運命の人は、本当にいるのか。運命で結ばれる二人、かけがえのない人、心の友。その言葉を、いまだにうまく、信じきれずにいる。
本当にいたらいい。生まれた瞬間から結ばれている誰かがいて、互いに気づかぬまま同じ時間を生き、やがて巡り会う——そういう話は嫌いじゃない。むしろ、好きだ。人生にロマンスはあったほうがいいし、そう思える方が日々は少しだけ、柔らかくなる。けれど、それが本当に自分の身に起こるかと問われると、途端に言葉を失う。
運命は与えられるものなのか、それとも信じて手を伸ばした人間だけが掴めるものなのか。その答えを、まだ持っていなかった。
だからまずは、向き合ってみることだ。少なくとも、それで確かめられる。本当にそれが、運命なのか、違うのか——。
その路地裏はつい数分前まで歩いていた快晴の通りと同じ場所に属しているとは思えないほど、薄暗く生ぬるい空気に満ちていた。人通りはなく聞こえるのは、錆びた室外機の低い唸り声だけ。音の少なさが、かえって胸の奥をざわつかせる。
そこに、かすかな呻き声が混じった。空耳だと思いたかった。そう願ったのは、理屈より先に、嫌な予感が胸の底を撫でたからだ。それがただの偶然では終わらないかもしれない、という根拠のない確信。
「……あ、あの……大丈夫、ですか」
声をかけた瞬間、路地の奥で何かが、びくりとはっきり、震えた。壁の向こうから聞こえてくる呼吸は荒く、じんわりと汗の匂いが漂ってくる。人の気配だと理解した途端に、後戻りはできなくなった。
「——っ!誰かいるんですか!?お願い、助けてください! 抜けないんです!」
切迫した声が跳ね返ってきた。壁の影から現れたのは、プロヒーローランキング三位。ウィングヒーロー・ホークス。けれどその肩書きが一瞬で遠のくほど、彼の姿はあまりにも無防備だった。上半身は壁の外に晒され下半分に至っては完全に見えない。状況を理解するのに、数秒かかった。
「あの……事情は、聞かんでほしいっちゃけど。とにかく、引っ張ってもらえます?もう腕、全然力が入らんくて……」
異様に赤い顔。疲労と羞恥が入り混じったような色でゴーグルの奥の視線が落ち着きなく揺れている。彼の背から伸びる剛翼は明らかに不自然な角度で壁に食い込み紅い羽根が数枚無惨に地面へ落ちていた。壁にめり込んだその翼は、まるで、悪趣味な彫刻のようだった。金持ちの豪邸に飾られていそうなウォールアート。ただし、当事者にとっては笑い事ではない。作者の悪意がそのまま形になったみたいな不格好さだった。
「あの、マジで頼みます……!さっきから全力で踏ん張ってるんすけど、びくともしなくて!」
昼下がりの路地裏。誰も通らないのが今は救いなのかそれとも不幸なのか判断がつかない。黒い革製のグローブに包まれた手が必死に壁を掴んでいる。そこにヒーローの威厳は微塵もなく、追い詰められた鳥のような必死さだけがやけに生々しかった。
「お願いします……マジで。このまま誰も通らなかったら俺、ここで干からびて死ぬとこでした」
掠れた声。壁には何度も押しては失敗した痕跡が残り手形が汗でうっすら滲んでいる。その光景を前にしてなぜか胸の奥が静かに締めつけられるのを感じていた。笑うべきなのか呆れるべきなのか、それとも——。
運命なんて大げさな言葉を当てはめるつもりはない。ただ、この出会いが彼女の人生にとって、��無関係ではない�♂スかになる気がしてならなかった。理由は分からない。分からないまま彼女は一歩、彼に近づいた。確かめるには向き合うしかない。それが運命かどうかは、その先でいい。
「と、とにかく……お、落ち着いてくださいっ」
自分でも驚くほど声が裏返った。言葉とは裏腹に、彼女自身の胸の奥も、落ち着きとは程遠い。状況が状況だ。どう受け止めればいいのか感情の置き場が見つからない。
「落ち着いとれませんって!俺いったい、何時間こうしとると——!」
必死さがそのまま声になっていた。ヒーローの余裕を装う気配はなく焦りが剥き出しで、聞いているだけで喉の奥が、きゅっと締まってしまう。
「ど、どうすればいいんだろ……これ……」
「どうすればって……とりあえず俺の手、掴んでください!」
ホークスが、両手を伸ばす。けれど、上半身と下半身が壁を挟んで分断されているせいで、その距離はどうにも中途半端だった。届きそうで届かない。空を切る指先が、やけに頼りない。
「あ、違う違う。そっちじゃなくて、俺から見て左。壁の反対側に回れます?こっちからじゃどうやっても手が届かなくて」
つまり、彼女は一度この場を離れて、建物を、ぐるりと回り込む必要がある。そのあいだ、この状態のまま彼を放置——いや、置いていく。その想像が妙に胸に引っかかった。肉体的な危険よりも、精神的な意味で、彼はこのまま耐えられるのだろうか、と。
「……あの、行かないですよね?」
「はい?」
「置いてったり、せんですよね……?」
ホークスの声のトーンが急に落ちた。縋るような響きが混じる。彼女は思わず、息を詰めた。
「あ、えっと……今、消防に、連絡を——」
「消防!? いやいやいや、待ってください!」
目に見えて、ホークスの顔色が変わった。ヒーロー公安委員会直属の人間が壁に刺さったままのこんな間抜けな格好で救急搬送される——そんな光景が頭をよぎったのだろう。
「それだけは勘弁してください!こんな姿SNSにでも上がったら俺のヒーロー人生終わります!」
彼の焦りが空気を一段階、重くする。翼が情けなくばたばたと動いた。羽根が擦れる音がやけに弱々しい。
「あ、あのですね……見たところ、普通の壁ですよね?たぶん、個性由来の何かで嵌められてて」
「は、はあ……」
「……あの、その目」
「はい?」
「やめて、もらえます……?その、俺を見る目」
「あっ……。すみません……」
彼女は無意識のうちに変なものでも見るように観察してしまっていた視線を慌てて逸らす。彼はその様子に隠す気もなく「はあ」と大きく一度、ため息を吐き散らした。
「羽で探ろうにも、なんか変なジャミングみたいなんが、かかっとるっぽくて……」
言いながら彼は悔しそうに唇を噛んだ。剛翼の振動感知すら、封じられているらしい。黄土色の髪が額に貼りつき、アンダースーツの黒い布地は汗で肌に張り付いている。相当な時間を、ここでもがいていたのだと分かって不憫すぎて胸の奥が少しだけ痛んだ。
「素手でいいんで引っ張ってもらっても?力任せで大丈夫です。俺もタイミング合わせて抵抗しますんで」
「……わ、わかりました」
「お願いします!抜けられたらなんでもします!マジ!」
その必死さに押されるように彼女は壁際を回り込む。そして恐る恐る壁へ近づいた。反対側から見る光景はさらに現実感を失っている。向かいの建物からホークスの腰から下だけが突き出ているというシュールな光景。そんな説明不能な構図。
「あ、来ました? 聞こえてます、今の状態でも羽でいくらか振動、拾えるんで」
「は、はい……」
「あ、そこです。そこ、そこ。俺から見て右手の辺りに立っとるでしょ?」
足が、ぶらぶらと揺れた。ブーツの踵がコンクリートを軽く叩く音が、やけに大きく響く。彼の腰のあたりに手をかけようとして彼女は気づいた。どうしても覆いかぶさるような体勢になる。距離が、一気に縮まる。至近距離で目が合った。ゴーグル越しでも分かるほど、彼の瞳は必死で、そしてどこか、心細そうだった。彼女の心臓が、不意に速く脈を打つ。運命なんて言葉はまだ口にできない。けれど、この瞬間だけは、軽い冗談で片づけてしまうには、あまりにも近すぎた。
「……あの」
声を発したのは、彼のほうだった。一瞬だけ、言葉の行き場を失ったような沈黙が落ちる。気まずさというより、踏み込んでいいのかを互いに、測っている間だった。
「変なとこ触ってもセクハラとか言わないんで、今は。命かかってるんで」
ずいぶん大袈裟な言い方だと思った。けれど、ゴーグルの奥の目は冗談を言っている色ではなく切実さが滲んでいる。所在なさげに、翼が小さく畳まれた。普段ならば空を切り裂くように広がるそれが今はただ邪魔そうに壁と身体の隙間に押し込められている。その無様な姿が彼女の胸の奥をまた、わずかに締めつけた。
「じゃあ、両手で俺の腰掴んで思いっきり引いてください。せーので」
「……りょ、了解、です」
「よし。じゃあ、いきますよ。せーの!」
プロヒーローが、一般人に救助を求めている。その事実が今さらのように重くのしかかる。情けない絵面だという自覚は彼女にもあったが、それ以上に彼が本気で困っていることが伝わってきて余計な思考を押し流した。
力を込めようとした、そのとき。通りの奥から自転車のベルの音が、近づいてくる。嫌な予感がした瞬間、二人の力が同時に、壁へと伝わった。
「ぐっ……ぬ、ぐぐぐっ……!」
びくともしない。まるで壁そのものが彼を内部へ引きずり込もうとしているみたいだった。吸いつくような感触が彼女の腕越しにも伝わってくる。ホークスは歯を食いしばり顔が真っ赤になるほど力を込めた。それでも、結果は同じだ。もう一度、彼女が力任せに引いた、その瞬間——。
「いっ、たたたた——!ちょ、待って待って!」
ホークスの悲鳴が路地に反響した。はっとして彼女はすぐに力を緩める。
「ごっ、ごめんなさいっ!」
「力任せすぎません!? 俺、まだ壁と密着してるんですよ!? 摩擦!摩擦あるから!」
責めるような口調なのにその声は必死で余裕がない。ずるり、とほんの数センチだけ動いた気はした。アンダースーツの脇腹が壁に擦れて、白い粉塵がふわりと舞う。けれど、それだけだった。完全に抜けるには、あまりにも、ほど遠い。
「……っ。もうちょい、丁寧にお願いできます?羽も一緒に広げて、隙間作るんで……タイミング合わせましょ」
図々しいヒーローだな……と思っていた矢先、ホークスが咳き込む声が近くに聞こえた。足先で地面を蹴り、少しでも体勢を整えようとしているのが分かる。その小さな動き一つ一つが必死さを物語っていた。
「俺が合図出します。羽で壁削るんでその瞬間に一気に、引いてください。いいですか?じゃあ、いきますよ。せーっ」
ばさっ、と風切り音と共に紅い翼が大きく開いた。羽根の一枚一枚が、楔のように壁との隙間へ食い込み、ほんのわずかな空間が生まれる。
「のっ——! 今です! 今! 引いて!」
「んんっ……!」
腕に、これ以上ないほどの力を込めたけれど、がくりと彼の肩が落ちた。さっきまで張りつめていた緊張が、一気に抜け落ちた瞬間だった。
「……っは。ダメだ。全然、動かん……」
「で、ですね……」
「マジっすか。俺、結構鍛えてるんですけどね」
壁にめり込んだまま、苦笑いを浮かべる。その表情には、諦めきれない気持ちと、少しの自嘲が混じっていた。彼女は、その顔から目を離せずにいた。ただ、この人をこのままにしておけないという感情だけが確かに胸の内で重さを持ち始めていた。
「……あのさ」
不意にホークスの声が低く落ちた。それまでの慌ただしさとは質の違う、張りつめた音だった。
「もう一回だけ。今度は俺が合図出したら、その瞬間に、力入れてもらっていいですか」
「え……?」
「ちょっと思いついたことがあって。タイミングわざとずらして、一点に集中させれば……いける気がするんです」
そう言いながら彼は、壁の中で「よいしょ」と小さく声を出し、身体を微調整しはじめた。動くたび、壁の奥で何かが擦れる鈍い音がする。そのたびに、彼女の肩がわずかに強張る。
どうすべきか、考えがまとまらない。このまま彼の案に従うべきか、それとも——。迷いの末、彼女は身を寄せて、ほとんど耳打ちするように、小さく囁いた。
「あの……ちょっと、」
「……はい?」
「……私の個性、浮遊系なんですけど。やって、みますか……?」
「え」
間の抜けた声が路地に響いた。ホークスは数秒まばたきを繰り返す。状況が飲み込めないというより想定外の一手を提示されたような顔だった。
「浮遊……?物を浮かせられる系の個性ですか」
「ま、まあ……はい。」
次の瞬間、彼の目つきが変わる。目敏いと評判どおりの鋭さで、頭の中の計算が一気に組み替えられているのが分かった。
「それ、俺ごといけます?それとも、壁から引き剥がす方向で?」
矢継ぎ早の問い。答えようと口を開きかけた、そのときだった。遠くで羽音のような音がした。鳥ではない。規則的で硬質な羽ばたき。ホークスが反射的に空を仰ぐ。彼の表情からさっきまでの余裕が一切、消え失せていた。
「……まずいな。なんか来ます」
ひらり、と影が落ちる。紅い羽根だが彼自身のものとは明らかに違う、血のように暗い赤黒さ。その数枚が、ビルの屋上から舞い降りてきた。
「すみません、説明は後で!今すぐ個性使って、俺を壁から離せます!? 早く!」
焦りが、声に滲む。ジャミングがかかっているはずの翼の感覚がそれでもなお脅威を拾っているらしい。その事実が、彼女の背筋を冷やした。
「で……でも。ヒーロー以外が公共の場で個性を使うのは、違法ですよね……」
改めて口に出した瞬間、自分でも愚直すぎると思った。けれど考えないわけにはいかなかった。案の定ホークスは、「は?」と本気で耳を疑ったように目を瞬かせ、豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔で、こちらを見た。
「いや、今そんなこと言ってる場合じゃ……」
言葉の途中で影が動いた。黒いコートを纏った人影が屋上のフェンスを越え迷いなく飛び降りてくるのが見えた。ホークスがはっとして壁の中でもがく。だが、やはり抜けない。そして、声音は軽く、言い切るように。
「わかりました。緊急を要する事態ってことで。俺が許可します」
「え、でも……」
「ヒーロー権限。はい、これで問題ないでしょ」
目だけが笑っていなかった。蜜色の鋭い視線が一瞬だけ彼女を射抜き、すぐに屋上へと戻る。
その間に、黒コートの人物が着地した。靴音が響きこちらへ向かってくる足取りに迷いはない。そして、一直線に、ホークスのもとへ——。
「俺に向けて浮遊、かけてください!対象は俺。範囲は最小限でいいです。頼む、早く!」
「わっ、わかりました!」
返事と同時に彼女は息を整えた。覚悟を決め、意識を一点に集中させる。次の瞬間、『浮遊』の個性が発動する。対象は、ホークス。彼の身体がほんのわずかに壁から浮いた。
「ぉっ——」
ずるり、と生々しい感触が腕に伝わった。壁に吸い込まれていたホークスの上半身が、ようやく抜ける。その瞬間、重力を裏切るように彼の体がふわりと浮き上がった。
「うおっ、ちょ、逆! 逆です、逆!」
慣れない対人使用のせいか出力の加減を誤ったのか。ホークスは腰から空中へすっぽ抜けたあと逆さまに飛び出していた。翼はまだジャミングでまともに使えないらしく、壁に押し込まれていた直後の手足は、言うことをきかない。体勢を立て直そうとする動きが、どれも、一拍ほど遅れる。
「——っぶね!!」
地面すれすれで、かろうじて剛翼が反応した。ばさりと一度だけ空気を叩き、不格好なまま着地する。膝をついた姿勢のまま、彼はすぐに、振り返った。
「ありがとうございます!で、逃げて!そっちの角、曲がって!」
その声は、身震いするほどに鋭かった。エンデヴァーくらいはあるだろう大男の、黒いコートの人物は、もう、十メートル先まで迫っていた。
「急いで! 早く!」
「は、はい!」
返事と同時に彼女は、踵を返す。次の瞬間に、怒鳴り声に重なるように、黒いコートの袖から、赤黒い羽根が弾丸のように射出された。走り出した直後、背後で金属同士がぶつかるような甲高い音が響く。振り返る余裕はなかったが、飛来した羽根を完全には回復しきっていない状態で、彼が辛うじて弾いたのだと分かった。少なくとも声はまだ、生きている。
「そのまま行って大通り出てください!人混みに紛れたら大丈夫なんで!」
路地を抜けた瞬間、午後の日差しが目に刺さった。駅前の大通りは、何事もなかったかのように賑わっている。買い物袋を提げた人、スマートフォンを覗き込む学生。立ち止まって、地図を見る観光客。彼女は息を切らしながらその人波の中へ滑り込んだ。肩で呼吸をし、周囲を見渡す。変わらない。何も、変わっていない。
数分後、ようやく心拍が落ち着いた頃、彼女のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。

今日は本当に
ありがとうございました🐤

こちらこそ。
お手間をとらせてしまい
すみませんでした

手間だなんて、とんでもない!笑

あと敬語いらないですよ〜

命の恩人にそんな気遣われたら
俺が困るんで🙇♂️

明後日楽しみにしてます!

名字さん、何食べたい?

肉?魚?麺?スイーツ?

変わらずつくねは第一候補です👍