それからさらに一週間が過ぎた。季節は確実に進んでいて、街路樹の葉が落ち始め、朝晩の冷え込みが、本格的になってきた。店先には、シクラメンやポインセチアが並び、クリスマスの気配がちらほらと、忍び寄っている。その間も、二人のやり取りに、大きな変化はなかった。『おはようございます』『今日も寒いですね』『おやすみなさい』。そんな、毒にも薬にもならない短いやりとりが、一日一往復あるかないかの程度。壁にも電柱にも埋まっていない、ヒーローホークスは、至って平穏にヒーロー業をこなしていた。九州でヴィランを一気に三件捕まえて、テレビのインタビューを、そつなくこなし、雑誌の取材を笑顔で捌いた。
 そして、ある週の金曜日。時刻は午前十一時を少し回ったころだった。昼前の花屋は、いちばん静かで朝の仕入れと水替えが一段落し昼の客足が動き出すまでの短い凪の時間。彼女はカウンターの奥で伝票を整理しながらポケットの中で震えたスマートフォンに気づいた。



ホークス

花ってクリスマスに売れますか?








 画面に浮かんだ一文は、前置きも絵文字もないひどく、唐突な問いだった。ふと、指を止める。ほんの一瞬だけ思考が追いつかず頭の中で、言葉だけが転がる。



名前

売れますよ。クリスマスは
特に忙しいです


ホークス

なるほど
じゃあ予約ってできます?








 仕事としての間違いのない返答を打ち込んだ、その直後、間髪入れない追撃が届いた。その温度がいつもの他愛ないやり取りとは明らかに違っていた。冗談混じりの軽さも、絵文字の間もない。まるで現場報告のような妙に真剣な文面。彼女は少しだけ指を止めてから、わざと軽く返した。



名前

お?ヒーローさん。
誰か特別に渡したい人が?


名前

私が見繕ってあげましょうか


ホークス

いや、自分で選びたいんですけど








 完全に、からかい半分のつもりだった。けれどそれに返ってきたのは間を置かない即答だった。その一文を見た瞬間、理由もなく胸の奥がちくりと痛んだ。『はい』ではなく『自分で』。たったそれだけの違いなのに、その二文字が画面の上に妙に居座る。選ぶ時間も悩む手間も誰かに委ねるつもりはない、という意志だけが静かに伝わってくる。彼女は、息をひとつ整えるように吐いた。



名前

ごめんなさい。ですよね


名前

オッケーです
いつごろ来る予定ですか?


ホークス

来週の土曜でもいいですか


ホークス

閉店間際とかでも大丈夫です?


名前

その日はちょうど遅番なので
夜の九時までいますよ


ホークス

了解です。楽しみにしてます








 楽しみにしてます——。その言葉を彼はどんな気持ちで打ったのだろうか。花を買いに来るだけで、そんな言葉を使うだろうか。画面を見つめたまま、彼女は一瞬だけ考えて、それ以上は深追いしなかった。
 それきり会話は途切れた。いつもなら彼のほうから『忙しいですか』や『何してました?』などもう一通、二通、軽い言葉が、続くはずだった。しかし今回はそれがない。��既読�≠フ表示だけが残って、スマートフォンは静かになった。彼女は端末を伏せて、カウンターの上に置く。店の中は相変わらずヒーターの音とラジオの低い音楽だけが流れている。けれどその静けさの中で、来週の土曜日、閉店間際の店内を、彼女はもう一度だけ頭の中で思い描いてしまったのだった。


 *


 約束の土曜日。夜の八時を少し、過ぎたころ。空はすでにとっぷりと暮れて、街路樹にはイルミネーションが灯り、駅へ向かう人波が絶え間なく流れていた。店先の花は半分ほど捌けて、ショーケースの中だけが、静かに残っている。
 暖色のライトに包まれた店内は、外の喧騒とは切り離されたように、穏やかだった。店長には、「今日はもう、上がっていいよ」と言われたが、予約が入っているからとだけ告げ、彼女は一人で店番を続けていた。
 カウンター横の椅子に腰を下ろした途端、張り詰めていた集中がほどける。目蓋が重くなり指先で目元を擦った拍子に意識がふっと沈みかけた、そのとき——。カラン、というベルの音に彼女は跳ねるように顔を上げた。そこに立っていたのは私服姿の彼だった。黒のハーフネックにグレーのコート。キャップもサングラスもなく、手には、紙袋を一つ提げている。肩で息をしているところを見ると、どうやら急いで飛んできたらしい事が窺えた。

「——すみません、ギリギリですかっ」

 少し息の弾んだ声だった。彼女は瞬きをひとつしてから状況を飲み込むように小さく苦笑する。すると流れを断ち切らないまま彼は手にしていた紙袋をこちらに差し出した。反射的に受け取り、袋を開ける。中には、まだ湯気の残る淹れたての珈琲が入っていた。甘さ控えめの香りが、眠気の縁をそっと撫でていく。

「あ、ありがとう……寝そうでした」
「あ、やっぱり?」

 ホークスは申し訳なさそうに後頭部を掻いた。照明の下で見ると、どこかやつれているようにも見える。彼は、そのままコートを脱ぐと、そばの椅子の背に、それをかけた。

「もうちょい早く来ればよかったですね」
「ううん、大丈夫。この時間帯は繁忙期でも案外静かなので」
「そっか……で、クリスマスの花なんですけど」
「ポインセチア?」

 ポインセチアの代名詞は��冬のプリンセス�=Bクリスマスらしさとしては申し分ないがその赤は見る側の意志に構わず、視線を奪う強さがある。同じことを思ったのだろう。彼女の問いかけに、ホークスは、わずかに眉を寄せてから、首を横に振った。

「赤いのはちょっと、派手すぎるかなって」
「なるほど」
「もう少し、落ち着いた色がいいんですよね」

 その言葉を胸の内で転がす。落ち着いた色——彼の声のトーンと今夜の空気を思い出しながら、彼女は少し考え込むように視線を伏せ、それから何かを思いついたように、ぱっと顔を上げた。

「じゃあ……青い薔薇は?」
「青い薔薇?」

 思いがけない提案だったのだろうか。復唱したホークスの目が、文字どおり見開かれる。驚きと疑念と、ほんの少しの期待が、そのまま、表情に浮かんでいた。

「あるんですか、そんなの」
「あるんですよ。ちゃんと」

 冗談でも言い切りでもなくそう答えると、彼の反応は、正直だった。興味を隠しきれない様子で身を乗り出す。距離が、自然に縮まる。こういうところが、ひどく分かりやすい。

「見せてください」
「少し、待ってくださいね」

 奥へ向かう背中に、彼の視線が追ってくるのを感じる。一輪だけ選び、戻ってきて差し出すと、彼は息を吸うのも忘れたように、「わぁ……」と小さく声を漏らした。その反応だけで提案は正解だったと、彼女は分かった。

「花言葉は『夢かなう』とか、『奇跡』」

 深い藍色の花弁が、店の照明を受けて、静かに艶めいている。ホークスはしばらく無言でそれを見つめていた。
 夢、奇跡——。その花言葉が、何を指すのか。言葉の重さを、このヒーローが噛み締めていないはずがない。案の定、顔を上げたとき彼の表情にもう、迷いはなかった。

「これにします。何本いけます?」
「何本でも。あ……でも、少し高価ですよ?」
「大丈夫です。一応、プロヒーローなんで」

 言いながら、わざとらしく財布の厚みを親指で確かめる仕草。その、芝居がかった動きが、妙に彼らしくて彼女は思わずくすりと笑ってしまう。軽口の奥にある余裕とほんの少しの照れを見逃せない自分がいるのが悔しい。

「じゃあ……、十本で」
「え……それ、もしかして狙ってる?」
「え? なにがですか」
「青い薔薇十本の花言葉は『あなたは完璧な人』ですよ?」

 空気が、ほんの一拍ぶん静止する。レジの奥で鳴る機械音が、やけに遠く聞こえた。

「うわぁ〜。どんな人なんですか、そのお相手」

 探るようでも、からかうようでもある声。彼の耳の先がじわりと赤くなるのが見えた。それでも視線は逸らさず表情だけはいつもの軽さを保ったままホークスは、低く答えた。

「……知ってて、選んでます」

 その一言が、冗談の領域から、すっと外に出た気がした。彼女は、わざとらしく小さく、ひゅーひゅーと囃し立てる。ホークスは、抑揚のつけた咳払いをひとつした。照れ隠しの音が青い薔薇のあいだを、かすかに揺らした。

「はいはい♪ 完璧な人、ね」
「ちょ、やめてくださいって」
「いいねえ。若いって」
「もぅ……茶化さないでくださいよ」

 照れを誤魔化すみたいに、彼はふいっと視線を逸らした。そのまま椅子の背に預けていたコートに手を伸ばすと、少しだけ勢いをつけて羽織る。布地が鳴り彼は何事もなかった顔を作ろうとして結局、耳先の赤みだけが変わらず、正直だった。

「はは。じゃあ包みますね。シルバーのリボンでいいですか?」
「そのへんは、お任せします」
「え、いいんですか?」
「……名前さんの、好きなように」

 その言葉に彼女の手元が一瞬だけ止まったが、すぐに、いつもの動作に戻る。彼女の手つきは、慣れたものだった。青薔薇十本を、バランスよく束ねて、銀のリボンを、すっと結ぶ。その間も、ホークスは黙って作業台の横に立ち続けていた。そうして完成した花束を見て彼がぽつりと言う。

「……綺麗、ですね」
「でしょう?これをクリスマスにもらえる人は、幸せ者ですよ」

 花束を受け取ったホークスは、両腕で包み込むように、それを抱えた。青と銀の色合いが、彼のコートに溶け込む。重さを確かめるように、一度だけ抱え直してから、ふっと、胸の奥に溜まっていたものを逃がすみたいに息を吐き、そのまま、柔らかく笑った。その笑みは、どこか、肩の力が抜けたようで、戦場でも見せない種類の安堵を、確かに含んでいた。
 店内には、ラジオの低い音と、花の匂いだけが残る。閉店間際の静かな花屋で、二人ともまだ、言葉にしていない何かをそれぞれ胸の奥にしまい込んだまま——。

「……もらって、くれますかね」
「ん?」
「会えるかどうかも、まだ……わかんないんですけど」
「受け取りますよ。だって相手は、あのヒーローホークスですから」

 励ますような調子だったのにそのヒーロー名を出された瞬間、ホークスは小さく息を吐いて苦笑した。英雄(ヒーロー)という肩書きが今は少しだけ重たい。

「ヒーローってだけで花は受け取らんでしょう、普通」
「どうでしょうね。でも、きっと、喜びますよ。花って、そういうものでしょ?」
「そっか……それなら、よかですけど」
「……なに?もしかして、プロポーズの予定でもあるんですか」

 その一言で、ホークスは固まった。数秒。いやもっと短かったかもしれない。けれどその沈黙は考え込むには十分すぎる長さだった。
 答えなかった、というより、答えを置く場所が見つからなかった。彼は視線を落として、銀色のリボンの端を指先で、意味もなくいじる。

「……まだ、そこまでじゃないです」
「この前は、『彼女作る暇ない』って、言ってたくせに」

 ホークスの表情が、わかりやすく歪む。ばつの悪そうなまるで図星を突かれたような顔だった。髪と同じ色の眉尻が少し下がり、どこか居心地が悪そうに視線を泳がせる。

「暇がないのと、作らんのは……違うけん」
「……たしかに。はい、これ。領収書です」

 それ以上踏み込めば互いに変な場所まで行ってしまいそうで、彼女は意識的に話を切り上げた。紙を差し出すと、ホークスは、素直に受け取る。

「ありがとうございます」

 会計は終わった。花も、包んだ。用事は、もうない。ないはず——。それなのに、ホークスは、動かなかった。青い薔薇の花束を抱え直し空いた手が行き場を失ってコートの裾のあたりを掴む。その指先に、微かな緊張が宿っている。

「……あの」

 彼女はそれを見て見ぬふりをして、閉店作業に取りかかり「んー?」と、背を向けたまま返事をした。奥の照明がひとつ、またひとつと、落ちていく。振り返らない彼女の背中に向かって、彼は言葉を探していた。

「今度……また飯でも行きません?花選びのお礼ってことで」
「えー、行かないです。その花束をもらう相手に失礼なので」

 ホークスの声がほんの一瞬だけ詰まった。正論だった。逃げ場のない、綺麗な断り方。店内には虚しくも、閉店作業の音だけが静かに響く。

「……ですよね。すみません」
「……いいえ。ほら、冷えてきましたし。帰った帰ったぁ」

 促されて、ようやくホークスは足を動かした。出口へ向かいながらも、ドアの前で立ち止まり、もう一度だけ、振り返る。青と銀の花束の向こうから、まっすぐに、彼女を見ていた。間接照明に照らされた横顔は、いつもの軽さを少しだけ削ぎ落としている。彼は言葉を続ける前に、短く息を吸った。

「……今日は、ありがとうございました」
「どういたしまして〜。こちらこそ、コーヒー、ありがとう」
「いえ」
「ちゃんと、渡してくださいね」
「はい。……大事にします」

 花のことか人のことか。どちらとも取れる言い回しだった。彼はそれ以上意味を補うこともなくドアに手をかける。ベルが控えめに鳴り夜の冷気がすっと、店内へ滑り込んできた。
 店の外でホークスは、コートの襟を立て、軽く肩を回すようにしてから翼を広げる。紅い羽根が夜空にほどけるように展開し、次の瞬間には風の気配だけを残して上空へと消えていった。店内に静寂が戻り、彼が置いていった珈琲の香りだけが淡く残っている。彼女はしばらくドアを見つめていたが、やがて視線を落とし残った花の水替えに取りかかった。バケツの水は、容赦なく冷たい。十二月の水温は指先から感覚を奪い現実へと引き戻してくる。
 店じまいを終えて外に出ると、街路樹のイルミネーションが静かに瞬いていた。看板を裏返し、『CLOSED』にする。白い息が思ったより長く、夜に溶けた。その帰り道、スマートフォンが一度だけ震えた。



ホークス

今日は本当に
ありがとうございました








 既読をつけたのは赤信号に足止めされた交差点の真ん中だった。行き交う車のライトが、濡れたアスファルトに滲み、スマホの画面だけがやけに近く、そして明るい。



名前

どういたしまして
成功するといいですね








 返事を送ったのも、同じく、信号待ちのあいだだった。けれど、その先は何も届かない。画面に残ったまま動かないのは、『既読』という二文字だけ。指先に夜気が沁みるのを感じながら彼女はスマホを伏せた。それでいい夜も、確かにあるのだと、自分に言い聞かせるようにして。


 *


 クリスマス当日。生花店は慌ただしさの渦中にあった。ポインセチア、シクラメン、クリスマスローズ。赤と白と緑が折り重なり空気そのものが水と、甘い葉の匂いを帯びている。その中心で、彼女は朝から晩まで花に追われて過ごした。花を切り、包み、渡し、また切る。時間は区切りなく流れ、気づけば夕方の光はすでに夜の色を孕んでいた。
 十二月二十四日、クリスマスイブ——。福岡は雪こそ降らなかったが、人の波だけは例年よりも濃かった。交差点は色とりどりのカップルで埋め尽くされ、吐く息までが、浮き立っているように見える。ホークスからの連絡は、あの日を境に、途絶えていた。青い薔薇十本を買いに来た、あの夜を最後に、不自然なほど、ぱたりと。
 午後八時。閉店まで、あと三十分。店内に残る花は、もうほとんどない。売り切れた花桶の底に残る水が冷蔵ケースの低い唸りと同調するように揺れている。

「店長、先に帰って大丈夫ですよ。お店、閉めておくので。……お子さん、待ってるでしょ」

 彼女がそう言うと、エプロンを外した店長は、申し訳なさそうに眉を下げた。先代の妻で彼女にとっては、花と同じくらい、この場所に根づいた人物の一人だ。

「ごめんね名前ちゃん。じゃあ、お先に。メリークリスマス!」

 裏口の扉が、ばたん!と閉まる。一人になった店内は思った以上に、静かだった。BGMも切った空間に残るのは、冷蔵ケースの低い唸り声だけ。片付けをしながらモップを動かし、ふと窓の外を見る。イルミネーションの下を、寄り添う影が、いくつも通り過ぎていく。溜め息と共に、床へと視線を戻した、そのとき——。カラン、と乾いた音が鳴った。

「あ、ごめんなさい。今日はもう閉店で——」

 反射的に振り返って顔を上げた彼女の言葉は、途中で止まってしまった。入口に立っていたのはホークスだった。ただし、いつもの彼ではない。ヒーロースーツのジャケットはなく黒いアンダースーツのみ。冬の夜気に晒されているというのに肩で息をし左の頬には赤い擦過傷が走っている。右手は左腕を庇うように押さえられ、その姿勢のまま、苦しげに笑おうとして、失敗していた。

「え……えっ? なに、どうしたんですか!?」
「はあ……はあ……すみま、せん……っ」
「ぎゃっ、血!? ちょ、ちょっと……!」

 彼女は、モップを放り投げて、慌てて駆け寄り反射的に肩を貸した。近づいた瞬間に、埃と血の匂いが混じる。ヒーローの現場の匂いだと遅れて理解する。彼は抵抗もせず、素直に体重を預けてきた。その重さが、いつもの軽やかな印象よりもずっと現実的で胸の奥が異様なくらいざわつく。

「すみません、ちょっと、やらかしまして……」

 軽く言おうとしたのだろうが、その声はかすれ口角も、ずっと引きつったままだった。

「待って、待って!えっと、タオル……!そこ、座って!」
「大丈夫、です、ほんと、見た目ほどじゃ……」
「見た目ほどです!完全に! ちょっと黙っててください!」

 半ば叫びながら彼女は裏の休憩室に飛び込み、救急箱をひっつかんで戻ってきた。カウンターに置く音が、やけに大きく響く。消毒液、ガーゼ、テープ。花屋の救急箱は棘や刃物での小さな怪我がせいぜい想定範囲だ。深い裂傷や骨の異常には正直、心許ない。ホークスは椅子に腰掛け、ようやく呼吸を整え始めた。破れた左袖の下から覗く傷は深いが、出血はすでに、落ち着きつつある。致命傷ではない——本人の、言葉通りだろう。

「いやぁ……ほんとこんな日に、すみませんね。閉店間際って、わかってたんですけど……」

 気まずそうに視線を逸らしながらも、いつもの軽さを取り繕う声。彼女はその声音を聞き、ようやく胸の奥で絡まっていた緊張が、ほどけるのを感じた。やっぱり本人だ。無茶をして、笑って、誤魔化す、あのヒーローだ。

「……言い訳は、あとで聞きます。今は、じっとしててください」

 そう言って、ガーゼを取り出す彼女の指先は、わずかに震えていた。自覚して、呼吸を整える。ただの応急処置だと自分に言い聞かせるように。

「ヴィランの個性が……剛翼でガードしたんですけど、破片、ちょっと食らっちゃって……」

 いつもの調子で説明しようとして途中で言葉が途切れる。消毒液が傷に触れた瞬間、喉の奥で、息を呑む音がした。

「クリスマスだっていうのに……悪い人たちは、ほんと、休んでくれませんね」

 軽くぼやきながらも彼女の手つきは終始、丁寧だった。彼の反応を窺い、沁みる箇所を避けて、必要なところだけを確実に処置していく。

「……クリスマスだからこそ、ですよ。家族連れ狙いの、犯行でしたし」
「そっか……あ。ニュース、なってそう」

 彼女は手を止めないまま店内の小さなテレビをリモコンでつけた。画面が点いた瞬間に、赤色のテロップが、視界に容赦なく飛び込んでくる。

『商業施設で爆発事件。ヴィラン二名をウィングヒーローホークスが制圧』

 現場の映像が流れる中、ニュースキャスターが状況を説明している。煙の中から翼を広げ華麗に飛び回るヒーロー。群衆の歓声。画面の中のホークスは、傷ひとつないかのように凛としていた。道行く女性たちが「さっすがホークス!」「ばりかっこよか〜!」と頬を赤らめて興奮気味に街頭インタビューに答えている。

「あー......現場はもっとひどかったんすけどね」

 ちらりと横目でテレビを見ながら彼は、どこか気恥ずかしそうに、そう呟いた。

「ふふ。傷だらけでも、かっこいいってさぁ」

 彼女の明るげなその声音に包帯を巻かれながらホークスは、苦く笑った。

「傷だらけのとこ、テレビは映さんでしょ」
「そうだね。……最近は、ずっとこっちに?」
「……いえ、出張続きで。たまたま戻ってきてただけです」

 彼女からの問いかけに、ホークスは小さく首を振ってそう答えた。たまたまという言葉にしてはあまりにも都合が良すぎる気がしないでもない。イブの夜、福岡、事件。そしてこの花屋。偶然の顔をした必然が、彼の人生にはいつも貼り付いている。ホークスは包帯を巻かれた左腕を見下ろし少しだけ声のトーンを落とした。

「……ごめんなさい、ほんと。せっかくのクリスマスイブに」
「ううん。私は特に、予定もなかったので」

 そう言って彼女は立ち上がり、奥から、温かいドリップコーヒーを持ってくる。戻ってきてからはたと気づいた。彼の両手が塞がっている。左は包帯まみれ。右もまだ、細かく震えている。

「あ……飲めないですよね。ごめんなさい」

 彼女が思わずカップを引っ込めようとしたその瞬間——ホークスの右手が伸びて、熱いカップの取っ手を掴んだ。「いけます」と、彼はそのまま一口だけ啜ると「ふう」と長く息を吐く。湯気が二人のあいだを、ゆらりと漂った。彼女はそれを見届けて椅子に座り直し、そっと視線を伏せる。

「……ところで。花束は、無事に渡せました?」
「……。それが……」

 カップをそっと置いてから彼は肩を落とした。その先の言葉が、続かない。珍しい沈黙だった。ホークスは首の後ろあたりを掻きながら照れとも悔しさともつかない表情をする。

「現場に置きっぱなしです。ビルの瓦礫の下か、どっか……」
「あら。でもイブだし。どこかの誰かが拾って、幸せな顔してるかも」

 その言葉に、ホークスは何も、返さなかった。店内は静まり返りテレビの続報さえ、遠い雑音になる。コーヒーカップから立ち上る湯気だけが、ゆっくりと揺れている。彼は黙ったままカップの水面を見つめていた。
 十本の青い薔薇。『あなたは完璧な人』。その花言葉に込めた意味を誰よりもこの男自身が理解していた。

「病院、行きます?それとも……自宅に戻る?」

 問いかけに彼はほんの少しだけ考える素振りを見せた。思考というより残っている体力と仕事の残量を天秤にかける癖のような間だった。

「実は仕事、片付いてなくて……事務所、寄ろうかなって」
「……じゃあ帰りに、タクシーで相乗りしましょう。途中まで」

 彼女が先に立ち上がる。その背に続こうとして左足に体重をかけた瞬間、彼の顔が、はっきりと歪んだ。椅子の背に手をついて、自身の体を支える。呻き声までは出さないが、隠しきれない痛みなのは、確かだった。彼女は、すぐに気づいて、しゃがむようにして、その顔を覗き込んだ。

「……ほんとに、大丈夫?」
「はは。大丈夫、じゃ……ないかも、ですね」

 正直な申告だった。無理に笑わなくなっただけさっきよりはまともだ。彼女はそれ以上追及せず店の電気を落としシャッターを半分だけ下ろす。『CLOSED』を表に出す余裕はなかったが、今は仕方ない。大通りまで出ればタクシーは拾える。
 外に出ると、空気は一気に冷えた。イルミネーションの甘ったるい光とは裏腹に、イブの夜気は骨まで染みる。通りはまだ、人で溢れていたが、疲れた顔の二人連れに、注意を払う者はいない。翼を畳んだホークスは、ただの少し痩せた青年に見えた。そのとき彼のスマホが震えた。画面には『本部』という文字だけが表示されている。彼はすぐにその着信を取った。

「……はい。……はい、すみません。ありがとうございました。……ええ、今から向かいます」

 通話を切ったあと彼は一度だけ天を仰ぎ、短く舌打ちした。小さいが、確かな苛立ちだった。

「もう一件、出ました」
「……本気? そんな体で、無理だよ」
「無理でも、行くのが仕事なんで」

 反論を待たずに一歩、踏み出す。ジャケットの無いアンダースーツの下で、彼の個性の剛翼が、微かに蠢くのが彼女にもわかった。左足が地面を噛むたび、表情筋が引きつる。それでもその目はもう��花を選んでいた男�≠フものではなかった。黄色いゴーグルの奥——獲物を捉える鷹の視線。そして一度、彼は振り返って言った。

「タクシーには、あなた一人で乗ってください」
「ううん。ひとりなら、歩いて……」
「だめです。まだ周囲にヴィランたちが潜んでる可能性があります……それに——」

 言いかけた言葉がそこで途切れた。ポケットを探る手。もう一度、確かめる。何かを探しているようだった。

「あ……」
「……なに?」
「財布も、家の鍵も……ぜんぶ、ジャケットの内ポケに入れっぱなしだ」
「あ、そう……」
「すみません。ここは、立て替えて——」
「え、いやいやいや! 自分で払いますので!」
「……そう、っすか? ほんと、すんません」

 一瞬だけ、場違いなやりとりに張りつめていた空気が、ふっと緩む。深刻さの裏側で二人ともが同じだけ疲れているのだと遅れて気づいたような間だった。

「そういえば、ジャケット……どこ置いてきたんですか?」

 その問いかけに彼は視線を少し上へ泳がせる。記憶の糸を手繰るように、眉間に、わずかな皺が寄った。爆音と粉塵と——飛び交う羽根の感触。その中から、どうにか順番を探し出す。

「瓦礫んとこ……かな。たぶん、制圧したあと、そのへんに」
「……管理人さんには、連絡できそう?」
「どうやろ。あン人、だいたい電話出らんし」

 彼女は小さく息を吸い込む。その一呼吸で心の中に浮かんだ迷いを、まとめて押し沈めるようにしてから、静かに口を開いた。

「なんか……いろいろ心配だから。片付いたら、うち来ます?」

 一瞬。本当に一瞬だけ彼の翼がびくりと震えた気がした。彼女自身も、平然を装ってはいたが、その提案はずいぶんと、覚悟のいるものだった。踏み込みすぎだと、わかっている。それでも今、ここで繋ぎ止めなければ、このヒーローとはもう会えなくなる気がした。理由はわからない。ただなぜか、そんな予感だけが胸の奥で確かに鳴っていた。

「え……いいん、ですか」
「このまま送り出して外で何かあったら私が後悔する。寝覚めも、悪いですし」

 少し強めの言い切りにホークスは一瞬だけ目を瞬かせてから、ふっと、鼻で笑った。

「息絶えはせんですよ」

 軽口だった。いつもの調子に近い声音。けれどその申し出を彼は、否定しなかった。言い訳も、条件もつけずに、ただ受け取る。通りの向こうでちょうどタクシーの黄色いランプが空車を示しているのが見えた。彼が手を挙げると、一台が音もなく縁石に寄せて止まる。後部座席のドアが開きホークスは自然な動きで、彼女を、先に乗せた。まるでそれが最初から決まっていた、役割分担のように。
 ホークスが運転手に告げた行き先は彼女の自宅マンションの通り。彼がそれを覚えていたことに彼女の胸の奥が不意に、温かくなる。彼の横顔は落ち着いていたが、靴の甲に、うっすらと浮かび始めた腫れを彼女は見逃さなかった。痛みを隠す癖も、無理を通す仕草も、もう何度か見ている。

「俺、このまま現場向かうんで。あと……」
「……ん?」
「ベランダの鍵、開けといてもらえると、助かります」

 淡々とした口調。頼みごとの形をしていながらそこには迷いがなかった。ラジオから流れるクリスマスソングが、場違いなほど朗らかに、車内を満たしたが、それについては二人とも何も言わなかった。タクシーがゆっくりと走り出す。彼女はもう振り返らなかった。夜空に向かって翼が展開する音が短く、正確に響く。紅い軌跡が、北西の闇へと、溶けるようにして消えていった。

 十分ほどで、指定された通りの前にタクシーが止まる。彼女は丁寧に礼を告げ車を降りて階段を上った。部屋に入るなり鞄も置かずそのまま暖房をつけてベランダの鍵を開ける。外気が一瞬だけ入り込み、すぐに暖房の風がそれを押し返した。
 一人分の部屋に、もう一人分の、準備をする。タオル。父が引っ越しの際に手伝いに来たときに念のためにと買っておいたスウェット。それを、クローゼットの奥から引っ張り出しながら時計を見ると、もう、二十三時を回っていた。テレビをつければ上空で待機するヘリの映像。炎と黒煙が画面の中で絶えず揺れている。さっきまで、花に触れ、彼の腕に触れていた手で、彼女はやかんを火にかけた。湯が沸くまでの時間だけが、やけに長く感じられた。


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