通りに出た瞬間、大型ビジョンの電光掲示板が切り替わった。さきほどカフェで話題にしていた香水の広告だ。赤い翼を大きく広げたホークスが無言のままこちらを見下ろしている。光量の強い映像は現実の街並みよりもわずかに鮮明で、別の世界が重なったように見えた。
「……出てるね、ヒーローホークス」
「ね、出てるねぇ」
「……あっ! 裸族ホークス降臨!」
彼女が、わざとらしく指をさす。同時に、周囲からも「わ〜、ホークス!」「かっこいい〜」とざわめきが起こる。
大型ビジョンの中のホークスは確かに上半身のラインがくっきり映えており、通行人の何人かがスマホのカメラを上に掲げていた。
「だから、裸族じゃ——もう、よかばいそれ!」
ホークスは片手で顔を覆い、半ば本気の呻きを零した。照れと苛立ちがないまぜになった声だった。その仕草が却って目を引いたのか剛翼を隠す気配もなく大通りで立ち止まる彼の姿に、周囲の視線が、じわじわ集まり始める。
「え、ガチ、ホークスじゃない!?」
「え、うそ……本物!?」
と、ひそひそ声は、すぐに熱を帯び、掲示板に向いていたはずのスマホが、次々とこちらへ向き直る。レンズ越しに突き刺さる好奇の気配に彼は小さく舌打ちしそうになるのを堪え周囲を素早く一瞥した。それから、ごく自然な動きで彼女との距離を詰める。肩が触れるほど近く逃げ場を塞ぐように、しかし、守るように。紅い翼がふわりと広がり、二人の背中側を覆った。通りの喧騒が、羽根一枚隔てただけで少し遠のく。彼は、声量を落とし、吐息に紛れさせるように囁く。
「……このままやと、すぐ囲まれる。悪いけど、ちょっと寄って」
低く抑えた声には冗談めいた軽さはなく、街に慣れたヒーローの判断が滲んでいた。
彼女にだけ向けられた、その短い言葉。剛翼の内側に生まれたわずかな静けさがかえって事態の切迫を際立たせていた。
翼の影が二人を包む。紅い羽根の内側は、外の喧騒が、嘘のように遠かった。夕陽が羽根越しに透けて、二人の間だけが柔らかい橙色に染まる。通りの音も、人の視線も、薄い膜一枚隔てた向こう側に押しやられた感覚。まるでこの中だけが、別世界のようだった。
「ふふっ、裸族ホークス独り占め……」
「その呼び方、定着させる気でしょ」
呆れた口調なのに、口元は、わずかに上がっている。翼の中は二人分の体温で少し暖かく距離の近さを否応なく意識させた。
そのとき、通りの向こうからさらに人の気配が迫ってくる。
「あー......名前ちゃん、ちょっと走れる?」
「任せて……っ。短距離は得意」
「おっけ。じゃあ、行くよ——三、二、」
一、——と言い切る前に、ホークスが翼を跳ね上げた。群衆の視線が空に逸れた一瞬、二人は、人混みを縫うように駆け出す。夕暮れの商店街を傘も差さず走る男女。端から見れば完全にただの逃避行だ。
水たまりを跳ねて、靴底が音を立てて、信号をひとつ越える。逃げるというより、笑ってしまうほど無謀な勢いだった。気がつけば、自然と手を繋いで走っていた。どちらからともなく確かめる間もなく、指と指が恋人繋ぎで噛み合っている。
路地をひとつ曲がったところでホークスが足を止める。膝に手をつき肩で息をしながらようやく振り返った。まだ、胸の奥が速く脈打っている。走ったからなのかそれだけではないのか。答えは今は、考えないままでいい気がした。
「はっ、は……っ、名前ちゃん、足、速……」
言葉は途切れがちで息を吸う音の方が大きい。それでも繋いだ手だけは離さなかった。逃げ切ったという安堵より、手のひらに残る温度のほうが彼の意識を強く、引き留めているようだった。
「あー! 楽しかった〜!」
「楽しかったって……追われてたんだよ、俺ら」
「でも、楽しかったでしょう?」
「……うん、すね。」
笑いながら顔を上げる。未だ肩で息をしながらそれでも口元は、緩んでいる。夕方の光を受けた横顔は、ヒーローの鋭さが嘘みたいに柔らかい。
そこでようやく、彼は自分たちの右手に視線を落とした。絡んだままの指先。逃走の勢いで掴んだはずなのに今さら理由を探すのも野暮だった。ホークスは、その手を見つめたまま、離そうとしない。
「友達でもさ、手、繋ぐことはあるよね」
「……それ、友達以上かも、しれない、かも」
言い終わるより先に指に力がこもった。無意識だった。夕焼けが街並みの輪郭を橙に染め、シャッターを下ろし始めた店の軒先から、晩ごはんの匂いが風に乗って流れてくる。ごく、ありふれた日常の中で、非日常だけが手のひらの温度として静かに、存在を主張していた。
「……出た。ドキドキさせるターン」
「俺のターンとかじゃないから」
否定は早かったが、声の端に熱が滲んでいた。彼本人だけが、それに気づいていないふりをしている。
「……近い、」
「離れたほうがいい?」
「ほら、そういうの」
からかう調子に彼は小さく息を吐いた。逃げ場のない問いを軽口で包まれると、どう返していいのかわからなくなる。繋いでいないほうの手で、彼女の頭にそっと触れる。ぽん、と音がしそうなほど、ためらいを含んだ仕草だった。触れた瞬間いちばん驚いたのは、彼自身だった。軽く撫でるつもりが指先が離れない。距離を詰めたい衝動と壊したくない均衡。その両方がせめぎ合い結局、感情は、指先にだけ正直に残った。
「逃げないでよ、今度は」
「……、逃げれないよ、こんなの」
夕風が二人の間をすり抜ける。ホークスの紅い翼が夕陽を受けて燃えるように輝いていた。彼は少しだけ膝を折り目線を彼女に合わせる。見下ろすのでも、見上げるのでもない、同じ高さ。
「友達からって言ったの……撤回してもらってもいい?」
「………出た、今度はきゅんきゅんターン」
「またそれ?」
低い声だった。かろうじて笑みは浮かべているものの、その瞳は、冗談を許さない。繋いだ手がわずかに引かれ、つま先ひとつ分の距離が静かに消える。
「茶化さないで」
「……」
「はぐらかされるの、苦手なんだよ」
「……、」
「……嫌なら、離すよ」
沈黙が落ちた。街の音が、また一段だけ遠のき踏切の警報だけが間の悪いリズムで響いている。
「…………離さないで、」
声は掠れて、小さく落ちた。拒まれる不安と、縋る気持ちが絡まった震えだった。ホークスは、それを聞き取って息だけで笑う。目を伏せ吐息に紛れるほどの声をそっと彼女のほうへ落とした。
「——了解」
握り返す力は強くない。けれど、逃げ道を塞ぐような意志だけが指先から静かに伝わってくる。夕空にはうっすらと虹がかかっていたが、それに気づくのは、もう少し先になる。
しばらく、言葉はなかった。気まずさを孕んだ沈黙ではない。互いの体温がここにあることを、確かめ合うための、柔らかな間だ。
「……ねえ、名前ちゃん。夢って思うならさ」
「……」
「覚めないようにすればいいじゃん」
踏切が鳴り終わり、遮断機の下りる音の残響が消え、街は再び静けさを取り戻す。夕陽はビルの谷間に半分沈み、空の色は、橙から薄紫へと滲み始めていた。ホークスは彼女を見下ろしている。冗談めいた言葉の裏に、逃げ場のない本音があることを、ちゃんと分かった目で。
「俺は——覚めさせないよ」
気障な台詞だった。自覚があるのか言い切った直後、彼が、ほんのわずかに、視線を逸らす。
「……ど、どうしよう」
「どうしよう?」
「…………好きに、なっちゃう、五秒前、かも」
ホークスは目を見開き、それから、ゆっくりと笑った。驚きと喜びと、どうしようもなさが混じったような表情で。そして額を、こつんと彼女に合わせる。
「五秒もいらないでしょ」
「くぅ〜……っ」
ゼロ秒だった。額と額が触れ合い互いの吐息の温度が分かるほど近い。路地裏の夕闇は少しずつ深まり街灯がちかちかと点滅して、やがて灯る。白い光に照らされて二つの影がひとつに重なっていた。まだ触れ合っているだけなのに、もう十分すぎるほど、世界は恋に傾いていた。
「……隙間、なくなったの?」
彼女のその問いかけは冗談めいた軽さを装っていたが、声の奥には、探るような緊張があった。
「なくなった」
答えは迷いがなかった。即座に返ってきたその一言に『隙間』が、何を指しているのか——住む世界の隔たりか、心の壁か。彼女自身も、もう、区別がついていなかった。
「俺が、きっちり埋めたから」
手を繋いだまま親指が彼女の手の甲をなぞる。撫でるというより、確かめるような動きだった。その距離のまま、ゆっくりと視線が絡む。彼女は何か言いかけて結局言葉を失う。胸の奥で脈打つ感覚は『どきどき』や『きゅん』といった、軽い言葉では追いつかない、生身のものだった。
彼は、逃がさず見つめ返している。瞳が街灯の白い光を受けて、いっそう琥珀色に澄んでいた。
「……このあと、どうなるの?」
一瞬、彼はきょとんとした顔をして——すぐに意地の悪い笑みを浮かべる。
「聞いちゃう? それ」
「だって……天性の持ち主は、どう動くのかなって」
彼はわずかに顎を引き、さらに距離を詰めた。冗談を重ねているのに、空気は冗談のままでいてくれない。
「知りたい?」
「……っ、電車、来ちゃうよ……」
「来ない来ない。反対方向だし」
調べていたわけじゃない。ただ逃げ道や動線を無意識に把握してしまう癖がこんなところで役に立っただけだ。本能的に逃走経路を把握する癖がここで活きた。
「逃げ道、塞いじゃったな」
彼女がその言葉にきゅっと目を閉じる。それは拒否じゃなく受け入れの合図だった。空いていた手がそっと、彼女の頬に添えられる。親指が一度だけ肌を滑り、唇が重なった。柔らかく、短い。けれど確かに触れたという実感だけは強く残る。雨上がりの夕暮れ、街のざわめきの中で紅い翼が音もなく広がっていた。離れたはずなのに彼は、すぐには、距離を戻さない。触れたままの余韻を惜しむように、彼女の前に留まっている。彼女は思わずその場で、小さく足踏みをしてしまう。
「……うぅ、近いぃ」
「うそぉ、今さら?」
彼女の声は抗議というより、限界の報告に近かった。ホークスはそう返しながらも渋々といった様子で、ようやく自分から数ミリだけ距離を引いた。引いた、というより、理性が最低限の仕事をしただけだ。息がかかる感覚は、ほとんど変わらない。
「全然、離れてない……っ、」
「……ごめんごめん。もうちょっと、ね」
「死ぬ、死ぬぅ……心臓、出てきちゃう……」
「出てきたら俺が拾うから」
囁くような声だった。近すぎる距離で、そんなことを言われて、彼女の足は、落ち着きどころを失う。小刻みに、足踏みを繰り返す彼女の耳まで赤く染まっているのを、ホークスは、逃さず見ていた。——ああ、これは確信犯だな。満足そうに目を細めて、素直な感想を零す。
「……かわいい」
「んんーっ」
「はは、なにその声。かわい」
くつくつと喉を鳴らして笑いながらも、繋いだ手だけは離さない。距離は譲っても関係まで戻す気はない、とでも言うように。
「……ねえ」
「ん?」
「友達、だったよね……?わたしたち」
「さっきまでは」
軽く言い切って、また笑う。その笑顔はほんの少し前よりも柔らかい。今度は彼の方から静かに問いを投げた。
「じゃあ今は?」
「——検討中っ」
その答えに、ホークスの眉間に、わずかに皺が寄る。次の瞬間さっき戻したはずの距離を何事もなかったかのように詰めてきた。
「……っ、なに、このヒーロー、っ」
「ヒーローだけど? 知らなかった?」
「きゅん死にさせる気だぁ……」
「救助、必要?」
彼がにやりとした笑みを浮かべる。彼女は目を見開いて、反射的に首を振った。
「無理!」
彼女が、むりやり距離を取ろうと、身を引く。今度はホークスも「はいはい」と素直に応じた。ただし完全には離さない。指一本分だけ繋がりを残して。
一歩下がると、彼の翼が、ふわりと畳まれた。さっきまで二人を包んでいた熱が、夜気に溶けていく。それでも、指先に残った体温だけは、簡単には消えそうになかった。街灯の下で彼女はまだ少し息を整えている。その様子を横目に見ながら離れた分だけ、次に近づく理由が増えた気がしてホークスは口元にまた小さな笑みが浮かべた。
「……顔、真っ赤」
そう言いながら覗き込む口ぶりが、まるで彼女だけが取り乱しているみたいで、内心、ちょっとだけ腹が立つ。自分だって大概だ。息すら整っていないくせに、とは言わないでおこうと、彼女は口を噤んだ。
「はぁ、はぁ……」
「ほらほら、落ち着いて。深呼吸ですよ深呼吸」
そう言ってホークスは、両手を上げて、降参のポーズを取った。その仕草が、さっきまでの距離感と噛み合わなくて、余計に心臓に悪い。
「はい、吸って——吐いて——」
「……急に、ヒーローになるっ」
「急じゃないでしょー?俺は、いつでもヒーローですけど?」
「やだぁ……。やっぱり、お友達に降格……」
「却下」
そこだけは、言葉を被せるような返答だった。迷いも逡巡も挟む余地がない。その潔さに思わず感心すらしてしまうほどで、しかも、目元までが一瞬にして据わっていた。覚悟だけがはっきりとそこに置かれている。
「こわい」
「怖いって何。それ、普通に傷つくんだけど」
出た。何度目かわからない、お得意の胸を押さえてみせる大げさなジェスチャー。わざとらしいのに、視線がつい引き寄せられるから救えない。
「それ! それが、なんか……なんかっ」
「……なぁに?」
首を傾げる仕草まで含めて、計算なのか無自覚なのか、もう彼女には分からなかった。
「あざとい……」
「あざ——え、俺、今あざといって言われた?」
「言われた」
「……マジか」
背中の翼が、目に見えてしょんと垂れた。その落ち込み方が妙に素直で、彼女の方も、少しだけ罪悪感が芽生える。
「違うの。わたし、普段はこんなふうに……」
「こんなふうに?」
「なら、ない……ので」
「つまり俺、限定ってこと?」
次の瞬間には、翼がぴんと持ち直した。さっきまでの沈みが、嘘みたいだ。
「すっごいポジティブ……」
「まあね。俺、楽観的なんす」
隠す気もなく笑って、彼は繋いだ手を少しだけ持ち上げた。確かめるように、逃げないかを見るみたいに。
「帰る? それとも、もうちょっと歩く?」
「……ずるい、聞き方」
「選択肢を提示してるだけです」
彼女は一瞬だけ迷った。その短い沈黙のあと、答えの代わりに、繋いだ手に力を込める。
「……歩く」
「はは、了解」
二人は、並んで歩き出す。完全に埋まったわけでも、きっぱり、区切られたわけでもない距離。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。夜に向かう街の中で、肩が触れ合う近さを、どちらも避けない。街灯の下、影がゆっくりと伸びてまた少しだけ重なっていく。その変化に名前をつけるほど、まだ言葉は追いついていなかった。
「……今日さ」
声をかけたのは彼の方だった。夕闇に溶けきらなかった名残の光が、空に細い線を引いている。街はもう、すっかり夜の準備に入っていて、窓という窓には、明かりが灯り始めている。
「雨、降ってくれてよかったかも」
「え? 好きなの?雨」
「うん。好きになった」
ホークスは前を向いたまま言った。その横顔は何かをやり遂げたあとみたいに澄んでいて迷いがなかった。勝ったというより、もう答えを知っている顔だ。
「ふーん。虹は見れなかったね」
「見れたよ」
「え? うそ、出てた!?」
彼は不意に空を指差す。けれどそこにあるのはもう夜の色だけで、雲の隙間も見当たらない。
「走ってるときにね」
「えー! 全然気づかなかった〜」
「そりゃそうだ。下向いて必死に走ってたもん」
ホークスはちら、と横目で見て、くっと笑う。その軽さに、彼女の肩から少し力が抜けた。
「早く走るのと、ホークスってバレたときに私の顔バレ阻止とで、必死でした」
「……えぇ? あえて顔、隠してたの?」
「はい」
「なんで」
心底わからない、という声音だった。ほんのり不満も混じっている。
「別にいいでしょ、一緒に走ってるくらい」
「いやいや。そっちじゃなくて」
「どっち?」
「明日からトレンド入りだよ。一般人と手繋いでホークスが、街中走ってたら」
「手ェ繋いでたのはバレてないでしょー。なら、セーフ」
確かに、群衆が見たのは、翼で二人分の背中を隠したところまでだ。その先の路地裏の出来事を知っているのは、ここにいる二人だけ。
「……ていうか、トレンド入りしたら困る?」
「ホークスに、迷惑かけたくないだけ」
その言葉と同時に、彼が足を止めた。住宅街の角。街灯がぽつんと立ち、車の音も、人の気配も遠い。「それさ」と、ホークスが彼女を正面から見る。またもや、逃げ場のない視線だった。
「『住む世界が違う』ってやつ、まだ言ってる」
「え?……あぁ、まぁ、少し? だけ……」
「少し、ね」
そのまま、彼女のほうに、一歩近づく。街灯の白い光が、彼の剛翼のかたちを、淡く縁取った。
「迷惑かけたくないって言葉、優しいけどさ」
「……」
「それ、壁にされると、寂しい」
低く、静かな声だった。責める調子ではない。ただ——届いてほしいと、思っている音。
「俺は、君と一緒に走るのが嫌だったら最初から羽根を広げて逃げてる」
「……それは、そうかも」
「でしょ」
短く笑って、彼は、手を差し出す。もう逃げるためじゃない距離で。
「迷惑かけるとか、住む世界とか、今日は一回、置いとこ」
「……置いたら?」
「その代わり——ちゃんと一緒に歩く。隠れないで」
視線が彼女の指先に落ちる。街灯の下、二人の影がまた少し近づいた。
夜は静かに深まっていく。けれどその静けさはもう、不安のためのものではなかった。
「迷惑かどうかは、俺が決めることでしょ」
「まあ、たしかに……」
「でしょ」
「ふふ、二回目」
そう言って彼女が笑うと、彼はほんの少しだけ肩をすくめた。もう一歩、自然に距離が縮まる。見上げなければ顔が見えないほどの近さ。背後の街灯が逆光になってホークスの表情は影に沈んでいたが声の温度だけははっきりと伝わってくる。
「俺は名前ちゃんと走れて楽しかったし、手も、離したくなかった」
「……」
「それの、何が迷惑?」
「私も、すっごく楽しかったし……手、離したくなかった」
言葉にした途端、胸の奥が少し軽くなる。彼は小さく息を吐いて「ほら」と、満足そうに口角を上げた。たしかに今は、それだけで十分だった。説明も確認もいらない同じ気持ちだという合図。
彼は、照れ隠しみたいに頭の後ろをがしがしと掻く。さっきから何度か見せるその仕草が、妙に人間くさい。
「だからさ、もっと気楽にいてよ」
「……」
「俺のこと、普通の——ただ好きな男として見てくれればいいから」
「……善処します」
「それ、政治家の答弁」
「いいの!今日はもうキャパオーバーなのっ!」
「了解了解。じゃあ今日はここまでにしとく」
くっと短く笑って先に歩き出す。その背中には立場も躊躇いも遠慮も迷いもなかった。それでも軽い調子ではあっても、その横顔はどこまでも、満ち足りている。走った余韻も触れた手の感覚もまだ、体に残っているようだった。
「次は、ちゃんと虹見よ。一緒に」
「……うん」
それから数分で彼女のアパートの前に着いた。もうこのまま空を飛んで送ろうか、という提案は「目立つから」の一言で却下された。ホークスは素直に引き下がり、「賢明」とでも言いたげに、頷いていた。
「着いちゃった」
ぽつりと落ちたその声は、ヒーローのものではなかった。肩書きも役割も脱ぎ捨てた、ただの、二十代の男が名残惜しさをどうにも隠しきれずに零してしまった音だ。アパートの窓々に灯る生活の明かりが夜の廊下ごと二人を包み込む。ここで別れる。その事実だけが、ようやく現実の重みを伴って、静かに胸の奥へと触れてきた。
「今日は、ありがとう」
彼女が言うとホークスは肩の力を抜いたようにふ、と笑った。
「こちらこそ。楽しかったよ」
もう手は繋いでいない。それなのに距離だけが名残を引きずって互いの間に曖昧な空白を残したまま戻らない。言葉を探す沈黙は気まずさというよりも、続きを抱えたまま足踏みしているような静けさだった。
「フレグランスも……使ってね」
「もちろん。毎日つけますよ。ヒーロースーツのポケットに入れて」
約束とも宣言ともつかない口調。それで十分なはずだった。十分だと、頭ではわかっているのに彼女の足はアパートの中へ向かわない。彼もまた翼を広げる気配を見せず、夜気に溶けるように、そこに立っていた。次に一緒に見るはずの虹を、もう思い描いているような顔で。それが、逃せば戻らない瞬間だったことを、彼女は後から知る。
「……このあと、忙しい?」
彼女が落とした問いに彼の動きが止まる。聞き返しはない。その短い一言の奥行きを、彼は測り損ねない。「忙しい?」という問いの裏に、何があるのかくらい、この目敏い男には読めたから。
「……暇です。驚くほど、端的に」
「ふふ……じゃあ。夜ご飯、食べて行かない?」
彼女が、息をひとつ整えた。夜風が二人の間を抜ける。自分から差し出した言葉の重みを、彼女自身がいちばん、理解している顔だった。
「……唐揚げ、作るからさ」
彼の目がわずかに見開かれる。唐揚げ。好きな食べ物だ。インタビューで照れもせず答えていたそれを彼女は今この瞬間に差し出してきたのだ。
「……好き。食べてく」
「よかった……」
エレベーターに乗り込んだ瞬間に、言葉が途切れた。狭い箱の中で、肩と翼が触れる距離。動くたびに布と羽根がかすかに擦れる音がして彼女の意識を無駄に引き戻す。
「アパートにエレベーターって、珍しいよね」
「うん……」
「……何階、でしたっけ」
「三階、です……」
彼は「最上階ね」と復唱して、ボタンを押す。それから上昇音に溶けるような小さな声で「覚えた」と呟いた。その一言がただの記憶ではなく、これからを含んでいることを、彼女はまだ言葉にできなかった。
「このあいだ、覚えなかったの?」
「……あのときは、まだ——」
言いかけて、彼は口を閉じた。「まだ」の先にある言葉を、彼自身が、選別したのが分かった。『友達』ですらなかったという表現は今の関係に持ち込むには少しだけ鋭すぎる。
「……今日、覚えたからいいの」
「あの日、緊張してたんだ」
「してたよ」
あっさりと返されて彼女は思わず肩を竦める。そのあと「仲間だ」と、彼女が小さく呟いたのはどこか、自分に言い聞かせるようでもあった。
——三階。エレベーターが止まり、扉が開く。「仲間て」と、彼は笑いながら先に廊下へ出る。どうやらしっかりと聞こえていたらしい。軽口の形を借りて言葉を柔らかく流したのが分かった。部屋の前に着き、彼女が鍵を開ける。玄関先からひとり暮らしの部屋特有の、きちんと整えられた空気が漂ってきた。余計なものはなく生活の輪郭だけが残っている匂い。
「……おじゃまします」
声が妙に丁寧だった。背筋を伸ばしてそう言うその姿が少しだけ可笑しくて彼女は思わず視線を留める。靴を脱ぐ所作まで、やけに行儀がよく、まるで、誰かの家に上がるたびに、練習してきたみたいだった。そんな彼は、前回と同様に室内をきょろきょろと室内を見回す。
「このあいだと、何も変わってませんよ?」
「知ってる。でも、なんか……違う」
「え……もしかして。誰か、別の女の子の部屋と間違えてません?」
「違う違う」
ホークスは慌てたように手を振り言葉を探す。
「前回はさ、ほら……もっとこう、さ?」
「うん?」
「今日は、なんか……違うでしょ」
「……なるほど?まあ、よく分かりませんけど、そういうことにしておきますか」
「うん。そうしてください」
彼はそう言って、翼を器用に折り畳みながら、部屋の中へ収まった。羽根が壁や家具に触れないよう無意識に角度を調整している。その慎重さがこの空間を壊したくないという、気持ちの表れのように見えて、彼女は胸の奥が少しだけくすぐったくなった。ここは、彼女の生活の場所で、彼にとっては、一時的な滞在先に過ぎない。それでも今夜だけは、その境界がほんの少し曖昧になっている気がした。
「ホークス」
「ん?」
「ソファで、ゆっくりしててね」
「はーい」
腰を下ろした彼は翼の置き場に一瞬だけ迷い、クッションを二つ抱えて、その間に挟んだ。紅い羽根がリビングに散らないようにという配慮だがその姿はどう見ても、大型の鳥が巣を整えているようで、彼女は背中を向けたまま小さく笑った。
キッチンへ向かう彼女の背中を彼は目で追う。冷蔵庫が開く音。まな板を出す音。「よし」と、気合いを入れる小さな声。どれも特別ではない、ありふれた生活音。それなのに彼が普段身を置く世界には、存在しないリズムだった。血と火薬と緊張から切り離された、ただの、人間の暮らしの匂いが、静かに部屋を満たしていく。
「……いいな、これ」
呟いた声は、きっと彼女のところまでは届いていない。ホークスはクッション越しに翼を抱えたまま静かに息を吐いた。羽根の重みと、ソファの柔らかさと、部屋に満ちる生活の匂い。そのどれもが、彼の世界では長く留まることを許されないものだ。それでも今だけは、この時間がこのままゆっくりであればいいと、らしくもなく、思っていた。すると、そのとき。キッチンの方から少しだけ、張ったような声が飛んでくる。
「仕込みしてたから、もうすぐできるよー!」
「はーい」
「あ、ねえ」
「ん?」
「お酒、飲む?飛んで帰るなら、ノンアルもあるけど……」
ガス台の向こうから、ひょっこり顔を覗かせて彼女が問う。ホークスは、間を置かずに答えた。
「飲む。アルコールで」
言い切った直後、自分の言葉に気づいたように「帰りは——」と、視線が窓の外へ流れる。夜はすでに深くベランダの向こうは完全な闇だった。
「……泊まっていい?」
その一言で、空気が止まった。「……え」と、彼女の短い声。明らかに思考が追いついていない音だった。揚げ油の、ぱちぱちという音だけが、やけに、大きく耳に残る。それ以外の音が、全部消えた。
「——わ、油!」
彼女は慌ててガス台に向き直る。「また流された」という彼の小さなぼやきは、聞こえなかったことにされた。危なかったが、鶏肉はどうやら、無事だったらしい。
「……返事、まだなんですけどぉー?」
ホークスはソファに座ったまま首だけ伸ばしてキッチンへ向けて声を投げる。その声音は不満げなのに、どこか、楽しそうだ。彼女も負けじと、火元を見ながら声を張り返す。
「な、なんのーっ」
「泊まりー」
ホークスがそう言い返した瞬間に、油が跳ねたらしい。「……っ、熱っ!」という彼女の声が、わずかに上ずる。
「火傷した!?」
ホークスは、ソファを蹴るように立ち上がり、三歩で、キッチンまで詰めた。なんとも速すぎる反応だった。速すぎる男の名は伊達ではない、が使いどころが明らかに違う。
それでも彼は迷わず「見せて」と、短く言って彼女の手首を取る。触れた指先が熱を拾い、赤くなった箇所を逃がさないように視線で追う。
「水。冷やして」
「……大丈夫、そんな、大したことないから」
「大丈夫じゃない」
有無を言わせぬ調子で蛇口をひねり、彼女ごと流水の下へ連れていく。距離が近い、という言葉では足りなかった。流し台の前に、二人分の体は収まりきらず、必然的に彼の腕が背後から彼女を囲う形になる。背中に当たる胸板、肩口に触れる翼の気配。逃げ場はなかった。
「……じっとして」
水音に紛れそうなのに、その声だけはやけに、はっきりと耳に届く。低く落ち着いていて反論を許さない。
「やっぱり……オゾンノートの匂い、する」
「……誘ってる?」
「……っ!」
「うそうそ。今日もさ、こないだと同じの付けてきたから」
雨に打たれたはずなのに、香りは律儀に残っていたらしい。あるいは——この男のことだ。どこかのタイミングでさりげなく重ねていたとしても不思議ではなかった。
「……で、返事は?」
「えっ、この状況でっ!?」
「この状況だから聞くの」
腕は解かれない。水は今も、流れ続けている。彼のそれは、逃げ場も、時間も、与えない聞き方だった。
「……け、……検討中っ!」
「じゃあ、俺の勝ち」
短く、満足げに。それだけで十分だと、言わんばかりにようやく、彼の腕が離れた。急に背中が寒くなって、彼女は一瞬だけ体勢を立て直す。
「……さてと。唐揚げ、仕上げちゃおうか」
俺、手伝うよ、と。何事もなかったかのようにホークスは、袖をまくる。その所作が、あまりに自然で、さっきまでの距離が、嘘みたいだった。
換気扇が回り始め、油が再び、静かに弾ける。キッチンには危うさと日常が、同じ温度で並んでいた。
「指示ちょうだい、ボス」
ホークスが冗談めかして背筋を伸ばし形だけの敬礼をする。キッチンに立つ彼の声は軽いがさっきまでの出来事を引きずったままの気配がどこか抜けきらない。
「……レタスを、皿に、オネガイシマス」
「了解」
冷蔵庫からレタスを取り出し、包丁を手にしたところで、ホークスは、一瞬だけ動きを止めた。
「……これ、一枚ずつ剥がすの?」
「適当にちぎって添えていいよ」
「適当ね。得意分野」
遠慮なく、豪快に。レタスは、ぱきぱきと音を立ててちぎられていく。大きさはまちまちだったが、皿に盛られると妙にバランスが取れていて、それなりに様になっていた。やはりセンスだけはある男だったらしい。
「見て見て、シンリンカムイ」
そう言って、彼はレタスを顔の前にかざした。瑞々しい緑の隙間から琥珀色の目だけがこちらを覗いている。完全に、ふざけている。
「……ねえ。それ、なんか悪口じゃない?」
「え、褒めてるんだけどなぁ。瑞々しいってさ」
「瑞々しいは……まあ、わかるかも」
「似てない?」
「絵心のない子が描いたシンリンカムイみたい」
「ひどっ。それ、今のは完全に悪口ですよっ?」
レタスの仮面を外しホークスは口を尖らせる。その表情がすぐ、次の悪ふざけを思いついた顔になるのが、彼女には分かってしまう。
「じゃあ、これは?」
今度は翼をばさりと広げ頭の上でV字を描く。微妙な角度まで、きっちり計算されているのが、いちいち腹立たしい。さらに胸の前で手を合わせ指を立てて、忍者じみたポーズまで、決め込んでみせた。
「……エッジショット?」
「わぉ! ピンポーン!大正解〜」
「それはちょっと、クオリティ高かった」
「ほんと? どのへんが?」
彼女は、ほんの一瞬だけ迷ってから、揚げ鍋に視線を戻すふりをした。そのまま呼吸が触れ合うほどではない距離まで、そっと、彼のほうへ身を寄せる。
「……このへん」
指先が、羽根の付け根をかすめた。触れたのは刹那だった。それなのに羽根が小さく震えたのがはっきりと伝わってくる。ホークスは固まった。狭いキッチンの中で翼を広げV字のポーズのまま時間だけが、置き去りになったみたいにして。
「……ちょっと」
「……なに?」
「いま……撫でた?」
「……仕向けてきたくせに」
「仕向けたけどさっ!? 本当に来ると思わないじゃん!」
声は見事に上ずっていた。翼がそろりと畳まれ逃げ場を探すみたいに肩がすぼむ。耳まで赤い。自分で振った仕掛けに正面から応じられるとこうなるあたり、どうにも妙に初々しい。彼はさっきよりほんの少しだけ距離を詰め彼女の手元を覗き込む。
「……もっかい」
「やだ」
「けち」
「邪魔するだけならソファにお戻りください?」
「戻りません。有能な助手なんで」
そう言って、レタスちぎりに慌てて復帰する。今度は無駄がなく、動きも早い。学習能力だけはやたらと高い男だった。ふざけたやり取りを続けながらも二人とも、あの一瞬の感触をどこへしまえばいいのか、決めかねている。
やがて唐揚げが、皿に盛られた。狐色の衣が、湯気を立てて、にんにく醤油の香りが部屋いっぱいに広がる。レモンが一切れ、レタスのサラダ、白米、即席の味噌汁。ビールとノンアルの缶が、ローテーブルに並んだ。
「……うまそ」
席についたホークスは皿を前にして動かない。食べたい気持ちを必死に、抑えている顔だった。それから、ふと思い出したように、顔を上げる。
「いただきます、はさ。一緒に言いたい」
彼女は小さく頷いて背筋を伸ばす。向かい合う二人。テーブルは少し小さいが、今はその近さがちょうどよかった。
ホークスの、「せーの」という声に合わせて、ぱん、と、手が合わさった。同時だった。
「いただきます」
「いただきまーす」
綺麗に揃った声に、どちらからともなく笑いがこぼれた。ホークスは、唐揚げを一つ箸で掴み、しばらく眺めてから齧る。衣がさくりと鳴った。
「……! うっま!」
「よかった」
「よかった、で終わらせないで!?これは——」
最後まで言い切らずに、やや興奮気味に、もう二つ目に手が伸びている。
「こんなのでよければ、いつでも」
「……え、いつでも?」
「……うん」
「じゃあ毎日来る」
淡々と返されたそれは冗談のような口調なのにその声の奥には、一切の迷いがない。
「え……。本気?」
「本気」
三つ目を頬張りながら当たり前みたいに言う。その無防備さに、彼女の視線が落ち着かなくなるのを見て、ホークスはふいに、箸を置いた。テーブルに片肘をつき、頬杖をつく。その目が、さっきよりずっと柔らかくて、少しだけ逃げ場を塞ぐ距離にあった。
「……ねえ」
頬杖をついたまま彼は目を細めた。その視線はふざけているようで、狙った獲物を絶対に逃がさない種類のものだった。
「そんな顔されるとさ、ご飯どころじゃなくなるんだけど」
「え、あ……ごめん、なさい……」
「名前ちゃん」
「はい」
「俺のこと好きになって」
唐突だった。「五秒前」も「待つ」も、段階も猶予も、全部すっ飛ばした直球。ホークスは箸を置いた手でテーブル越しに固まったままの彼女の手の甲にそっと指先を重ねる。触れ方は軽いのに逃げ場だけは与えない。
「もう、ほとんど落ちてるでしょ」
変に理性的で、妙に正確な観察だった。たった数日だけで積み上げてきた距離を、最後に一息で詰めにくる。換気扇の低い音も、味噌汁の湯気も現実感を失っていく。
「……返事、急かしてるわけじゃないよ」
指先が、とん、とん、と彼女の手の甲を小さく叩く。それは、彼にとっては、安心させる仕草のつもりなのだろうが、むしろ、鼓動を意識させる動きだった。
「……わかって、る」
「うん」
それだけ言って、それ以上は言わない。けれど手も引かない。ただ、待つ。数秒。さらに数秒。彼女がどう動くのかを、指の感触だけで確かめるみたいに、指の下で彼女が動くのを待っている。
「どうしたら、あと一歩、踏み込んでくれる?」
ホークスは少し首を傾げて、問いを差し出す。それは、奪う声ではなく、選ばせる声だった。
「俺はもう全部出してるからさ。足りないものがあるなら教えて」
「足りないものなんて、ないよ……」
「じゃあ——何が怖い?」
核心だった。好きじゃないから、言えないわけじゃない。それは、彼自身がもうわかっている。指は重なったまま、視線だけがまっすぐに彼女を捉えている。
答えを強要するでもなく、ただ真正面から受け取る覚悟を示していた。その沈黙の中で、彼女の胸の奥に溜まっていた言葉だけがゆっくりと形を探し始めていた。
「住む世界とか、そういうのじゃなくて……」
彼女は、視線を伏せたまま言葉を探した。畳みかける勇気も、逃げ切る決断も持てず、声だけが途中でほどける。
「うん」
相槌は柔らかい。追い立てる調子でも、宥める距離でもない。
「もっと、奥の——」
そこで、息が途切れた。開きかけた唇は、また閉じる。言葉が形になる前に、胸の内で絡まってしまう。ホークスは、待った。箸を持たず、翼も動かさずただ彼女の手の甲に置いた指の温度だけを残して。��逃げ道を塞がない�≠ニいう選択を、静かに続けている。
「時間かかってもいいよ。唐揚げ冷めちゃっても別にいい」
笑みが、落ちる。冗談に逃がす余白を用意する癖が、今夜は不思議と、優しく見えた。
冷めた唐揚げは確かに惜しい。けれど、彼女の中では、そんな現実の尺度が役に立たないところまで来ている。
「でも、俺ね?そーんなに、気が長い方じゃないからさ?」
「……」
「俺が、世間様からなんて言われてるか知ってるよね?」
「……速すぎる、男……」
「ピンポーン。大正解」
そんなふうに、いつも通りの軽さは残しつつ、それでもやっぱり、目だけは逸らさない。
「だから、あんまり待たされるとさ、勝手に突っ走るよ?」
それは、��脅し�≠ナはなく、��予告�≠セった。性分の、申告。
「それでもいいなら待つけど」
そう言い置いて肩を竦め、ようやく箸が戻る。四つ目の唐揚げが皿から消え、さくり、と小さな音がする。それを噛みながらも、視線は、ずっと彼女を探っている。逃げないか折れないか、まだ��残っている�≠ゥ、を——。
「でもさ、俺のこと、ちょっとでもアリかなって思ってくれてるなら——」
またしても彼から発された言葉は、一旦そこで切られ、余白が置かれる。
「その一歩、踏み出して見ません?お姫さま」
テーブル越しに差し出された手は芝居がかっているのに不思議と嘘がない。まるで、本当にどこかの国の、おとぎ話の王子様のようだ。
黄土色の髪、背に広がる紅、外されたゴーグルの奥の素顔。どこかの童話の挿絵より、よほど、出来すぎた画だった。
「……わたし、めんどくさい女、だよ?それでもいい……の?」
一瞬だけ、彼の目が細まる。楽しげというよりなにか、覚悟を量る目つきに近い。
「その方が燃えるからいい」
笑みは崩れない。差し出された手も動かない。このヒーローは、待つことを、選び続けている。ただし、踏み出す勇気だけは、彼女の側に置いたままで。
「あー。頷いてくれないと、またキスするよ?」
「……っ、」
「今度は、ちゃんとしたやつ」
軽い調子のはずなのに、脅しの中身が、致命的だった。もはや、交渉でも駆け引きでもない。
彼女の思考はそこで完全に絡まった。逃げ道を探す理性と、もう逃げなくてもいいと知ってしまった感情が、同時に顔を出す。
「——ふつつか者ですがっ! どうぞ、よろしくお願いしますっ」
言い終えた瞬間、自分でも驚くほど、肩の力が抜けた。
次の瞬間、彼の表情がぱっと花開く。速すぎる男がこの日いちばんの速度で動いた。光の速さでテーブルを回り込み、彼女の前に、片膝をつく。芝居がかった所作なのに、どこか、切実だ。
「こちらこそ」
真正面から目を見てそう言うと、ホークスは、彼女の手を取り、両手で包み込んだ。
「大事にする。めんどくさいとこも、君の人生も全部含めて」
その言葉は約束というより、宣言に近かった。
——かくして、『二回目のデート』を終えた、記念すべき夜は唐揚げの湯気とともにゆっくりと幕を閉じようとしていた。
「……あ。冷めちゃったね、唐揚げ」
現実的な一言だった。台無しと言えば台無しだろう。けれど彼女を引き寄せ、ソファに座らせた彼の横顔は、どうしようもなく満ち足りている。
「あっため直す?」
そう言いながら、もう片方の手はすでに彼女の頬へ伸びてくる。答えを待つ気配はない。そしてわずかな間が生まれたあと。
「——ねえ、名前ちゃん」
その名前の響きを確かめるように、もう一度。
「名前、って呼んでいい?」
見慣れたはずの天井。そこに落ちる影。黄色がかった瞳が、間近で、こちらを覗き込んでいる。
彼女の動きは小さく揺れただけだった。頷いたのか、俯いたのか、境目は曖昧だ。
「……俺だけの、名前。」
しかし彼はどうやら、彼女の反応を、都合よく解釈したらしい。いったん掴んだ手応えを手放す気はない——そんな確信が、声の底にしつこく、残っていた。
「今日、泊まっていいよね?」
問いの形をしてはいるが、拒否という選択肢は最初から薄い。視界がふっと暗転し、部屋に静けさが戻る。唐揚げが冷めたことも世界が少しだけ変わったことも、同じ温度で胸に収まっていた。
こうして、街の片隅で起きた小さな事件は幕を閉じた。「俺はめちゃくちゃ信じてるんだけど、運命」と豪語した男の猛攻は、まだ、序章にすぎない。その証拠に翌日から彼女の通知欄には紅い羽のアイコンが居座り続けることになるのだが。
……それはまた、別のお話。