それから季節が巡った。秋晴れの空が高く澄み切っていたある日、下半期のヒーロービルボードチャートJPのニュースを流し見しながら彼女は何事もなかったように職場である、生花店へ出勤した。花を水に浸して、茎を切り、店先を整えていつもと変わらない一日を過ごす。
 ニュースの中で彼の名前が呼ばれても胸の内は不思議なほど、静かだった。
 それからさらに三日が経った。そうして迎えた四日目の朝。彼女のスマートフォンに通知が一件届いた。



ホークス

助けてください


ホークス

壁じゃないです


ホークス

今度は電柱です


ホークス

羽がずぶ濡れで力が出ない









 ぽんぽんぽんと、四連打。どうやら、ヒーローホークスはアンパンマンだったらしい。そのあと添付された写真には電柱の高い位置に腰から下が引っかかったヒーローが写っていた。剛翼をばたつかせているが、どうにも抜け出せないらしい。
 それは空を背景に、あまりにも間の抜けた構図だった。



名前

これ、どこですか?


ホークス

花屋さんがある通りです


名前

どこの花屋ですか?


ホークス

可愛らしくて可憐な感じの


名前

わかりませんよ


ホークス

住宅街なんで人来る前にお願いしますマジで






 その最後の『マジで』だけが文面からぽつりと浮いて見えた。まさに今、切羽詰まっているはずなのに、それでもどこか甘えた響きを帯びていて緊急性よりも、人懐っこさのほうが先に伝わってくる。そのちぐはぐさが妙に可笑しく、そして、少しだけ可愛かった。気づけば彼女は息をひとつ零していた。呆れとも諦めともつかない、小さなため息。それはきっと朝の澄んだ空気のせいでもはたまた秋晴れの眩しさのせいでもなく、電柱に引っかかったまま助けを求めてくるあのヒーローの存在が思った以上に心に引っかかってしまったせいだった。



名前

どうしてそんなに
おっちょこちょいなんですか


名前

鳥類なのに


ホークス

そこ関係あります!?

名前

たぶん近くにいますので
待っててください


ホークス

訂正してほしいです


ホークス

おっちょこちょいじゃないです


ホークス

羽のメンテ中に
足滑っただけです






 言い訳が長いほど、だいたい、嘘くさい。送信時刻は午前七時十二分。朝っぱらから電柱にぶら下がっているヒーロービルボードチャート下半期二位がいるらしい。
 外は目が眩むほどに明るかった。写真に記された住所は、彼女の職場から、徒歩圏内。角を二つ曲がった先の小道で、それはすぐに見つかった。
電柱の中ほどから、上半身だけ突き出た黄土色の頭。紅い羽根がばさばさと揺れている。地上では下半身がぶらんと宙に垂れて、革靴の裏が、空を向いていた。彼女を見つけるなりホークスの顔がぱあっと明るくなる。

「名前さぁ〜ん!待ってましたぁ!」

 電柱の中腹から弾んだ声が降ってくる。それは朝の澄んだ空気を切り裂くような明るさで、状況の深刻さと、まるで釣り合っていない。その声を聞いた瞬間、彼女は思わず肩をすくめた。助けを呼ぶ立場で、そのテンションはどうなのか、と。

「もう……プロヒーロー呼んでくださいよ」

 半ば呆れ、半ば本気でそう言った、その言葉が届いた途端、ホークスの表情から、笑みがすっと消えた。羽根のばたつきも止まり、空気が一段、張りつめる。

「プロヒーロー、ここにおるんですけど」

 低く、静かな声。その、冗談を差し込む余地のない響きに彼自身の矜持がにじんでいた。彼女は即座に「いえ。仲間の」と間髪入れずに言い切った。迷いも遠慮もない、その返答。ホークスは、ぐっと顔に力を入れ電柱の内側で身じろぎした。どうにか抜け出そうとする反射的な動きだったが当然、状況は一ミリも変わらない。顔に浮かんだ苦い表情が、その事実を、雄弁に物語っていた。言い返せない、まさに正論だったからだ。

「これ、どうやって抜きます? ケガしてませんか?グローブはついてるけど、爪とか大丈夫?」

 彼女は、電柱に近づき、コンクリートの表面をぺたぺたと触りながら、角度や隙間を確かめる。ひんやりとした感触が、掌に残る。その中から、ホークスが身体をよじる気配が伝わってきた。

「怪我はないです。爪も……ちょっと剥がれかけてるけど、平気っすね」

 語尾を軽くしたその言い方とは裏腹に、声音はわずかに強張っていた。強がりだと、誰が見ても分かる程度には。彼女は何も言わずそのまま彼の様子を見上げた。全然、平気そうではなかった。

「これ、多分……俺が翼広げると電線切っちゃうんで。縮めた状態でハマったのが、運の尽きっていうか……」

 説明しながらホークスは自分でも分かっている結論に辿り着いていた。つまりこれは、判断ミスでも事故でもなく、自力で抜け出せない状況に、自分の意思で突っ込んだ結果なのだ。朝の静かな住宅街で電柱に詰まったプロヒーローとその下で冷静に状況確認をする一人の女性。そのちぐはぐな光景だけが秋晴れの空の下に、確かに存在していた。

「とりあえず、引っ張ってみますか?」
「やめてください死にます」

 体重を考えれば当然の返答だった。成人男性に翼の重量が加わる。女性が引っ張ったところで、外れるのは彼女の肩関節だけだ。ふと見ると彼のおでこが少しずつ赤くなってきていた。秋の空はあくまで穏やかでその下で日本屈指のヒーローが電柱に詰まったまま、動けずにいる事実。

「あ、あっ! 名前さん、個性は!?」
「無理です。ここ人目多すぎますし使えません」
「……ですよねぇ」

 納得は早いが、諦めは悪い。電柱の中で小さく彼が、息を吐く気配がした。

「晴れてきましたね。暑いし……私がおんぶして飛ぶ、なんて芸当もできませんし」
「ははは、それはさすがに無茶っすね」
「ですよね。ごめんなさい」

 そう言いながら彼女は肩からかけていたらしいバッグから水筒を取り出し、ひと口だけ含んで、喉を潤した。秋とはいえど日差しは容赦なく照り付け、コンクリートの電柱は、じわじわと、熱を帯びている。

「いやいやいや! 諦めんでください!?」

 ホークスはおでこを電柱のコンクリートに擦りつけるようにして恨めしそうな声を上げた。逃げ道のない姿勢のまま、できる抵抗は、それくらいらしい。

「でも……ほら。どう考えても無理そうですし」
「無理そうで片づけるの早くないです?諦めたらそこで試合終了っすよ」
「なんですかそれ。もう、あれです。素直にプロヒーロー呼ぶしかないんじゃ……」
「えー、まだ粘れると思うんですけどぉ」
「ごめんなさい」

 軽口を挟みながらも彼女の謝罪は軽く、それでいて、誠実だった。ホークスはそれ以上、強くは出られなかった。それでもわずかに間を置いて、少しだけ声を緩める。

「いや、謝らんでください。俺が勝手にハマっただけなんで」
「自覚はあるんですね」
「ありますよ。めちゃくちゃ」

 そう言って電柱の内側で肩をすくめて見せる。どうしようもない状況なのに不思議と空気は張りつめすぎず、日常の延長線にあった。困っているのに二人とも必要以上に取り乱していない。その温度差が、この空気によく馴染んでいた。

「……てか、さ」
「はい?」
「水筒持っとるなら……こっちにもくださいよ」

 声は切実だった。冗談めかしてはいるが、喉の渇きは限界に近い。「ん?このへん?」と彼女がそう言って水筒を近づけた瞬間、ホークスは目を見開いた。上向きのまま口元まで数センチ。距離は近いのに、物理的な条件が、すべて邪魔をしていた。

「近っ! 無理ですって!角度的に飲めんて!」
「えぇ?もう、注文が多いなぁ……」
「も〜。いじわるせんでくださいよ」

 彼女は改めて電柱の下にしゃがみ込み、慎重に水筒を傾ける。今度こそ一口分だけ、そう思ったはずだった。しかし、ほんの少し手元が狂った。次の瞬間、水筒の中身が一気に、彼の口へと流れ込んだ。「ごっぼっ……!」と盛大にむせる音。水筒の水は口から溢れ、顎を伝って彼のアンダースーツを容赦なく濡らしていく。

「あっ、ごめんなさい! だ、大丈夫!?」
「だ……大丈夫、です……大丈夫じゃないけど、大丈夫です」

 いったいどっちなのか。ホークスはげほげほとなおも咳き込みながら、目尻にはうっすら、涙を浮かべていた。

「名前さん……勢い……」
「ごめんなさい。剛翼まで濡れたらもう飛べないですよね。ほんと、ごめんなさいね」
「もう濡れてんすよ、ついさっき海に突っ込んだんで……はぁ。」

 胸の奥から吐き出すような、長くて重い息だった。叱るでも、笑いに変えるでもなく、状況そのものを丸ごと受け入れた末のため息。水滴が顎先から落ちアンダースーツに染みを広げていくのを彼は、ぼんやりと見下ろしていた。

「あ、あ。とりあえず、タオル持ってきます!」

 彼女はそう言うと、ほとんど反射のように背を向けた。足取りは速く、けれどどこか不揃いで、それは、逃げると言われても否定できない慌ただしさだった。電柱の中ほどに取り残された彼は、その背中が角を曲がって消えるまで視線を追ってから、ぽつりと呟く。

「逃げた……。置いてかれた感、えっぐいなぁ」

 さっきまでは少し暑いくらいだったはずなのに秋の朝風が吹き抜けた途端に、びしょ濡れの身体から熱だけが、するりと奪われていく。火照りの名残を抱えたまま今度は逆に、芯から冷えていくのが、はっきりわかった。ちょうど、真下を通りかかったおばあさんが「あらあら」と見上げたがそれが誰なのかまでは、どうやら気づいていない様子だった。
 ほどなくして、彼女は戻ってきた。そして何の躊躇もなく、乱暴な手つきでホークスの顔を拭き始める。

「ちょ、ちょっと……!」

 ごしごしと遠慮なく拭かれホークスは目を白黒させた。されるがままのその姿はヒーローというより、完全に、捕獲された大型鳥類だった。

「ちょ、乱暴! 痛い痛い」

 抗議の声と同時にタオルはそのまま翼のほうへ回され濡れた紅い羽根に布が触れた瞬間、微かな振動が伝わったのか、羽が反射的にびくりと跳ね上がる。意思とは無関係に神経だけが正直に反応しているらしい。

「羽っ、くすぐったいんで。もうちょい優しく」
「はいはい。……さて、と。どうしましょうか」

 彼女が一歩引いて様子を見るとホークスは妙に真剣な目をした。それは、ふざける余地を一度、きれいに片づけたような表情だった。

「あのですね。羽が完全に乾けば、飛んで抜けられるとは思うんですけど」

 言いながら、剛翼をわずかに動かしてみせる。しかし濡れた羽からは体温だけが奪われていく。完全に乾くまでどれほど時間がかかるのか見当もつかない。

「俺の寿命はあと、一時間くらいですかね……」
「死んじゃうんですか」
「まあ、そうかもですね」
「……あ!」
「なんすか、びっくりした」
「あそこの台座。あれに私が乗って、ホークスを支えたら、息しやすくなるんじゃないですか?」

 思いついたまま口にした案だったがホークスははっとして、目を見開いた。道の脇にはちょうど花壇の縁に使われているらしい、台座状のコンクリートブロックが積まれていた。高さは、電柱の中腹に差し掛かるくらいだ。

「……天才ですか?」
「ふっふっふ」
「でも、名前さんの体重で俺、支えきれるかな。大丈夫です? 腰とか」
「いやいや、軽いでしょ?案外、ホークスって」

 一瞬、言葉の意味を測りかねたような顔をして彼は、微妙に口元を引きつらせた。

「……それ、褒めてます?」
「はは。どうでしょう。ちょっと、待っててください、あのコンクリート持ってきますので」

 彼女は駆け足で向かって迷いなく、ブロックに手をかけた。一つ一つはそこまで重くないが運ぶとなると話は別だ。よいしょ、よいしょと小さく声を出しながら、二往復して電柱の根元に並べていく。その様子をホークスは、電柱の中から感心したように見下ろしていた。

「……手際、いいですね」

 そうでしょうと言いたげに彼女が目配せする。そうして、ブロックの上によじ登ると、ちょうど彼女の肩がホークスの腹部あたりに当たる位置になる。距離が近い分、ホークス自身の体重と動けない不自由さが、はっきりと伝わってきた。

「じゃあ、いきますよ? ゆっくり、持ち上げてください」
「はい……、ふぬ〜〜っ」

 彼女なりの全力だった。肩に力を込め、足裏で地面を踏みしめ、息を詰めて押す。けれど電柱は無言のまま、びくともしない。揺れたのは彼女の体重移動分だけで状況は一ミリも動かなかった。結果はあまりにも順当でだからこそ残酷だった。

「……名前さん」

 少し低く、慎重に選ばれた声だった。その呼びかけに、彼女はゆっくりと力を抜く。腕がじんと痺れ、押していた感覚だけが遅れて戻ってきた。
 短い沈黙が落ちる。誰かに責められるよりも、慰められるよりも、その静けさのほうが妙に痛かった。空気の隙間に、ついさっきまでの「いけるかもしれない」という淡い期待が音もなく沈んでいく。

「気持ちは……めちゃくちゃ伝わりました」
「……すみませんでした」
「謝らんで!? 謝られると、余計つらいけん」

 二人で同時にため息をつく。その直後、彼女は何を思ったのかふと思いついたように地面に置き去りにされていたバッグの中からハンディファンを取り出した。スイッチを入れると、ぶおー、という、頼りない音とともに風が吹き出して、彼の羽根を直接叩く。紅い羽毛が風に揺れ、乾ききらない水気が、きらりと光った。
 ホークスは一瞬、きょとんとした顔をしてから困ったように、けれど、どこか可笑しそうに目を伏せた。助けになっているかどうかは、まだわからない。それでもその場に留まろうとする彼女の姿勢だけは、はっきりと伝わっていた。

「おっ……おお?」

 風を受けて、翼がわずかにふるふると震えた。ドライヤー代わりという発想は突飛ではあるが、理屈としては、間違ってはいない。羽毛の隙間に残っていた水気が温風に押し出されるようにして逃げていく。

「なんか……マッサージされてるみたいで普通に気持ちいいんですけど」
「……」
「いやいや、違う違う。早よ、乾かしましょう」
「充電しておいてよかったです。実はこれ、今年新調したばかりで」

 マッサージの件は深掘りされることなく曖昧なまま流れていったが、そのことに内心ほっとしたのか、あるいは逆だったのかは彼本人にも判然としない。ただ真正面から風を受け続けるのが少しだけ気恥ずかしくなってホークスは視線をすっと外し、聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりと零した。

「便利グッズに命救われる日が来るとは、思わんかったなぁ」
「あなどれないですよ?」
「……っすね」

 数分後、彼女が新調したらしいハンディファンの威力は予想以上だった。剛翼は見る見るうちにふわりと嵩を取り戻し、光を含んだように整っていく。ホークスは一度、電線に触れないように、無意識に角度を調整しつつ、大きく翼をばさりと羽ばたかせた。

「……いける」

 低く呟いた直後、するりと上半身が、電柱から抜けた。続いて下半身も勢いよく真下へ。なぜか「おおー!」と、拍手を送る彼女の前に、砂埃をわずかに巻き上げながら着地する。さすが、プロヒーロー。体勢は崩さず片足で、すとん、と音もなく降り立った。彼は、髪に葉っぱがついていることにも気づかないまま至近距離で満面の笑みを浮かべている。

「ありがとうございます。あとでハンディファンに感謝状送っときます」
「ほんとですね。高かったので、売価をちょっと下げてください。ヒーローの力で」

 ホークスは腕を組み、考えるふりをするように「んー」と、場違いなくらいに、真面目な表情を浮かべてみせる。

「残念ながら、家電メーカーへの口利きは、俺の管轄外ですねぇ」

 できなくはないが、とは言わない。そこでふと彼は自分の姿を見下ろして、固まった。アンダースーツは未だ水浸し、羽には砂埃。ゴーグルにも細かな傷が入っている。

「……それにしても。ひどい格好すね、俺」
「ふふ。飛ぶ練習をしてる途中の鳥さんみたいで可愛いです」

 がーん、と、効果音が聞こえそうなほど、彼は目を見開いた。飛ぶ練習——要は、跳べない鳥。本日二度目の鳥扱いである。ホークスは、ぐしゃぐしゃになった剛翼を手で整えながら、眉をひそめた。

「可愛い、て……俺に使う単語じゃなくないですか? かっこいいの間違いでは?」
「……はいはい。かっこいいですねー」

 あまりに棒読みで驚くほど感情が乗っていない声だった。案の定、目の前に立つ、びしょ濡れのヒーローから、じっとりと重たい視線がこちらへ向けられる。彼の視線に触れた瞬間、胸の奥で、小さく何かが跳ねて、今さらのように心臓の音がうるさくなった。

「……それ今、適当に言いましたよね」
「はは。気のせいですよ」

 交わされた言葉の裏を探るほどの元気はなくて彼女は小さく肩をすくめた。納得していないのに追及もしてこない。その曖昧な間を埋めるみたいに空気を切り替えるような声音で問いを投げる。

「これから、ヒーロー活動に戻るんですか?」
「あー、まあ……そうなりますね」
「そっか……」
「……ええ」
「……私、この近くで働いてるので。よかったら顔、出してくださいね」
「え、この格好で?」

 半分冗談、半分本気の返しに、彼女はもう振り返らなかった。ただ手をひらりと一度だけ振ってそのまま人の流れに溶けていく。去っていくその背中を見送りながらホークスは、ぽりぽりと頬を掻いた。そして風に紛れるほど小さな声で、誰に聞かせるでもなく零す。

「来いって言われたら……行くに決まってるじゃないすか……」

 言葉は軽いのに胸の奥だけが妙に忙しくなっていた。
 結局、ホークスは一度、引き返すことにした。さすがにこの格好のまま、顔を出す勇気はなくて近くのコンビニでTシャツを調達し手早く着替える。即席の処置としてTシャツの背中には羽根の付け根に沿って控えめな切れ込みを入れた。無骨で少し雑で、それでも今の自分には十分だった。そうして身なりを整えもう一度空を見上げてから歩き出す。結果として、彼が彼女の職場を訪ねたのは、それから、四十分後のことだった。時間はかかったはずなのに、妙に短く感じられたのが、少しだけ癪だった。
 水濡れ、砂まみれ、剛翼はボサボサ。控えめに言って、最悪のコンディションだ。それでも彼は一度、翼で顔を覆い数秒後にはいつもの軽やかな笑顔を作っていた。

 彼女の職場は、小さな花屋だった。軒先にぶら下がった木の看板には、捻りも洒落っ気もない、『Fleur』と、少し癖のある手書き文字。それが風に揺れるたび、乾いた木がかすかに鳴る。
 ホークスは一度入口の前で足を止めた。ガラス越しに覗いた店内には色とりどりの花に囲まれて働く、彼女の姿がある。エプロン姿で花瓶を持つ手つきは落ち着いていて、外で会ったときよりもずっと柔らかい空気をまとっていた。

(……似合うなぁ。)

 素直にそう思ってしまったがゆえに、彼はしばらくその場から動けずにいた。胸の奥に引っかかった感情の正体を誤魔化すように小さく咳払いをひとつしてから、ようやく一歩を踏み出す。
 木製の扉に手をかけると蝶番がかすかに鳴いて押し開く動きに合わせて重たく、やさしい抵抗が伝わってくる。カラン、と吊るされたベルが揺れ澄んだ音が花の匂いを含んだ店内へ転がるように広がっていった。

「いらっしゃ——げ。本当に来たんですか!?」
「げ、って……いや。え、ここ、名前さん一人でやってると?」

 ホークスは視線を泳がせるように、店内を一度ぐるりと見回す。狭いけれど手入れが行き届いていて花の匂いがちゃんと生きている空間だった。

「ううん。平日は他の社員さん、外回りに出てることが多いので。店番は、一人が多いですね」

 花の間を縫うように、彼女がこちらへと歩いてくる。その足取りに合わせて花弁が微かに揺れ、視界の端で、小さな波紋をつくった。それに目を惹いてしまう自分の存在が急にひどく、場違いに思えて情けなさが胸の奥で芽を出す。ホークスはそれを悟られないように、何事もなかった顔で、いつも通りの——至って無害そうな笑顔を丁寧に貼り付けた。

「へぇ……似合いますね、お花屋さん」
「そう?」
「はい、そう……」
「……あ。ほら、だからあのとき」
「あのとき?」
「ええ。たんぽぽに、釣られちゃったわけです」

 たんぽぽ——壁に挟まったヒーロー事件。思いがけず蒸し返されて時間がくるりと逆戻りする。軽口のつもりで投げられた一言が羽根の付け根をかすめるように引っかかって、ホークスは思わず小さく苦笑した。あのときの無様さと、同時に、救われた気配までが、まとめて胸の奥に、蘇ってしまったからだ。

「あれは……俺の命の恩人なんで。悪く言わんでもらえます?」
「今度、たんぽぽの花束、事務所に送ってあげましょうか」

 一瞬、ホークスの顔から笑みが消えた。冗談を量るための間というより現実を思い浮かべてしまった人の沈黙で、その真顔は妙に具体的だった。

「サイドキックたちに捨てられますよ、それ」
「可哀想に......一生懸命生きてるのに。たんぽぽだって」

 棚に並んだ花を眺めながら彼は肩をすくめる。色とりどりの花弁の前では、どんな言い訳も軽くなる気がした。

「……じゃあ、俺宛で。ちゃんと飾ります」
「え? 花なんて、興味あったんですか?」
「ないですね。でも……たんぽぽには借りがあるんで」

 笑みを滲ませたような声音ではあったけれど、その奥には冗談のふりをする余裕をなくした本気が滲んでいた。軽口に紛れ込ませるつもりだった誠実さが、思いがけず露わになってしまい、その事実を自覚した彼本人だけが、ほんの少しだけ、居心地悪そうに視線を逸らした。

「なるほどねぇ。じゃあ、誰かに花束プレゼントしたくなったら、来てください。見繕いますよ。社割で」
「……うわぁ、商売上手やねぇ」
「まあね」

 そのときふと、ホークスの視線がカウンターの奥に引き寄せられた。そこには写真立てがひとつ控えめに置かれている。ちらりと見てすぐに目を逸らした。何でもないふうを装って鉢植えの方へ歩く。写真の中では、彼女が誰かと並んで笑っていた。知らない男性。穏やかな顔立ちで、背景は海辺のようだった。二人とも少しだけ日焼けしていた。ホークスはサボテンを指先でつつきながら声の調子を変えずに問う。

「……彼氏さん、ですか」

 右手の薬指——その指に宿る小さな違和感が、わずかに遅れて思考の縁を叩いた。思わず視線がまた無意識のうちにそこに結び留められた瞬間、理解だけが、静かに追いつく。ついに聞いてしまったのだと胸の奥で反芻する。もうこの流れから引き返すことはできない。

「ん? ああ……あの、写真?」
「ええ」
「先代の店長です。一昨年、病気で亡くなって」

 サボテンを突いていた指が止まった。ちょうどその瞬間、店内のBGMが、ジャズからボサノバに切り替わる。音の隙間に空気が一拍だけ凪いだ。ホークスは振り返らないまま、低く息を吐く。

「……すんません。変なこと聞きました」
「え?ううん……知らなかったんだから仕方ないですよ」

 彼女はそれを気に留める素振りも見せず花瓶を抱え直して水場へ向かい、茎の先に指先でそっと触れながら水を替える作業を続けていた。日常の延長線にある所作は驚くほど穏やかで、その落ち着きが、かえって彼の胸の内だけを不釣り合いにざわつかせる。

「ホークスは? いい人、いないんですか?」

 ようやく彼女がこちらを振り返る。視線がぶつかった、その刹那。ホークスは反射的に、いつも通りの��営業用�≠フ笑顔を、顔に貼り付けたはずだった。けれども、口元と目元の温度がわずかにずれていて、自分でも誤魔化しきれていないのが分かる。ほんの一瞬、翼の奥に何かが引っかかり羽ばたき損ねた感情が、滞留した。その違和感に気づいてしまったのが他でもない自分自身だったという事実だけが、妙にくっきりと残っていた。

「……いませんよ。そんな暇、正直ないですし」

 嘘ではなかった。ただし、それが自分の意思で手放し続けている暮らしなのかどうかは、また、別の話だ。ホークスは、手近にあったガーベラを一輪、無意識に持ち上げて指先でくるりと回す。花弁が店内の照明を受けて透け、薄い影を、床に落とした。

「ヒーローやっとると出会いもクソもないんですよねー。現場と事務所の往復ばっかで」
「へえ。あんなにキャーキャー言われてるのに」

 彼は、手にしたガーベラで自分の胸元を、ぱたぱたと仰ぎながら照れ隠しのように軽く笑った。花弁が揺れるたび色だけがやけに無邪気で、今の自分の心境とは噛み合っていない気がする。そのずれを誤魔化すようにして声の調子だけはいつも通りに整え続ける。

「あれはファンでしょ……こっちは、売り物じゃないんで」

 こっち、と自分の胸元を指さす。その拍子に、花が少しだけ下がった。言葉自体は揶揄うような口調だったのになぜかその一言が彼自身の内側に深く刺さった。目聡く、耳聡い男。言葉の裏や、含みを読む癖は、職業病みたいなものだ。けれど今の言葉には、裏がなかった。飾りも、逃げ道もない。だからこそ、厄介だった。彼はふっと短く息を吐き、ガーベラをそっと元の場所に戻す。

「まあ、それ言い出したら……ありのままで電柱ハマっとるヒーローですけどね、俺」
「でも、ホークスはホークスでしょ。ありのままでいいと思うけど」

 その言葉が耳に届いた途端、喉の奥で空気が、行き場を失った。ほんの一瞬のことなのに胸郭の内側がぎゅっと縮み、呼吸の拍子がずれる。羽の付け根が、きしりと軋んだような錯覚まで走ったのは、たぶん、気のせいじゃない。感情の揺れに身体のほうが先に反応してしまっただけだ。
 ホークスは視線を落として、余計な表情が零れないようにした。その、次の瞬間だった。彼女が何かを思い出したように、軽く声を弾ませる。

「はい、これ」

 差し出された紅い一本を、考えるより先に受け取っていた。指先に伝わる茎の冷たさと紙に包まれていない生の感触がやけに現実的で、手の中に収まった重さが遅れて、意識に落ちてくる。その瞬間、ふわりと、ほのかな花の匂いが彼の鼻先をかすめた。

「……なんすか、これ」
「アスチルベ」
「あすちるべ?」
「うん。花言葉は『恋の訪れ』」
「えっ……」
「あと——『自由』。いつも頑張ってるヒーローさんに、プレゼントです」

 手の中のそれを、ホークスはしばらくのあいだ言葉を忘れたように見つめていた。深赤の花弁はふさふさと重なり合い店内の柔らかな照明を受け静かに、しかし確かな存在感を放っている。その色合いが、ふと自分の剛翼を思わせて、胸の奥がわずかに、ざわついた。ただの偶然だと分かっていても、視線を逸らすことができない。花は何も語らないのに、こちらの内側だけが勝手に意味を探し、勝手に熱を帯びていく。指先に伝わる茎の感触を確かめるように、彼は無意識に力を込め、また、緩めた。

「まあ……��自由�≠チて花言葉のほうは、本当はピンク色のアスチルベなんですけどね」
「……」
「でもホークスには、そっちの赤のほうが似合う気がして。なんとなく、ですけど」

 軽い声音だったのに、その「なんとなく」が、妙に胸に残った。——自由。その言葉の重さを、彼は誰よりもよく知っていた。それが与えられるものなのか、奪われるものなのか、守る代わりに差し出すものなのか。彼女もそこまで考えていたわけではないのだろう。ただ自然に、この花を、選んだだけだ。それでも——自由という言葉を、花一本に託して手渡された経験はたぶん、初めてだった。少しの間が空いてから彼はいつもの軽い調子に戻る。

「花もらうとか、生まれて初めてですよ……ありがとうございます」

 ゴーグルの端を指で押し上げて額までずらす。その下の目元がほんのわずかに緩んでいたことを本人だけが、きっと、気づいていなかった。

「ふふ。ウブ、ですもんね?」
「ウブて。なんすかそれ。俺、二十二ですよ?」

 そう言ってわざとらしくむっとした顔を作る。けれど口元だけはどうしても隠しきれていない。ほんの少し緩んで、笑いを噛み殺すみたいな線が浮かんでいる。

「ホークスは純粋です。まるでスズランみたい」
「またそうやって、花に例えるっちゃけん……」

 ホークスは困ったように眉尻を下げて、照れを誤魔化すみたいにふいと視線を外した。逃げ場を探すその横顔がやけに素直で、やはり本人だけが気づいていない無防備さを惜しげもなくさらしてしまっている。

「やけんもう、二十二ですってば。いい大人ですからね、俺」
「ははっ。また言う」

 軽いやり取りの中でホークスは手にした深赤のアスチルベを、くるくると回した。花弁が空気を切り、小さく揺れる。その様子がどこか落ち着きなく見えるのは、たぶん、気のせいではない。

「何回でも言いますよ。事実なんで」

 ホークスはいつもの軽さを纏ったまま、冗談に紛らせるように、口笛を吹いてみせる。その気楽さに空気が緩んだ。その隙を縫うように、彼女の声だけが、ほんの少し低く、静かに落とされた。

「いつも頑張ってる人に、頑張ってね、とは言えないけど」
「……?」
「無理しないでくださいね、ヒーロー活動」

 ——無理しないで。励ましでも命令でもない、その優しい言葉。茎を回していた手が、ぴたりと止まった。ホークスは花に視線を落としたまま、ほんの小さく、息を零す。

「……そういうの、卑怯っすよ」

 口先を尖らせた、その横顔は、照れと戸惑いが混じった、ひどく人間らしい表情だった。彼女はそれを否定もせず、ただ小さく微笑む。そして、まるで乾いた花に水を注ぐみたいにして、そっと言葉を落とした。

「いつか、いい人に出会えるといいですね」

 ホークスは顔を上げなかった。代わりにアスチルベの花弁を親指でそっとなぞる。『恋の訪れ』ついさきほど告げられた花言葉が、思考の内側で静かに反芻される。その柔らかな感触を確かめるように、一度、二度。触れるたび、言葉の余韻が指先に沈んでいく。それから呼吸ひとつ分の沈黙が、二人のあいだを、ゆっくりと満たした。

「……ですね」

 それだけ。『いい人』が目の前にいる可能性については、どちらも触れなかった。カラン、と、ベルが鳴る。誰かが入って来たわけではなく扉の隙間から花の匂いを含んだ秋風が入り込んできただけだった。
 店内に満ちていた空気が、誰かの息遣いに合わせて、ゆっくりとかき混ぜられていくのを、彼は黙って見送った。その余韻が、静かに落ち着いたのを確かめてからようやく視線を持ち上げ後ろのポケットへと指先を伸ばす。そこから取り出した財布は思ったよりも軽く、彼の逡巡をそのまま、映しているようでもあった。

「これ、いくらですか。ちゃんと払います」
「え、だめだめ」
「はい?」
「お花をもらうときは余計な遠慮はしないこと。そういう決まりなんですよ、ヒーローさん?」

 その一言で、彼の指先が、ぴたりと止まった。財布に指を引っ掛けたままの姿勢で一瞬固まり、状況を飲み込むように、小さく瞬きをする。それから、どうしようもないな、という諦観を含んだ息をひとつ吐いて、ゆっくりと財布をポケットの奥へ押し戻した。苦笑は浮かべているのにどこか負けを認めたような柔らかさがその表情に滲んでいる。

「……ルール多いなぁ、花業界」

 肩をすくめてそう零した瞬間、張っていた空気がふっと緩み、二人の間に、くすくすと控えめな笑いが転がった。花の香りに混じって、ほんのり温度を帯びた沈黙が落ちる。その間を大切にするように、彼女は少しだけ言葉を選び、静かに口を開いた。

「会えて、嬉しかったです」
「……え?」
「ここ最近、忙しそうだったので」
「あ、ああ……テレビで?」
「はい。私は、遠くから応援してますから」

 ホークスは何か言いかけて結局、口を閉じた。そして個性と同じ色のアスチルベを胸ポケットに差し込む。ぎこちなく、それでも、大事そうに。

「……俺もです」

 結局、それ以上は、何も言わなかった。「また来ます」とも「連絡します」とも言わない。ただ店を出る直前に振り返って一度だけ手を挙げた。翼ではなく、何の装備もない、素の手で。
 ホークスが去った空間には花の香りと、ベルの余韻だけが残った。秋の午後の日差しが少し傾き看板を別の色に染めていく。すると、カラン、とまたベルが鳴る。外回りから戻ったらしい、男性社員が店に入ってきた。

「名前ちゃん、店番ありがとね〜。……あれ、お客さん来とった?」
「ええ。人生で初めて花をプレゼントしました」

 そう答えると男性社員は段ボールを抱えたまま目を丸くした。思った以上の大げさなその反応に彼女は内心で、少しだけ苦笑する。

「えー?名前ちゃんが花を?珍しかね。よっぽどやったっちゃろ」
「……売ってばかりで、そういえば、人にあげたことなんて、なかったから」
「知っとるよ」

 男性は、にこにこと笑いながら段ボールを床に下ろして、軽く腰を伸ばした。その仕草が、長年ここで働いてきた人のものだと彼女はふと思う。

「——で、どんな人? ハンサム?」
「……どうして、男性って確定してるんですか」
「その顔見よったら、わかるばい」

 淡々とした物言いだったのに、妙に核心を突かれて彼女は思わず小さく息を吸った。ごまかしも言い逃れも、最初から見透かされている。そんな気配に肩の力が抜けて、結局、言い訳する意味も失くしたまま正直な言葉だけを選んで返すことにした。

「まあ。最近、推し始めたヒーロー......とだけ、言っておきます」

 ほんの少し間が落ちてから、わざとらしいほど軽い口笛が「ヒュ〜♪」と一度、店内に響いた。それは花の隙間をすり抜けるような揶揄い半分の音色で、それが余計に、彼女の耳に奥に残った。

「おおっと。若いってよかねぇ」

 エプロンを身につけながら男性社員は、何でもないことのように言った。感心したようでもあり面白がるようでもあって、彼女はもう曖昧に笑うしかなかった。否定も肯定もせず、そのまま花に視線を落とす。その仕草自体がもう答えになってしまっているのだと、彼女だけがまだ、気づいていない。

「でも、さっきの顔。まるで、乙女やったよ〜」
「え……?」
「スズランみたく儚うて、可憐やったばい」
「……さて、午後もお仕事がんばりましょー!」

 言葉を切り上げるように彼女が声を上げると、男性は肩をすくめて楽しそうに笑い、それぞれの持ち場へ戻っていった。店内には再び、花と水と午後の光だけが満ちる。
 一方、その頃。花屋をあとにしたホークスは、空へと翼を広げていた。ビルの影を抜けて、風の層を読みながら高度を上げていく。胸ポケットに差した深赤のアスチルベが風に煽られてかさりと揺れる。けれど、落ちない。大事そうにきちんと収まっている。紅い剛翼が風を切り裂き、西へと向かう。その軌跡を地上から追える者はいない。ただ一羽、風に乗った羽根だけが街のざわめきを彼の耳に運び続けていた。自分以外は誰もいない高度で、ヒーロー・ホークスは、小さく呟く。

「……自由、か」

 答えは返ってこない。ただ胸元の花がかすかに揺れて、太陽の色を受け止めていた。その重さが不思議と心地よくて、彼は、何も考えないまま、しばらく風に身を任せた。


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