名前

👍






 それきり、画面は静まり返った。部屋に残ったのは窓を打つ雨音だけ。距離を隔てた二つの街に同じように、それぞれ降り続いている。
 一週間後の約束。ただそれだけのはずなのに、その日付は胸の奥に沈まず、むしろ重みを増して確かな存在感を伴ったまま、居座り続けていた。


 *


 そして、一週間後。約束の土曜日、彼女は指定されたホテルのロビーで彼を待っていた。ロビー一面の大きな窓ガラスに、横殴りの雨が断続的に叩きつけている。土曜の午後だというのに天候のせいか人影はまばらでフロント係は手持ち無沙汰そうに、カウンターを磨いていた。高級感のある空間に似つかわしくないほど、時間だけが、ゆっくりと流れている。

「……風、強くなってきたなぁ」

 独り言のように呟きながら、彼女は腕を、軽くさすった。
 約束の時間は、午後一時。壁の時計は、十二時五十八分を指している。まだ二分もあると頭では分かっているのにエレベーターの階数表示を目で追ってしまう自分が少し可笑しかった。そして、五十九分。表示が動いた、その直後だった。

「ごめんっ、待った!?」

 背後からかかった声に振り向くと、そこには、私服姿の、彼が立っていた。薄手のジャケットの裾は微妙にめくれ、黄土色の髪もいつもより少しだけ乱れている。息を切らしているようにも見えるが翼を持つ彼が本当に息切れするはずもない。にもかかわらず、声にはわずかな焦りが混じっていた。

「ギリギリセーフですね」
「福岡出るときは晴れてたんだけどさ〜」

 肩をすくめながら「関門海峡越えたあたりから急にこれ」と、崩れた天気の話を、軽く添える。そして彼女の顔を見た瞬間ふっと表情を緩めた。

「……でもまあ、着いたからオッケー」
「お疲れ様です」
「お疲れさま。あれ、立って待っててくれたの?座っててくれてよかったのに」

 その一言に、その場の空気が少しだけ温まる。気遣うような視線に、彼女は小さく首を振った。

「こんな高級ホテル、あんまり来ないので。ついきょろきょろしちゃって」

 その言葉に一瞬、きょとんとしてから、彼は、くしゃっと笑う。

「高級て……普通のビジネスホテルだよ、ここ」

 まあ、最近の物価バグってるからねぇ〜、と、当たり前のように言われて彼女は内心でため息をついた。感覚が違う。プロヒーローを生業とする出張や宿泊が日常になっている人間の基準を一般市民が真似できるはずもない。

「ここをビジネスホテル扱いするの、きっとプロヒーローだけです」
「そう?俺の事務所のサイドキックたちも普通に使ってるけど」

 そう言い返して、こてん、と首を傾げる仕草が妙に無邪気で余計に腹立たしい……というより、ずるいと思った。

「……比較対象がおかしいんですって」
「へえ、そうなの?」
「そうなの」

 軽く流したあと、彼は、ふと思い出したように声のトーンを上げた。

「それよりさ。ちゃんと、持ってきてくれた?」

 期待を隠しきれていない視線が、彼女の手元に向けられる。

「あ、もちろんです。……はい、どうぞ」

 差し出されたのは、小ぶりな紙袋。前回と同じくらいの大きさではあるが、今回は簡易的なものではなく、丁寧にラッピングされた、いかにも、��プレゼント�≠ニいう感じの、小さな箱の形が、はっきりと分かるものだった。リボンの結び目にまで、選んだ時間の気配が滲んでいる。
 中に収められているのが彼を思い浮かべながら選んだルームフレグランスだということを、彼はまだ知らない。ただ、その紙袋を受け取る指先がほんの少しだけ弾んでいることに彼女は気づいていた。

「……開けていい?」
「どうぞどうぞ」

 リボンを解いて、包装紙を剥がす彼の指先が、ほんの少しだけ、もたついていた。数え切れないほどのサインを流れるようにこなしてきたはずの手。普段どれだけのサインペンを捌いても、こういう場面では妙に慎重になるらしい。その不器用さがなぜだか彼女の胸をくすぐった。箱が開く。深みのある色合いのガラス瓶が控えめな光を反射して姿を現した。ホークスはそれを持ち上げて、窓際の明るさにかざす。次いで瓶の底のラベルに視線を落とし成分表記を追うように目を細めた。癖なのだろう、知らないものほど丁寧に確かめる主義なのかもしれない。

「……オゾンノート?」
「です」
「女性向き、ではないよね」
「はい。ホークスをイメージして選びました」

 その一言に、彼は一度、言葉を失ったように、彼女を見る。そしてキャップを外し、香りを確かめる。それは雷雨が過ぎ去った直後の空気のような匂いだった。湿り気を含みながらも澄み切っていて、どこか金属的な冷たさと、海風を思わせる名残がある。深呼吸したくなるほど軽やかで同時に、輪郭のはっきりした静かな強さを持つ香り。

「これさ——」

 言葉が途中で途切れる。鼻先に瓶を寄せたまま彼はそっと、目を閉じた。数秒の沈黙。ロビーの空調が低く唸り、窓ガラスを打つ雨音が、一定のリズムを刻み、二人の間を埋めていた。
 そのあいだに、彼の中で何かがゆっくりと整えられているようだった。

「なんで俺のイメージが、これだと思ったの」

 彼が目を開けたとき、その瞳がわずかに潤んで見えたのは、照明に反射した雨粒のせいか、それとも——。

「あ、えっと……この前、うちでコーヒー淹れてもらったとき。棚から、取ってもらったじゃないですか」
「……うん」
「そのとき、ふわっと香ったので。こういう系、好きなんだろうなって」
「……あー、あのとき」

 どうやら、思い当たったらしい。彼が腕を伸ばして棚の奥に手を入れ、その真下に彼女が立っていた、ほんの一瞬。

「……え、あの一瞬で?」
「まあ……はい」

 半ば呆れ、半ば、感心したような息が漏れる。プロの斥候が情報を拾うのと同じ精度だ、などと彼が思ったかどうかは分からないが。

「……観察力えぐいね。二重スパイ向いてるよ」

 ホークスは鼻で小さく笑いながらそう言って、瓶の蓋を閉める。そして壊れ物でも扱うみたいにそれを、胸元に抱えた。

「これも、大切にする。ほんとに」
「使うと、また印象変わると思います」
「うん、ちょっとずつね」
「飾って終わり、になりそう」
「はは。……ないとは断言できないなぁ」

 軽く笑ってそう返したあと彼は言葉を続けず、ほんのわずか、間を置いた。窓の向こうで雨脚が強まり、ロビーに満ちる静けさが一段深くなる。時間が、伸びたような感覚だけが残った。

「ねえ。これさ……俺の部屋に置くとして」

 そこまで言って、また、止まる。続きを探しているというより、選び直している沈黙だった。

「俺のうち、来たことないよね?」
「福岡の、ですか?」
「うん」
「まぁ……当たり前に」
「だよね。遊びに来ない?」

 あっさりと。あまりにも自然な、さらりとした口調だった。ここがホテルのロビーという場所でなければ近所のカフェに誘う程度の軽さである。フロントの奥で、係員が一瞬だけ視線を上げて、すぐに何も見なかったふりをした。

「福岡は一度だけ遊びに行ったきりですね。もう何年も前で」
「あー、流されたぁ」
「流してはいないですけど」
「でも来たことはあるんだね。どこ行ったの?」
「んー、中心街とか。あと、水族館」
「水族館いいね。俺もたまに行くよ、ほら——」

 そう言ってホークスは、親指を立てて、自分を指した。背中の翼の存在を、忘れさせるみたいに小さく畳みながら続ける。

「飛ぶ生き物、仲間として」
「泳ぐ、ですけどね?」
「いや、飛ぶでしょ。水の中でも」

 やけに真剣で真顔だった。少なくともイルカとペリカンには、謝ったほうがいい理屈だと思う。

「……まあ、いいや。今のも流されたし」
「だから——」
「ねえ、今日さ。このあと時間ある?」
「え……?」
「せっかく来たし、案内してほしいんだよね」

 唐突に話題が切り替わった。白々しいと思う。何度も任務で来ているはずなのに、きっと、彼女より、道も店も把握しているはずなのに。彼女にそう思われていることすら分かっていて、彼は、あえて、ちらりと横目で様子をうかがってくる。

「デート、って言ってもいいけど」
「……目立ちませんか?」

 一瞬の間のあと返された彼女からのその問いに彼の口角がわかりやすくくいっと吊り上がった。

「変装するから大丈夫」

 ウインク付きでそう言って、足元に置いていたリュックを開き、器用に羽根をまとめて収納していく。その動作に迷いはなく手慣れすぎている。続いてキャップ、マスク、サングラスを取り出し戦利品みたいに掲げてみせた。

「ほらぁ〜、完璧でしょ」

 三点セットを装着した瞬間、そこに立っているのは——ただの目を引く若い男だった。街の中にいれば二度見されることはあっても、正体を疑われることはないだろう。あの意味深に貼りついたような笑みさえ抑えられれば、の話だが。

「……初めて、じゃないですね」
「まあね。プロなんで」

 冗談とも自負とも取れる言い方で彼は軽く肩をすくめる。窓の外では雨粒が一定のリズムでガラスを叩き続けていてその向こう側で午後の時間がゆっくりと形を変え始めている気配がした。

「モデル、みたい……」
「……それ、変装の意味ないじゃーん」

 ため息をつきながらも、耳の先だけがわずかに赤くなる。誤魔化しきれない反応だった。

「私も、もう少し、デートっぽい格好してくればよかったなぁ……」
「え、今ので十分かわいいですけど?」

 また、何の前触れもなく、さらりと。本人は、事実を述べただけ、という顔をしているが、言われた側の胸には小さくない衝撃が走る。そういう言葉を呼吸と同じ調子で放ってしまう男なのだ。
 彼女が何か言い返す前にホークスが「あ」と、小さく声を漏らし視線を彼女の袖口へ落とした。

「雨、濡れなかった?上着いる? 寒くない?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「そっか。でも、まだ止みそうにないな」
「折りたたみ、ありますよ。一緒に入ります?」

 ホークスは一瞬だけ目を丸くして、それから、隠す気もなく口元が、ニンマリと緩んだ。

「相合傘ってやつ? いいね」

 そうして、二人で並んでホテルを出た途端に、強めの風が吹き抜ける。彼女は慌てて折りたたみ傘を開いた、けれど——。

「……やっぱ、ちょっと小さいね」

 ホークスは、頭上から見下ろす。傘の布地は、明らかに足りていなかった。彼女の肩は守られているのに、彼の左肩は完全に雨の中だ。控えめに残された背中の紅い羽根に、雨粒が当たるたび、かすかに震える。寒さなのか、翼の反射的な反応なのか、判別はつかない。もう夏だというのに、雨は容赦なく二人の距離だけを少しずつ近づけていった。

「実は——さっきの、フレグランス」
「ん?」
「いい匂いだったから、私も同じの買いました」

 その瞬間、ホークスの足が、ふいに止まった。雨の降り続く歩道、一本の傘の下で立ち尽くす、プロヒーロー。行き交う人々が不自然に静止した二人を、訝しげに避けて通り過ぎていく。

「わっ、急に止まるから……」
「ごめん。いや、ちょっと……」

 少しだけ濡れた前髪の隙間から覗く、琥珀色の瞳が、やけに真剣だった。

「お揃い、ってこと……?」

 声色は平静を装っているのに、「お揃い」と、いう言葉だけを何度も舌の上で転がしているのが見ている側には、はっきりわかる。

「あ、はい。そうなりますね……ごめんなさい」
「なんで謝るの。最高じゃん」

 雨の中で、その笑顔がぱっと弾けた。傘を寄せ直して二人はまた歩き出す。行き先は特に決めていない。ただ隣を歩くだけ。それだけのことが、どういうわけか、特別に感じられた。ホークスが通りの向こうを、小さな翼の先で軽く示す。

「ねえ、名前ちゃん。あの店、なに?」
「あれ? ああ、美容院ですよ」
「美容院? あれが? おしゃれすぎない?」

 彼が指差す先にはセレクトショップを併設したガラス張りのサロン。地方では、少し浮くような外観で雨に濡れたガラス越しに洗練された内装が覗いている。

「福岡の方がもっとおしゃれだと思いますけど」
「どうだろ。俺、いっつも近所の千二百円のとこだから」
「……え」
「え、って何。その反応やめて。地味に傷つく」

 お得意の、胸を押さえて、大げさに嘆く仕草をする。十代でトップ入りを果たした男が床屋感覚で髪を切っているという事実はなかなかの情報量だった。ファンが聞いたら、卒倒しそうだ。

「飛ぶとき髪が邪魔になると困るしさ。いつも、同じ人に切ってもらうだけだから」
「そういう理由……」

 彼女は納得したようで、少しだけ笑った。そのまま二人で歩きながら、ふと思い出したように、彼女が手を伸ばした。ちょん、と軽く触れたのは彼の前髪だった。その瞬間、ホークスの肩がわずかに跳ねる。

「前髪って、飛ぶと、オールバックみたいになりますよね。ずっと気になってて」
「えっ。あー......まあ、そうだね。風圧で全部、後ろに持ってかれるから」

 口笛でも吹き出しそうな顔で、平然を保とうとしながら、その視線は、少し泳いでいる。照れをごまかすように、口元が落ち着かない。

「じゃあ、セットしてるわけじゃないんですね」
「うん。ほぼ自然乾燥」

 あえての、無造作に見えていた髪型の正体が、ただの��結果論�≠セったという衝撃の事実。それでも不思議と、様になってしまうあたりが、顔面偏差値の暴力というほかない。

「……前髪、おろした方がいい?」
「あっ、勝手に触ってごめんなさい」

 少し遅れてから彼女は我に返り、慌てて、手を引っ込める。触れていた感触だけが指先に残り、その距離が一気に空いたことを、彼女自身がいちばん強く意識していた。

「……いや、離さなくていいのに」

 ぼそりと落とされたその声は、雨音に完全には紛れなかった。彼女の耳に届き今度は彼女の頬がじわりと熱を帯びる。

「もっと触っていいよ、別に」

 傘を持つ彼女の反対側から、ほんの少し距離を詰める。濡れないようにという名目が、ちゃんと用意されているのが、この男のずるいところだ。

「い、いえいえ……」
「これ以上離れると、濡れるでしょ」

 逃げ場を塞ぐような言い方ではなくただ事実をなぞるだけの声音に彼女はその場に留まることを決めたらしかった。

「そういえば……前髪下ろしたホークス見たことないかも」
「じゃあ、見せてあげよっか」

 彼はそう言って、片手で前髪を軽く下ろした。濡れた黄土色の髪が、額にかかり、鋭さの抜けた表情が現れる。年相応——いや、それ以上に幼く見えるかもしれない。

「……どう?」
「……かっこいい」

 彼女は一瞬だけ言葉を探して、それから素直に口にした。あまりにも真っ直ぐなその一言にホークスは、慌てて前髪を元に戻す。

「だめ。やっぱ無理。恥ずかしい」

 耳まで赤くなっている。自分から見せておいてこの反応だ。きっと本人だけが気づいていない。彼女はそれ以上何も言えずただ雨音の中で小さく笑った。

「あのさ……そういうの、あんまり躊躇なく言うのは、よくないと思うんだけど」

 やや遅れて、噛みしめるように放たれた声が、隣から聞こえてきた。

「え、事実を言っただけで……」
「ん"ん"っ! だから、そういうとこ!」

 ホークスは耐えきれないように両手で顔を覆い隠した。その掌の奥で何が起きているのかは想像するまでもない。相合傘の内側でそれをやれば、当然ながら布の守備範囲は一気に心許なくなる。

「ホークスって、照れると顔を隠す癖がある」
「……え。うそ。そんな癖、ある?」
「ある〜。かなり」

 少しの沈黙のあと、彼は観念したようにわざとらしく、傘の中で両手を上げた。

「まじかぁ。ポーカーフェイスには自信あったんだけどなー」
「元がいいから、赤くなっても普通に、格好いいけど」
「なに!ほんともうやめて死ぬ——っ」

 言葉が異様な速さでこぼれ落ちる。トップヒーローとして数え切れない賛辞を浴びてきたはずの男が、至近距離からの無防備な評価に、あっさり膝を折られかけていた。

「でも……」
「ん?」
「なんか、いい感じ」
「え?」
「敬語、だいぶ取れてきてる」

 指摘された瞬間に、彼女は、我に返ったように視線を逸らし、わずかに、頬を膨らませる。その横で、ホークスは喉の奥に笑いを含ませた。

「ごめんね。また意識して戻しちゃう?」
「……ですねっ!」

 ははは、と。軽やかな笑い声が雨音に重なる。言わなきゃよかったかなと内心で思いながらも、ホークスはどこか、嬉しそうだった。

「あ、さっきの話の続きなんですけど」
「んー?」
「格好いいとかイケメンとか。もう言われ慣れてません? 今さら、照れることでもないような」
「ファンの皆さんにはね。でも、あれはほら……ステージに投げられる、声援みたいなもんで」

 つまり、距離のある称賛と隣を歩く人間からの素直な感想は彼の中では明確に線が引かれているらしい。

「好きな子から言われるのは、全然違うでしょ」

 さらりと口にしてからはっとしたように言葉を止める。言ってしまったという自覚だけが遅れて追いついた。雨粒は変わらず、律儀に地面を叩き続けている。

「そういう……ものです?」
「そういうものです」

 即答。キッパリと、迷いのない返答。間を置く余裕も言い繕う時間もなかった。訂正する気配も別の表現に差し替えるつもりもない。ただ、そうだと思ったから口にした。それだけだった。

「ふーん。そっか」

 彼女はそれ以上、踏み込んでこなかった。あっさりと受け流すような声音。「好きな子」という単語は相合傘の内側でほんの一瞬だけ宙に浮かび雨と風のあいだに溶けて消えていく。
 ——あ、また流された。遅れてその自覚が胸の奥に落ちてくる。ホークスは横目で彼女の横顔を盗み見ながら、妙に心が、ざわついていることに気づいた。今さらだ。自分で投げた言葉なのに、回収されなかったそれが、胸の内に、置き去りにされている。

「……ねえ、今の聞いてた?」
「はい?」

 聞いてないわけがないだろう、と思いながらもつい、確認してしまう。

「いや、なんでもない」

 彼女は前を向いたまま、歩調を変えない。口元だけが少しだけ笑っている。追及はしない。問い返しもしない。だからといって何もなかった顔をしているわけでもない。
 ——逃げたな、これ。ホークスはそう感じた。逃げたというよりあえて拾わなかった、に近い。その横顔が、言葉よりもずっと雄弁にそれを物語っている。余裕があるのか、様子見なのか。それとも——。

 相合傘の内側で雨粒が布を叩く音が続く。肩が触れそうで触れない距離。彼女の体温がじわりと伝わってくる。そのせいでさっきの一言がやけに現実味を帯びてぶり返す。
 好きな子。軽く言ったつもりだったのに冗談にして流す余地も残したつもりだったのに。拾われなかったことで、逆に、自分の中で重みを持ってしまった。
 ホークスは、少しだけ深く息を吐いた。追撃はしない。しないが諦めたわけでもない。ただ前を向いて歩く彼女の横顔を見つめながら、そのことだけは、はっきりしていた。


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