��明後日�≠ヘ、思っていたよりもずっと早く、やってきた。
夜七時。駅前の時計台の下は平日のわりに人の流れが途切れない。仕事帰りの会社員、待ち合わせらしきカップル。改札を抜けて、足早に去っていく人影。その中で彼女は、約束の十分前に到着していた。そして——すでにいた。時計台の影に寄りかかるように立つ人影がひとつ。キャップを目深に被り、黒縁の伊達メガネ。顔の半分を覆う黒いマスク。そこまではいい。問題は、その上に羽織られた、やたらと目を引く黄色いジャケットだった。街灯の光を弾いて、どう見ても『地味』とは程遠い。どこか、既視感のある色合い。彼のヒーロースーツを嫌でも思い出させる配色。
「あっ、名字さーん!」
マスクの上からでもわかるほど目元が、にっと細められる。この瞬間、彼女は、��変装�≠ニいう言葉の定義についてほんの一瞬だけ考え直した。
「……本当に変装、してきたんですね」
「うん。完璧でしょ?」
本人は心底満足げではあるが周囲の視線は正直だった。すれ違う人の何人かがちらりと彼を見てもう一度、振り返る。気づいた女子高生二人組がスマホを構えかけて後から追ってきた友人たちに慌てて腕を引かれていくのも見えた。
「福岡やと、これでも結構バレないんですよ?」
「本当に、そうでしょうか……」
「ええ? バレてませんってぇ、ほらぁ」
「……どう、ですかね」
「まあ、東京ではさすがにこんな格好してたら、ちょっと、アウェーやけどね」
「ちょっとどころじゃないと思いますけどねぇ」
軽く突っ込むとホークスは肩を竦めて笑った。そのまま、「まあまあ。気にせん気にせーん」と言いながら、もう歩き出している。足が速すぎて驚いた。
「さ、行きましょ。店、こっちなんで」
気づけば自然と、車道側に立ってくれていた。それが、無意識なのか意図的なのか。人の流れと距離感を測る動きがどこか職業柄を感じさせる。もしかすると翼を持つ人間特有の空間把握というものが、体に染みついているのかもしれない。
「今日はお時間作ってもらって、すみません」
「だからさ。言ったでしょー?敬語やめてって」
ホークスはマスクをほんの少し顎までずらし、苦笑を浮かべて言った。言葉を置くたびに距離を測り損ねたみたいに顔が近づくのは多分、彼の中では無意識で、そんな彼自身も気づいていない、癖なのだろう。
「それに、俺から誘ったんですから。時間作ってもらったのは、完全にこっち」
「そもそも、そんな時間あるんですか? 忙しい人気ヒーローさんに」
「今日は、たまたま空き時間なんで。サボりじゃないですよ?」
本当かどうかは、わからない。公安直属のヒーローに『たまたまの空き時間』が存在するのかは甚だ疑問だが、問い詰める前に彼はもうスマホをポケットから取り出して、歩きながら何か文字を打ち込んでいた。その流れのまま、少しだけ彼の声のトーンが落ちる。
「あのですね……命の恩人に、せめてお礼くらいさせてくださいよ」
「……」
「飯の一回も奢れんかったら俺の気が済まんと」
不意に、通りを渡る夜風が二人のあいだをすり抜けた。どこかの店先から流れてきた炭と、油の匂いが、まだ入ってもいないはずの夜の奥行きを先取りするみたいに、微かに鼻先をかすめる。
「じゃあ、お言葉に甘えて……。今日はご馳走になります」
「うん」
「敬語は——そのうち、徐々に……」
「おっ、いいね。徐々に。それでいきましょ♪」
一本奥に入ったところにある小ぢんまりとした焼き鳥屋。年季の入った暖簾が風に揺れて、くぐった瞬間、炭火の香ばしい煙が一気に鼻腔を満たした。大将の「らっしゃい!」という威勢のいい声。ホークスを見るなりその大将は何も言わずに小さく頷いた。それだけで察しがつく程度には、ここは、彼の行きつけらしい。
カウンターの奥に通されて腰を下ろす。人目のない店という約束通りの場所。それでも隣に座る黄色いジャケットの存在感は、どう取り繕っても隠しきれなかった。ただの、食事のはずなのに。彼女はまだこの夜がどこへ向かうのかを知らないまま炭火の向こうで静かに笑うヒーローを横目に見ていた。
「大将、いつものお願いしまーす。あとこちらのお嬢さんには、おすすめ見繕ってもらえます?」
メニュー表に目を落とす素振りすらない。その一連の所作には迷いがなく、ここが彼の日常圏であることが、嫌でも伝わってくる。大将は短く、「はいよ」とだけ返して、手元を動かし始めた。
「ここね、つくねがほんっと絶品なんですよ……って、前にも言いましたっけ?」
マスクとキャップは外しているが、黄色いジャケットだけは、脱がない模様。店内の暖色照明の下でもその色は遠慮なく主張していて隣に座っているだけで視界の端が、やけに賑やかだった。
すぐに生ビールが二つカウンターに置かれる。ホークスは慣れた手つきでグラスを取って早々に軽く持ち上げた。
「それじゃ。壁からの生還と、親切な通りすがりさんに、乾杯!」
「……か、乾杯」
グラス同士が、控えめな音を立てて触れ合う。彼は一息に半分ほどを飲み干して、喉を鳴らしてから大きく、ぷは〜っと息を吐いた。
「……生き返る。今日、ほぼ一日中パトロールで飛びっぱなしやったけん」
仕事の愚痴のはずなのに声音はどこか、楽しげだった。大将が無言のまま次々と皿をカウンターに、並べていく。ぼんじり、かわ、ねぎま……。炭の香りが立ち上り、最後には山盛りのつくねがどん、と置かれた。
「ほら見てください、これ。このサイズ。やばくないです?」
目を輝かせて身を乗り出すその様子はテレビで見る��マイペースなプロヒーロー�≠ニは、似ても似つかない。無邪気というより純粋で素直すぎる反応だった。
「あ、そういえば——」
と、不意にホークスが、言葉を切る。グラスを置いたまま、視線だけが彼女に向けられる。その目つきが、ほんのわずかに鋭くなった気がした。
「ひとつ、聞きたいことがあるんですけど」
「……だめ。やめてください」
「え?まだ何も言ってないですけど」
「変なこと聞くって顔に書いてます」
「はっ。どこがです?むしろ、いい顔って言ってほしいんですけど」
訝しげに、彼女は横目で彼を一瞥した。真正面から向き合うほどでもない、けれど無視するには距離が近すぎる。視線だけを滑らせる彼女のその仕草には探るような警戒とほんのわずかな諦めが混じっていた。
「……で。聞きたいことって、なんですか」
間を置いたのは、考えていたからというより、言葉を出す覚悟を整えるためだったのかもしれない。彼は軽く首を傾げて、いつもの軽口を被せる前の、ほんの一瞬だけ真面目な顔になる。
「なんで、あんな路地にいたんです?普通なら、あそこ通らんでしょ」
一見すると何気ない問い。責める調子ではなく状況を確認するためのものだった。冗談に逃げる前に、どうしても聞いておきたい、そんな響きがあった。だが、その視線は、相手の言葉の裏まで拾おうとする仕事用のそれだった。
彼女は「あ、えっと……」と一度、視線を泳がせてから、ぽつりと言った。
「……たんぽぽが、咲いてたから。可愛いなって思って」
「たんぽぽ……」
その言葉が落ちてから、ほんの数秒。けれど、ホークスにとっては予想外すぎる答えを処理するのに十分な沈黙だった。プロヒーローランキング現在三位。個性『剛翼』。羽の微細な振動で周囲の状況を把握し常に最悪を想定して動く男。そのホークスが今、��たんぽぽ�≠ニいう単語を、どう飲み込めばいいのか分からず思考を止めている。そして、次の瞬間——。
「ぷっ、はは……そっかぁ。たんぽぽ……」
耐えきれなかったように吹き出した。笑いは、一気にこみ上げ、彼は、カウンターに突っ伏す。肩が揺れて息が詰まり声にならないような笑いが漏れている。
「そ、う、です……たん、ぽぽ」
「たんぽぽ……っ」
「ちょっと、笑いすぎです」
「いや、だって……っ、たんぽぽ、て……っ」
自分で言っておきながら、また可笑しくなったのか彼はさらに笑った。ようやく顔を上げたときには目尻に薄く涙が滲んでいた。ひーひーと言いながらグラスを取り直し、もう一度持ち上げる。
「あー、笑った。や、壁の間で必死にもがいとる俺の横で、雑草見て癒やされとったってこと?」
「ざっ、雑草って!たんぽぽは可憐なんですよ、雑草の中でも」
「可憐て。フォローの仕方が独特すぎません?」
まだ口元を緩めたままで彼は、そう返す。それでも笑いの奥には、ふっと肩の力が抜けたような気配が混じっていた。それが安堵だと気づくほど彼女はまだ、彼のことをよく知らない。
「いやぁ……そんな理由、想定外すぎてさ。俺の負けっすね」
勝ち負けじゃないと言い返したかった。けれど言葉は喉元で止まり彼女は代わりにグラスを一度煽る。だが笑われているはずなのに胸の奥に棘が残らない。その事実だけが、かえって妙に印象に残った。
ちょうどそのとき店員が皿を運んでくる。炙りたての地鶏から湯気が立ち脂の弾ける乾いた音と香ばしい匂いが二人のあいだに流れ込んでさっきまでの空気を、柔らかく断ち切った。
「お、来た来た〜。はい、レディーファースト。どうぞ?」
ホークスは、自然な手つきで彼女の方へと皿を滑らせると自分の箸はまだ動かさなかった。妙なところで律儀な男だ。彼女がひと口頬張ると肉汁がじゅわりと広がり、炭の香りが、鼻に抜ける。思わず目を閉じそうになるその一瞬を彼は逃さず見ていた。その反応を確認してから、ようやく、自分も箸を取る。
「どうです? うまいでしょ」
自慢げで、それでいてどこかほっとしたような表情。——連れてきて間違ってなかった。そんな気持ちが、言葉より先に顔に出ていた。
それからしばらくは、皿とグラスの中身が減る音だけが、二人の間を満たしていった。やがて、ホークスが、ぽつりと切り出す。
「にしても……。びっくりしましたよね。普通、壁から人が生えとったら、逃げません?」
「パラシュートか、何かかと思いましたけど」
「パラシュート!?」
声を張り上げてホークスは、また笑った。肩が揺れるほどに可笑しそうなのに、やはりどこか、楽しげで、揶揄う響きは薄い。彼女は視線を横に逸らさないまま、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せる。その仕草は不満というより言い返すほどでもない、呆れのようなものに近かった。
「翼あるのにパラシュートって……それもう飛べない、ただの鳥じゃないすか」
「でも……あなたを助けた瞬間が人生でいちばんドキドキしたかも。色んな意味で、ですけど」
「俺は今が人生でイチバンっすよ。美人と一緒に酒飲んどる、この瞬間が」
「……お年寄り、でしょう?」
「ああ〜。この店、照明暗いけん。美人やって、勘違いしました」
言い終わるよりも早く、カウンター越しから、「薄暗くて悪かったなァ」と、大将の声が飛んでくる。常連の軽口には慣れきった調子で間髪入れずに放たれたその一言が、店内の空気を、さらに緩める。
「あ——すみませんっ!ほんと、すみません!」
ホークスは反射的に手を合わせて、ぺこぺこと頭を下げていた。その様子を横目で見ながら彼女はわざとらしく舌打ちをひとつ鳴らした。軽口と笑い声が、炭火の匂いに溶けていく。気づけば、最初の緊張はもう、どこにもなかった。
「あ。今、俺にキレましたよね?舌打ちしてた」
指摘は軽かったが的確だった。彼女は一瞬だけ視線を逸らして、それから彼の方を向いて、開き直ったように顎を上げて言う。
「それが?」
「いくつですか。俺の歳はわかってますよね?」
「それは——さっきキレたのは、
「ああ、なるほど。俺の方が年上かぁ……」
「嘘です。私の方が年上」
「え? それはない。どう見ても嘘でしょ」
即答だった。疑う余地など最初からないという顔で彼は眉を上げる。言い切る語調には、相手を測るというより当然の事実を確認しているだけの軽さがあった。
「どうして?」
「だって、そんな顔してないですもん。念のため本人確認書類、見せてもらっていいです?未成年だったら困るんで」
その瞬間、彼女は、堪えきれずに吹き出した。品のない笑い方だった自覚はあるが、止まらなかった。くだらない。どうでもいい会話。けれど、そのどうでもなさが、妙に心地いい。ホークスは何杯目かのグラスを傾けながら、満足そうに目を細めた。口元が、緩みきっている。
「まあ、でも。これでまた、壁に埋まったときは即呼べますね」
「なにがですか」
「助けに来てくださいよ。また。俺のヒーロー」
「……呼ばないでください。今回は、たんぽぽに救われただけです」
「ふはっ……たんぽぽに救われたヒーロー。前代未聞すぎる」
焼き鳥の皿がいくつも空になり、カウンターの上の筒には、串だけが静かに積み重なっていく。炭の火力が落ち着いたのか、店内の空気もどこか柔らいでいた。ホークスは咥えたままの串を指でくるくると回しながら「しかしさぁ……」と少し考えるような間を置いた。
「ほんと、世の中わかんないもんすね」
「……わかんない?」
「俺、今日ここ来るまで、たんぽぽに負ける日が来るとは思ってなかったんで」
「……勝ち負けの話なんですか、それ」
「ええ。俺の中では、完全敗北っす」
そう言って肩を竦める。その仕草は冗談めいて軽いのに、声の奥には妙な静けさがあった。自嘲とも納得ともつかない、ひと息ついて受け入れるような響き。負けたことを悔しがるよりも面白がって噛みしめているように見える。
「だって普通、ああいう状況なら怖かったとか、逃げたくなったとか。そういう話になるじゃないですか」
「……怖くなかったわけじゃ、ないですよ」
「おっ、訂正入りました」
「でも、それより先に目に入ったのが、たんぽぽだっただけです」
ホークスは目を細めた。笑うでもなくからかうでもなく、ただ静かに、彼女を見る。その視線は評価でも警戒でもなく、想定外の答えを胸の奥で反芻している人間のものだった。炭火の赤が揺れ彼の表情だけが、少しだけ柔らいでいた。
「そういうとこなんでしょうねぇ」
「何がですか」
「ほんと変わってる。ほんと、美人だし」
「関係ないです、そこは」
「いや……なんか、こうさ。命拾いする人の目線って感じで」
彼女は答えずグラスに残ったビールを少しだけ飲んだ。泡が唇に触れて、すぐにまた、消える。ホークスは視線を串の山に落としたまま続ける。
「俺、あの瞬間さ。正直、壁から抜けられなかったらどうしようとか、羽折れたら終わりだなとか結構リアルなこと考えてたんですよ」
「ヒーローでも、そういうこと考えるんですね」
「考えますよ。めちゃくちゃ」
ふっと力の抜けた笑いをこぼし、彼はグラスを手に取った。喉を潤すというより言葉を一度飲み込むための間のような仕草だった。氷が軽く鳴り照明の反射が、琥珀色の液面に揺れる。その音に紛れるように、さっきまでの軽口が、ほんの少し遠ざかる。
「だから助けてもらったって言葉、軽く使いたくないんですけどね」
「……」
「でも、助かりました。結果的に」
言い切る声音は穏やかで、飾り気がなかった。ヒーローとしてではなく、一人の人間として口にした謝意がカウンターのあいだに静かに落ちる。
そのまま短い沈黙が落ちた。炭がはぜる音と、隣の客の笑い声がその隙間を埋めた。ややあって彼女が、ぽつりと言った。
「じゃあ……また、たんぽぽ見かけたら、教えてくださいね」
「え、俺がですか?」
「ヒーロー目線のたんぽぽ、興味あります」
一拍置いてホークスは堪えきれなかったように吹き出した。喉の奥で笑いを噛み殺そうとして、失敗し結局、肩を小さく揺らして笑う。真面目に受け取ろうとした分だけ意表を突かれたらしい。
「それ、どういう企画です?」
「番外編、みたいな?」
「需要、超ニッチじゃないですか」
そう言いながらも、その口元の笑みはしばらく消えなかった。やがて、二人の笑いは自然と落ち着いていく。グラスの中身はすっかり空になり、言葉の間隔も少しずつ伸びていき、宴は自然と、終わりを迎えた。
会計を済ませて外に出ると夜風がひやりと頬を撫でる。雨上がりの舗道にはネオンが溶け込み、足元だけが、やけに明るかった。ホークスはキャップを深く被り直して、無意識のうちに人混みの前に出る。翼があるせいでどうしてもそうなってしまうのだ。
「送りますよ。どっち方面です?」
「いえ。忙しいでしょうから一人で大丈夫です」
その彼女の言葉に彼はすっと足を止めた。振り返らないままほんのわずかに肩が上下し低く息を吐く。その仕草だけで、軽口の裏にあった気配が静かに表に滲む。
「……さっきも言いましたけど。今日は、暇なんですって」
夜の街は相変わらず騒がしい。酔客の笑い声、タクシーのクラクション、どこかの店の有線放送——。その雑音の中で、彼は立ち止まったまま、彼女が追いつくのを待っていた。
「……じゃあ。お願いしようかな。ヒーローに」
その瞬間だった。彼女の右手薬指に光る指輪にホークスの視線が、一度だけ、吸い寄せられた。
しかしそれは、ほんの一瞬の出来事で、すぐに夜空へと逸らされる。まるで、見なかったことにするように。風もないのに彼の背中の翼の羽根が一枚、かすかに震えた。
「了解でーす」
それだけだった。「それ誰から?」とも「彼氏いるんですか?」とも聞かない。聞けなかったのかもしれない。
歩き出すと、彼は彼女の歩幅に合わせて速度を落とした。それでも位置は、ほんの半歩前。守るための距離を、無意識に保ったまま。
「この辺、最近ちょっと物騒ですし。プロが護衛したほうが、結果的に安上がりじゃないです?」
冗談めかした言い方だった。軽くて、いつもの調子で。けれど、その横顔は妙に静かで変装用の伊達メガネ越しでは、その目の奥までは読み取れない。夜風に混じって、どこか、甘い夏の匂いが流れてくる。
「何言ってるんですか。そこら辺のボディガードより、よっぽど高上がりですよ」
「ですよねぇ。時給換算したら、普通に引かれるやつです」
ホークスは喉の奥でくくと短く笑った。二人は並んで歩く。ホークスは翼をきれいに畳み込み、遠目に見れば、ごくありふれた、平均的な背丈の成人男性と見紛うほどの輪郭に、収まっていた。それでも時折すれ違う人が振り返るのは、きっと自分のこの個性のせいだろうと本人は思うことにしている。
「でもほんと。たんぽぽは、意外でした」
「……まだ、言います?」
「はは。だってさ、たんぽぽ見つけたからって」
「……」
「いや……ごめんなさい。笑っちゃ失礼か。でもそっか。それで俺を見つけたってことだもんね」
「はい……」
短く返した彼女の声に、ホークスは、何か腑に落ちたように何度も小さくうなずいた。からかう色はもう薄く、代わりに、妙な納得が顔に滲んでいる。
「運命って、あるんすかね」
あまりにも、さらりと口にされた言葉だった。深い意味があったのかどうかは、黄土色の瞳が、すでに伏せられていることでわからなくなる。
「運命ってほど、大袈裟でも……」
彼女の返事に、ホークスは、自分の翼を横目で見下ろした。羽根の重なりを確かめるように一瞬視線を落とし、何とも言えない表情を浮かべる。それから声のトーンをほんの少しだけ調整した。
「ねえ。名字さんの個性、あれ相当精密にコントロールできとったでしょ。誰かに習った?それとも独学?」
「いえ、独学です。小さい頃から遊び道具みたいにしてて。ヒーロー以外は使用許可、下りてないから」
「ふーん。遊び道具、ね……」
ホークスは歩きながら顎に指を当て、少し考え込む仕草を見せた。酔いが回っているはずなのにその目の奥にある分析的な光は消えていない。
「独学であの精度は、相当ですけどねー。対象の重心を正確に把握してないと、ああは浮かない」
「……」
「……もったいないな」
ぽつりと零れた一言だった。ホークスは、そのまま、今度は両手をポケットに収める。
「あれだけの素質があって使いたくても使えないって、結構きつくないですか」
「そうでもないですよ。無個性の方も、いっぱいいますからね」
ホークスはしばらく黙り込んだ。遠くの街灯の光をじっと見つめ、それからふっと息を吐く。
「そっか。そういう考え方もあるか」
それ以上、踏み込むことはしなかった。目聡く耳聡い男は引き際も心得ているらしい。代わりに空気を変えるようにして、口調を軽くする。
「じゃあさ。もし、使っていい場所があるとしたら?」
それは何気ない問いかけだった。けれど、その視線だけは逸れることなくまっすぐに彼女という存在と、その個性ごと含めて確かに捉えていた。
「例えばヒーロー免許を取ったらどうします?」
「え……?」
「俺ね、名字さんに会ったとき、ちょっと思ったんですよ。あ、この人、飛べるなって」
飛ぶ——。それは文字通りの意味だったのか、それとも、別の何かを指していたのか。ホークス自身にも掴みきれていないような、曖昧な笑みが口元に浮かんでいた。
「確かに、少しなら飛べますけど。ホークスほど長時間は無理です。浮くのが、精一杯なので」
「少しでも飛べるなら、十分すごいっすよ!」
まるで身を乗り出す勢いだった。酔いのせいか距離感が、一段と近い。
「浮遊で飛行って、重力の反転?それとも斥力で押し出すタイプ? どっち?」
その目は完全にヒーローのそれになっていた。もはや『速すぎる男』ではなく、『目聡い男』が前に出ている。好奇心を隠す気配は微塵もない。
「……あ、すみません。職業病だわ、今の」
しまった、と自分にだけ聞こえる舌打ちをするみたいに彼は後頭部を掻いて笑った。その仕草は軽いのに、目の奥の輝きだけは不思議と最初から一度も曇っていない。興味を向けること自体が、彼にとってはもう呼吸みたいなものなのだろうと思わせる、あの光だった。
「今度さ。どっか広いとこでちょっと見てみたいな。名字さんの飛ぶとこ」
「いやだから、ヒーロー以外は使用許可が……」
「あー、そっか。そうですよね」
あっさりと引いたように見えた。会話の温度を読み違えなかったという顔で。けれど、その間はほんの一瞬だった。
「じゃあ、俺の監督下ってことでさ」
「……はい?」
「公安直属ヒーローが監督してる場での個性使用なら、申請通るでしょ、多分」
まるで思いつきの延長みたいに言うくせに言葉の組み立ては妙に現実的で、抜け道を知っている人間のそれだった。抜け目がない、というより、呼吸するみたいに、最適解へ辿り着く。
「別にガチの戦闘訓練とかじゃないよ?ちょっと見せてほしいだけ。空飛ぶ仲間ってあんまいないからさ、純粋に興味あって」
矢継ぎ早にそう言って笑った顔には裏側を探す必要がないくらいの素直さがあった。計算よりも先に期待が立ち上がってしまった人の表情。少なくとも、その瞬間だけは。
「……まあ。機会が、あれば?」
「機会は作るもんでしょ。任せてください」
軽く、迷いなく言い切る声が夜気の中に小さく弾んで消える。彼女はそれを夜空に一瞬だけ瞬いた光を見るみたいな気持ちで聞いていた。眩しくて、でも目を逸らすほどではなくて、なぜか胸の奥に、静かな余韻だけを残して。
「……あ、あの」
「ん?」
呼び止める声に、ホークスは足を止めた。振り返った横顔は夜の街灯に半分だけ照らされていて光の当たる側と影になる側がくっきりと分かれている。その境目が妙に印象に残り彼女は一瞬だけ言葉を選ぶのを忘れた。
「どしたんです?」
「あ、えっと……」
「はい」
「ヒーロー......そんなに足りてない感じなんですか?」
問いかけた瞬間、彼女は自分でも少し踏み込みすぎたと思った。ホークスもいつもの笑顔を作らなかった。ややあって彼はマスクも伊達メガネも外したまま逃げ場のない素顔で静かに息を整えてから口を開いた。
「まあ……足りてないっちゃ足りてないですね」
軽く言ったつもりなのだろうが、声の奥は驚くほど沈んだように落ち着いていた。
「俺が追ってるのって、派手なヴィランっていうより……もっとこう、陰湿な連中で」
「……」
「そういうのに対応できる感じの、機動力持ったヒーロー、正直なとこあんま多くないんですよ」
言葉の合間に、翼がわずかに揺れた。意識していない癖なのだろう。考えが深くなるほど、体が先に反応してしまうタイプなのかもしれない。
「この前みたいに一般の人が巻き添えになる事もあるし。それが……結構、歯がゆいんですよね」
そこまで言ってから彼はふっと表情を緩めた。自分で、自分の話を重たくしすぎたと、気づいたみたいに。
「……ごめん。ちょっと、真面目すぎましたね。酔うとーとかな、俺」
沈黙が一拍ほど落ちる。通りを走り抜けた車のテールランプが赤い線を引いて静かに遠ざかっていった。
「私は……運動神経はほんとダメで。ヒーローになりたいって思ったことも、なかったから」
「でも、あの日……俺のこと、浮かせたでしょ」
ホークスは小さく首を振ってからそう言った。彼女は否定も肯定もせずただ黙って聞いている。
「あれ、運動神経とか関係ないと思うんですよ」
「……」
「度胸と……あと、誰かを助けたいって気持ちがなきゃ、できない動きだった」
夜風が吹き彼のジャケットの裾が軽く揺れた。背中の羽根も、それに合わせて、ささやくように鳴る。
「……まあ、強制はしないです。絶対」
「……」
「ただ。選択肢のひとつとして、どっかに置いといてもらえたら、嬉しいかなって」
押しつけがましさはなかった。命令でも、勧誘でもなく、ただの願いとして、差し出された言葉だった。
やがて、彼女の住むマンションが見えてくる。四階建ての古い建物で外壁には蔦が絡まり、昼間なら少しだけ、懐かしさを覚えそうな佇まいだ。ホークスはエントランスの前で足を止めて、キャップのつばを、軽く上げた。
「はい、到着です」
「はい……到着しましたね」
「今日は、ありがとうございました。楽しかったです。名字さん」
「こちらこそ」
そこでほんの少し間が空いた。どちらもすぐに背を向けることができず夜の静けさだけが二人の間に残る。そして、その沈黙を破ったのはやはり彼の方だった。
「あの……ひとつ、提案なんですけど」
「はい」
「名前——下の方で、呼んでもいいですか」
「……はい?」
「その……名前さん、って」
彼女は一瞬、言葉を失った。返事の代わりに、なぜか小さく、こくこくと、何度か頷いていた。それを許可だと受け取ったらしいホークスは少し安心したように、満足げに一度だけ、頷き返す。街灯の下でその仕草が妙に柔らかく見えてしまい彼女は胸の奥に残るかすかな熱から、目を逸らすことができなかった。
「ちゃんと鍵、かけてくださいね」
「ああ……」
「……ん?」
「ヒーローに、お家バレちゃったなぁ、って」
「あっ……」
言われた瞬間、彼の表情が、わずかに揺れた。ほんの一瞬。けれども、はっきりと分かるほどの動揺だった。送ると言い出したのは、自分だし、ここまで来るのは当然の流れだったはずなのに、その、��当然�≠�言葉にされると、急に現実味を帯びて胸に落ちてくる。
「いや、その……変なことに使ったりは、しないんで」
弁明は見事にしどろもどろで、ヒーローランキング三位とは思えないほど歯切れが悪い。彼自身それを自覚しているのか、言いながら少し困ったように視線を泳がせた。
「羽で、振動感知もできますし……住所とか知らなくても来れ——」
「……」
「あ、いや。今のなしです。完全に、ストーカー予備軍でしたね今、俺」
自分で言って自分で気まずくなる。彼女は一瞬だけ彼のことを見つめて、それからふっと、息を吐いた。
「……ほんとですね」
「……っ、」
「じゃあ、おやすみなさい。ストーカーヒーローさん」
からかうように、けれどどこか柔らかく。軽く手を振って、彼女は、エントランスの向こうへと消えていった。自動ドアが閉まる音だけが残り、ホークスはしばらくその場に立ち尽くしていた。夜風が頬を撫で、背中の羽根をわずかに揺らす。
「……属性、渋滞しすぎでしょ」
誰に聞かせるでもない独り言は低くこぼれて、そのまま夜気に、溶けて消えた。やがて彼は翼を広げ、音も立てずに宙へ舞い上がる。振り返りはしなかったが、十分に高度を取ってから一度だけ旋回しマンションのエントランスを見下ろした。まだ消えていない灯りを、確かめるように。あの光を見ていたのはきっと、夜空の月だけだ。
ほどなくしてマンション二階の一室にぽつりと明かりが灯る。
その頃、ホークスのポケットの中ではスマホが震えていた。公安からの業務連絡だ。画面を確認することもなく、彼はそのまま帰路につく。
ホークス事務所——。結局、自宅へは戻らず、そのままそこに立ち寄っていた。デスクの上には書類が山積みになり、未処理の案件が彼を待っている。その脇で、彼女とのトーク画面が開かれていた。

ごちそうさまでした