二人はしばらく並んで歩いた。言葉はないが、気まずさとは無縁の沈黙だった。
 雨が傘を打つ音、舗道を踏む靴底の感触、歩調に合わせて、わずかに擦れる翼の衣擦れ——それだけで、空白は満たされている。

「ちょっとこのあたりで羽根、戻していいかな」
「え?」
「人目、なくなったから」
「あ、全然いいですよ」
「ありがと」

 ホークスは軽く断ってからリュックから背中の赤い翼を解放した。剛翼が広がり、すぐに、元の形へと落ち着く。
 彼は、そのまま肩を回して「やっぱこれが一番楽」と小さく笑う。彼女はその様子を見て特別な反応を示さない。慣れているというより、自然に受け入れている。その態度が、なぜだか心地よかった。
 やがて彼女が足を止めたのは裏道にひっそりと佇む小さなカフェの前だった。看板の文字はところどころ掠れているが営業中の札はちゃんとかかっている。近所の人しか知らなさそうな、静かな店構えだ。

「ここ?」
「はい。ここのコーヒー甘くて美味しいから」
「わー、いいね。甘いコーヒー好き」
「ふふ、知ってます」

 迷いなくそう言われて、ホークスは苦笑した。知られていること自体は珍しくないはずなのに、その言い方が取材でもファンでもない��誰か�≠フそれだったからだ。
 古びた木のドアを彼女が先に開け、ホークスは翼を器用に畳んでから、身体を少し傾けるようにして店に入る。店内はカウンターが五席、テーブルが三つ。先客は老夫婦が一組だけでジャズとも演歌ともつかない有線が低く流れていた。自然と窓際の席に向かおうとしたところで、彼女が雑誌ラックの前で足を止め、少し声を上げる。

「あ、ホークスが表紙の雑誌」
「え、うそ? どれどれ」

 背中の翼がぴくっと反射的に動いたのを、自分でも自覚していた。彼女は雑誌を引き抜き表紙をホークスの方へと向ける。

「これ。香水の広告?」
「あー、それ去年のやつだ」

 そのまま彼女は、窓際の一番端の席に腰を下ろす。なぜかホークスは向かいではなく彼女の隣に座った。完全に、距離が近い。それでも本人は、何事もなかった顔で話を続ける。

「ブランドとのコラボ企画だったっけ。たしか」

 ページをめくると、モノクロを基調にしながら装飾の一部だけがくっきりと色を宿した、ポートレートが現れる。黒いジャケットに、黄色いゴーグル。背中の翼を大きく広げ、香水瓶を手にしたウィングヒーローホークスが写っている。どうやら『大人の色気』をテーマにした広告だったらしくいつもの軽薄さが綺麗に削ぎ落とされていた。撮る側の意図が、はっきりと伝わってくる。

「なんか照れるね……こうして見ると。自分じゃないみたい」

 ぽつりと零れた本音だった。雑誌に視線を落としたままの表情は、遠くを見るようで、どこか、現実感が薄い。その空気を察したのか彼女は急に場違いなほど明るい声を上げた。

「きゃー! 上半身が露わにぃ〜」

 わざとらしく両手で目元を隠し、その隙間からちら、ちら、と雑誌を覗き込む。あまりに分かりやすい動きにホークスは一瞬きょとんとしたあと思わず、ぷっと吹き出した。

「隠してない。それ、全然隠れてないから」
「え、そうですか?」
「指の隙間、開きすぎ。それは見たい人のやつ」

 ホークスが笑いながら同じように彼女の真似をして言うと、彼女もそれにつられて笑った。

「ていうか、そういうリアクションもするんだ」

 ホークスは片手でテーブルに頬杖をついて隣に座る彼女を眺める。

「ほんと、ギャップすごいね」
「子供っぽいですか」
「いや。……かわいいなって」

 また何の前触れもなくさらっと。思ったことをそのまま口にしただけの調子だったが、この男は本気なのか計算なのか、本当に判別がつかない。

「この裸族のホークスの方が魅力的ですけどね」
「裸族て」

 く、く、と喉を鳴らして笑いながらホークスは首を振った。

「裸族って言わんでー。ちゃんとした撮影だったからね?」

 ジャケットも下も着ている。理屈ではそうなのに、「上半身が露わ」という彼女の表現を完全に否定できないのが悔しかった。窓の外では、今も雨が静かに、降り続いている。カップに注がれるコーヒーの香りを吸い込みながらホークスはぼんやりと、隣に座る彼女の存在を改めて意識する。視線を向けると、彼女はまだ雑誌を開いたまま、今度は次ページのホークスのインタビュー記事を真剣な顔で読んでいた。

「……てか、そういうの興味あるんだ?」

 からかうように言うと自然と声色が軽くなる。目元も少しだけ細めた。

「はい。目の保養です」

 即答だった。インタビュー記事等を読むのか、という問いに対してまさかそんな返しが来るとは思っていなかったホークスは、一瞬言葉を失う。そんな彼の心境など知る由もなく彼女はぽつりと続けた。

「この香水、買おっかな……」

 空気が止まった気がした。時間が一瞬ぴたりと固定される。ホークスは、次に出てくる言葉を、完全に見失っていた。

「……それ、ってさ」
「はい?」
「俺の匂いを、日常的に纏いたいってこと?」
「纏いたいってことですねぇ、なんちゃって」
「なんちゃってはいらんけん……」

 そのままホークスは、テーブルに突っ伏した。黄土色の頭が木目の天板に沈み、耳だけでなく、首筋まで赤く染まっている。向かいの老夫婦が、ちらりとこちらを見て、すぐに視線を逸らした。

「え、どうしたの……?」
「……ちょっと待って。心臓が」

 しばらくそのままだった。「なんちゃって」で冗談にされたはずなのに、胸の奥に残った衝撃がなかなか引いてくれないらしい。

「じゃあ心臓発作起こしてるヒーローは無視してコーヒー、二つ頼みますね」
「待って待って、無視しないで」

 ばっと顔を上げる。切り替えは早い。さすが、プロヒーロー、と言いたいところだが、今回は、彼女のほうが一枚上手だった。気がつくとすでに注文は済んでいた。

「コーヒー、俺のも頼んでくれるの。ありがと」
「同じの頼みました。甘いやつ」
「……そのまま香水も、同じの買お。お揃いで」

 あえて思いついたように言ってから、少しだけ彼女の反応を窺う。

「これ、ホークスは提供先からもらってるんじゃないの?」
「もらったけど、使ってない」
「え」
「別に俺が監修したわけでもないんで」

 そう言って、ホークスは、わずかに視線を落とした。広告のギャラとして渡された高級香水を、引き出しの奥に眠らせている自分を、ほんの少しだけ情けなく思う。
 彼女はその表情を見て、なんとなく視線を逸らした。提供元が聞いたら泣きそうな話だ。でも、彼にとっては、それが自然な距離感なのだろう。
 やがて、湯気を立てるコーヒーが、二人の前に置かれる。甘い香りが、先ほどの香水の話と重なってテーブルの上に柔らかく漂った。ホークスはカップに手を伸ばしながら隣にいる彼女の気配を改めて、確かなものとして胸に落としていた。

「いい匂い?」

 不意に投げられたそのひと言に、ホークスは、カップを持ち上げかけた手を止めた。

「ん、なに? このコーヒー?」
「ううん。ホークスの香水の方」
「あー......」

 少し考えるように視線を天井へ向けてから肩をすくめる。

「ちょっと甘すぎてさ。俺には合わなかった」

 正直な、感想だった。スポンサーとして関わる商品はいくつもあるが全部が全部、自分の好みに合うわけじゃない。その現実を彼女もまた、隣に座るこの男が、��自分と同じ一般人�≠ナはないという事実と一緒に、静かに、噛みしめているようだった。

「そっか……。あ、そうだ。」

 彼女は雑誌をぱらりと閉じて、ふと思い出したように言う。

「このページ、スマホで写真撮ってもいいと思います?」
「え、なんで?まあ……いいんじゃない?ほら、お店のおじさん、見てないし」
「ホークスの裸族記念に」
「だから裸族じゃないって!」

 思わず背中の翼がぶわっと反応して、カフェの壁に当たりかける。慌てて畳むと羽根の先だけが小さく震えていた。

「……まあ、別にいいけど。でも、SNSには載せないでねー?」
「もう載ってますよ、きっと。こんな有名雑誌に載ったら」

 そう言いながら、彼女は楽しそうに、スマホを構える。しかもシャッター音が連続して鳴った。

「……連写?」
「保存用、観賞用、待受用にしようかなって」
「待ち受けはさ、俺が撮ったやつにしない?」
「え」

 ホークスは言うが早いかポケットからスマホを取り出した。

「はい、こっち向いて」
「なんで私が一人なの!」
「いいからいいから」
「や、だめ!もっとちゃんと化粧した日に……」
「今日のままで十分かわいいって、さっき言ったでしょ」

 押し問答の最中、彼女の油断した隙を突いて、シャッターが切られる。カシャ、と控えめな電子音が、やけにその場に大きく響いた。ホークスは「わー、撮れた」と画面を覗き込んで満足そうに頷く。

「いい顔」
「ちょっと……不意打ちは犯罪です〜」
「プロヒーローだから犯罪はしないよ」

 にこっ、と笑う。理屈としては無茶苦茶だが、言い切られると妙に、押し切られてしまう。

「……でも、名前ちゃんが嫌なら消すけど」

 そう言いながら指先は画面から離れない。消す準備など最初からしていないというのが丸わかりだった。

「……送ってください」
「お、素直」

 操作は早かった。言葉が終わるより先に、送信され、そして彼女のスマホがすぐに震えた。彼はその様子を横目で見ながら、カップの縁に、口をつける。甘いコーヒーの香りが、さっきの香水の話を連れて胸の奥にゆっくりと落ちてきた。悪くない。少なくとも、この時間は。

「もっと、可愛いく撮って欲しかったですぅ」
「十分かわいいって。ほんとに」
「じゃあ……宝物にしますね」
「……ならさ、俺のことも撮って。自分のカメラだと、どうも角度がね」

 彼女は少しだけ目を細めて彼の顔を見上げた。からかい半分。でも、断るほどでもない、そんな曖昧な間を挟んでから。

「じゃあ、撮って差し上げましょうか?」
「お願いしまーす。今度は——ツーショットで」
「え」

 本日何度目になるかわからないその間の抜けた短い声。彼女はそれ以上、何も言えなくなった。その沈黙を合図にしたように、ホークスがそっと彼女の方へと、身体を寄せる。肩と肩の距離は、拳ひとつ分もない。彼は一瞬だけ息を詰め、それから、自然な動作で腕を回した。

「はい、どうぞ。撮って」
「……手、が、震えるん、ですけどぉ……っ、」

 くすっと喉の奥で笑う気配がした。ホークスは彼女の手ごとスマホを包むように支えた。指先の熱が、想像よりずっと近い。

「ほら、これで安定」
「……っ、もう、やだぁ……」

 シャッター音。彼女の耳には届いていなかったかもしれない。それでも、今度はきっと二人とも画面に収まっている——はずだったが、確認する余裕がないのは彼の手がまだ彼女を離していないからだ。

「……やだ、って何が?どれ? 嫌?」
「手!距離!近い! もう、大丈夫ですから!」
「あぁ〜、ははは……ごめんごめん」

 まったく悪びれる様子もなくそう言って、彼がゆっくり腕を解く。けれど完全には離れず、指先だけが名残を残すみたいに彼女の手をかすめた。

「はぁ……息できなかったぁ……」
「もー、大げさだなあ。ちゃんと呼吸して?」

 軽く言いながら、彼は何事もなかったように、自分のコーヒーを優雅にひとくち含む。余裕たっぷりの仕草。そのあと、少しだけ目を丸くした。

「……これ、ほんっと美味しい」
「ね。ホークス好みだから。私もここに来たら、甘いの頼んじゃうので」
「うん、好き。ここ、通いたいな」

 冗談とも本気ともつかない声色だったけれど、その横顔は妙に真剣だった。彼女はスマホを握り直しながら、画面の中のツーショットをまだ見られずにいる。胸の奥が、甘いコーヒーよりも先にじんわりと温まってしまったことに、気づかないふりをしながら。

「こっちに来たら寄ってみてくださいね。テイクアウトもできますし」
「うーん……でもなあ。一人で来ても、ちょっとねぇー」

 独り言みたいな呟きだった。彼はカップに口をつけたまま、ぼんやりと、窓の外へ視線を投げている。ガラス越しの街の色は、雨が降っていても柔らかく、午後の光が彼の横顔を少しだけ大人びさせていた。

「だって、お友達のヒーロー、たくさんいるじゃないですか」
「友達ねえ……エンデヴァーさんとか?」
「おお、エンデヴァー」
「でもあの人コーヒー飲みながら説教始まりそうだから、却下で」

 迷いのない言い切り。彼女はふとナンバーツーヒーロー、エンデヴァーの顔を思い出して思わず笑ってしまう。彼のその評価は妙に的確で反論の余地がなかった。

「エンデヴァーとも、よくチーム組んだりするんですか?」
「いや? 会ったこともなぁーい」
「えー? それはそれで、なんというか……」

 肩をすくめて拍子抜けする彼女を横目に彼は、少しだけ、口角を上げた。

「でもね——見てて。いつか彼とのツーショットメディアで、山ほど拝めるようになるから」

 頬杖をついたまま、どこか、遠くを見る視線。まただ、と思う。それは今ここで甘いコーヒーを飲みながら隣に並んで座る彼とは違う紛れもない��ヒーロー�≠フ顔だった。
 彼女はその温度差に無意識のうちに目を伏せ、カップの水面へと視線を落とす。

「……エンデヴァー、嫌いじゃないです」
「お、分かる?あの人すごいよね。ただ不器用なだけでさ」
「友達が、彼の息子さん推しで」
「焦凍くんね。あの子は伸びるよ、間違いなく」
「高校生が推しって言うのも、なかなか、攻めてますけどね」

 そう言って、彼女はカップを置いて笑った。

「いやぁ?いいんじゃない?好きって気持ちに、年齢制限ないでしょ」

 なんだか含みを持たせた言い方だったけれど、彼女はあえて深追いしなかった。代わりに話題を少しだけずらす。

「雄英高校の体育祭、私も毎年テレビで見てて」
「お、観てるんだ」
「でも私は、あれです。今年の一位だった、爆豪勝己くん派です」
「あー! 爆豪くんね。はは、なんかわかる」
「ん? どういう意味で?」
「チャラチャラした人は苦手ーって言うわりに、ああいう尖ったタイプ、嫌いじゃなさそう」

 図星を突かれたようで、彼女は視線を逸らす。それを見て彼は小さく笑い唐突に人差し指を立てた。その仕草につられて、彼女もまた彼を見る。

「彼さ。君の前だと、たぶんちょっと、大人しくなると思う」
「……私の、前で?」
「うん。ギャップに弱そう」
「じゃあ、彼がプロヒーローになったらファンミでも、行こうかな」
「ファンミて」

 思わず、苦笑が漏れる。ヒーローのファンミーティング自体は珍しくない。それでも『推し』という言葉の響きが、どうしてもアイドルのそれと重なってしまう。
 彼女は再びコーヒーに口をつけながら隣に座る彼を横目で盗み見る。こんな他愛ない会話の中にヒーローと、一般人という距離が、ふと顔を出す瞬間がある。そのたびに、胸の奥が静かに揺れるのを、彼女はまだ言葉にできずにいた。

「……ちなみにさ」

 カップを持つ指先で、縁をなぞりながら、ホークスは、何でもないことのように切り出した。

「俺のファンミは?」
「え? あ、よく開催してますよね」
「してますねぇ」
「会社の子たちが、いつもチケット取れないって嘆いてますよ」
「へえ、そうなんだ」

 相槌は軽い。けれど、彼の視線は彼女から外れない。しっかりとした指先が、カップの縁を一周して、そこで止まり「じゃあさ」と声のトーンがほんの少しだけ落ちた。

「俺がチケット融通したら来てくれたりする?」
「え!私の会社の子たちに?それはもう、大歓喜だと思いますよ」
「いや」

 ため息のような吐息とともに、短く否定して、彼は、体ごと彼女の方を見る。

「ん?」
「君に、聞いてるんだけど」

 低くなった声。カウンターの奥では、老店主が無言でカップを磨いていて、有線はいつの間にかスローバラードに、変わっていた。古いジュークボックスから流れるチェット・ベイカーの声が、午後の空気に溶けるように店内を満たしている。彼女は一瞬、言葉を失ったように瞬きをする。

「そうだ。近々、関東でやる予定があった」
「……知ってます。メディアが騒いでたから」
「ファンミって名目じゃなくてさ。普通に二人でこうして、会いたいんだけどね。俺は」

 彼女の動きが完全に止まる。驚いたというより思考が、追いついていない顔だった。それでも、ふっ、と小さく笑って、静かに言葉を返す。

「……どうだろ。行けるかな、わたし」
「予定ある?」
「予定、とかじゃなくて……」

 彼女は、残りわずかなコーヒーを見下ろした。液面に映る自分の表情が、少しだけ曖昧で、少しだけ逃げ腰だ。言葉を探しているのか、それとも気持ちを飲み込もうとしているのか。ホークスは急がなかった。翼も動かさず、視線も逸らさず、ただ、隣で待つ。

「無理なら無理でいいよ」
「……」
「断られ慣れてるし。ヒーロー業」

 場の空気を呼んだのか冗談めかした調子に戻しつつも、その目は、真剣だった。彼女は思わず、小さく息を漏らす。

「でも、来てくれたら……俺、たぶん浮かれる」
「それ、ファンミ向いてない発言だ」
「えー?ファンの前ではちゃんと仕事しますよ」
「……私の……前では?」
「……手、抜くかも」

 困ったように、でもどこか嬉しそうに笑う彼を見て、彼女はカップを持ち上げ、最後の一口を、ゆっくりと飲み干した。

「……考えます」
「お、前向き」
「前向きとは言ってません」

 それでも彼の口元は緩んだままだった。答えが出るまで待つ時間さえ、今は悪くない——そんなふうにどこか気長で余裕のある表情をしている。

「なんか……」
「ん?」
「ファンミーティングに行って、直接ホークスと会ったら……」
「うん?」
「こうしてる時間とか全部、夢だったんだなって思っちゃいそうで」

 すでに空になっているはずのコーヒーカップ。その取っ手を持つ彼の指が途中で止まった。白磁の縁に触れたまま、わずかに力が抜ける。

「……夢?」
「うん。やっぱ住む世界が違う人なんだなって」

 彼は小さく笑った。ただし、それは、いつもの軽やかな笑みではなく少しだけ間を含んだ静かなものだった。

「それ、このあいだも言ってたよね」

 窓の外ではまだ雨が降っている。ただ、先ほどまでの強さはなくガラスを叩く音もずいぶん丸くなっていた。通りを行く車の水音も遠くで曖昧に混ざっている。彼はカップをテーブルに置いた。こつん、と小さな音がして、二人の間に残る。

「俺さ」
「……」
「確かに空飛べるしビルボード載ってるし、まあ世間的には、そう見えるのかもしんないけど」

 言葉を探すというより、選んでいるような間。琥珀色をした視線が、彼女に戻ってくる。

「今こうやって雑誌見て、きゃーって言われて、照れてる俺ってさ」
「……」
「どこからどう見ても、ただの、二十代の男の子じゃない?」

 いつもと変わらず冗談めいた言い方だったが、その目には少し、翳りが見える。彼女は一瞬だけ返す言葉を失ってから、困ったように笑った。

「……ほんと、上手ですよね」
「上手? なにが?」
「きゅんきゅんさせたり、ドキドキさせたりするのが」

 彼は、その言葉を受け止めるように、まっすぐ彼女の目を見た。そこには、からかいも逃げ道もない。ただ静かに真正面から向き合う視線だけがあった。

「練習したことないよ」

 声は落ち着いていて余計な装飾がない。少なくとも、この瞬間においては、嘘を混ぜる余地すら見当たらなかった。

「じゃあ……天性だ」
 
 彼女はそう言ってそっと膝の上で手を重ねた。ついさっき、喉を通っていったはずのコーヒーの甘さが時間差で舌の奥に戻ってくる。甘いのに、はっきりしていて逆に現実味を伴って舌に残る。

「天性て」

 ホークスは鼻で笑おうとして、うまくいかなかった。褒め言葉なのか軽い呆れなのかその境目が曖昧なまま胸の奥に引っかかる。それでも、悪い気はしていない——そんな表情で、彼は再び空になったカップに手を伸ばした。指先が縁に触れて何も残っていないことを確かめる。

「……ねえ、ひとつ聞いていい?」
「どうぞ」
「さっきからさ」

 ホークスは、カップから視線を外さないまま、言葉を選ぶように続けた。

「『有名人』とか、『手の届かない人』として、俺を見てない?」

 核心だった。「かっこいい」「モデル」「目の保養」——。それらは全部、画面越しや、紙面の向こうに向けられる言葉だ。ここに座っている、��彼�≠ナはなくイメージとしての存在に投げられるもの。彼の声が、また少しだけ低くなる。

「俺はさ……君のこと好きだよ。ホークスとしてじゃなく」
「……ほんと、口がうまくて目眩がしてくる」
「わぉ、また流されたー」
「……」
「はは、ごめんごめん。話の腰を折っちゃった。続けて」

 彼女は逃げるように笑ってから観念したように続けた。

「……そりゃあ、見ますよ。だって、相手は——ホークスですよ?」

 彼は否定しなかった。遮りもしない。ただ一言「うん」とだけ短く応じた。それから「そりゃあそうだ」と、その言葉をいったん受け取って軽く頷く。

「そうだよね。急に、ヒーロー(・・・・)から好きって言われても、困るよな」

 声は明るい調子を保っていた。けれどその目は笑っていない。正確には、笑おうとしている——けれど、どこかで引っかかって、うまく形にならない。カフェに流れる音楽と雨の名残の静けさがその不完全な笑みを、そっと包み込んでいた。

「……いえ。違うくて」

 彼女は少し考えてからそう言って、首を、横に振った。否定というよりも丁寧に置き直す仕草のようだった。

「好意を持ってもらえるのは、本当に嬉しくて。正直、最初は驚いたけど……」
「最初って、あのチャラいナンパ?」
「はい」
「……あれはぁー、ちょっと、反省してるよ?」

 ホークスは面食らったように後頭部を掻いた。軽口が先に立つ男にしては珍しく、照れと後悔が入り混じったような間の取り方だった。

「でも、なんとなく分かる気がします」
「分かる?」
「……チャンスの神様って、前髪しかないって話知ってます?」
「セネカでしょ。捕まえるなら、前髪を掴めってやつ」

 普段はへらへらと軽薄そうであってもさらっと受け取るあたり、教養の引き出しが多い男だ。

「……つまり、俺にチャンスがあったってこと?あのとき掴まなかったら、もう後ろには何もなかった?」
「いえ。誰にでも、そういうタイミングって何度かは、巡ってくると思ってて」
「……」
「ホークスは、ただ、それを引っ張っただけで」

 彼の口からふっと短い息が漏れた。強引だった自覚はある。けれど後悔はしていない。そんな、表情だった。

「引っ張った、か」

 言葉を反芻するように、彼の視線が一瞬だけ、テーブルに落ちる。それから「……じゃあさ」と再び顔を上げる。その目は逃げ場を探さない色をしていた。

「今も前髪、ある?」
「前髪?」
「うん。君の心を掴めるチャンス」

 彼女は視線を逸らさなかった。雨の名残が窓に薄く残る中、カフェの静けさが二人の間を満たしている。

「……あると思いますよ。けっこう高確率で」

 その言葉に、彼は目を見開いた。一瞬、本当に一瞬だけ、肩書きも余裕も抜け落ちた、年相応の男の顔になる。

「本気で言ってる? 俺、信じるけど」
「ただ、その……まだ心の準備とか、いろいろ」
「いいよ。待つ待つ、ちゃんと」

 間を置かない食い気味の返答だった。待てない性分だと自分でも分かっている男の、それでも、譲らない選択。彼女はその横顔を盗み見るようにしてカップに残った微かな温もりへ指先をそっと重ねた。中身はすでに飲み干されて久しいのに、胸の奥だけが、なぜか静かに温かい。

「……ゆっくり、お友達からできればなって」

 言い終えたあと、彼女は視線を落とした。逃げではなく言葉を置いたあとの静かな確認のような仕草だった。ホークスは、目を瞬かせたまま固まった。三秒ほど。思考が追いつくまでのはっきりした空白。

「……友達」
「だめ、ですか……?」
「いや——うん。いいよ」

 少し遅れて口元がゆるむ。嬉しいのかまだ飲み込みきれていないのか判別のつかない笑い方で。

「友達ね。了解」

 その声には微かな安堵が混じっていた。拒まれたわけではない。扉を閉められたわけでもない。完全な否定ではなく、『続き』が許された。それだけで今は、ホークスにとっては十分だった。

「じゃあ、友達として聞くけど」
「はい」
「連絡先はもう交換してあるから」
「はい」
「次は、いつ会える?」
「……出た。きゅんきゅん」
「はい、また流されました」
「いや、だって」
「天性だって言ったの、君でしょー」

 得意げに笑う。その顔を見て彼女は小さく息を吐いた。気づけば、雨は上がっていた。窓の外の灰色が薄くなっている。雲の切れ間から差し込む夕方の光が濡れた路面に反射して、店の床に淡い橙色の模様を落としていた。

「あ、晴れそう」

 ホークスは小さくそう言って翼を軽く伸ばす。店内では少し窮屈そうだったそれが、ようやく、空気を含んだ瞬間だった。

「そろそろ出る? 雨も止んだし、流されたし」
「……っ」
「送るよ、友達として」
「……うん。もしかしたら、虹が見えるかも」
「いいね。虹バックで写真撮ろ。今度はちゃんとした、ツーショット」

 立ち上がって会計に向かおうとしたところで、カウンターの奥から店主が手を挙げて「いいよ、お兄さんヒーローだろ」と言ってラックに戻した雑誌——彼が表紙のそれを、小さく指差す。ホークスは一瞬、きょとんとしたあと、困ったように笑って頭を下げた。
 店を出るともう傘はいらなかった。並んで歩く足取りは、さきほどよりも少しだけ軽い。彼女は空を見上げる。まだ、湿った空気の向こう、雲の端に、ほんのわずか色が滲んでいる気がした。
 友達——そう呼ぶには少し近くて。でも確かに今、隣を歩いている。ホークスは特に何も言わず彼女に歩調を合わせた。


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