運命の人は、本当にいるのか。運命で結ばれる二人、かけがえのない人、心の友。その言葉を、いまだにうまく、信じきれずにいる。
 本当にいたらいい。生まれた瞬間から結ばれている誰かがいて、互いに気づかぬまま同じ時間を生き、やがて巡り会う——そういう話は嫌いじゃない。むしろ、好きだ。人生にロマンスはあったほうがいいし、そう思える方が日々は少しだけ、柔らかくなる。けれど、それが本当に自分の身に起こるかと問われると、途端に言葉を失う。
 運命は与えられるものなのか、それとも信じて手を伸ばした人間だけが掴めるものなのか。その答えを、まだ持っていなかった。
 だからまずは、向き合ってみることだ。少なくとも、それで確かめられる。本当にそれが、運命なのか、違うのか——。

 その路地裏はつい数分前まで歩いていた快晴の通りと同じ場所に属しているとは思えないほど、薄暗く生ぬるい空気に満ちていた。人通りはなく聞こえるのは、錆びた室外機の低い唸り声だけ。音の少なさが、かえって胸の奥をざわつかせる。
 そこに、かすかな呻き声が混じった。空耳だと思いたかった。そう願ったのは、理屈より先に、嫌な予感が胸の底を撫でたからだ。それがただの偶然では終わらないかもしれない、という根拠のない確信。

「……あ、あの……大丈夫、ですか」

 声をかけた瞬間、路地の奥で何かが、びくりとはっきり、震えた。壁の向こうから聞こえてくる呼吸は荒く、じんわりと汗の匂いが漂ってくる。人の気配だと理解した途端に、後戻りはできなくなった。

「——っ!誰かいるんですか!?お願い、助けてください! 抜けないんです!」

 切迫した声が跳ね返ってきた。壁の影から現れたのは、プロヒーローランキング三位。ウィングヒーロー・ホークス。けれどその肩書きが一瞬で遠のくほど、彼の姿はあまりにも無防備だった。上半身は壁の外に晒され下半分に至っては完全に見えない。状況を理解するのに、数秒かかった。

「あの……事情は、聞かんでほしいっちゃけど。とにかく、引っ張ってもらえます?もう腕、全然力が入らんくて……」

 異様に赤い顔。疲労と羞恥が入り混じったような色でゴーグルの奥の視線が落ち着きなく揺れている。彼の背から伸びる剛翼は明らかに不自然な角度で壁に食い込み紅い羽根が数枚無惨に地面へ落ちていた。壁にめり込んだその翼は、まるで、悪趣味な彫刻のようだった。金持ちの豪邸に飾られていそうなウォールアート。ただし、当事者にとっては笑い事ではない。作者の悪意がそのまま形になったみたいな不格好さだった。

「あの、マジで頼みます……!さっきから全力で踏ん張ってるんすけど、びくともしなくて!」

 昼下がりの路地裏。誰も通らないのが今は救いなのかそれとも不幸なのか判断がつかない。黒い革製のグローブに包まれた手が必死に壁を掴んでいる。そこにヒーローの威厳は微塵もなく、追い詰められた鳥のような必死さだけがやけに生々しかった。

「お願いします……マジで。このまま誰も通らなかったら俺、ここで干からびて死ぬとこでした」

 掠れた声。壁には何度も押しては失敗した痕跡が残り手形が汗でうっすら滲んでいる。その光景を前にしてなぜか胸の奥が静かに締めつけられるのを感じていた。笑うべきなのか呆れるべきなのか、それとも——。
 運命なんて大げさな言葉を当てはめるつもりはない。ただ、この出会いが彼女の人生にとって、��無関係ではない�♂スかになる気がしてならなかった。理由は分からない。分からないまま彼女は一歩、彼に近づいた。確かめるには向き合うしかない。それが運命かどうかは、その先でいい。

「と、とにかく……お、落ち着いてくださいっ」

 自分でも驚くほど声が裏返った。言葉とは裏腹に、彼女自身の胸の奥も、落ち着きとは程遠い。状況が状況だ。どう受け止めればいいのか感情の置き場が見つからない。

「落ち着いとれませんって!俺いったい、何時間こうしとると——!」

 必死さがそのまま声になっていた。ヒーローの余裕を装う気配はなく焦りが剥き出しで、聞いているだけで喉の奥が、きゅっと締まってしまう。

「ど、どうすればいいんだろ……これ……」
「どうすればって……とりあえず俺の手、掴んでください!」

 ホークスが、両手を伸ばす。けれど、上半身と下半身が壁を挟んで分断されているせいで、その距離はどうにも中途半端だった。届きそうで届かない。空を切る指先が、やけに頼りない。

「あ、違う違う。そっちじゃなくて、俺から見て左。壁の反対側に回れます?こっちからじゃどうやっても手が届かなくて」

 つまり、彼女は一度この場を離れて、建物を、ぐるりと回り込む必要がある。そのあいだ、この状態のまま彼を放置——いや、置いていく。その想像が妙に胸に引っかかった。肉体的な危険よりも、精神的な意味で、彼はこのまま耐えられるのだろうか、と。

「……あの、行かないですよね?」
「はい?」
「置いてったり、せんですよね……?」

 ホークスの声のトーンが急に落ちた。縋るような響きが混じる。彼女は思わず、息を詰めた。

「あ、えっと……今、消防に、連絡を——」
「消防!? いやいやいや、待ってください!」

 目に見えて、ホークスの顔色が変わった。ヒーロー公安委員会直属の人間が壁に刺さったままのこんな間抜けな格好で救急搬送される——そんな光景が頭をよぎったのだろう。

「それだけは勘弁してください!こんな姿SNSにでも上がったら俺のヒーロー人生終わります!」

 彼の焦りが空気を一段階、重くする。翼が情けなくばたばたと動いた。羽根が擦れる音がやけに弱々しい。

「あ、あのですね……見たところ、普通の壁ですよね?たぶん、個性由来の何かで嵌められてて」
「は、はあ……」
「……あの、その目」
「はい?」
「やめて、もらえます……?その、俺を見る目」
「あっ……。すみません……」

 彼女は無意識のうちに変なものでも見るように観察してしまっていた視線を慌てて逸らす。彼はその様子に隠す気もなく「はあ」と大きく一度、ため息を吐き散らした。

「羽で探ろうにも、なんか変なジャミングみたいなんが、かかっとるっぽくて……」

 言いながら彼は悔しそうに唇を噛んだ。剛翼の振動感知すら、封じられているらしい。黄土色の髪が額に貼りつき、アンダースーツの黒い布地は汗で肌に張り付いている。相当な時間を、ここでもがいていたのだと分かって不憫すぎて胸の奥が少しだけ痛んだ。

「素手でいいんで引っ張ってもらっても?力任せで大丈夫です。俺もタイミング合わせて抵抗しますんで」
「……わ、わかりました」
「お願いします!抜けられたらなんでもします!マジ!」

 その必死さに押されるように彼女は壁際を回り込む。そして恐る恐る壁へ近づいた。反対側から見る光景はさらに現実感を失っている。向かいの建物からホークスの腰から下だけが突き出ているというシュールな光景。そんな説明不能な構図。

「あ、来ました? 聞こえてます、今の状態でも羽でいくらか振動、拾えるんで」
「は、はい……」
「あ、そこです。そこ、そこ。俺から見て右手の辺りに立っとるでしょ?」

 足が、ぶらぶらと揺れた。ブーツの踵がコンクリートを軽く叩く音が、やけに大きく響く。彼の腰のあたりに手をかけようとして彼女は気づいた。どうしても覆いかぶさるような体勢になる。距離が、一気に縮まる。至近距離で目が合った。ゴーグル越しでも分かるほど、彼の瞳は必死で、そしてどこか、心細そうだった。彼女の心臓が、不意に速く脈を打つ。運命なんて言葉はまだ口にできない。けれど、この瞬間だけは、軽い冗談で片づけてしまうには、あまりにも近すぎた。

「……あの」

 声を発したのは、彼のほうだった。一瞬だけ、言葉の行き場を失ったような沈黙が落ちる。気まずさというより、踏み込んでいいのかを互いに、測っている間だった。

「変なとこ触ってもセクハラとか言わないんで、今は。命かかってるんで」

 ずいぶん大袈裟な言い方だと思った。けれど、ゴーグルの奥の目は冗談を言っている色ではなく切実さが滲んでいる。所在なさげに、翼が小さく畳まれた。普段ならば空を切り裂くように広がるそれが今はただ邪魔そうに壁と身体の隙間に押し込められている。その無様な姿が彼女の胸の奥をまた、わずかに締めつけた。

「じゃあ、両手で俺の腰掴んで思いっきり引いてください。せーので」
「……りょ、了解、です」
「よし。じゃあ、いきますよ。せーの!」

 プロヒーローが、一般人に救助を求めている。その事実が今さらのように重くのしかかる。情けない絵面だという自覚は彼女にもあったが、それ以上に彼が本気で困っていることが伝わってきて余計な思考を押し流した。
 力を込めようとした、そのとき。通りの奥から自転車のベルの音が、近づいてくる。嫌な予感がした瞬間、二人の力が同時に、壁へと伝わった。

「ぐっ……ぬ、ぐぐぐっ……!」

 びくともしない。まるで壁そのものが彼を内部へ引きずり込もうとしているみたいだった。吸いつくような感触が彼女の腕越しにも伝わってくる。ホークスは歯を食いしばり顔が真っ赤になるほど力を込めた。それでも、結果は同じだ。もう一度、彼女が力任せに引いた、その瞬間——。

「いっ、たたたた——!ちょ、待って待って!」

 ホークスの悲鳴が路地に反響した。はっとして彼女はすぐに力を緩める。

「ごっ、ごめんなさいっ!」
「力任せすぎません!? 俺、まだ壁と密着してるんですよ!? 摩擦!摩擦あるから!」

 責めるような口調なのにその声は必死で余裕がない。ずるり、とほんの数センチだけ動いた気はした。アンダースーツの脇腹が壁に擦れて、白い粉塵がふわりと舞う。けれど、それだけだった。完全に抜けるには、あまりにも、ほど遠い。

「……っ。もうちょい、丁寧にお願いできます?羽も一緒に広げて、隙間作るんで……タイミング合わせましょ」

 図々しいヒーローだな……と思っていた矢先、ホークスが咳き込む声が近くに聞こえた。足先で地面を蹴り、少しでも体勢を整えようとしているのが分かる。その小さな動き一つ一つが必死さを物語っていた。

「俺が合図出します。羽で壁削るんでその瞬間に一気に、引いてください。いいですか?じゃあ、いきますよ。せーっ」

 ばさっ、と風切り音と共に紅い翼が大きく開いた。羽根の一枚一枚が、楔のように壁との隙間へ食い込み、ほんのわずかな空間が生まれる。

「のっ——! 今です! 今! 引いて!」
「んんっ……!」

 腕に、これ以上ないほどの力を込めたけれど、がくりと彼の肩が落ちた。さっきまで張りつめていた緊張が、一気に抜け落ちた瞬間だった。

「……っは。ダメだ。全然、動かん……」
「で、ですね……」
「マジっすか。俺、結構鍛えてるんですけどね」

 壁にめり込んだまま、苦笑いを浮かべる。その表情には、諦めきれない気持ちと、少しの自嘲が混じっていた。彼女は、その顔から目を離せずにいた。ただ、この人をこのままにしておけないという感情だけが確かに胸の内で重さを持ち始めていた。

「……あのさ」

 不意にホークスの声が低く落ちた。それまでの慌ただしさとは質の違う、張りつめた音だった。

「もう一回だけ。今度は俺が合図出したら、その瞬間に、力入れてもらっていいですか」
「え……?」
「ちょっと思いついたことがあって。タイミングわざとずらして、一点に集中させれば……いける気がするんです」

 そう言いながら彼は、壁の中で「よいしょ」と小さく声を出し、身体を微調整しはじめた。動くたび、壁の奥で何かが擦れる鈍い音がする。そのたびに、彼女の肩がわずかに強張る。
 どうすべきか、考えがまとまらない。このまま彼の案に従うべきか、それとも——。迷いの末、彼女は身を寄せて、ほとんど耳打ちするように、小さく囁いた。

「あの……ちょっと、」
「……はい?」
「……私の個性、浮遊系なんですけど。やって、みますか……?」
「え」

 間の抜けた声が路地に響いた。ホークスは数秒まばたきを繰り返す。状況が飲み込めないというより想定外の一手を提示されたような顔だった。

「浮遊……?物を浮かせられる系の個性ですか」
「ま、まあ……はい。」

 次の瞬間、彼の目つきが変わる。目敏いと評判どおりの鋭さで、頭の中の計算が一気に組み替えられているのが分かった。

「それ、俺ごといけます?それとも、壁から引き剥がす方向で?」

 矢継ぎ早の問い。答えようと口を開きかけた、そのときだった。遠くで羽音のような音がした。鳥ではない。規則的で硬質な羽ばたき。ホークスが反射的に空を仰ぐ。彼の表情からさっきまでの余裕が一切、消え失せていた。

「……まずいな。なんか来ます」

 ひらり、と影が落ちる。紅い羽根だが彼自身のものとは明らかに違う、血のように暗い赤黒さ。その数枚が、ビルの屋上から舞い降りてきた。

「すみません、説明は後で!今すぐ個性使って、俺を壁から離せます!? 早く!」

 焦りが、声に滲む。ジャミングがかかっているはずの翼の感覚がそれでもなお脅威を拾っているらしい。その事実が、彼女の背筋を冷やした。

「で……でも。ヒーロー以外が公共の場で個性を使うのは、違法ですよね……」

 改めて口に出した瞬間、自分でも愚直すぎると思った。けれど考えないわけにはいかなかった。案の定ホークスは、「は?」と本気で耳を疑ったように目を瞬かせ、豆鉄砲を食らった鳩みたいな顔で、こちらを見た。

「いや、今そんなこと言ってる場合じゃ……」

 言葉の途中で影が動いた。黒いコートを纏った人影が屋上のフェンスを越え迷いなく飛び降りてくるのが見えた。ホークスがはっとして壁の中でもがく。だが、やはり抜けない。そして、声音は軽く、言い切るように。

「わかりました。緊急を要する事態ってことで。俺が許可します」
「え、でも……」
「ヒーロー権限。はい、これで問題ないでしょ」

 目だけが笑っていなかった。蜜色の鋭い視線が一瞬だけ彼女を射抜き、すぐに屋上へと戻る。
 その間に、黒コートの人物が着地した。靴音が響きこちらへ向かってくる足取りに迷いはない。そして、一直線に、ホークスのもとへ——。

「俺に向けて浮遊、かけてください!対象は俺。範囲は最小限でいいです。頼む、早く!」
「わっ、わかりました!」

 返事と同時に彼女は息を整えた。覚悟を決め、意識を一点に集中させる。次の瞬間、『浮遊』の個性が発動する。対象は、ホークス。彼の身体がほんのわずかに壁から浮いた。

「ぉっ——」

 ずるり、と生々しい感触が腕に伝わった。壁に吸い込まれていたホークスの上半身が、ようやく抜ける。その瞬間、重力を裏切るように彼の体がふわりと浮き上がった。

「うおっ、ちょ、逆! 逆です、逆!」

 慣れない対人使用のせいか出力の加減を誤ったのか。ホークスは腰から空中へすっぽ抜けたあと逆さまに飛び出していた。翼はまだジャミングでまともに使えないらしく、壁に押し込まれていた直後の手足は、言うことをきかない。体勢を立て直そうとする動きが、どれも、一拍ほど遅れる。

「——っぶね!!」

 地面すれすれで、かろうじて剛翼が反応した。ばさりと一度だけ空気を叩き、不格好なまま着地する。膝をついた姿勢のまま、彼はすぐに、振り返った。

「ありがとうございます!で、逃げて!そっちの角、曲がって!」

 その声は、身震いするほどに鋭かった。エンデヴァーくらいはあるだろう大男の、黒いコートの人物は、もう、十メートル先まで迫っていた。

「急いで! 早く!」
「は、はい!」

 返事と同時に彼女は、踵を返す。次の瞬間に、怒鳴り声に重なるように、黒いコートの袖から、赤黒い羽根が弾丸のように射出された。走り出した直後、背後で金属同士がぶつかるような甲高い音が響く。振り返る余裕はなかったが、飛来した羽根を完全には回復しきっていない状態で、彼が辛うじて弾いたのだと分かった。少なくとも声はまだ、生きている。

「そのまま行って大通り出てください!人混みに紛れたら大丈夫なんで!」

 路地を抜けた瞬間、午後の日差しが目に刺さった。駅前の大通りは、何事もなかったかのように賑わっている。買い物袋を提げた人、スマートフォンを覗き込む学生。立ち止まって、地図を見る観光客。彼女は息を切らしながらその人波の中へ滑り込んだ。肩で呼吸をし、周囲を見渡す。変わらない。何も、変わっていない。
 数分後、ようやく心拍が落ち着いた頃、彼女のスマートフォンが、ポケットの中で震えた。



さっきはありがとうございました。
助かりました。
お礼がしたいんですが、どこかで
会えますか?







 登録していない、知らない番号からのショートメッセージだった。丁寧な文面なのに、妙に落ち着きなく、どこか急いでいるような句読点の打ち方が目につく。そして、続けて、もう一通。



あと、さっきの浮遊の件。
あれ相当優秀ですよ。
ヒーロースカウトとか
興味ないですか?







 どうして番号を知っているのか。もしかして、走っている間に?いや、あり得なくはない。あの人なら。さすが速すぎる男だ……。壁に埋まっていた男——いや、ヒーローからのスカウト。文字だけを見れば冗談のようでもあるが、あのときの切迫した目を思い出すと、軽く受け流せない。
 返信を打とうとして、指が一瞬止まる。番号を知られている。本来なら、怖いはずだ。けれど、駅前の通りでは相変わらず、日常が流れている。クレープ屋から漂う甘い香り、ベビーカーを押す母親、信号待ちで足踏みするサラリーマン。先の路地裏の出来事がまるで幻だったみたいな午後。
 でも——。あの状況で、もし彼に悪意があったなら、そもそも彼女を逃がしてなどいないはず。そう考えたところで更にもう一件通知が届いた。



あ、勝手に番号調べたのは
ごめんなさい。
職業病ってやつです。
怒らないでください🙏







 絵文字つき。ついさっきまで、命の危機にいた人間の文章とは思えない軽さに、思わず息が抜ける。その直後スマートフォンがまた別のリズムで震えた。今度は、着信だ。無機質な着信音が耳に残る。数コール、ただ見つめているだけの時間が過ぎた。
 ——仕方ない。彼女は小さく息を吸い、通話を取った。これが彼女の運命の分かれ道だったのかどうかはまだ分からない。ただひとつ確かなのはあの路地裏で終わるはずだった出来事が今も彼女の手の中で静かに続いているということだった。

「……も、もしもし」

 喉の奥がわずかに渇いている。走ったせいか、緊張からか。それともなにか、別の理由か——。自分でもそこは判然としなかった。通話ボタンに触れた指先だけが、じん、と熱を持っている気がした。

『あ〜、よかった。出てくれて』

 電話越しの第一声は、やけに明るかった。つい数十分前まで羽根の弾幕を浴びていた人間のものとは思えない軽さで、空気を切り替えるみたいに言葉が弾む。

『大通り、無事に出られました?』
「……はい。なんとか、出ました」
『ふぅ〜。よかった。……いや、ほんと。かっこよかったですよ』
「……あの……いつ、私の番号を」
『ああ。その件は、ほんとにすみません』

 言葉の選び方には悪びれた様子はきちんとあるのに、反して、その声色はどこか楽しげだ。

『でもほらぁ〜、あのまま別れたら、もう二度と会えんかもしれないじゃないすかぁ』
「……は、はあ」
『今日みたいなことが、また起きるかもしれんでしょ?』

 さらりと物騒なことを言う。冗談めかしているようで冗談に聞こえない。その境界線の曖昧さに胸の奥がまた、ざわついた。

「……これは、あなたの番号ですか?」
『ええ。登録してください』

 言い切りだった。断る余地を最初から想定していない声音。一度、画面を耳から離してスマートフォンに表示された番号を見つめながら、彼女は一瞬だけ迷う。プロヒーローの連絡先を保存する理由は本来、どこにもない。ない、けれど——。

『会いたいです』

 あまりにも唐突な一言だった。胸の奥で跳ねた鼓動を無理やりなだめて、何事もなかったふりをするために、声だけを慎重に整えてから、言葉を返した。

「……急に、話が飛ぶんですね」
『ん? お礼をしたいって意味なんですけど?』
「で——っ、ですよね……わかってますけど」
『えー、ほんとかなぁ』
「ほっ、ほんと……です」

 自分でも苦しい返事だと思った。電話の向こうで、彼が楽しそうに笑っている気配がする。

『で——改めて。今日のお礼させてくださいよ。いい店、知ってるんです。つくねが絶品の』

 背景音に、かすかに翼がはためく音が混じる。どうやら飛びながら電話をしているらしい。その事実だけで、この人が、どれほど常識から外れた存在かを思い知らされる。

『もちろん俺の奢りです……あ、そうだ。名前』

 少しだけ間が生まれた。そして今さらになって思い出したみたいに、そこで言葉が止まる。

『俺、あなたの名前まだ聞いてなかったですね』

 ばつが悪そうに笑う声がスマートフォン越しに届く。あれだけ目聡いくせに、肝心なところが、抜けているらしい。

『て、いうか。さっき、ちゃんと自己紹介もしてなかったなぁ〜って』
「は、はあ……」
『俺はホークスです。まあ、知ってますよね?』

 自信満々の口調だったが「知ってますよね?」の語尾がほんの少しだけ揺れた気がした。壁から半身だけ出した状態のプロヒーローというのも、前代未聞だったし、そもそも、あの場でまともな自己紹介など、成立するはずもなかったのだが。

「……ホークスなのは、知ってますけど。ただの通りすがりなので、気にしないでください」
『いやいやいや!ただの通りすがりに命救われた俺の立場は?』

 笑い混じりだが、どうやら、引く気はなさそうだった。彼女が声に出さずに苦い顔をしているとまるでそれを見ているかのような声音で、言葉が返ってくる。

『あ〜。もしかして、疑ってます?』
「……」
『無言は肯定って言いますよ?』
「……だって。挟まりますか? ヒーローが」
『言い方!まあ、いくら説明しても信じきれんでしょうねぇ』

 乾いた笑いが混じる。彼女は、歩道の端で立ち止まり行き交う人波を、ぼんやりと眺めた。電話越しの声と、この平穏な景色がどうにも噛み合わないのだ。

『警察に通報しようとか、考えてます?』
「あの……さっきから、どうして電話越しに私の心を読んでくるんですか」
『見聞が広いんです、俺』

 慣れたように軽く言うが、その実、探るような鋭さが潜んでいるのは確かだった。

『単刀直入に言いますね。警察は困るんですよ』
「……でしょうね」
『大事になるとめんどくさいんすよ。あれこれと始末書とか書かされるし』

 そう言ってホークスは溜め息混じりに続ける。その瞬間、電話越しの声が少しだけ低くなった。

『だからほら。協力してください』
「どうして私が、あなたに協力を?」
『ええ?だって、あなたも困るでしょ』
「はい?」
『あんな場所で、個性を勝手に使ったなんて話になったら』
「……っ! 卑怯……!」

 思わず零れた声に、ホークスは楽しそうに息を吐いた。その乾いた笑い声だけが、妙に耳の奥に残った。彼女は立ち止まったまま凍りついていた足をようやくほどき、ためらいの残る気配を引きずりながら、それでも一歩だけ前へ踏み出した。

『ね、もうやめませんか。ヒーロー疑うの。ほらどう見ても、善良そうでしょう?』

 電話口の声は、空気を叩くみたいに軽い。その軽さがかえって彼の底を測りかねさせる。彼女はスマートフォンを耳に当てたまま。人混みの端でもう一度足を止めた。駅前の喧騒は相変わらずで笑い声もアナウンスも、等価に耳へと流れ込んでくる。まるでさっきまでの路地裏で起きたことが遠い別世界の出来事のように。

「悪人やヴィランってだいたいそう言いますよ」
『あ〜......それ、否定できんですね』
「こ、怖いこと言わないでください!」
『ははっ。でも安心して?美人と年寄りと子供は守ります。これ、ヒーローの鉄則です』

 まるで決められた台詞のようだった。それでも呼吸の合間に言葉を挟む癖が、妙に人間臭い。

「よかったです。ひとつでも当てはまってて」
『ん? どれですか?』
「お・と・し・寄・り」

 一瞬、風切り音が強まってから喉の奥で笑いを噛み殺す気配がした。飛行中に、肩をすくめたのだろうか。彼女は相手の姿を勝手に思い浮かべてしまう自分に小さくため息をつく。想像が具体化するほど距離は縮まる。縮めたくない、と思っているはずなのに。

『で? あなたの名前は? まだでしたよね』
「……名字です。名字名前」
「名字……名前さん」

 彼は、噛みしめるように彼女の名を復唱した。文字を舌に載せて、温度を確かめるみたいな間がある。

『いい名前っすね。名字さん、か。覚えました。よろしく』
「いえ、改まって挨拶するほどの仲では……」
『ははっ。警戒心の鬼』

 軽やかな笑い。けれどその奥に彼女を覚えたという事実だけがしっかり残されている気がした。記号としてではなく、人として。そう受け取ってしまう自分が、彼女は少しだけ悔しかった。

『それにさ。さっき言ったでしょう? あなたの個性、浮遊。あれ相当レアです。ヒーロー向き』

 声色が、ほんのわずかに変わる。雑談の仮面の下で、あの琥珀色の瞳が、細くなる音がした。

『対人で、しかも咄嗟に正確に出力できる。訓練積んでないと無理っすよ』
「……」
『聞かせてほしいんです。個性の話とか、もっと詳しく』

 値踏みという言葉が不意に彼女の頭をよぎる。世間話の皮を被った観察眼。これが公安直属たる所以か。その肩書きはこういう瞬間にだけ輪郭を持つ。

『……まあ、それは半分口実ですけどね』

 ふっ、と、肩の力が抜けるような音がスマートフォン越しにも、聞こえた気がした。

『純粋に、ありがとうって言いたいだけです』
「……」
『飯、一回。付き合ってくれたらそれでチャラ。ね、どうです?』

 ずいぶんと、断りづらい絶妙なラインを突いてくる。電話の奥で、風切り音が一瞬強くなって、すぐに落ち着いた。高度を変えたのだろう。
 彼女はスマートフォンを持つ指にわずかな汗を感じた。恩を返させてほしいという形にされると拒む理由が削られていく。拒めば逆に、こちらが不義理になる、そんな配置だ。彼女は人波の中で視線だけを空へ投げた。青は何事もなかった顔で広がっている。

『明日の夕方とか空いてません?時間はそっちに全部、合わせますんで』

 軽い調子なのに、まるで逃げ道を与えない聞き方だった。彼女は人波の端でまた立ち止まり通り過ぎる誰かの肩がかすめるのを、ぼんやりと感じながら、返す言葉を探す。

「……明日は、ちょっと」
『じゃあ、明後日は?』

 間髪入れない。返事の速度も間合いの詰め方もやはり��速すぎる�=B彼女が迷っている余白に、ためらいなく踏み込んでくる。

『もしかして俺と一緒にいるとこ見られたくない系ですか?』

 声のトーンが、すっと落ちた。冗談めかしてはいるが探るというより、すでに答えに辿り着いている響きだった。他人の事情を読む勘が鋭すぎて彼女は無意識のうちにスマートフォンを持つ指に力が入るのを感じた。

『あー......まあ確かに。ヒーローと二人で歩いてたら、変に目立ちますもんね』
「……」
『でも、そこは大丈夫です。ちゃんと変装しますんで。帽子とマスクとサングラスとかで』

 逆に怪しさが増す気しかしないが……、なんて彼女が思っていた、そのとき——。

『……嫌、ですか?』

 ぽつりと落とされた一言は、これまでの軽快さとは別物だった。押し切るでも誤魔化すでもなくただ、相手の判断を待つ声音。彼女の胸の奥で、何かが小さく揺れた。

「……嫌じゃないです。明後日なら夜に少しだけ時間、作れますけど」
『よっしゃ。決まり。夜ね、了解でーす』

 声だけでわかるほど、あからさまに、嬉しそうだった。命の危機を共有した相手との食事の約束ひとつで、ここまで素直に喜べる神経が彼女には少しだけ眩しくもあった。

『場所と時間、今から送りますね。逃げ足は速いけど、段取りも早いんで』
「そう、ですか……」
『あとでライン——あ、やってます?ID送るんで。交換しましょ、ついでに』

 その��ついで�≠ニいう言葉の軽さに思わず息が漏れそうになる。彼にとっては本当にその程度の距離感なのだろうと思う。

『あ、安心してくださいね。ちゃんと人目のない店ですから。つくね、ほんと美味いんですよ』
「あ、あの……」
『じゃ、IDも送っとくんで!トプ画、赤い羽根です。俺だってわかんないかもですけど、ちゃんと本人なんで!』

 畳みかけるように矢継ぎ早に言い切って通話は一方的に切れた。暗転した画面に自分の顔がぼんやりと映る。

『……今日はあなたが、無事でよかった』

 切れる直前、低く落とされたその声だけが耳の奥に残った。駅前のざわめきが、ようやく現実の音として戻ってくる。彼女は深く息を吸い、胸の奥に残った余韻を否定できずにいた。
 これは偶然か、それとも——答えを考える間もなく、スマートフォンが震える。三秒も経たずに届いた通知。メッセージに送られてきたIDを登録すると、プロフィールアイコンは宣言通り、赤い羽根の写真だった。友だち追加の記号を押した、その指がまだ画面の上にあるうちに待つ間も与えられないほどの速さで、一通の通知が届いた。



ホークス

今日は本当に
ありがとうございました🐤








名前

こちらこそ。
お手間をとらせてしまい
すみませんでした








 鳥らしき絵文字が妙に似合っていて、なんとも彼らしいと思う。彼女の返信に既読がついたのはほとんど、反射のような速さだった。飛びながら画面を見ているのか、それとも単に、指の速度が異常なのか……。考えるだけ、無駄な気もした。



ホークス

手間だなんて、とんでもない!笑


ホークス

あと敬語いらないですよ〜


ホークス

命の恩人にそんな気遣われたら
俺が困るんで🙇‍♂️








ホークス

明後日楽しみにしてます!


ホークス

名字さん、何食べたい?


ホークス

肉?魚?麺?スイーツ?


ホークス

変わらずつくねは第一候補です👍








 間髪入れずに三通が届いたあと畳みかけるように怒涛の四連打、文字列が続いた。もはや、メッセージラッシュだった。画面を埋め尽くす通知に彼女は思わず苦笑した。きっと��速すぎる男�≠ヘ飛ぶのも詰めるのも距離を縮めるのも、たぶん、全部が同じ速度なのだろう。
 そして、その日の夜。彼女が、寄り道をひとつ挟んで自宅に帰り着き、玄関で靴を脱いだ、そのタイミングだった。部屋に満ちる静けさの底で、消し忘れて、つけっぱなしになっていたらしい、テレビの音だけが、遅れて耳に届いた。

『本日午後、福岡市内の商業ビル付近で、不審な人物による個性使用の通報があり現場には複数の羽根状の痕跡が残されていた事から警察は——』

 一瞬で、あの路地の光景が蘇った。画面に映るのは、黄色と黒の規制線。昼間は何事もなかったように人が行き交っていたはずの通りが別の場所のように、切り取られている。コメンテーターの神妙な顔、『連続襲撃事件との関連も』という、言葉だけが必要以上に重く残った。胸の奥に昼間には感じなかった冷えが落ちる。
 そのときテーブルの上に乱暴に放り投げていたスマートフォンが、震えた。画面を見なくても、誰からかはわかってしまう。��速すぎる男�≠ゥらの新着通知だった。



ニュース見ました?
大丈夫でした?帰り道に変なの
ついてきてないですか?







 今回はラインではなく、昼間と同じ、ショートメッセージだった。送信時刻は、ニュース速報とほとんど同時で��ヒーロー�≠ニいう肩書きを思い出させるには十分すぎる一致。この男、ニュースより先に現場の情報を掴んでいた可能性がある。



一応、聞きますけど。
今いる場所の周りに不審な人影とかないですよね?窓から外、確認してもらえると助かります







 言われるまま、カーテンの隙間から外を覗き、街灯に照らされた、いつもの夜を確かめる。その中に特別な影は、どこにもなかった。



確認してみましたが
大丈夫みたいです

よかった〜〜〜😭







 送信してからほんの一拍。安堵の絵文字。その軽さに逆に胸が詰まる。そして、少し間が空いてから、もう一件。



あの黒いコートの人物、前から追ってた案件の関係者っぽいんですよね
名字さんが狙われたわけじゃないと思うんですけど……
巻き込んじゃってたら、本当に申し訳ない







 珍しく長い文章だった。いつもの軽口が削がれ素の感情が滲んでいる。こういう話題のときだけ媒体を変えるタイプの人種なのかもしれないな、などと、どうでもいいことを考えてしまう。



明後日の約束
無理にとは言いません。
危ないし。でも







 入力中の『・・・』という表示が点いては消えまた、現れる。そこに、彼の迷いが可視化されたみたいに見えた。



やっぱ会いたいんで来てください!
俺が守るんで!笑







 結局こうなるらしい。深刻さと冗談を同じ行に押し込める男。そして最後の『笑』に、逃げ道も本心も、彼の全てが詰め込まれている気がした。



あと戸締まりしっかりね!
おやすみなさい!

おやすみなさい







 彼女は少し考えてから短くそれだけを返した。画面を伏せて、部屋の灯りを落とす。外は変わらない夜で、鍵も窓も、確かに閉まっている。それでも胸の奥には、昼間にはなかった熱が、微かに残っていた。

 偶然巻き込まれただけのはずの出来事が静かにしかし確実に日常の輪郭を変え始めている。その中心にいるのが赤い羽根のヒーローであることを彼女はもう否定できずにいた。
 答えはまだ出ない。ただ明後日の夜が、確実にこちらへ近づいている。そんな予感だけが静かな部屋の中に、残っていた。


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